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『誰一人として滅びることのないために』

2011.10.9(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
ヨハネの福音書 3章16節〜21節

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。』

 ハレルヤ!おはようございます。リソスの賛美はいつもに増して懐かしいサウンドでしたね。素晴らしかったです。一九七〇年、八〇年代を思い出すような、私たちの青春サウンドがしていました。「今日一日幸せでありますように」と歌われましたが、イエス・キリストを信じる時に、幸せをいただくことができるわけです。
 だいぶ秋めいてきまして、年間を通して一番いい季節ではないかと思います。日本が一年中、このような季節ならと時々思うのです。秋は収穫の秋とも言われます。霊的な世界でも、収穫の季節であると先週もお話ししました。この秋から、主が日本にリバイバルを始めてくださるようにと、心から願い、祈っています。

 今日のタイトルは、「誰一人として滅びることのないために」とつけさせていただきました。イエス・キリストを信じる時、永遠のいのちをいただくことができ、滅びから救われるというのが聖書のメッセージです。
 今日読んでいただきました聖書の箇所は、「聖書の中の聖書」とも言うべき、クリスチャンならば誰でも知っているというか、知っておくべきみ言葉です。特にヨハネの福音書三章十六節のみ言葉は、世界的に有名です。もう一度十六節だけ、みなさんで暗唱するつもりで読んでみましょう。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 神がひとり子イエス様をこの地上に与えてくださったのは、何のためかというと、『ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』と記されています。信じるなら、永遠のいのちが与えられる、素晴らしいです。私たちは何気なく救いを受け取っているのですが、よく考えてみれば、イエス様の十字架と復活は本当に大きな出来事であったはずです。
 『神がひとり子をこの地上に送った』とありますけれども、これは「神が人となられた」という意味です。神が人にならなければならなかったのです。そして人類の罪の身代わりとなって十字架にかかり、死ななければならなかったのです。天地宇宙を造った神が、なぜ、そこまでしなければならなかったのでしょうか。考えてみれば本当に大きな出来事なのです。
 なぜそこまでしなければならなかったのでしょうか。それは、『ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』のです。

 ということは、裏を返せば、イエス・キリストを信じなければ「滅びる」ということです。人類が滅びてしまうという現実があったからです。
 今、世界は本当に混沌としています。毎日のニュースを見れば、日本だけでなく地球全体が混乱しているのがわかります。ヨーロッパで経済が大変悪くなっています。もしかしたら、リーマンショック以上の世界的混乱が訪れるかもしれないとも言われています。
 日本では毎日のように地震があり、三月十一日以来、原子力発電所の問題も未だ終息のめどが立っていません。また世界中、いろいろな場所で紛争や戦争があって、これからどうなってしまうのだろうかと、心配になります。そして、社会や家庭にも大きな問題と混乱があります。
 なぜ、このようなことになったの、その原因が聖書には記されています。ローマ人への手紙六章二十三節にこんな言葉があります。

『罪から来る報酬は死です。』

 世界の不幸の根源は「罪」なのです。罪があるゆえに、人は滅びに向かっているのです。罪という問題は、人類にとって最も大きな問題です。そして罪から生ずる報酬は死以外の何ものでもないのです。人類が不幸になった最大の原因は「人が犯した罪」によるものです。
 教会に来ますと罪がなんであるのか、はっきりとわかります。時々、「キリスト教会は罪について言うから流行らないんですよ。あんまり罪、罪、言わない方がいいんじゃないですか。他の宗教は何も言わないですよ」と言われますが、聖書ははっきりと罪について語っています。「罪から離れなさい」と。
 なぜそのように語られるのかというと、罪から来る報酬は死であるからです。そして、罪によって人類は滅びに向かうのです。
 しかし、罪から救うためにイエス様はこの地上に来て下さいました。神が人となって、人類の身代わりとして罰を受けて、十字架にかかり死に、よみがえって下さったのです。ということは、神が人とならなければならなかった理由、神が死を体験しなければならなかった理由は、「罪という問題を解決するため」でした。

 ということは、罪という問題は決して軽いものではなく、人類にとって最も重大な問題であり、真剣に扱っていかなければならないのです。クリスチャンになって、罪についてはっきりと認識できるようになることは、本当に大切なことなのです。
 また、私たちは罪と戦わなければならないのです。決して、罪に流されてはいけないのです。罪と激しく戦っていかないと、罪から来る報酬は死ですから、自分だけでなく、家族も、社会も、国も、何もかも、罪によって滅ぼされるのです。罪により、すべてが滅びに向かって行くのです。罪という問題が世界で最大の問題であるということを認識しなければなりません。
 罪とは何かについて、イエス様は語られました。マルコの福音書七章二十一節〜二十三節、

『内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』

 罪は人の内側から出るのです。人類が神から離れて罪を犯したことによって、なんと、すべての人の心の中から、悪いものが湧き出るようになってしまったわけです。その結果、人類は不幸な道を歩むようになり、『罪から来る報酬は死』と定められてしまったのです。
 私たちも内側から自然と、悪いものが湧き上がってきます。良いものは湧き上がってきません。やはりこれは人間が罪という性質を持っている為です。
 しかし、このような者たちを救うために、神が人となって十字架にかかり死んで下さいました。それは本当に大きなことであるわけです。
 その結果、罪から救われるのは、本当に簡単になりました。ローマ人への手紙十章九節、

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。』

 人の罪は本重大な問題であり、人に死をもたらし、人類を死にいたらしめる最も重大な問題です。しかしそこから救われる方法は、あまりにも単純です。『もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。』となっています。
 「イエス様は私の救い主です。私の主人です。」と告白し、「イエス・キリストはよみがえった」と信じるならば救われるのです。死と滅びから救い出されるのです。それが聖書の教えです。
 難行苦行をしてくださいとか、一生懸命勉強してくださいとか、そういうものは関係ありません。ただ心で信じるだけで救われるのです。ローマ人への手紙十章十節、

『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

 心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。あまりにも単純じゃありませんか。心で信じたら、ただ口で告白すればいいのです。信じることの最小量は「口の告白」です。信じると言っても、その度合いは様々かもしれません。しかし、ただ口で告白したらいいのです。あなたの口で、「イエスは主です。イエス様はよみがえられました」と告白するならば、なんと、私たちは救われるのです。ローマ人への手紙十章十一節、

『聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」』

 この言葉は真実です。イエス様に信頼したら、失望させられることがないのです。
 この世の中は失望することが多いです。私は先週失望しました。十月四日のことでした。iPhone5が出ると思って期待していたら、iPhone4Sでした。そして、スティーブ・ジョブスは死んでしまいました。「なんだ!アップルという会社に信頼していたけど失望した。iPhone5を買おうと思っていたのに。なんだ4Sか。形も変わってないじゃないか。もう買うのやめた!」と、私は一応思っています。世界中のiPhoneユーザーは先週、失望したと思います。
 期待していても裏切られることって多いですね。でも、私たちがイエス様に信頼したら、「決して失望することはない」というのです。

 この地球はやがて滅びるというのが聖書のメッセージです。しかし聖書のメッセージがなくとも、「このままなら、地球は滅びるかもしれない・・・」と誰でも感じていると思います。だいたい福島で原子力発電所が二つ、三つ壊れただけで、これだけ苦しめられているわけですから、今、世界中に原子力発電所はいくつあるのでしょうか?どれほどあるのかわかりません。それらが世界中で壊れ始めたら、誰も手をつけることはできません。
 今、人類は七十億人だそうです。「七十億人も地球に住んでいて、食糧は足りるのか」と心配になります。この勢いで人類が増え続けていったら、多くなれば多くなるほど増加率も高いですから、すべての資源には限りがあるはずです。人類がどのようにコントロールしようとしても、コントロールできない時代が来るのです。
 そもそも原子力発電所も、なんとかしようとしていても、コントロールできていません。「最後までコントロールできないような技術は技術ではない」と評論家が語っていました。「暴走してしまうようなものは技術の枠から外れている」のです。
 人類が自分でどうにもならなくなったら、最後は神が出て来て、「人類の歴史はここまで!」と歴史に終止符を打たれるのです。そんな日が来るのです。人類は今、滅びの滝つぼに向かって、急速に吸い込まれている状態です。

 自分自身も、犯した罪をなんとかしない限り、滅びに向かうのです。私たちはイエス様を信じて、滅びではなく、救いの道を歩まなければならないのです。また、誰一人、滅びることのないために、福音を宣べ伝えなければならないのです。

 いつも話していますが、日本でクリスチャンになるのはなかなか大変です。家族の中で一人がクリスチャンになるには、本当に大きなエネルギーがいるのです。「私は家族でただ一人のクリスチャンです。クリスチャンとしてやっていくのは大変だ」という方も多くおられます。
 特に今の季節は大変です。この地域でも村祭りが多くあり、昨日も新城駅前に夕方行きましたら、大勢の人たちが集まって富永神社の祭りをやっていました。全ての家に提灯がさがっていて、偶像礼拝が盛んになされています。
 そんな中で「私はクリスチャンです。祭りには参加しません。」と宣言するのは、すごく大変なことだと思います。しかしみなさん、私たちがイエス・キリストを信じるのは、家族に対する大きな救いの鍵をいただくことなのです。家族に対する救いの鍵を捨ててはいけません。
 聖書は告げています。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』と。
 あなたが救われたことは、家族の救いの鍵をもらったことを意味します。多少戦いがあったとしても、しっかりとクリスチャンであることを宣言して下さい。それが家族を滅びから救うための、重要な鍵となるのです。

 最近、教会に長らく来られていないご夫婦が、ひさしぶりに来られました。私の記憶では、十年くらい前までは来られていたけれど、この頃は、クリスマスに来られるくらいで、ほとんど教会に来られていませんでした。どうして突然来られたのかと思ってお話ししたら、本当に悲しいニュースを聞きました。
 その家にはたった一人だけ、息子がいました。私は昔、その子のことを知っています。小学校の頃、かわいい坊やでした。現在は三十五歳になっていました。しかし今年の大震災の前日、朝起きていつものようにパソコンのメールをチェックして、そのままコンピューターの上にうつぶせになって眠ったように見えました。彼はすでに結婚していて一人の息子がいて、息子が「お父さん。寝ちゃだめだよ。起きてよ」と声をかけても返事がなかったそうです。奥さんが来たら、なんと息をしていなかったというのです。突然死でした。本当に元気な人で、どこも悪いところもなかったのに、一瞬にして死んでしまったというのです。
 ご両親はそのことを聞いて、本当にショックだったのです。葬式も何もかも終わってから、教会に来られました。お父さんとお母さんは、たいへん悔やんでおられました。「私たちが教会から離れたから、こんなことになってしまった・・・」と。

 しかし、それはなんとも言えません。誰にでも、そのようなリスクはあるからです。先週も話しましたが、私もネパールで一時間前の飛行機に乗っていたら、今ここに立ってはいません。死んでいたわけです。誰がいつ、どのように死ぬかは、はっきりいってわかりません。原因を究明しようとしても、なかなか難しいのです。ご両親は息子を失って、本当に悲しんでいました。
 しかしその悲しみを通して、再び信仰が回復したのです。教会に来られるようになったのです。でも、悲しみは大きいですから、いつも教会に来ては涙を流しておられました。
 お父さんは息子を愛していて、本当に悔やまれたそうです。彼は毎日祈ったそうです。「イエス様。私の息子はどうなったんですか?私が信仰から離れていたから、地獄に行ってしまったのですか?滅びてしまったのですか?」と毎日毎日、泣きながら祈っていたそうです。

 人生はこの地上で終わりではありません。その後があるわけです。先ほども読んだように、イエス・キリストを信じたら滅びないで永遠のいのちです。しかしヨハネの福音書三章十八節、

『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』

 主イエスを信じないと、「すでにさばかれている」というのです。死刑宣告がくだっているようなものです。人はいつ死ぬのかわかりません。その時に信じていたら、永遠のいのちを受け取ることができるけれど、信じていなかったら、すでにさばかれているというのです。判決はくだっているわけです。
 滅びとは何か。ヨハネは光と闇を対比して説明しています。光は神のことですから、闇というのは、ただ単なる物理的な闇ではないはずです。神は人格的な存在ですから、闇も人格的な存在なわけです。そうでないと対比できません。使徒の働き二十六章十七節〜十八節、

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 闇とはサタンです。滅びとは、サタンの支配に完全に渡されることを意味します。
 私たちが地上にいる時には肉体を持っていますから、サタンは人を完全支配出来ないと思うのです。しかし死んでしまうと、魂が体から抜け出て霊的存在になります。悪魔・悪霊どもも霊的な存在ですから、この地上で闇の支配があると、死後、百パーセント悪魔の支配に移されてしまうのです。それが滅びです。悪魔に百パーセント支配されるなんて、考えただけでぞっとします。悪魔と悪霊どもの住処、神が設定した、ゴミ捨て場である地獄に落とされるのです。そんな風になったら目も当てられません。

 息子を失ったお父さんは、「私の息子はどちらに行ったのだろうか?」と真剣にイエス様に祈っていたそうです。
 ある日のこと、トイレの中で、「イエス様。私の息子はどこに行ったんですか?」と祈っていると、それは、イエス様の名前で祈っている中で起こったことです。突然、息子が目の前に見えたそうです。息子に対して祈っていたり、拝んでいて現れたのなら危ないですが、あくまでイエス様に祈っていた時に見せられた幻ですから、神が特別にそういうことをなされたと思うのです。
 実は、そのご両親は身体に障害があって、聾唖者の方々で情報を捉えるのが難しいので、神が特別、そのような不思議を許されたのだと思うのですが、目の前に瞬間的に息子が見えたというのです。そしてこう言う声を聞いたそうです。
 「あなたのおかげで、私は地獄に行かないで、天国に入ることができました。ありがとうね」。瞬間的なことだったそうです。その体験を通して、ご両親は本当に癒されたそうです。そして回復したというのです。「お父さんのおかげで」ではなくて、「あなたのおかげで」と言ったそうです。これも聖書的だと思いました。死んだら、めとることも、嫁ぐこともないと聖書は語っていますから、家族関係や親族関係を超えて、神の家族の一員となるわけですから、「あなたのおかげで、私は地獄に行かずに、今天国にいます。ありがとうね」という言葉は、根本的には、神がお父さんを慰め励ますために告げられた言葉だと思うのです。
 その両親は息子が小さな時、教会に一緒に連れて来ていました。三つ子の魂百までともいいますけれど、やはり彼の心に福音が入っていたと思われます。お父さんとお母さんはあまり教会には来られなかったけれど、信仰の火は消えていなかったのです。イエス様を信じていたのです。人生にそんなことが起こるとは、夢にも思わなかったけれど、イエス様を信じていたわけです。
 しかし突然、訃報が舞い込んできました。息子はどうなってしまったんだろうか?けれども、神は愛なるお方です。「あなたのおかげで滅びないで今天国にいますよ」と、明るい顔をした息子の顔が瞬間的に見えて、言葉が瞬間的に心に入ってきたそうです。「神様が大きな慰めを与えてくださいました」と言われました。私もそれを聞いて嬉しかったです。
 そして、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』とありますが、私たちがしっかりと信仰を持つことは、たいへん重要です。何が起こるのかわからないこの時代、福音を伝えておくならば、神は家族を哀れんで下さるのです。

 人が死ぬ瞬間とは、体に宿っている魂が抜け出し、霊的な世界の中に入っていく瞬間です。ちょうどカーテンを開けて、窓の外の景色を見るような感じだと思うのです。開けたら死後の世界が見えるわけです。その時、福音を聞いたことがある人、イエス・キリストについて聞いたことがある人は、向こうに見える景色のことに関して、少なからず情報があるはずです。魂が体から抜け出す直前に「イエス様助けてください!」と叫ぶならば、イエス様はその人を永遠の国、天国に入れてくださるはずです。

 イエス様と一緒に十字架についたあの強盗たち。初めはイエス様のことを罵っていました。でも、途中で片方の強盗の気が変わって、「もしかしてこの人は本当に神の子かもしれない。あまり悪口言ちゃいけないな・・・」と感じて、「イエス様、あなたが天国に入る時には、私を覚えてください」と虫のいいことを言ったわけです。
 その時にイエス様はなんと答えたかと言うと、「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにあります」と言われたのです。
 私はそのイエス様の発言を読んだだけで、本当に、イエス様は神の子だと信じます。私なら絶対にそんなことは言えません。「何を言ってるんだ。おまえ。舌が渇かんうちによく言えたもんだ。地獄のどん底に落としてやるぞ」と言いかねません。しかしイエス様は、滅びの直前の強盗に対して、永遠の命を与えたのです。なんの努力もなかった。悪いことだけを行ってきた男は、ただ告白しただけで救われたのです。世界で一番運のいい男、それがイエス様と一緒に十字架についた男ではないかと私は思います。

 私たちも、しっかりと福音を握り、自分がクリスチャンであることを家族の中で宣言しておくことは、家族の救いの重要な鍵なのです。この救いの偉大さと完璧さを、もう一度確認しなければならないと思わされました。

 イエス様よりちょっと前に生まれたヨハネは、イエス様のために道を用意した人物であったと聖書は語っています。このヨハネがイエス様を見て、なんと発言したのかが、ヨハネの福音書一章二十九節に記されています。

『その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」』

 イエス様が歩いて来るのをみて、このように彼はイエス様について語りました。今日も、「♪世の罪を取り除く神の子羊♪」と賛美しました。
 なんでイエス様が「子羊」と表現されているのでしょうか。旧約聖書の時代は、罪を犯したら、その罪に見合うなんらかの犠牲を払わないと罪から救われなかったのです。罪を犯したら羊を持って行ったり、やぎを持って行ったり、牛を持って行って、命あるものを殺して「この命を犠牲にしますから、それに免じて私の罪を赦してください」という祈りがなされていました。
 聖書の中に、『目には目を。歯には歯を』という言葉がありますが、この言葉は「目一つが潰されたら、目が一ついる。一本歯が折られたら、歯が一本いる。命には命を」ということなのです。同じ代価が払われなければ、罪は消されないという考えでした。これが元々、神が人間と交わした契約であったわけです。
 ですから人々は、罪を犯したら犠牲となる動物を祭司のところに持って行き、それを殺して、神の前に悔い改めをしたのです。

 また大祭司という人物は、傷のない子羊を「民全体」のための罪の赦しの為に犠牲とし、至聖所に血を捧げる行為を、毎年繰り返していたわけです。罪の赦しのためには、代価が払われなければならない、と言うのが旧約の概念です。
 祭司は罪が赦されという宣言のために、証拠として、動物の血を当事者にふりかけ、「罪は赦されました」と宣言しました。
 それは何を意味するかと言えば、神との契約だったのです。「罪が赦されました」という契約が、子羊の血であったわけです。

 現代社会においても、銀行でお金を借りたら、契約を結ばなければなりません。この会堂、神学校、教育館を建てた時、やはり銀行からお金を借りましたから、ちょっと怖かったです。なぜなら、契約書という書類があって、そこにサインだけならばまだいいのですが、実印を押した瞬間、一億円を借りたら私は一億円の債務者になるからです。もしも返済できなければ、罰則も契約書にはあるわけです。怖いですね。最後の印鑑をおす瞬間は、小刻みに手が震えてしまいます。
 時々、「順先生、この書類にハンコを押してください」と言われて、「なんの書類なの?」と心配になることもあります。知らずに印鑑を打ってしまうことがないように、みなさんも契約書には、くれぐれも気をつけましょう。簡単に保証人になったりしないように、本当によく考えなければなりません。
 ハンコを打つまでは、契約書はただの紙切れです。そこに十億円だろうが、百億円だろうが書いてあっても、ただの紙切れです。しかしハンコを打った瞬間、なんと契約が成立し、債務者となるのです。
 印鑑の朱肉って赤いじゃないですか?なんで赤い色の印鑑を押すのでしょうか?黒でもいいじゃないか?青でもいいじゃないか?ピンクでも?でも、そうではないのです。朱色の印鑑を押すのです。あれは元を辿れば、多分、動物を殺して、その血を振りかける事が契約成立の名残だと私は思います。しかしよく調べてみなければわかりませんが。
 血によって、人と神との間に契約が成立したのです。血によって、霊的領域での契約が成立したわけです。

 悪魔は霊的領域のことをよく知っています。人と霊的契約を結ぶ為には血を流す生け贄が必要だとよく知っているのです。日本の仏教だとか神道の根源を探っていくと、最終的にはヒンズーにたどり着きます。
 私は二週間前はネパールに行きました。ネパールは数年前まで、ヒンズー王国でした。そこでは日本の仏教や神道の原点を見ることができます。一度みなさんをそこにお連れしたいと思うくらいです。そうしたら「仏教の原点はこんなにえぐいものか・・・。こんなのやってちゃいかん。神道も同じだ。」と思える光景が目の前に繰り広げられています。それは悪霊との契約行為以外の何物でもありません。
 今回もそこに行きましたが、カトマンズ郊外にダクシン・カリというカーリーというヒンズー神が祭られている神殿があるのですが、朝そこに行きますと、大行列ができているのです。みんな、ヤギとか鶏を連れているのです。何をするかというと、それをヒンズーの祭司の元に連れて行くと、祭司はヤギの首を皆が見ている目の前で、刀でかき切るのです。血がぱっと飛ぶのです。ヒンズーの祭司はその血を取って、一方はヒンズー神に塗り、同時に人の額に塗るのです。それは毎日何百、何千と動物が殺され、生け贄として捧げられるすごい光景です。私はそこに行って見てきましたけれど、生臭いやら気持ち悪いやら、けれども、それが宗教の原点です。そのことによって悪霊との契約が成立するわけです。
 しかしそれは元々は、神が人との間に契約を結ぶために設定された方法でした。けれども、その方法を悪魔が横取りし、自分と人との間に契約を結ぶために使っています。特にそれがヒンズーの中に残っているのです。

 旧約時代は、真の神の前に出て、罪を赦していただくためには、動物の血が流されることが必要だったわけです。しかしそれは一つの型でした。サンプルだったのです。何のサンプルかと言えば、『見よ。世の罪を取り除く神の子羊』と、ヨハネが語ったように、イエス様が人類の罪のための生け贄となってくださったわけです。ヘブル人への手紙九章十一節〜十四節、

『しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。』

 ここでは、やぎ、雄牛、雌牛という動物が出てきますが、生け贄動物の中心は「傷のない子羊」でした。動物を殺して血を振りかける時、なんらかの聖めがあったと告げています。とするならば、聖い神の子羊、イエス様が犠牲になってくださったならば、どんなに大きなことが起こるだろうかと語っています。
 イエス様がご自分の聖い血を流されたことによって、「あなた方は動物を差し出したり、犠牲は必要ないですよ。わたしが、始めで最後の生け贄となりましたから。あなた方はただ信じるだけで、救われるのです。なぜならば、わたしが世の罪を取り除く神の子羊だからです』と語っておられるわけです。

 みなさん、イエス様が始めで最後の犠牲になってくださったゆえに、私たちは簡単に救われることが出来るのです。救いのプロセスが、本当にシンプルになったのです。生け贄はもはや必要ではなくなったのです。
 ただ心に信じて義と認められ、口で告白して救われるという単純にして偉大な救いを人類は受け取ることができるようになったのです。
 ヨハネ人第一の手紙一章七節にこのように書いてあります。

『しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』

 『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』あなたのために、私のために、イエス様が犠牲となってくださったゆえに、十字架の上で流してくださった聖い血によって、罪は全て赦されるのです。今日、私たちの中に罪があるなら、口で告白して赦していただかなければなりません。
 罪を簡単に考えてはいけません。「そんなものはすぐに赦されるから」という風に簡単に考えてはいけません。イエス様が命をはって、私たちに与えてくださったものだからです。イエス様の十字架の血潮を、心の底から感謝しなければなりません。私たちも出来る限り、心を尽くして主に仕え、聖い生活をしなければなりません。
 そして「罪の支払う報酬は死だ」とありますから、私たちは日々十字架の血潮を仰ぎ、聖めていただいて生活することが重要です。
 また、誰一人として滅びることのないために、神の子羊であるイエス様を人々に伝えなければなりません。

 先ほどローマ人への手紙の十章で、自分の罪を口で言い表すという「告白」が大切だとお話しさせていただきました。ヨハネ第一の手紙一章九節には、次のように記されています。

『 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

 罪を犯したら、秘めていてはいけません。イエス様の前に出て、「イエス様、私はこんな罪を犯しました。赦してください。十字架の血潮で聖めてください」と告白する時、悪から聖められるのです。しかし、この「悪」というのは、ただ単なる概念ではなく「存在」です。悪魔的な存在から解放してくださることを含んでいるのです。私たちが罪を言い表すのは、悪魔の力から解放される重要な鍵であるわけです。
 罪を、軽く考えないようにと話しているのですが、これは、個人においてもそうですが、さらには国においても同様です。
 かつてイスラエルでは大祭司が、民全体の贖いのために傷のない子羊の血を至聖所に捧げました。それは国の中で犯された、共同体の罪の為の生け贄でした。
 この頃よく引用する聖句なのですが、第二歴代誌七章十四節、

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

 この「地」という単語はヘブル語で「エレツ」という言葉が使われています。それは「国」とも訳すことのできる言葉です。
 『わたしの名を呼び求めているわたしの民』とは、クリスチャンがへりくだって悪い道から立ち返って、悔い改めたら地が癒される、すなわち、「国が癒される」と告げています。クリスチャンの悔い改めが、国を滅びから解放するのです。

 私たちクリスチャンが、罪の中に生活していたらどうしようもありませんが、クリスチャンが真摯に神の前に出て悔い改める時、国の癒しに繋がると教えています。
 罪というのが、個人の罪もありますが、同時に、国が犯してきた罪を表しています。国民一人一人には、国が犯した罪に対する連帯責任があるのです。日本全体が犯した罪と私たちは、連帯責任があるのです。その問題を解決するには、クリスチャンが悔い改めることによって解決するのです。
 保証人になる時、連帯保証人になると、自分が債務の当事者でなくとも、問題が起こると連帯して支払いの義務が生じるわけです。国の罪も同じことです。私たちは、国の罪と連帯保証人みたいになっていて、その罪を悔い改めるか否かで、国の将来が変わるのです。だから、クリスチャンに国の未来を左右する鍵がある、といっても過言ではありません。

 全日本リバイバルミッションの働きは、甲子園ミッションのから始まりましたから、再来年で、二十周年を迎えます。「二十年か、早いな・・・」と思っているのですが、二十周年を迎えるにあたって、これから何をしたらいいのかを皆で祈っていました。日本のリバイバルのために、誰一人滅びないために何をしたらいいのだろうかと祈ってきたのですが、この度、主が一つのことを教えてくれたように思います。

 二〇〇七年はハワイでリバイバルミッションが開かれました。二〇〇九年は韓国においてリバイバルミッションが開かれました。去年、二〇一〇年は、突然、東北に行きなさいと言われて、東北でリバイバルミッションを行ないました。今年の三月、大きな地震が東北に起こりました。なにかその前後に関係があるような気がします。
 そして、今年は韓国、そして、この九月には九州とミッションへと進んできました。それらは偶然ではなく、神の回復の計画と関係があると思うのです。そしてこの一連のミッションの動きを通して、日本の罪からの聖めが関わっているような気がします。
 日本の罪の総決算はどこにあるのか?みなさんどう思いますか?日本が成立したのは七世紀、八世紀くらいです。日本が歴史の中で犯してきた罪の総計が、明治から昭和にかけて行なわれた「帝国主義の支配」の中に集約されているような気がしてなりません。
 とりわけ、「太平洋戦争」によって、日本がアジアの諸国に対して行なった罪は、日本という国が成立以来、犯してきた罪の集大成のようです。それは私たちが考える以上に大きなものであって、本当に心から悔い改めなければ、日本は将来においても祝福されないのではないかと思うのです。

 今日、みなさんの中でこんな言葉を知っている人はどのくらいいますか?「大東亜共栄圏」という言葉を知っている人はどのくらいいますか?
 では、「八紘一宇」という言葉を知っている方はどのくらいいますか?結構ご存じですね。では、「私は一九四五年以前に生まれた」という方はどのくらいいますか?かなり少なくなりますね。
 一九四五年とは、太平洋戦争が終わった年です。ここにおられる大多数の人たちは「大東亜共栄圏」だとか、「八紘一宇」なんていう言葉は聞いたはないかもしれません。
 しかし一九四五年以前に生まれた方々は、この思想の中で教育されたわけです。けれども、十年以内にその体験をされた方々のほとんどが、日本から消えてしまいます。日本の歴史を七十年も遡るならば、本当に重大な罪を世界に対して日本は犯した、という事実を我々は正しく認識しなければなりません。
 そんな行為はとっくに消えてしまったように考えているけれど、そうではありません。クリスチャンが悔い改めない限り、罪は国に残るのです。

 一九四二年の日本地図をご存知ですか?今、日本といったら、「北海道から沖縄まで」という地図です。みなさんに「日本の地図を書いてください」と言ったら「北海道、本州、四国、九州、沖縄。他にもたくさん島があるけどそんなの知らない」という感じです。そのような地図を描くと思うのですが、一九四二年の日本地図を観ましょう。これが当時の日本地図なのです。

環太平洋.jpg

 赤くなっているところは全て「日本」だったのです。だから当時の人たちに日本地図を描いてくださいと言ったら、こんな地図を描いたのです。実はこれが大東亜共栄圏という設定の中で、日本が侵略し支配した国々です。
 日本は開戦以来、次々と占領地を広げ、西はビルマ、インドのアンダマン諸島から、南はインドネシアの諸島、そして、ニューギニアの北部、ソロモン諸島、東はギルバード諸島、北はアリューシャン列島のアッツ・キスカ島に至るまで、広大な地域を占領しました。
 どういう思想と共に侵略をしたかというと、「日本は特別な国だ、万世一系の天皇が統治してきた特別な国で、永遠性を持った国だ」と。たぐいまれなる素晴らしさを持った国民性を、日本だけに留めていてはいけない、天皇の名によって全世界を支配しよう、という野望で、あまねく日本の神々を紹介し、天皇が世界を統治していくというのが「八紘一宇」の思想でした。
 それで実際に占領した国々において何を行ったかと言えば、皇民化政策といいまして、十二月四日を「大東亜聖戦記念日」とし、戦争にちなんだ日本の祝日を記念日とし、日の丸を拝がませ、君が代を斉唱させ、宮城を遥拝させ、教育勅語を強要しました。そして戦争のためには手段を選ばずに、多くの人たちを強制徴用して労働力として使い、本当に多くの人たちがその犠牲となりました。
 日本軍は、韓国や朝鮮、また日本全土から、中国、ビルマ、いろんな所から女性たちを集めて来て「慰安所」を作りました。韓国との間に「慰安婦問題」が今もなお大きな問題として残っていますけれど、日本は実にアジアの「四百箇所以上」に慰安所を作り、女性たちを性の奴隷として苦しめました。
 抗日的と見られる人たちには、裁判も受けさせずに、郊外に連れて行って銃殺刑にしています。問答無用だったのです。本当に大変なことをしました。
 太平洋戦争でどのくらいの人々が日本軍によって殺されたのかというと、実に「二千五百万人」というのです。中国では一千万人以上、フィリピンでは百十一万、インドネシアでは四百万人、ベトナムでは二百万人、マレーシアとシンガポールでは十万人以上、ビルマ十五万人、インド百五十万、韓国、朝鮮で二十万人、台湾三万人。本当に大勢の人たちが、帝国主義思想の犠牲となりました。

 これが日本の罪として、今もなお重くのしかかっていないはずがありません。日本が一生懸命がんばっても、最後の土壇場で足をすくわれる事が度々起こっている原因の中に、やはり日本が過去に犯した罪が関わっていると私は思うのです。
 私たちがその罪を自分の罪と認識して、八紘一宇や大東亜共栄圏という教育を体験した世代が消え去る前に、日本が、特に日本の教会とクリスチャンがその罪を悔い改め、神の前に出ないと、もしかしたら日本は永久に祝福を失ってしまうのではないかと思うのです。
 日本人は過去に犯した罪を軽く考える傾向があるように思います。自分自身のこともそうだし、人のことも、「そんなのいいじゃない。水に流してしまえば。」と考えます。それは聖書的な考え方ではありません。罪というのは、認識して、悔い改めるというプロセスと行為があってはじめて、赦されるものだからです。

 個人的な罪も、国家的な罪も、決して、悔い改めをおろそかにしてはいけないのです。しっかりと悔い改める時、神が祝福を回復し、国にも個人にも祝福を与えられるという原則を知らなければなりません。罪の処理がそれほど重要であったがゆえに、神が自分の座を捨てて、人としてこの地上に来て、十字架にかかり、死んでよみがえるという行為が必要であったのです。
 イエス様の十字架の意味について、リバイバルを前にして、しっかりと理解し、捉えなければならないと思うのです。

 今から聖餐式を行ないますけれど、これはイエス様が私たちの罪のために流してくださった尊い血潮を表しています。もう一度イエス様の十字架を心から感謝し、自分自身の罪も、また国の罪も神の前に悔い改め、この国をいやしていただくために主の前に出て行きたいと願っています。
 今日は、自分自身を省みると共に、日本人として、日本が過去に犯してきた罪を自分の罪として悔い改めましょう。その時代を生きていた方々が会衆のなかにもおられるわけですから、しっかりと悔い改め、誰一人として滅びることのないために働いていきたいと願っています。一言お祈りして聖餐式に移りたいと思います。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 主よ、心から感謝します。神が人となられてこの地上に来てくださり、身代わりとなってくださったことを、心から感謝します。今、もう一度イエス様の十字架を心から感謝し、重く受けとめ、私たちのすべての罪を悔い改め、主の前に出ます。
 私たちは日本という国に住んでいますが、日本が過去に犯した罪を悔い改めて神の前に出て行きます。主よ、どうか。私たちの罪を赦してください。今、私たちを聖めてください。あなたが神の子羊となってくださいました。私たちの罪を赦し、聖め、神に受け入れられる器としてくださいました。
 今からの聖餐式の時、主が臨在をもって答えてください。尊いイエス様の御名を通して祈りを、父なる神の御前にお捧げいたします。アーメン。