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『霊的オレオレ詐欺にご用心』

2011.10.16(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
ヨハネの福音書10章7節〜10節

『そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』

 ハレルヤ!みなさんおはようございます。素晴らしい演奏を聴かせていただきました。こころから感謝します。今夜はたっぷりとロンさんとマキーダさんが演奏してくださいます。しかも今晩のコンサートは無料です。大勢の方を教会にお招きしたいのですが、今日は場所に限りがあり二百名限定です。すばらしいコンサートになると思いますので、期待をしていただきたいと思います。
 ロンさんは約一ヶ月間、九州全県を回って奉仕してくださったのですが、私も前半を一緒に回らせていただきました。近くで見ていると本当にうまいです。どこでも力一杯、手を抜かないで演奏してくださいました。
 私とロンさんと行った集会の中で、最も小さい集会は、教会員がたったの四人という教会にも行きました。そこでも素晴らしい演奏をしてくださいました。今朝も、マキーダさんとロンさんの賛美を聴くことができ、本当に幸せです。

 また今週は、韓国、春川から先生方が来てくださいます。一緒に祈ったり聖会を持ったりします。是非スケジュールを見て、参加していただきたいと思っています。

 今日は初めて教会に来られた方々にも、楽しく、わかりやすく話すことができたらと願っているのですが、サラリーマン川柳が発表されまして、その中にこんなのがありました。
 「我が人生、つけてあげたい、カーナビを」
 私たちの人生、どこに向かって行くのかわりません。人生にも、カーナビのような物があったらいいですね。目的地がちゃんと設定されていて、たとえコースから外れても、「コースから外れました。リルートを開始します」と言って、また元に戻してくれるような機能があったらいいな、と思います。
 しかし教会に来ると、人生にカーナビがつくのです!どこに行ったらいいのか、どの門から入ったらいいのか、はっきりとわかるようになるのです。
 キリスト教は宗教のように思うかもしれませんが、決して宗教ではありません。本当に神様がおられたら、その神を信じるのは別に宗教ではないのです。それは現実です。ですから本物の神様と出会ったら、人生は変えられるのです。「目に見えない何かがある」と先ほどもマキーダさんが歌ってくださいましたけれど、私たちを造り、生かしてくださっている神がおられるのです。そして私たちが正しい道を歩めるように、神様のカーナビを付けて下さるのです。

 ついでに、サラリーマン川柳、他にはこんなのがありました。「ごはんいる?家にいるのにメール来る。」寂しいですね。
 「息子より妻にかけたい教育費」「これうまい、そんなに誉めるな、レトルトだ!」「また買って、しまって忘れて、また買って」という寂しい川柳もありました。私も最近は、そのような傾向があります。「あっ!そういえばこの本、前に買ったのと同じだ」というようなことがあります。時々アマゾンで本を注文したら、「あれ?先日買ったのと同じ」というような事があります。「物忘れ、増えてよくなる夫婦仲」というのもあります。
 この頃は将来に対する希望がなくなった社会ですね。「小学生。夢見る職は正社員」昔は、大きくなったら何になりたいですか?と聞くと、「僕は先生になりたい。お医者さんになりたいです」なんて、いろいろありましたけれど、今は「正社員になりたいです。」なんか寂しいですね。「お見合いの決め手になった正社員」というのもありました。この頃は、正社員ですか?パートですか?が決め手のようです。
 「怒るなよ。怒っていないと怒る妻」というのもありました。また、「指なめてページをめくるアイパッド」というもありました。これがわかる人はipadを使っている人なんですけれど、社会はどんどん変化しています。しかし決して変わらないイエス・キリストがおられます。

 今日のメッセージタイトルは、「霊的オレオレ詐欺にご用心」とつけさせていただきました。二ヶ月に一度、新城教会ニュースが発行されますが、毎回、私は巻頭メッセージを書かせていただいています。
 先日もネパールに行っていましたら、雅也先生からメールが来て、「原稿どうなりましたか?」というので、「何の原稿?」と聞くと、「新城教会ニュースの巻頭メッセージ」というのです。「そういえば頼まれていたっけ?」と思って、書いているふりをして「ちょっと待って」と言ったのですが、ネパールは通信事情が悪くて、通信事情が悪いというよりも、時間がなかったというのが正直な所ですが、書く事ができませんでした。「昔のやつをそのまま使ってよ」と言ったのですが、途中でそれではいかんと思いまして、書いたのが、この巻頭メッセージです。そのタイトルは「霊的オレオレ詐欺にご用心」というものです。結構書き上げたら、おもしろかったので、今日はそのタイトルにさせていただきました。一度読んでみたいと思います。

 この話は「鶴の恩返し」というやつと、「サギ」という鳥をしらないと全くおもしろくないですが。

霊的オレオレ詐欺にご用心。

 おじいさんが山に芝刈りに行くと、白い鳥がワナにかかって苦しんでいました。
「ひどい事をするもんじゃ・・・」おじいさんはワナを外して逃がしてあげました。
 しかし、おじいさんは白い鳥の恩返しの話を知っていたので、家に帰ると早速、おばあさんと一緒にごちそうを用意し、奥の部屋にははたおり機まで準備して待っていました。

 するとその晩、予想通り美しい女性が現れ、「一晩泊めてください」と言いました。おじいさんは「そらきた!」とばかり、興奮しました。
 食事が終わると、美しい女性は、「奥の部屋は決してのぞかないで下さいね」と言い残し、部屋に入っていきました。それでおじいさんとおばあさんは楽しみにして、ずーっと待っていました。
 ところがいつまでたっても、はたおりの音は聞こえてきません。「おかしいな・・」と思って隙間から部屋を覗いてみると、なんと、昼間助けてやった白い鳥が寝っころがっているではありませんか!

 おじいさんは、「お前。俺に恩返しに来たんじゃないのか!!」と怒鳴りました。
するとその鳥はこう答えました。

「私、サギですから。」

 警察庁の統計によると、2010年の「振り込め詐欺」の総被害額は、前年より14.3%減って約82億1400万円でした。しかし一方、「オレオレ詐欺」は、前年比16.2%増の約60億4400万円でした。お互い、だまされないよう、注意したいものです。
「オレオレ詐欺」とは、息子や孫を装って、主に、お年寄りからお金をだまし取る手口です。詐欺師が作り出した巧妙なストーリーに騙されるなら、大切なお金を失うことにもなりかねないのです。

 さて、日本人が最も大切にしている存在は「先祖」です。先祖のおかげで現在があるのですから、感謝の心や愛を持ち続けることは当然なことです。
 しかし、仏壇や墓場で感じる霊が、本当に先祖か否かは別問題です。先祖が死後も続けてこの世に存在し、困っているのなら、どうにかしなければなりません。けれどもそれが先祖の霊ではなく、「先祖のふりをした霊」ならば、何が起こるのでしょうか。その霊に従えば、人生の最も大切な部分を騙し取られてしまうのです。

 家庭に何か問題があったり、様々な事件が連続して起こったりするとき、必ず、「先祖がたたっている」と言われます。そして仏壇や墓場を新しくさせられたり、墓参りの回数を増やされたりと、様々な指示が出されます。よく考えてみれば、先祖がそんなことをするはずはありません。

 日本の先祖崇拝は、古代中国の霊能者たちによって始められたものが仏教として伝わり、それが習慣化し、文化として定着したものです。ただの習慣や伝統として行ったとしても、それは悪意を持った霊的存在の手口に、まんまと引っかかることになるのです。

 人は神によって創造され、この地上に生まれました。やがて地上での役割を終えるなら、霊魂は創造して下さった神の元に戻るのです。霊魂は決して「この地上に残ったり、迷ったりはしていない」のです。

 先祖が最も喜んでくれる行為は、文化・習慣化した先祖崇拝を無批判に受け入れるのではなく、霊的世界の現実について理解し、真の神が誰であるのかを知って、その方を礼拝することにあるのです。
 死後の世界の先祖たちは今、叫んでいるはずです。「騙されないで!!それは私ではありません!!」
 霊的オレオレ詐欺にご注意下さい。

こんな巻頭メッセージを書かせていただきました。
 どこの国に行っても宗教があります。自分を助けてくれる霊的な存在として、ある宗教を信じています。先ほども歌の中に「目に見えない何かがあるはずだ」と歌われましたが、世界中の人たちは、いくら科学が進んでも「見えない何かがある、何かがある」と感じているわけです。
 そして、いろいろな門があるわけです。仏教という門もあれば、神道という門もあれば、民間宗教という門もあります。日本人は一応、キリスト教という門も選択肢の中に入れているわけです。どこかの門から入って行かなければならないのです。
 しかし、たくさんあるというのは、気をつけなければなりません。なぜなら、本物は一つしかないからです。日本人は「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」というような考えで、どこでも最終的には頂上に行けると考えていますが、そうではないのです。神様はお一人で、支配とは、そもそも霊的存在下に入ることです。門に入るとは一度その門に入ったならば、その中の霊的存在の支配に入ることです。ということは、自己責任でどの門から入るかを、決定しなければならないのです。
 しかし、聖書はこのように語っています。『わたしは門です。誰でもわたしを通って入るなら救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます』と。

 イエスさまが語られた言葉が聖書中に記されているわけですけれど、聖書は完成して二千年近くの歴史があります。それは、世界中の人たちが注目している、毎年のベストセラーです。聖書によってどのくらいの人たちが慰められ、力づけられ、真理を受け取ることができたでしょうか。数えきれないです。
 ということは、グローバルな視点で聖書を見れば、「聖書の中に真理がある」と落ち着いて考えれば分かるのですが、日本人は、今までの文化だとか習慣だとか伝統を元に門を選択してしまい、結局、霊的オレオレ詐欺に引っかかっている人たちが多いのではないかと思います。

 しかし教会に来ますと、どの門から入ったらいいのか、何を注意したらいいのかがはっきり分かり、真理の道を歩むことができるのです。詐欺に引っかからないで、本物の神様との交わりができるようになるわけです。
 先週もお話させていただいたのですが、ローマ人への手紙六章二十三節に、

『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』

 人間は、この地上で終わりではなく、永遠の世界へと道が続いているのです。神を信じていても、信じていなくても関係なく、それが現実です。人間とは永遠性を持った存在なのです。肉体はやがて滅びていくのですが、魂は不滅です。この地上に私たちが生まれたならば、永遠に魂はなくならないのです。
 キリスト門から入って永遠のいのちに至る道を歩んでいるならば、神と共に、永遠に過ごすことができます。けれども、オレオレ詐欺のような騙し事に引っかかると、なんと悪魔の支配下で、永遠に苦しまなければならないのです。
 人生は永遠の世界を選択する期間でもあるのです。やがてこの地上から出てかなければなりませんが、どの門から入るのか、選択するのが人生です。教会に来て、イエス・キリスト門を見つけるならば、永遠に幸せになることができます。
 この地上にはいろいろ、大変なことがあるかもしれません。「もうちょっとがんばろう」と先ほども歌われましたけれど、この地上に苦しいことがあったとしても、やがて天国に入って、死も苦しみも悲しみもないところで、永遠に神と共に歩むことができたら、どんなにか素晴らしいでしょうか。

 私は牧師をやっていて「あ〜、私には神様のカーナビがついているな」と感じる瞬間があります。みなさんもそのように感じる瞬間があるのではないかと思います。
 私にとって一番「あ〜、私にはカーナビがついている!」と思う瞬間はどういう時かというと、誰かが亡くなる前です。ちょっと変な言い方ですが、不思議に、新城教会の教会員の家族の中で、まだイエスさまを信じておられない方々が亡くなる寸前は、本当に神の導きを感じます。その人が亡くなる前に、私はその人のところに導かれ、伝道する機会が与えられることが多いからです。その羽目になるというか、そのように導かれるのです。
 今までに、そのようなことが何回もありました。ある方の所に行きましたら、ほとんど意識がありませんでした。家族の方が「話しかけてもわからないと思いますけど・・」と言われましたが、私は話しかけました。
 「イエスさまを信じたら天国に行けますよ。一緒にお祈りしましょう。私が祈りますから、私の後について祈ってくださいね」と言いました。なんの反応もありませんでした。
 けれども、「イエスさま!」と祈り、その人も心の中でイエスさまと叫んでくれていると信じて呼びかけました。先週も話しましたけれども、『主の御名を呼び求める者は皆、救われる』とありますから、「イエスさま!私を救ってください。私に永遠のいのちを与えてください」という祈りをしました。そして最後に、私が、「アーメン!」と言ったら、全く意識のない人が、「アーメーー」と言ったのです。そして、「ン」を言わずして、心臓が止まったのです。それを見ていた親族の方が、「ロケットの発射場面のようでしたね」と言いました。私が殺してしまったような気分になって、複雑な思いもしましたけれど。

 またある時には、教会に来ている方のお姉さんが病気になって、その方は本当に偶像礼拝にはまっていて、絶対にイエスさまなんか信じるわけがないと言われていました。しかし癌になって、いよいよ駄目だと聞きました。ここからは遠い、岐阜県の病院に入院されていました。
 そんな中、私はそのこととは関係なく、岐阜県に行かなければならない用事ができたのです。岐阜県に行っている時に電話が来ました。「順先生。岐阜の病院に姉が入院していますが、行ってくれませんか?」と言われたのです。コースを見たら、ちょうど病院の前を通るコースだったので、すぐに私は行きました。
 私とその方のお姉さんとは、全く面識はありませんでした。面識のない人の病室に入るのは結構勇気がいるものです。でも、私はそういうところにはちょっぴり、心臓が強いところがあって、病室に入って行きました。そうしたらその人はちょうど、新しい病室に移るために、仮の場所に置かれていました。本当に苦しそうに息をしておられました。
 私はそこに入って行って、「私は誰々の友人ですよ。イエスさまを信じたら永遠のいのちをもらうことが出来ますよ。一緒に祈りましょう!」と言ったら、その人は、「お願いします」と答えました。それで一緒にお祈りしました。
 「私に永遠のいのちを与えてください。アーメン」と祈ったのです。そして私は帰って来たのです。帰って来たら、連絡がありました。「あの三十分後に、あの方はなくなりました。」ちょうどベッドが移される、隙間の三十分しか祈るチャンスはなかったのです。なんと私はその隙間に入って、福音を伝え、その方は天国に行かれました。「俺にはカーナビがついているな〜」と、本当に感謝しました。
 みなさん、神様を信じていると、神の時に、神の場所に立つことができるのです。牧師という職業をやっていると、聖霊様のカーナビが付いていないと仕事が出来ません。しかし付いていると、神が共におられることを体験できるのです。
 みなさんにも、それぞれの役割の中で、神様の与えたカーナビが付いています。

 実は、先週はお葬式がありました。新城教会の教会員の方で、福井で信仰を守っておられる方がおられます。十数年前に新城教会でクリスチャンになられた方々が福井に移られて、家庭集会が始まりました。そこでイエスさまを信じて、新城教会で洗礼を受け、ずっと信仰を守っておられる奥さんがいます。
 実はその方のご主人が亡くなられました。若かったです。四十六歳でした。癌で亡くなられて、先週は私たちは福井に出張して、葬式をさせていただきました。
 奥さんはイエスさまを信じて、本当に喜んでおられたのですが、ご主人は大のキリスト教嫌いでした。私のところに来て「うちの家内のキリスト教を止めさせてくれ」と言って来ました。だから私は彼をよく知っていました。
 「牧師さん。うちの家内のキリスト教を止めさせてくれ」と。「すいません。私はキリスト教に入れる仕事なんですが・・・」と言っても、「止めさせてくれ」というのです。彼の家にも一度呼びつけられて、いろいろ文句を言われました。

 その方が住んでいる福井県に「永平寺」という寺がありまして、それは禅宗の総本山です。その家族は、永平寺のすぐ近くに住んでいます。だからその地域の人たちは仏教で凝り固まっています。「仏教以外、世界中に信じるものはない!」というような感じです。福井県はまだまだ仏教が息づいており、禅宗と共に浄土真宗も入って、ごちゃごちゃになっているのですが、仏教がたいへん強い所です。そこでクリスチャンとしてやっていくのは、なかなか大変です。
 ご主人がキリスト教に反対して、「神は俺だ!俺を拝め!」というような勢いで手に負えませんでした。
 しかし今年になって奥さんから連絡がありました。「私の主人が病気になりました。」と言われました。脳腫瘍で、どうにもならないということでした。それでも人間というのは最後の最後まで、突っ張る人は突っ張り「キリスト教なんか止めてしまえ」と、奥さんはすごく迫害されました。
 しかし近頃、病状がさらに悪くなって入院されました。私はそのことを聞いて、「あんまり長くないかもしれないな・・・」と感じました。
 クリスチャンの奥さんは、「主人が亡くなったら、私は、証しをするためにも、キリスト教式の葬式をやりたい」というのです。「だからよろしくお願いします」と言うのです。
 その村は永平寺の膝元で、仏教がたいへん強いのに、私たちに来てキリスト教の葬式をやってくれと言うのです。それを聞いて、なかなか難しいのではないかと思いました。
 その辺の家に行きますと、家の敷地内に墓があるのです。「マイ墓」というのでしょうか。そんな所でキリスト教式の葬式なんか、できるわけがないと思ったのですが、奥様は「私は絶対に、主人の葬式をキリスト教式でやりたいと願って、祈っている」と言われました。でも、ご主人がキリスト教に反対しているのに、そんなことできるのかと思っていました。

 私はネパールに行く前に「もしかして、ネパールに行っている間にご主人が亡くなったら、会うことが出来ない」と思って、「いくらご主人が怒ってもいいから、会いに行こう」と決心し、九月十六日のことだったと思うのですが福井に行きました。
 病院に着くと奥さんが出て来て言いました。「順先生。気を悪くしないでくださいね。病室に入ったら、出ていけ!と言われるかもしれせん。」と。
 私は「大丈夫ですよ」と答えて、祈りながら教会スタッフの瀧川君と一緒に入って行きました。私はご主人に会ったのは何年かぶりで、ご主人の顔を忘れていました。何か恐ろしい顔をしていたような印象はあったのですが、病室に入って行きました。
 入って行ったら、「出ていけ!」と言われるかと思ったら、私の顔を見るや否や、ご主人の目から大粒の涙がはらはらと流れました。奥さんが「どうしたの?どうしたの?」と聞くと、「嬉しい」と言うのです。「何が嬉しいの?」と私は思ったのですが、私の顔を見て彼は、「会えて嬉しい」と言ってくれたのです。
 そうしたら、お医者さんと看護士さんが処置のために病室に入って来たので、私は『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい』という御言葉を読んで、その場を離れました。
 三十分くらい、いろんな処置が続いていました。処置が終わったので、もう一度部屋に入って行きました。
 すると、また私の顔を見てうわーっと泣くのです。「待っていてくれたのですか!」と。「当たり前じゃないですか。待っていましたよ」と答えました。彼は私を喜んで受け入れてくれました。
 私は「イエスさまを信じたら、永遠のいのちが与えられますよ。一緒に祈りませんか?」と言ったら、「お願いします。私のために祈ってください」と言われました。彼は私の後について、「イエスさまを救い主として信じます。受け入れます。私を神の子としてください。永遠のいのちを与えてください」と力強く祈りました。最後に「アーメン」と言ったら「アーメン!」と力強く宣言されました。

 「体が良くなったら新城に来てくださいね」と、来ることはできないだろうとは思いましたけれど、そう言いました。すると「はい。良くなったら必ず、家族で新城に行かせていただきます」と言われました。
 彼はイエスさまを受け入れてから、四日間くらい意識があったそうです。その四日間は、奥さんと一緒にお祈りして、讃美歌を歌って、聖書を読んで、自分でも祈っていたそうです。それから意識はなくなってしまったそうです。意識が回復しないまま、先週の日曜日に天に帰って行かれました。

 私は、「あの時に無理しても訪問して良かったな」と思いました。神様があの時私に「行きなさい!」と言われたと思います。しかし私が「私、ネパールに行くもんね。ちょっと準備の買い物せんと・・・」なんて言っていたら、彼は滅びてしまったかもしれません。「神様の声に従って良かったな。私にはカーナビがついている!」と本当に感謝しました。

 しかし今回、福井で葬式をやらせていただきましたけれど、今までやった葬式の中でも一番アウェイな感じでした。クリスチャンはほとんどいません。私は前夜式は司式出来なくて、葬式で奉仕させていただきました。先週の火・水と二日間あったのですが、前夜式は上條先生にやってもらいました。そうしたら前夜式には三百人も来たそうです。ほとんどノンクリスチャンの方々ばかりでした。「完全にアウェイです」というメールが上條先生から来ましたけれど、すばらしい前夜式だったそうです。
 私は本番に行きましたけれども、福井では葬式が二段階、三段階と別れていまして、本葬の時はかなり親しい人たちだけが集まるようです。百名くらい集まりました。そこに来た人たちも「俺たちはキリスト教は嫌だ」と顔に書いてあるような人たちが集まりました。「キリスト教禁止」という高札が未だに立っているんじゃないか、というような地域での葬式でした。ほとんど参列者は男ばかりで、そういう中で司式して、メッセージを語るのはたいへん辛いです。今日なんか、私は嬉しいです。みなさんは私の話を聞いて、笑ってくださいますけれど、おもしろいことを言ったって絶対に笑わないし、「こんなところで、私は何ができるのか・・・」と思いました。しかしそういう時にこそ、信仰が試されます。聖霊様に満たされて語らなかったら、人々には伝わらないのです。だいたい参列者は聞く気がないですから。
 「あの家の嫁が意地を通しやがって。キリスト教の葬式なんかにして・・・」というように思っている人たちですから。
 それでも彼女はがんばってキリスト教式でやったわけです。考えてみれば葬式は喪主が決めればいいわけですから、とやかく言われる筋合いはありません。それは当然の話ですけれど、その地域では周りがたいへんうるさいのです。

 私はみんなの前に出て話しました。「今日はなぜ、キリスト教式の葬儀をするのかわかりますか?」と。「彼はイエスさまを信じたのです。信仰告白をしたのです。私と一緒に祈りました。奥さんとも一緒に祈って、最後は本当に安らかに天に帰ったのです。だからキリスト教式でやっているのです。」と話して葬式を行いました。そしてヨハネの黙示録十四章十三節の御言葉を読みました。

『また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」』

 普通「死ぬ」ということを考えたら、人生にはいろいろな不幸があるけれど、不幸の極みはやはり死ではないかと思います。死ぬことを考えて、幸せだと言える人はいません。しかし聖書は、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と言っているのです。「イエス・キリストを信じて死んだ人たちは幸せだ」というのです。
 私は話しました。「死ぬことを考えた時、幸せと感じることができる人はいますか?いないと思います。でも、聖書は、イエス・キリストを信じて死ぬ死者は幸せだと言っているのです。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである』とあるからです。」と。
 また、ヨハネの福音書十一章二十五節も読みました。

『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』

 すごいみ言葉です。『わたしを信じる者は、死んでも生きる』というのです。クリスチャンとは、死を見つめて生きているのではなく、命を見つめて生きている者たちだと話させていただきました。
 ジャズのスタンダードナンバーに、「谷間に三つの鐘がなる」というナンバーがあります。大変有名な曲ですが、誰にも人生において三回鐘が鳴るというのです。谷間に鐘が響くのです。最初の鐘は、その人が生まれた事を知らせる誕生の鐘が谷間に響くのです。
 今日も、「新しい命が生まれました」と発表がありましたけれど、「子どもが生まれました」という知らせが届くのです。
 人生、第二の鐘は、ウェディングベルです。その人が結婚する時、村の教会で鐘が鳴るのです。しかし、もう一回人生には鐘がなります。それは何かと言ったら、その人の葬式開始の鐘だというのです。
 私は、「今日は彼の第三の鐘かもしれない。しかし、イエス・キリストを信じると、死んでも生きる。彼は天で生きているのです。私たちはイエス・キリスト門から入って、命に預かるのです。『彼らの行ないは彼らについて行く。』神の国に入り、しかも、地上での思い出も何もかも、すべて引き継がれて天の新しい住まいに生きているのです」と話しました。
 そして、「私たちもやがて、その道を歩まなければなりません。ですから私たちは、死を宗教の世界にしてはいけないのです」と話しました。
 日本人の死後の世界観はたいへん曖昧です。そしてそれを宗教の世界にしています。しかし、生きることが現実ならば、死後の世界は宗教ではなく、現実の世界です。何が真実かをしっかりと見極めないと大変なことになります、とお話ししました。「みなさんの持っている死後の世界観はなんですか?」とアウェイの葬式で語らせていただきました。

 日本人の一般的な死後の世界観は輪廻です。死んでも輪廻すると考えています。だから人が死んだら四十九日間が勝負だというのです。四十九日でどの世界に輪廻するかが決められるというのです。最初は閻魔大王だかなんだか知らないけれど、恐ろしい存在の前に出て裁判があるようです。「おまえは地上で悪いことばかりをしたな。今度生まれ変わる時には人間に生まれ変わることはできない。おまえは犬になってしまえ」と宣告が下ると、次に生まれる世界は犬になって生まれ変わるというわけです。
 徳川時代に「綱吉」という犬将軍が、「生類憐れみの令」を出して、犬を大切に保護しました。なんで保護したかといったら、輪廻思想が関わっているのです。「もしかしたら、わしが飼っている犬も元は人間だったかもしれん。失敗をやらかした人間だったかもしれん。この犬を変に扱うと、俺も犬に輪廻するといけないから・・・」と犬を保護したわけです。日本人の動物愛護精神が、輪廻思想と繋がっている、と主張する社会学者もいます。
 みなさんはどうですか?輪廻したいですか?一度輪廻地獄に陥ったら、別れたら二度と会うことができません。もしも私が輪廻して、人間になれなくて蝉かなんかになったらどうでしょうか?私の家内は「また順ちゃんと会いたい」と言って、私を探すと「今、地上で蝉になるために土にもぐっている」と言われたらどうでしょう?家内は早速、「私も蝉にしてください」と言って蝉になったら、蝉というのは土から出ると三日間くらいで死んでしまいます。蝉に輪廻したら二度と会えません。そして永遠に、この苦しい世界に生まれ変わり続けるというのです。それが仏教の基本的な教えです。

 私はこの間ネパールに行きましたが、ネパールの人たちは、仏教とかヒンズーを自分たちの真理として信じています。仏教はどこから始まったかというと、それはインドではなくて、ネパールの「ルンビニ」という場所から始まりました。今回私も、そこに行ってとりなしの祈りをしたのですが、仏教はそもそもヒンズー教から出て来た考えで、ヒンズーの根源は輪廻です。その考えは、仏教に受け継がれています。カトマンズの空港のすぐ近くに、一日中煙っている場所があるのです。今回もそこに行きました。一緒に行ったメンバーも連れて行ってあげました。
 そこに行きますと、たくさんの大きな平台が川沿いにあります。それは何かというと、人間バーベキュー台です。人が死んだら、そこで火葬にするのです。そして残った灰もすべて川に捨てるのです。それはガンジス川の上流で、そこに流してもらったら輪廻できると信じて、インド人もネパール人もそこで火葬してもらうのを夢として生きているのです。彼らは死を見つめながら生きていると思いました。これが仏教の中心の考え方です。
 しかし、日本人は仏教徒と言いながら、仏教をやっていません。なぜならば、仏教ならば輪廻ですから、墓も要りません。ネパールの人たちは墓を作りません。古い物は全て捨てるのです。そして先祖の霊もいません。霊はすべて地上に輪廻しますから、先祖の霊という存在はいません。墓もいらないし、また、先祖の霊もいない、それが本来の仏教です。
 しかし、日本人は何を大切にするかといったら、墓を大事します。人が死んだら地上に霊魂が残ると考えています。それで一生懸命、先祖崇拝をするのです。
 これは仏教思想とは全然違う考えです。仏教の輪廻と先祖崇拝は、本来、真っ向から対立する考え方ですが、日本人はその矛盾を矛盾としないのです。おかしいです。
 みなさんどうでしょうか?先祖崇拝の考え方によれば、人は死んだら霊がこの地上で迷うらしいのです。地上に生きている人たちが一生懸命、先祖を拝んでくれたら行く所に行くらしいのですが、拝まれないで放っておかれたら、霊はやがて鬼となるらしいのです。そして、拝んでくれない家族を祟るというのです。身内が身内に悪いことをするというのです。そんな霊にみなさんはなりたいですか?私は絶対になりたくありません。

 しかし聖書は何と教えているでしょうか?この地上から去っても、霊魂はなくならないで、永遠のいのちをいただくと教えています。

 今、三つの話をしました。輪廻ですか?先祖になって迷うのか?天国に行くのか?この三つの中で、どれかが真実で、あとが嘘ならば、どういうことになるのでしょうか?真実を知らないと大変なことになるのではないでしょうか?
 輪廻にしてみても、先祖崇拝にしても、一生懸命やるのには、なんらかの目に見えない何かを感じるからです。「先祖さんを拝むと手応えを感じるぞ。」と。
 日本人は案外霊感が強いのではないかと思います。だから真剣に先祖崇拝をしたりするわけです。墓場なんかに行くと「先祖さんがいる」仏壇なんかを拝むと、そこに先祖が漂っているような感じがするので、一生懸命拝むわけです。何も感じない、全くの無機質なものだったなら、長くは続きません。何かを感じるから、一生懸命やるわけです。
 感じ取っている相手が何者かを知らないで、無批判にかかわると大変です。聖書によると、人は地上には霊魂を残さないわけですから、ここで感じている霊魂は何者かということです。神様は、私たちのために、新しいからだを用意してくれているのです。
 今回、東北で大きな地震があって、多くの家が被害を受けたのですが、やがて東北には新しい家が多くできる事と思います。いや、すでにできつつあります。今度、建てられる家はどんな家でしょうか。震災前以上の素晴らしい家ができるはずです。マグニチュード九の地震が来てもびくともしない、強い家ができるはずです。そして、前よりも使いやすい、機能的で美しい家ができるに違いありません。
 私たちも同じです。地上でからだを使っていますが、神様が見ていて「だいぶ古くなったな。このままじゃ不便だから、ちょっと引っ越しを考えなきゃいかんな」と神様が考えて「じゃぁ、新しいからだに引っ越しさせてやろう」という時が来るわけです。それがなにかというと死ぬ時です。死ぬという言葉はあまりいい響きの言葉ではありませんが、魂のお引っ越しです。神様が天に新しい家を建て終えたら、「さぁ新しい家が建ちました。どうぞお入りください!」と、古い家は捨てて、新しい家にご栄転なさるわけです。それも、この地上での記憶も経験も何もかも、新しい家に引き継がれる中で、神様と共に、永遠に永遠に生きることができるのです。
 私たちは生きている中で、死ぬことは絶対に避けられません。では死後の世界はどのようなものか、しっかりと捉えないと大変なことになります。日本人は先祖を一生懸命拝んでいて、「俺は先祖だけど、わしをもっと拝んでくれ。墓場に来てくれ。仏壇を拝んでくれ」と言う声に耳を傾けています。それが先祖の声だと信じているのですが、先祖の声ではないのです。それがまさしく、先祖のふりをした悪意を持った霊、悪霊なのです。その声に聞き従ったら、一番大切な物を盗まれます。絶対に、霊的オレオレ詐欺に引っかかってはいけません。
 神様は私たちの魂を使い回したり輪廻させることもありませんし、死者の魂を無責任にそこいらに放り投げて、鬼に変えることもありません。心配しないで下さい。ちゃんと最後の最後ま責任を持ってくださるのです。

 キリスト教の死後の世界観を一番よく表している聖書の箇所が、ルカの福音書十六章十九節〜三十一節までに記されている、ラザロと金持ちの話しです。この中にしっかりとした、死後の世界が描かれています。ちょっと読んでみたいと思います。

『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』

 これが聖書の教える死後の世界です。ここにラザロと金持ちという二人の人物が出て来るわけですが、「ラザロ」は実名があげられています。しかし金持ちは、実名が伏せられています。ということは、滅びの世界は、その人の名前すら忘れられてしまうことを意味しているのかもしれません。
 また、このストーリーをちょっと読むと、「金持ちは天国に行けないのか」、「貧しい者たちを神は哀れむのか。俺は貧乏人で良かった。しかし、それも不公平だ」と感じると思います。「俺は金持ちだから天国に行けないかもしれない」と思う人もいるかもしれません。
 しかし、これはそういう話とはちょっと違うのです。聖書は、前後関係をよく読まないと理解を間違ってしまう場合があるので、注意が必要です。今、ルカの十六章十九節から読んだのですが、この話がどこから始まっているかと言いますと、ルカの福音書十六章十三節、

『しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」』

という話から派生し、死後の世界についての話につながっています。
 それは、『神にも仕え、富にも仕えることはできない』というところから話が始まっています。最初に「二人の主人」が出て来て、一人が「神様」、もう一人は「富」です。しかし「富」という訳は、ちょっと腑に落ちません。なぜならば、比較対象とは、人間ならば人間と比較できますが、「富」というのは無機質な物質です。本来、富と神様を比較対象するのは難しいのです。
 しかしこの箇所を見ますと、「富」というところに*印がついていて、原語が「マモン」と記されています。「マモン」と、あえて原語を表示しているのは何を意味するかというと、マモンとはただ単なる「富」だけではなく、古代カナン地方のフェニキア人とかペリシテ人が信仰していた神々の一人を表すのです。当時は、豊穣の女神のアシュタロテとか、稲妻と雷の神バアルとか、海の神ダゴンというような神々が拝まれていたのですが、「富の神」というのがいて、それが「マモン」だったのです。
 「二人の主人に一緒に仕えることはできません」とは、真の神なのか、マモン神という偶像の神なのか、これを一緒にはできないという意味です。ラザロは真の神、すなわち、天と地を造られた神を信じて仕えていたのです。
 しかし、金持ちは富の象徴であった、マモン神という偶像を自分の神としていたのです。金持ちとは、その象徴だったのです。
 彼は一生涯、金儲けのマモンという神を自分の主人として拝んでいたのです。でも、その背後には何がいたのか。それは神のふりをした悪魔・悪霊どもがいたのです。金持ちは死後、悪魔・悪霊どもに捕まえられて、永遠の滅びの世界に行ったのです。彼はそこから地上に情報を送りたくても、全く情報を送ることを拒否されてしまったのです。
 金持ちは自分の親族がなんとかこんな苦しい所に来ないようにと懇願しました。それで「ラザロをよみがえらせてください」と頼んだのですが、『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』と断られています。
 イエスさまは「地上で個人的に神と出会うことが、永遠の世界を決める唯一の方法」と教えられたのです。
 私たちの人生、いろいろありますけれど、何を優先したらいいのか。第一に、永遠に救ってくださる神が誰であるかをしっかり特定することが、最も大切なことです。
 やがて私たちは人生が終わって、この世界から出て行く時、イエス・キリストを信じているならば、驚喜して喜ぶことでしょう。「良かった!イエス・キリストを信じていて!私は永遠のいのちを得ることができた!」と。

 しかし、地上で福音を聞いても、受け入れることがないと、いくら死人がよみがえって「死後の世界があるんですよ。天国がありますよ。地獄がありますよ」と言ったとしても、信じることはできないのだと思います。その目が覆われているからです。
 事実、イエスさまがこの地上におられた時、人々は現物と出会ったのにも関わらず、パリサイ人やサドカイ人は、イエスさまを目の前にしてもわかりませんでした。目が覆われていました。それはなんの力か?悪魔の力によって覆われていたのです。

 しかし私たちの目が開かれる時、この方こそ私たちの神であり、どんなに大変なことがあっても、「イエスさまに従って行こう!」という決断が出来るはずです。
 今日ここにおられるお一人お一人が、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れて、霊的オレオレ詐欺に引っかからず『私は門です。誰でもわたしを通って入るなら救われます。また、安らかに出入りし牧草を見つけます。』と言われるイエスさまに従うとき、この地上においても養ってくださり、永遠の国まで責任をもってくださるのです。イエスさまに従っていきたいと願います。

 今日、もしも心が揺らいでいる人がいたら、こころを決めてください。「イエスさまを自分の救い主として信じて行こう!どんなことがあっても、この道を進んで行こう!」と決断していただきたいと願います。

 最後にみなさんとご一緒にお祈りの時を持ちたいと願います。今日は真の神であるイエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、新しい人生を送っていく方が多く与えられることを信じています。一度みなさん立ち上がってください。
 今日はみなさんでお祈りしたいと思います。みなさんの中で「私はまだまだはっきりとイエス・キリストを救い主として受け入れていない」という方がおられるかもしれません。迷いがある方がおられるかもしれません。今日はぜひとも心を決めていただきたいです。「多少迫害があっても、イエスさまを信じて行くんだ!」と。
 この道を選び取って行ったら、周囲のいろんな問題も消えていきます。まずは自分で心をしっかりと決めましょう。

 今日はみなさんでお祈りの時を持ちたいと思いますが、「今私はイエスさまを信じたいです!」という方は、自分の胸の上に手を置いてください。「私を救ってください」と一緒に祈りますから、今日、主が心の中に入って人生を勝ち取ってくださいます。今、私が祈りますから、後について一緒に祈っていただきたいと思います。祈りましょう。

 イエスさま。今、私は、イエスさまが救い主であると信じます。受け入れます。私の神となってください。私を自由にしてください。悪魔の力から解放してください。永遠のいのちを与えてください。迫害があっても、強く立つ事ができますように。私を力づけてください。すべての問題から解放し、自由にしてください。聖霊様、私を覆ってください。すべての問題も消え去りますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 一言祈ります。
 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。今日ここにおられる方で、救いから漏れる人は誰一人いないことを心から感謝します。全員に永遠のいのちが与えられていることを、心から感謝します。あなたは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって、死んでくださったことを感謝します。今まで私たちを騙して来た詐欺師どもが、完全に打ち砕かれますように。イエスさま、あなたが神であることがはっきりわかりますように。
 この日本においては迫害や困難があるかもしれません。しかし、主よ、勇気を与え、力を与えてください。この道を歩み続けることができますように。永遠のいのちをいただいて、歩むことができるよう助けてください。今日、ここにおられるお一人お一人の上に、神の祝福が豊かに注がれますように。イエス・キリストの御名によって勝利を宣言して祈ります。アーメン。

 お隣の方に「あなたには永遠のいのちがあります!」と宣言してお座りください。アーメン!