HOME > 2011年バックナンバー > 8月 > メッセージ2011年8月14日

『Power of Change 〜変革のための力〜』

2011.8.14(SUN)
カーウィン・マニング牧師
エペソ人への手紙 2章10節

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』

ヨハネの福音書 6章29節

『イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」』

 おはようございます。主を誉め讃えます。聖書の中には「息のある者は全て主を誉め讃えよ」とあります。今、お隣の方がちゃんと息をしているかを、認していただきたいと思います。もし、お隣の方が息をしていたら、「あなたは主を誉め讃えなければいけません」と言ってあげてください。今どうぞ言ってあげてください。
 新城教会に来ることができて、とても名誉に思っています。ロン・ブラウンさんと、この素晴らしいバンドと共に来ることができたことを感謝します。日本を愛するために、少しの間ですが来れたことを感謝します。
 何年か前に、順先生を私たちの教会にお迎えすることができました。この先生が語ってくださった言葉はとても力強く、文字通り私たちの教会を一変させました。人々が解放され自由になりました。そして今日ここででも、神様の霊的突破があることを信じます。
 明先生も来てくださいました。そして、私たちの教会をいい意味で、めちゃくちゃにしてくださいました。本当に力強い神の器です。この教会は驚くべき教会であることを確信しています。そして神様はその御国のために、皆様を大いに用いてくださることを信じています。

 今日、私だけが来ただけでなく、一緒に家族も来ることが出来て感謝します。カリフォルニアで一緒に牧会している、美しい妻と共に来ることが出来ました。マダリンです。私は彼女を心から愛していることを、みなさんに知っていただきたいと思います。私は、私の心臓だけで彼女を愛しているだけでなくて、肝臓でも愛しています。腎臓でも愛しています。娘のマディソンとモーガンも一緒に来ています。本当に素晴らしい娘たちです。
 同じ教会、パサディナチャーチの吉田ケン先生夫妻も来てくださっています。
 ですからここで本当にみなさんと御言葉を分かち合うことができることを、心から感謝しています。

 今日、みなさんにお話したいのは、「変革のための力」ということです。アメリカでは、この「変わる」とか「変化」とかいうことについては、説教の中で非常によくなされることです。多くの牧師先生たちは、変化とか変わるということがいいイメージの言葉なので、好んでそのメッセージをします。
 アメリカでは政治家たちも、この「変化」という言葉を口にします。今の大統領のオバマ大統領も、選挙の時に、この「Change!変わる!」ということを掲げて、当選しました。
 この変化という言葉を口にすることは、気持ちいいことです。けれども現実の世界では、特に教会の中では、「変化」というのは、私たちにとって時としてチャレンジを与えることであります。
 それはなぜかというと、私たちが今の居心地のよい状態を変わって行くということに対して、いい気持ちはしないからです。

 一つの例をあげたいと思います。今、ここにいる皆さんに、今、直ちに、席を替えていただきたいと思います。今、席を急いで替えてください。急いでやってください。
 みなさんの顔には困惑の色があります。なんか声も聞こえますね。「この人は何をいったい私たちにさせようとしているんだ」と。「私は今のこの席で落ち着いていたのに。なのに、今、この席を替えろと言う。」と。

 今からお話するそのことが、まさにその変化ということなのです。この霊的なことを言っても、私たちは神様のことを学んで行く必要があるのです。私たちにとってそれは変化を意味するのです。けれどもそれは神様によって、霊感された変化でなければならないのです。私たちの神様に対する目的を達成するような変化なのです。
 あなたは神の国のために何でもしたいと思いますか?主のためにはどこにでも行きたいと思いますか?この世の中の誰でも愛したいと思いますか?変化というのはそういうことを意味するのです。

 南カリフォルニアにある牧師の言葉を引用したいと思います。リック・ウォレンという先生です。アメリカで最大の教会を牧会されています。たぶん二万五千人くらいいる教会だと思いますが、毎週週末には五回の礼拝を行なっています。彼は、Purpose Driven Life、「人生を導く5つの目的」(日本語タイトル)という本を書きました。
 彼が言っていることは、「人々は自分が傷を受けてどうしようもなくなった時でないと、変化を求めない」と言います。あるいは人々が知識を得て、「そのように変化したいと思った時に変化をする」と。そして最後に、「人々がたくさん受けて、その変化をすることが出来るようになった時、人々は変わる」と言います。
 私の人生にぴったりと当てはまる言葉だと思いました。そのことはもしかしたら、みなさんの人生にとっても同じかもしれません。この人生の中でいろいろな苦しいことや悲しい出来事があって、変化せざるを得ないことがあります。自分のライフスタイルによって、肉体的に苦痛を受けたり、また、誤った選択をしてしまったために、そのようになってしまうかもしれません。
 例えば、ある人がずっと煙草を吸っていたとします。そしてお医者さんが「もう煙草を止めないと死んでしまいますよ」と言うことがあります。または、食べ物を食べ過ぎた人がいます。そしてお医者さんが「あなたは減量しないと死んでしまいますよ」と言うことがあります。そういう時に人々は「自分は変わらなければならない」と思うのです。なぜならそれは痛みを伴うものだからです。
 そして、ある時にはこの人々がたくさんの十分な情報を得た時に変化をします。もっといいやり方とか、生き方があるとことが分かった時に、人々は変化を求めます。

 私はミュージシャンで、音楽が大好きです。アメリカから一緒に来た兄弟姉妹たちも音楽が大好きです。彼らの音楽をいつも持ち運ぼうとしたら、スーツケース一杯になってしまいます。なぜなら、カセットテープとかアルバムとかを持っていかないといけないからです。
 しかし、あることを学びました。つまり彼らの音楽を、この一つの機械に入れることが出来るということです。私たちはこの小さな機械に、何千曲も入れることが出来るのです。この機械を使うことが音楽を持ち運ぶために良い方法だ、ということがわかりました。

 最後に、私たちは十分に受けた時に変化をすることができます。私たちが変化を嫌う理由の一つは、自分たちが生まれ育った場所というものに、安住してしまっているからです。この一番自分にとっていい場所。多くの人たちにとっては、自分の十代頃というのは一番いい思い出を持っているかもしれません。
 例えばみなさんが自分が十代の頃に流行っていた音楽を聴いたりすると、懐かしくなってその時代に戻ったような気がします。私にとってはそれは一九八〇年代です。みなさん信じられないかもしれませんけど、その時私はまだ髪の毛がありました。バギースタイルの服を着ていました。クレイジーな音楽を聴いていました。そういう時代の音楽を聴くたびに、楽しかったあの頃を思い出します。その時の記憶が甦ってきます。マイケル・ジャクソンのスリラーのアルバムを聴いた時に、そのアルバムを買うために入って行ったお店を今でも覚えています。みなさんの中にはそれは七十年代かもしれないし、他の人たちにとっては六十年代かもしれません。ある方にとってはダニー・ハザウェイを聴いた時に何か心が踊るようになるかもしれません。
 私の言いたいことは、私たちはある時間のある時期に、結びつけられているということです。この教会の歴史を考えても、みなさんの中には「あの時はすごく意義深い信仰生活だった」と言えるような時期があるかもしれません。自分がイエス様の元に来た時の礼拝のことを覚えているかもしれません。

 多くの場合、私たちは「その時に戻ろう」と言います。「その時にやっていたことをもう一度やろう」と言います。そういう風にしていくと、変化することは難しくなります。なぜならば神様は私たちに新しいことをして欲しいからです。神の国においては、最上の物、ベストな物はまだ来ていないからです。私たちが経験していることは、そこに留まっていてはならない、ということなのです。神様が御国のために勝ち取って欲しいと思っている魂がたくさんいます。罪の力から解放されて、神様の国に連れて来られることを必要としている人々がたくさんいます。解放されて自由にならなければならない子どもたちがたくさんいます。神様は、この教会に、神様の国を代表する教会になって欲しいと願っておられます。ハレルヤ!と神様に叫びましょう。

 今朝、お読みしたエペソ書の御言葉に、このように書かれています。「私たちは神の作品である」と。そして、私たちは「神様が備えてくださった良い業を行なうために造られた」とあります。これは何を意味しているかというと、神様が必要としているのは、私たちがただ自分の意志を持って「神様に従いたい」と思うことなのです。神様の目的に対して「はい」と答える、その素直な心、それが必要なのです。私たちはそのことを教会全体として、神の民としてしていかなければなりません。私たちは神様に「はい」という風に答える心を、育てていかなければなりません。
 私たちは、今週ずっと「日本をイエス様へ!」ということを叫んで来ました。ある人は「日本はそのうちイエス様の元に来るかもしれない」と言うかもしれません。けれども神様は「もう日本は用意が出来ている。畑は実っている。収穫は多い。」と言っておられます。ただ神様が必要としているのは「働き人」だけなのです。神様はあなたを必要としています。私も神様に呼ばれています。その神様が既に備えてくださっている良い業をするようにと。

 私は明日の晩のコンサートで、主の元に来る魂が備えられていることを信じます。順先生を始め、この教会がそのために献身しているからです。

 この変化ということについて、三つのことをお分ちしたいと思います。私たちが変わって行くならば、私たちは変化の民になります。そのために三つのことをしなければなりません。
 何年か前にイギリスのリバプールにミッショントリップに行ったことがあります。十代の若者たちのグループを率いて行きました。私たちの仕事は、あるアパートにペンキを塗って、それを教会が必要のある人たちに提供できるように準備することでした。この新しいペンキを塗るために、まずは古いペンキを取らなければなりませんでした。私はプロのペンキ塗りではありませんので、とにかく自分の出来ることをしました。
 その日、驚くべきことが起こりました。古いペンキを私たちが取り除いた時に、その下には、また別の層のペンキがありました。そしてもう一度、この壁に取りかかって、またそのペンキを取りました。一日がかりでそれをやると、またその下にペンキの層が出て来たのです。なんと、五つの層のペンキをはがした後、ようやく元々の壁に辿り着きました。それは本当に美しい、天然の木の壁でした。ペンキを塗る必要もないような壁でした。けれども人々は、何度も何度もその壁にペンキを塗りたくっていたのです。新しい人が入って来ると、新しいペンキを塗る。また別の人が入って来るとまたペンキを塗る。私たちが来た時には、もう、最初の壁がどのような感じだったのか、誰も覚えていませんでした。

 私たちの生活、教会についても同じことが言えます。私たちは新しいことをどんどん試みていったりすることがあるのですが、神様の元々の目的を忘れてしまうことがあります。ですから、私たちはまず新しいことを試みる前に、最初に戻って、神様の元々の青写真を求める必要があります。
 これからお話しする三つのことが、神様の意図を見ていくために必要です。

 私たちが「変化」になるためには、私たちはイエス様が見ておられるように見る必要があります。イエス様が見られた物を、見る必要があります。どういう意味かお話しましょう。
 マタイの福音書の中に、非常に興味深い話が書かれています。マタイの福音書 九章三十五節、

『それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」』

 この御言葉が語っていることは、イエス様は弟子たちと同じ道を歩いて行かれたということです。同じ村を通られ、同じ会堂に入られ、けれどもイエス様が群衆を見た時に、弟子たちが見ていた物とは別の物を見られたのです。人々を見た時に、彼らが助けがなく、弱り果てているのを見たのです。彼らには羊飼いが必要だということを見られたのです。彼らには愛が必要だと。彼らは受け入れられ、教えられる必要があると。
 このような目で、私たちは人々を見なければなりません。弟子たちのようではなく、イエス様のように見る必要があるのです。

 弟子たちが人々を見た時、彼らにとっては目障りな、邪魔な存在でしかありませんでした。子供たちがイエス様の所に来た時に、弟子たちは止めようとしたとありました。「先生を煩わせてはいけない」と。けれども、イエス様は「子供たちを、私の元に来させなさい。彼らは私たちを神の国を代表しているのだから」と言われました。
 群衆が来て、イエス様のミニストリーを受けた時に、弟子たちは時計を見て、「イエス様。群衆をもう帰してください。そうしなければ、私たちが彼らを食べさせなければならないですから」と言いました。
 けれどもイエス様は「そうではなくて、私たちが彼らに食べさせよう。そして神様が彼らにどういうことをしてくださるのか見てみよう」と言われました。
 私たちがイエス様と同じビジョンを持って見ていく必要があります。

 世界の他の人たちは、日本を見て、みなさんの注意を反らせようとするかもしれません。カリフォルニアでも同じことが起こっています。私たちは海に崩れ落ちてしまうのではないかと言われます。けれども、私たちがカリフォルニアや日本を見る時に、神様が素晴らしいことをしてくださることを、信じることができます。ハレルヤ!日本をイエス様へ!

 一番目のポイントは、イエス様のように見るということでした。
 二番目のポイントは、私たちはイエス様が仕えられたように、仕える者にならなければならないということです。マタイの八章には、別の素晴らしい話があります。マタイの福音書八章一節〜四節、

『イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。』

 イエス様は決められた手続きとか規則とかよりも、「人々に仕える」ことを優先されました。イエス様がただ単に、当時のしきたりに従っていたならば、ツァラアト(他の訳ではらい病)に冒された人は、離れているように言われたことでしょう。ツァラアトを持っていた人は、ツァラアトを持っていない人に近づいてはならないという規則がありました。彼らは汚れた者と考えられていたのです。彼らが歩いて行く時、自分がやって来ることを、大声で知らせなければならなかったのです。
 けれども、イエス様の仕える心がその人に触れた時、聖書に書かれているのは、イエス様がこの人を「癒される前に」、「イエス様はこの人に触られた」のです。
 このツァラアトに冒された人を触ったのです。それは、その当時の文化のあらゆる規則を破る行ないでした。その当時のあらゆる基準から見ても、おかしなことでした。
 けれども、この仕えるということが、私たちのミニストリーの根底にある時、私たちはそのような規則を越えて行くことができるのです。

 同じように私たちは、汚れていると思われているような人たちに届いていかなければならないのです。愛することが難しい人を、愛しなさいと神は言われます。全ての希望を失った人たちに、希望を宣べ伝えるように神様は召しておられます。イエス様がそのことを望んでおられるのならば、私たちもそのことを望むべきなのです。
 イエス様が私たちの「仕える」ということに対しての、最大の模範なのです。栄光の王であるイエス様は、自分の王衣を脱いで、自分の衣を脱いでタオルを取って、ひざまずいて弟子たちの足を洗われました。私たちも今日、このような姿勢で仕えることを求めておられます。

 それは、私たちの住んでいる世界に変化をもたらすための方法です。イエス様のように仕えることです。

 最後に三番目のポイントです。私たちは神の子どもとして、天国のような響きを持つ者とならなければなりません。説明が必要だと思いますが。
 私たちは、「御国が来ますように。御心が天になるようにこの地にもなされますように。」という風に祈るように教えられています。今日、みなさんもお祈りしましたね。「御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなされるように。」
 私たちが、神の国を体験したいと思ったら、天国がどのような場所であるかを、知らなければなりません。私たちは天国にならう者にならなければなりません。私たちは天国のパターンに従う者にならなければなりません。私たちは、この天国のキーを持つ者とならなければなりません。地上でこのドアを開けるために。
 ヨハネの黙示録七章九節に、天国ではどのようなことが起こるか、ということが書かれています。

『その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。』

 天国では「あらゆる種類の人たち」がいるということです。全ての国民。全ての国語。天国では日本語だけが話されているわけではありません。英語だけの場所でもありません。あらゆる言語がそこでは話されています。全ての人種。その人々が御座の周りに集まっているのです。
 そして聖書には、「彼らは白い衣を着て、しゅろの枝を持っていた」とあります。ここでわかることは、人々はあらゆる背景から来ていたけれども、「同じ方法で神様を礼拝していた」ということです。ヨハネの黙示録七章十節、

『彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」』

 天国では全ての人々が、同じ神様を礼拝し、同じ言葉を語り、でも、彼らそれぞれの方法でそのことをしていた、これは天国の素晴らしい情景であるだけではなく、教会がどのような場所であるか、ということも示しています。
 神様は全ての教会をその遣わされているコミュニティーで、変化をもたらすために、そのようなサウンドを発するために呼ばれているわけです。みなさんの心には、あるサウンドがあります。あなたの人生は、あるサウンドを発しています。私の人生はあるサウンドを持っています。私たちが集まるのは、ただ一つの目的、神様に栄光がお返しされることです。
 天国のように響くとは、どういうことか。私たちのその人生の中で、神様の栄光を反映させるということです。これが本当の変化ということです。

 聖書によると、私たちは今、変化のための力を持っています。よければ、今、みなさんとご一緒に祈りたいと思います。どうぞお立ちください。ジョーンさんに来ていただいて、共に賛美し祈りたいと思います。

 神様はみなさんの能力を心配してはおられません。そうではなくて、神様にいつでも従う用意ができているか、ということを見ておられます。私たちが自分自身を神様に捧げる時に、神様はみなさんを大いに用いてくださいます。
 そして、私たちの心の歌、今日の祈りは、「私の人生を取ってください。私のあるがままの全てを、私自身を捧げます。神様が私を用いてくださることが出来るように。」
 みなさん、そのような願いを持っておられますか?もしそのような願いを持っておられる方は手をあげてください。

 ♪私の人生を取ってください。私のあるがままの全てを、私自身を捧げます。神様が私を用いてくださることが出来るように。

 みなさん手をあげてください。私たちの心は今、主の前にあります。神様に全てを捧げています。みなさんの中に恐れを持っている人がいるのならば、他の人たちに証しをする時に恐れがある人は、人々に福音を伝える時に、何を伝えたらわからないという人がいたら、多くの人々に不安に思うという人がいるかもしれません。
 けれども、神の御国のために働くためには、そのような恐れを捨てなければなりません。そうしたら神様は、あなたを御国の栄光のために用いてくださいます。

 私はこの教会に宣言します。みなさんを神様が大いに用いられると。神様の御国のために。ここにおられる方すべて、聖書には「私たちは世の光である」とあります。丘の上にある街は隠れることが出来ません。ここにおられる全ての方は、神の光を放つ者です。私たちが持っている光を一緒にするのならば、私たちは力強い街になります。それは否定することができません。それは隠れることができません。それは何か理屈をつけて説明することが出来るようなものではありません。
 新城教会はただの人たちが集まっているところだではなく、全ての日本の人たちがイエス様を知ることが出来るようになります。これらの人々がイエス様を礼拝するならば、もう一度、手をあげて礼拝しましょう。

 ♪私の人生を取ってください。私のあるがままの全てを、私自身を捧げます。神様が私を用いてくださることが出来るように。

 みなさん、それぞれの言葉でお祈りしてください。神様から命を与えられていることを感謝してください。イエス様のことを誰かに伝える機会が与えられていることを感謝してください。この教会が、日本に福音を伝えるために召されていることを、感謝してください。ご一緒にそれぞれの言葉でお祈りしましょう。

 ♪私の人生を取ってください。私のあるがままの全てを、私自身を捧げます。神様が私を用いてくださることが出来るように。

 父なる神様。イエス様の御名によって祈ります。この瞬間をあなたが定めておられたことを感謝します。私たちの心にそれが思い浮かぶ前から、今日、この場所においてあなたが私たちを召してくださっています。私たちがあなたの御声を聞くことができるように。ただ聞くだけではなくて、あなたの御業を行なうようにと召してくださいました。私たちは御言葉を行なう者になりたいです。私たちは出て行くようにとおっしゃいました。そして、全世界に出て行って、全ての人を弟子にするようにと。私たちに信じるように命じてくださいました。このあなたが送ってくださった方を信じるようにと。一人一人が証人になるようにと。この地上の上で。

 今日のこの時を感謝します。今日のこの日が新しい始まりとなりますように。この新城教会にとって。今日、明日も、霊的な領域で変化が起こりますように。この日本が神様の前にひざまずくことが出来るように。そして、手をあげて、イエスは主であることを宣言することが出来るように。
 私たちに与えられているサウンドを感謝します。それがこの国に癒しをもたらしますように。この国を癒しますように。全ての傷ついた場所に回復が訪れますように。イエス様の名によって。この国を癒してくださいと宣言しましょう。

 ♪この国を癒してください。私たちのこの国を癒してください。これが私たちのあなたへの祈りです。私たちのこの国を癒してください。

 それが今、起こっています。神様これが私たちの祈りです。神様感謝します。
 捧げる心が求められています。席に戻る前に、もう一つ、今日、主の前にご一緒にひざまずきたいと思います。もし出来る方はひざまずき、難しい方はそこに座っていただければと思いますが、共にひざまずいて、この国を癒して下さいと祈りましょう。

 ♪この国を癒してください。私たちのこの国を癒してください。これが私たちのあなたへの祈りです。私たちのこの国を癒してください。

 みなさんが立ち上がる時、勝利と共に立ち上がってください。魂が御国に勝ち取られることを信じましょう。私たちに神様が御言葉とサウンドを与えてくださることを信じ、私たちが触れる全ての人々に変化が起こるように、もし信じる人はハレルヤと叫んでください。神様の祝福がありますように。ありがとうございました。