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『信仰!人にはできないことが神には出来る』

2011.9.18(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
ルカの福音書 18章27節

『イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。
 みなさんと共に礼拝が守れますことを、心から感謝します。九月になりまして、週報も秋色になりましたけど、まだまだ暑い日が続いています。秋は収穫の秋ですから、神の前にさらに前進していきたいと願っています。

今日の礼拝メッセージは、
「信仰!人にはできないことが神には出来る」というタイトルです。
いつも礼拝で語られていますが、一つでも聖書のみことばをキャッチしてお帰りくださいと先週も語られました。今日も、み言葉をキャッチして、それを自分のために語られたみ言葉として受け取っていただきたいと願っています。このことばが賛美になっていまして、私の友人である岩淵まことさんがつくったのですが、歌ってみましょうか?

「人にはできないことが神にはできるのです♪
人にはできないことが神にはできるのです♪
ルカ一八章二七節♪」

 簡単な歌なのです。人にはできないことって、たくさんありますけれど、神にはできるのです。このみことばを、信じる力によって受け取っていきたいです。

 みなさんにお祈りいただきまして、先週は九州にいってまいりました。この秋は、「九州リバイバルミッション」が開催されています。九州に、いったい、いくつの県があるかご存じですか?九州だから九つだろうだって?違います。七県です。七県を全て回って、二十四回の集会があります。私は最初のパートを受けもちました。わたしは、いつも大変なところに送り込まれることが多いのですが、トップバッターとして、大分県からはじめさせていただきました。
 先週は、大分で礼拝を守らさせていただきましたが、今回の、九州リバイバルミッションは五月、六月に行われた「韓国リバイバルミッション」を受ける形で開催されています。九州と韓国は地理的にも大変近くにあって、歴史の中でも大変強いつながりがありましたから、霊的にも大きなつながりがあると思われます。リバイバルミッションの働きは、とりなしの祈りと共に、福音宣教がメインの柱です。今回は、そんな目的で九州に行かせていただきました。

 韓国教会へ行きますと、大きな教会が多いのでが、日本の教会はあまり大きくありません。しかし教会は小さくても、聖霊様が本当に強く働いてくださいました。ちょっと写真をお見せしたいと思います。

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 ここは、案外大きな教会で、百人以上の人達が集まって、ロンさんのコンサートと私のメッセージです。土曜と日曜は、大分市内で集会を持ちました。
 ロンさんはどんなところでも力一杯演奏してくれます。近くで見て「うまいなぁ」といつも感動しているのですが、どこでも手を抜くことなく演奏します。
 まぁサックスで手を抜いたら、演奏はできないですが、これは、日曜日の礼拝です。

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 今回のミッションは、大きな教会だけでなく、小さな教会にもおじゃまして開催されています。先週の月曜日は、大分県の国東半島にある教会で行われました。
ロンさんのコンサートと、私のメッセージという事で勢いこんで行ったのですが、この教会のメンバーは二列目と三列目の四人だけなんですね。青い服をきているおばぁちゃんは九十一歳。そのうしろのおばぁちゃんは八十六歳です。平均年齢七十数歳という集会でした。ほかの方々は、まわりから応援に来てくれた方々でした。この教会のことを、先週、私の父が話していました。この教会の先生夫ご妻は、田舎で一生懸命伝道しているのですが、今回、私が行きましたら、集会のタイトルは、「霊的戦いセミナー」となっていました。
 セミナーですから、私も少し九州について勉強して、ちゃんとセミナーをやらなきゃと思っていたのですが、平均年齢の高さを見て、セミナーじゃなくて、メッセージを楽しくしました。この教会の牧師は私に何を話してほしかったかというと、この地域は、本当に祖先崇拝が強いのです。この教会の先生は、元は他の教会の牧師だったのですが、その教会で、「偶像礼拝は罪だ、祖先崇拝は罪だ」と話したら、そういうことは話すなと、教会から追い出されてしまったのです。ここでクリスチャンをしていくのは、すごく大変だということです。

 同じく、この近所も大変だと思います。特に今週は、彼岸がありまして、先祖崇拝、墓参りが行われるわけですが、古い伝統の中で、クリスチャンになるのは、本当に大変です。

 私はこの教会で、何を話したのかというと、おばぁちゃんがたに、「振り込め詐欺」の話をしました。このごろですね、振り込め詐欺がはやっています。お年寄りの方々はとくに気をつけていただきたいです。孫から電話がかかってくるという設定らしいのです。
 「もしもし、おじいちゃん?おばあちゃん?元気?」
 「誰だおまえは」
 「孫の○○だよ」といって電話がかかってきます。
 おじいちゃん、おばぁちゃんにとって、孫は特別な存在です。わたしもこのごろ、孫を持つようになって、そのことが初めてわかりました。自分の子どもは、どのようにして育ったのか、未だに理解できないのですが、孫っていうのは、育つ課程を冷静に見ることができ、かわいいものです。

 そんな孫から電話がかかってきたら、おじいちゃん、おばぁちゃんはうれしいじゃありませんか。で、孫がこういうのです。

 「おじいちゃん、僕、ちょっと困ったことがあるの。僕は交通事故を起こしてしまって、今日中に百万円振り込まないと、警察に捕まって、牢屋にはいらなきゃいけない。でも僕には百万円もお金はないから、おじいちゃん何とかしてくれない?」
 そんなこと言われたら、どうですか?もしも、孫がそんなことになったら、何がなんででも百万円用意したいと思います。孫をもつおじいちゃん、おばぁちゃんなら、そうだと思います。

おじいちゃんは焦って、
 「わかった!おまえの口座番号を教えろ。」というのですが、
電話の向こうの孫のような男が、
 「おじぃちゃん、僕ちょっとね、もうひとつ問題があってね、口座が今使えず閉鎖されてるの。だから、僕の友達の口座番号を教えるから、そこに振り込んでくれる?」
 「わかった、すぐに振り込む、それを教えろ」
と言うわけで百万円を振り込むわけです。
それで、「よかった、これで孫は助かった。」と、夕方になって、孫に電話するのです。
 「おい、どうだった?うまくいったか?」
 「おじぃちゃん、それ何のこと?僕、おじいちゃんに電話してないよ。」
 「いや。今朝、電話したじゃないか。おまえが、交通事故を起こして、今日中に百万円振り込まないと、警察に捕まるといってたじゃないか?」
 「僕は、交通事故なんて起こしてないよ。」
 「おまえの友達の口座番号に百万円振り込んだよ!」
 「えーっ、僕の口座は使えるよ。」
 「じゃぁあれは、誰の口座だったんだ?」
 「おじいちゃん、それって振り込め詐欺じゃないの?」

 だまされると、瞬間的に百万円とられちゃうんですね。
みなさんも、ぜひお気をつけください。

 先祖崇拝も同じです。 日本人、東洋人たちは、先祖に対する尊敬心や愛情を持っています。また、先祖を自慢にしたりしています。もしも、自分のおじいちゃん、おばぁちゃん、ひぃじいちゃん、ひぃばぁちゃんが、亡くなって地上に魂が残っていて迷っていたら、なんとかしてあげたいと思うのは当然だと思います。
 死んだ先祖たちが、生きる者の世界に、体だけなくなって、足も無くなって迷っていたら、なんとかしてあげたいと思います。

 でも、もしも先祖の霊と語る存在が、先祖じゃなく、先祖のふりをした霊なら大変です。それは振り込め詐欺と同じ結果になります。
 人間は死んだら、どうなるかと聖書はちゃんと示しています。ラザロと金持ちの話を読むとよく分かります。人が死んだら魂は体から離れ、神の元に戻るのです。決して魂は地上には残りません。

 神の元に戻って、生きる者の世界とは、互いに、コミュニケーションは出来ないというのが聖書の教えです。人間は神に作られ、この地上に来たのですがら、死んでも、神が、ちゃんと責任もって、魂を引き取ってくれます。そして永遠の世界で過ごさせて下さるのです。ですから、魂はこの地上にとどまることはありません。
 しかし日本人はどうでしょう。彼岸とか、盆とか、いろんなときに、墓に行って先祖を拝み、仏壇を拝んでいます。拝むとなんか手応えを感じるみたいです。「この感覚は先祖さんじゃないか・・・」って。
 案外日本人は霊感が強いのです。この間も教会に来た人が霊感が強いと言っていました。どういうときに霊感が働くかというと、盆とか彼岸に先祖が顔を出したりするというのです。
 盆の時期は暑いので、夕涼みを縁側でしていると、死んだはずのおじいちゃんが、仏壇からひょいと出てきて、縁側をスス~っと歩いていくのを見たりするといういうです。墓参りにいくと、死んだはずの先祖が、墓石のかげから、顔を出したりするというのです。
 「死んだじぃちゃんだ。ばぁちゃんだー!」と、それで一生懸命、墓を拝むわけです。しかし本当にじいちゃん、ばあちゃんならいいですけれど、そのふりをした存在なら騙されるのです。それは、じぃちゃんや、ばぁちゃんじゃないのです。先祖のふりをした悪霊です。だから、それは振り込み詐欺と同じです。

 「死んだおじぃだけど、おなかがすいたから家にいれてくれんか?ごはんをたべさせてくれ?迷っているから家に入れてくれ!」
 それで、「じゃぁどうぞ、入ってください」って家に入れたらどうですか?先祖じゃなくて、先祖のふりをした悪霊ですから、おじいさん、おばぁさんを苦しめた同じテーマで新しい世代も苦しめられるのです。

 そのような話を、私は国東の教会で時間かけて話したんです。終わったら、おばぁちゃんたちが言いました。「私も仏壇を捨てたい。これから、イエス様を信じていきます。」と言いました。解放の祈りもさせていただきました。
 「あー、ここまで来ることができて本当に良かったな」と感じました。

 私たちの働きは、魂の救いと解放のためですから、神様が示される所なら、どこにでも出かけて行きたいと願っています。「人にはできないことも、神にはできるのです」とあります。人間が救われるのは、人間の力ではどうにもできないことですが、神には不可能がないのです。

 そのおばあちゃんたちの人生を聞くと、一生、悲しいことばかりでした。九十年間も生きてこられたけれど、相当にご苦労されたと思いました。早めにイエス・キリストを信じて、本当の神様と敵の区別がはっきりついたら、人生は幸せになることができるのです。

 九州リバイバルミッションはさらに続けられますから、ぜひとも、祈っていただきたいです。四日間九州に行っている途中、わたしはちょっとアメリカまで行ってきました。
 その写真を見せましょうか

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 分かりますか?USA…「宇佐」ですけれど。この宇佐には「宇佐八幡」という大きな神社があります。駅は小さな駅ですが、神社はすごく大きいのです。宇佐駅に行ったら面白かったです。駅の放送で「宇佐~宇佐~ウソでございます~」と聞こえました。この場所の神々は嘘だと思いました。ぜひとも九州のために、祈り続けて頂きたいです。

 また明日からはネパールに行きますので、ぜひ祈ってください。ネパールへは、去年二月に初めて行きましたが、深い感動と重荷を持ちました。そのときは、もうこれでいいかな…日本から祈っていよう…と思っていたのですが、「ぜひとも、もう一度来てください」と招かれたので、行ってきます。私一人で行くのもなんですから、教会の若い者たちに呼びかけて参加者を募り、一緒に苦しみを共にしてもらおうと考えています。この一週間は少し緊張が続くと思いますが、でも、楽しんでこようと思います。

 ネパールに行くと、日本に生まれてよかったと思われると思います。ネパールでの月収入はだいたい五十ドルから六十ドルです。一か月働いて四~五千円ですね。大変な貧困の中にある国です。幸せの基準は、もちろん人それぞれですが、やっぱり神様はある一定の生活水準を人に与えようとされていると思います。それ以上でも以下でもいけないのです。私たちは神様の設定されたものを受け取るべきだと思います。
 ネパールは偶像礼拝のたいへん強い国です。日本とは比べ物になりません。その背後に暗闇の力が働いているのは確かなことです。日本からの宣教師は少ないのですが、韓国からは大勢の宣教師たちがネパールに遣わされています。宣教師たちが苦労しながら働いている中、これは霊的な力以外の何者でもないと分かっていながら、どうやって戦えばいいのか難しいようです。私たちの教会に与えられた情報が、ネパールでも役立っています。
 去年撮ってきた写真をお見せして、祈りに加えて頂きたいと思います。

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 これは「カトマンズ」の写真で、日本でいう東京のような場所です。普通、首都といったら大きな建物があります。しかしここは空港の近くでありながら、空港自体もどこの市場?といった感じで、このような街並みが続いています。

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 ちょっと田舎に行きますと、このような田園風景が広がります。私たちは今回カトマンズでも集会を行いますが、山岳民族の教会へも行きます。そこへ着くまで歩いて五時間です。ダイエットにはいいかもしれませんが、祈っていただきたいですね。そこにはこんな家がずらっと並んでいました。

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 縄文時代や弥生時代のような家に見えますが、これが平均的な家で、どちらかと言えばお金持ちの家だそうです。なぜなら、かまどが二つあるので、ここはお金持ちなのだそうです。
 朝起きると、子供達が寄ってきました。

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 これは二月初めで気温は零下になるのですが、子供たちはみんな裸足でした。二~三年前までは、みんな裸だったそうですが、ボランティアの人たちが服を持ってきて着せたそうです。ある人が「これは去年着せてあげた服だ」と言っていたので、一年間は着替えをしていないようです。このような場所にも子供達が大勢いました。
 この山岳民族は標高一〇〇〇メートルぐらいの場所に住んでいます。ちょっと下れば電気が通っていたりと、ある程度、普通の生活ができるのです。しかし彼らは絶対に山を下りないのです。なぜなら、彼らの部族の使命は、神々を祀ることだからです。下の町に明かりが見えても、明かりを「星」と呼んでいます。でもこの場所に韓国の宣教師たちによって教会が建てられました。

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 私はここに一泊したのですが、寝袋で寝て、朝起きたら子供や大人たちが(大人でも小柄な方が多いのですが)集まってきました。私はその方々をどうやって導いたらいいのかと祈りました。
 やはり、子供たちの霊の目が開かれて、何千年もここで拝まれてきた存在が神ではなく、敵だというのが分からないと、どうにもならないのです。世代を超えて同じことが繰り返されていくだけです。未来は子供たちに託されている訳ですから、子供たちの霊的な目が開かれて、今まで拝んできた存在が自分たちに益になるものではなく、敵なのだということがはっきり分からなければいけないと思いました。それで、イエス様が神であり、私たちの味方だということを話すとともに、暗闇が何かについても話しました。

 子供たちの霊的な目が開かれて、悪魔・悪霊と戦う霊的な剣が与えられるように、子供たちのために祈りました。
 「みんな手を出してください!そこに剣が与えられますように!」と言って祈ると、子供たちの霊の目が開かれて、「剣をもらった!」と口々に叫んでいました。この国の人は霊的にすごく敏感です。みんな剣を掲げていますね。

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 そして「この山の中で、悪霊が見える場所に剣を向けてください!」と言ったら、みんなが同じ方向に剣を向けたのです。「あそこに何かあるの?」と聞いたら、「この村の一番強い神様が祀ってある。」と言いました。しかしそれが悪霊だと分かったのです。それでみんなで「イエス様の名によって、剣を悪霊どもに投げます!」といって剣を投げました。見えない世界で剣が飛んで行ったと思います。
 みんなで「ハレルヤー!」と叫んだあと、賛美をしようと思ったところ、一人のおじいさんがそこから下りてきました。

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 どんな人物かと言ったら、この村の酋長で霊能者です。私たちが祈って五分もしないうちに、そのおじいさんが下りてきたのです。怒って来たのかなと思って、私も初めはドキッとしました。でもそのおじいちゃんのために祈ってあげると、聖霊様が働きました。

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 おじいちゃんは涙を流しながら、イエス様を信じて魔法使いの杖を捨ててしまいました。今回、このおじいちゃんがどんな風に変わっているのか、ちょっと楽しみです。ただ、一度捨てた杖を、帰りに拾ってついていたのでちょっと不安なところはありますが…。
 このような場所では、聖霊様が強く働いて下さいます。「人にはできないことが神にはできる」ということを体験できる場所でもあります。

 「人にはできないことが神にはできるのです。」という言葉は、イエス様によって語られました。聖書の御言葉を理解するとき、前後関係をよく読んで、誰に語られたのか、どのような状況のなかで語られたのかを知ることが重要だと、いつも教えられています。この教会には聖書学者もおられますから、サンデースクールで聖書をよく勉強していただきたいと思います。

 「人にはできないことが神にはできるのです。」という言葉が語られた背景として、まずは、イエス様にさわって頂こうとして子供達がみもとに来たと書いてあります。さきほどのネパールでも子供たちが最初に集まってきましたけど、昔も同じでした。子供たちがイエス様の周りにいっぱい集まってきました。

 当時のイスラエルでは、子供たちは「役立たず」の代名詞みたいなものでした。
日本では、子供たちが電車に乗ってくると子供たちに席を替わってあげなければならないような心境になりますが、ヨーロッパに行きますと逆です。子供が席に座っていたら大人に譲ってあげるのが一般的です。これは、大人は疲れているが子供は元気だからです。また、子供はお金を儲けたり生産活動はできないので、あまり重要視されていません。これは聖書の時代も同じでした。ルカの福音書一八章一五~一七節

イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

 当時はユダヤ教の世界ですから、神の国とは、立派な大人達が入れるところだと考えられていました。しかしイエス様は全く違ったことを語られました。
 弟子たちは子供たちを叱り、追い払っていたのです。「子供達をわたしのところに連れてきなさい」と言われました。そして「神の国はこのような子供たちの中にある」と言われました。
 子供のように神の国を受け入れるものでなければ、決して入ることはできないと。

 イエス様は、マタイ五章三節で「心の貧しいものは幸いです。神の国はその人たちのものだからです。」と語られました。子供達のように、単純に神を信じるところに神の国があらわされるのです。

 私たちは歳を重ねて、いろんな経験をしていく中、聖書の御言葉を読んでも色々と理由をつけて信じないのです。でも子供たちはどうでしょうか。聖書の御言葉を聞いたら、それを受け止めるのです。そこに神の国は表されるのです。私たちも子供たちのように、幼子のようになるとき、神の国を体験することができるのです。
 「神の国」とは、言い換えれば「リバイバル」ですから、リバイバルのためには単純に神に信頼しなければならない事を教えられます。

 そんな状況の中で一人の役人が来て、イエス様に一つの質問をしました。ルカの福音書一八章一八~二三節

またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。
戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」
イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。

 一人の役人がきて、永遠の命を受け取るためにはどうしたらいいですかと質問したわけです。この永遠の命とは言い換えれば、神の国です。神の国を受け取るにはどうしたらいいかと。
 その時、イエスさまが言われたのは、まずは神の戒めである律法を守りなさいと言われました。「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。」と言われたわけです。
 先週もメッセージの中で、きよめられることを追い求めて行きましょう、と語られました。私たちが神の国を体験するには、やはり「きよさ」が必要です。聖霊さまはきよい霊ですから、汚れたところには住むことはできないのです。私たちが聖書に照らし合わせて、まず、きよい心をいただかなければなりません。汚れたところはイエスさまの十字架の血潮で洗いきよめてもらわなければなりません。きよくなるならば、神を見ることができるのです。

 この人は、「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」と答えました。すごい人ですね。こんな風に言える人は、なかなか少ないです。
 では、彼は神の国に近いということですが、しかし、イエスさまはこう言われました。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 彼は大変な金持ちでした。イエス様はその持ち物を全部売り払って、貧しい人々に分けてあげなさい。それからわたしに付いてきなさい、と言われました。そのことを聞いて、彼は大変悲しみました。なぜなら、大変な金持ちだったからです。

 永遠の命を得るのはなかなか大変なことです。きよさも必要ですし、自分の持ち物を全て売り払え、そして、貧しい人たちに与えろ。これはイエスさまが語られた言葉です。
 こんな風に言われたらどうでしょうか。悲しくなりますよね。私は金持ちじゃありませんけど、持ち物全て売り払わされて、それから付いて行くのはつらいぞ、と思います。
 その続きに何と語られたかというと、二四~二七節を見ると、「人にはできないことが、神にはできるのです。」と言われた背景が、このような金持ちが神の国に入るのは大変難しい、という問答なのです。
 なんと、金持ちが天国に入るよりも、らくだが針の穴と言ったら・・・これは、原語でも「縫い物の穴」なので、本当に針の穴です。「そこを通る方がもっとラ・ク・ダ」というところからの話です。

 考えてみて下さい。縫い物の針の穴に、あのでかいラクダが入ることができますか?絶対に不可能です。でも金持ちが救われるのは、「更に大変」だというのです。みんな言いました。「そんなこと言ったら、誰が救われるのですか。」と。その時イエスさまが言われたのが、「人にはできないことが、神にはできるのです。」と語られたのです。

 みことばは、ひとつをちょいと引き出すと、「信仰持って受け取ろう!」と思えるのですが。前後関係を考慮して読むと、絶句する箇所も多くあります。「それはちょっと難しいな。私にはそんなことはできない。」と言うことが多いのです。
 イエスさまの話を総合すると、子どものようにならないと神の国には入れない、金持ちは入れない、けれども、神には不可能なことはない、と語られたわけです。
 何のことだろう、という感じです。しかしルカの一八章をずっと読んでいくと、次に何が起こったかというと、「盲人のいやし」が起こっています。目の見えない人がいやされるという奇跡が起こっています。
 イエスさまはただ口で、「人にはできないことが、神にはできるのです。」と語り、それで打ち止めではないのです。なんと、その後に、盲人の目を開けるという、絶対に人には出来ない奇跡を実際に起こして、神にはできることを実証されています。
そして、次にストーリーは展開して行きます。ルカの福音書一九章一~二節

それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

 またここで再度金持ちが出てきます。ちょっと前は、金持ちは救われない、と言われたばかりです。先ほどの金持ちは、悲しみながら家に帰って行きました。その流れの中で、また金持ちが登場するという設定です。前後関係を見ていくと、たいへん興味深くおもしろいです。
 そして、結論的に言うと、一八章では「金持ちは救われない。らくだが針の穴を通るより難しいぞ」と言われたのに、イエスさまの舌が乾かないうちに、一九章では、金持ちのザアカイが救われるのです。
 それはちょっとした矛盾にさえ感じます。しかし、そのただ中に「神にとって不可能なことはない」ということばが挿入されているのです。

 前後をよく読んで、どういうシチュエーション、どういう状況の中で語られているのかを見ていくと、結構聖書は興味深いと思います。

 ザアカイという人物は、「取税人のかしらで、金持ち」だったとあります。実は、先週ちょっと緊張したことがありました。なぜなら、教会に税務監査が来たからです。ザアカイが実際に来たのです。ちょっと緊張しました。私はザアカイさんに聞きました。「あなたは昨日も来たんじゃないですか?」と。すると、「いや、七年ぶりです。」と言っていました。前回税務監査があったのは六、七年も前らしいのです。今、国はお金が無いからたいへんなようです。
 私は先週、サアカイのストーリーを思い出しました。そして税務署の人たちは、一般の世間からは嫌われるだろうな、と思いました。
 私たちは何も隠す物はありませんし、悪いことはしていませんから、「何でも見せてあげますよ、何でも言ってください」と最初に告げました。でも、三日間もですよ。一枚の領収書が無いだけでも、いちゃもん付けるような態度でした。「どこの組の人かな・・・」という感じのところもあるわけです。
 しかし、何の問題もなく、「よくやっておられますね」ということで、大丈夫でした。「おたくは優良に入っています」と言われたのですが、こういう職業の人は、世間一般からは、仕事とはいえ相当嫌われるだろうな、と思いました。
 こんな人たちが救われて天国行ったら頭にくるな、とちょっと思ったところもありましたが、その時、私はこのみことばを思い出しました。ザアカイが救われたんだから、この税務署のおっさんたちも救われるはずだと、「ザアカイを救ってくださったイエスさま、どうかこの税務署の人たちも救ってあげてください」とお祈りさせていただきました。そんなことで、先週はちょっと緊張しました。

 昔も取税人は憎まれていました。でも、なんと、ザアカイはイエスさまによって救われました。イエスさまと出会ったときに、ザアカイが何と語ったかというと、ルカの福音書一九章八~一〇節

ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 ここに、「救いがこの家に来ました。」と記されています。救いとは、どこに来るのでしょうか。もちろん、個人の救いですが、ここから見ると、救いは「家に来る」のです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とありますが、私は家族の中でたった一人のクリスチャンです、という方もおられると思います。しかし、救いは家に来るのです。あなたがイエス様を信じたのは、やがて家族全員が救われるのです。
 ザアカイは収税人で、人からだまし取ったと自分で語っています。彼は罪人だったのです。でも救われたのです。そして、よく読むと、ここでザアカイが語ったことばは、「主よ。ご覧下さい。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。」と言いました。
 でもイエスさまは、「オッケー、おまえを救ってあげるよ。」と言ったのです。一八章でイエスさまは何と言われましたか?あの金持ちに、「おまえの財産全部売り払ってこい。」と言ったのです。しかし舌が乾かないうちに、こっちでは半分でオッケーしています。
 「イエスさま、どういうことですか。向こうでは全部売り払えと言ったのに、こっちでは半分でいいとサービスしてるじゃないですか」と。
 なんか気まぐれだな、と思うかもしれません。しかし、そうではありません。こういう中で、神にとっては不可能はない、神はどんな人でも救うことができると教えているのです。

 しかし実際、裕福な者が神の国に入るのは難しい、ということばは事実だと思います。なぜなら、ネパールに行くと、本当に貧しいのですが、人々は神の国に近いのです。みんな単純にイエスさまを信じます。
 日本はどうですか?震災があって、経済は大変ですが、まだまだ日本は世界の中ではトップクラスの金持ちの国です。借金はあるかもしれないけれど、みな裕福な生活をしています。やっぱり日本人のような、ある意味、金持ちが神の国に入ることは難しいと思います。ネパールは一ヶ月働いても、五十ドル、六十ドルの世界です。しかし、彼らは福音を聞いたらすぐに心を開きます。
 私は、山に行って、子どもたちに伝道して、山から下りてきて、ある村に行きました。すると、その村の宣教師が私に言いました。「順先生、この村にひとり、悪霊に憑かれて大変な人がいるのです。みんな困っているんです。ぜひ行って祈ってあげてください。」と。

 祈ってあげても、何も起こらなかったらどうしようとも思いましたが、そう言われたら行かなければいけないのです。私はその家に近づいていったのですが、ひとりのおばちゃんが、体をへし曲げられるような感じで、家の前の戸板に寝かされていました。私が近づいて行けば行くほど、家の前で大暴れするのです。叫んで、暴れているのです。

 その光景を見て、村中の人たちが集まってきました。その光景はこの世のものではありませんでした。今度皆さんにビデオを撮って、見せてあげたいと思います。目の部分はちょっと黒くぼかして・・。
 その人は舌を長くベローと出していたのです。もうすごかったです。でも、そんなことで慌てていては仕事はできません。その人は好きでそうやっている訳ではないです。私はかわいそうに思って、おばちゃんを家の中に入れてあげました。村の人が皆集まって来てましたから、解散させて、家の中で祈ってあげました。でも気づいたら、家は隙間だらけでしたから、隙間全部に目がありました。皆、覗いていました。

 「舌が出ている」とは、どんな悪霊が作用しているのかすぐにわかりました。ネパールはヒンズー教で、「カーリー」という偶像を拝んいます。カレーライスのカーリーです。その絵を見ると、こんなに長く舌が出ているのです。それで、すぐにわかりました。このおばちゃんはカーリーをずっと拝んでいたんだなと思いました。家の中にもカーリーの写真が何枚もありました。
 だから、悔い改める祈りをして、悪霊との関係を断ち切って祈ってあげました。それまで、大暴れしていましたけれど、おさまって「ありがとうございます。ありがとうございます」って、何回も感謝してくれました。その祈りが終わって、帰ろうとしているとき、村中の人が集まってきました。
 「私の為にも祈ってください。私の為にも祈ってください」と、私たちの車の周りには人だかりになっていました。日本でもこうなったらいいのになと思いました。
 今回ネパールに行ったら、その村に行って、そのおばちゃんがどうなっているのか確認して、その村の人の為にも祈ってあげたいと思います。心の貧しい人は幸いだとあるように、やっぱり貧しい人たちは神の国が近い・・と思いました。
 私たち日本人はある意味で裕福であるが故に、神の国から遠いところがあるのではないかと思います。

 しかし、このみ言葉はリバイバルの為のみ言葉だと思います。日本は普通では神の国に入るのは難しい部類に入る国かもしれませんが、主がこの国に訪れられ、「人にはできないことが神にはできる」という、日本のリバイバルに対するみ言葉ではないかと教えられました。

 二人の金持ちが出てきますが、最初の金持ちと後からの金持ちザアカイも同じような金持ちですが、何かが違うのです。最初の金持ちは、イエスさまが試されたと思うのです。「全部売ってきなさい」と。それで悲しんで家に帰ってしまいました。
 でも、ザアカイは心が貧しかったのです。イエスさまがエリコの町に来られた時にどんな態度をとったかといいますと、三節からを見るとこうなっています。
 「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」と。
 彼は悲しんで家に帰るタイプではなく、イエス様が見たくて前方に走り出たのです。彼は金持ちではあったけれど、心が貧しかったのだと思います。イエスさまを一目見たいと思って、イエスさまより前方に走り出て、いちじく桑の木に登ったというのです。

 彼は諦めないで信仰をもって一歩前に進んでいったのです。その時に「救いはあなたの家に来ました」と言われたのです。私たちもイエスさまの前で立ち止まっていたり、家に帰ってしまうのではなく、信仰をもって進み出るときに、道が開かれていくのではないかと思います。日本のリバイバルも同じではないかと思います。止まっているのではなく、諦めるのではなく、一歩前に進んで行くときに、主が道を開いてくださると思います。

 また、日本のリバイバルを考えるとき、日本はいくら打っても響かない、このような国は無理だと考えます。また、うちの夫は救われっこない、うちの妻は救われっこない、うちの子どもたちは救われっこない、無理だと諦めてしまいがちなのですが、救いは家に来るのです。

 イエスさまがは人には不可能なことが、神にとっては不可能はないと語られました。信仰を持って、前に進みなさいと教えていると思います。
 今週も私たちは信仰を持って一歩前に進んでいきたいと願います。そのとき主が大いなるみわざを、日本に成してくださるのではないかと期待しています。
 明日からネパールに行きますが、ネパールの人は心貧しく過ごしておられる方々が多いですが、国に救いが訪れてリバイバルが起きるように祈っていきたいと思います。再来週は色々な話ができると思います。ぜひとも祈っていきたいと思います。最後に、もう一度、皆さんでこの御言葉を読みましょう。ルカ一八章二七節

イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」


 ハレルヤ、天の神さま、み名を崇めて感謝します。人にはできないことが神にはできると語ってくださっていることを、心から感謝します。私たちの目の前には、人間的には手が出せない問題が多くありますけれど、人にはできないことが神にはできると語ってくださっていることを、心から感謝します。日本に大いなるリバイバルを起こしてくださると信じます。ハレルヤ主よ、感謝します。あなたが日本に訪れてください。日本にある全ての不正が打ち砕かれますように。全ての不正が明らかになりますように。この国が聖められ、神のものと勝ち取られますように。ザアカイが救われたように、日本が救われますように。今日のこのときを感謝します。イエスさまがこの地に来られたのは、私たちの罪の身代わりになって死んでくださり、よみがえってくださることでした。そのことを心から感謝します。それを記念して聖餐式を行います。私たちを聖めてください。十字架を感謝して、あなたに近づくときとなりますように。イエス様のお名前によってお祈りします、アーメン