HOME > 2011年バックナンバー > 10月 > メッセージ2011年10月23日

『Church on the rock〜教会〜』

2011.10.23(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
マタイの福音書 16章15節〜19節

『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』

 ハレルヤ!今日も、みなさんの前で奉仕ができますことを、心から感謝します。
 今、ジミー兄弟の素晴らしい賛美を聴かせていただきました。「いつもイエス様に目をとめましょう」という賛美でした。パラグアイから来てくださいましたが、私もパラグアイに行ったことがあります。そこで腹具合が悪くなったのでよく覚えています。南米ではリバイバルが起こっています。日本にもリバイバルを起こしていただきたいと心から願っています。
 今日は、「Church on the Rock〜教会〜」というテーマで学んでいきたいと思っています。

 先週は、韓国から三人の先生方が来てくださり、聖会を持ったり、とりなしに行ったりと、素晴らしい一週間となりました。大きな扉が開かれたのではないかと感じます。世界中に教会がありますけれど、同じスピリットで、同じ神を見つめる時、そこには一致があります。素晴らしい神の栄光が表されます。
 「教会」を私たちは漠然と捉えているのですが、そもそも教会とは一体、何なのでしょうか。
 一般的な意味として「教会」という用語を調べてみると、「共通の信仰によって形成される集団、団体、社会のこと」となっていました。また、「現代においてはキリスト教をそれと意味するが、本来は、どの宗教でも同じ用語を使う」というのです。仏教会とか、天理教会とか、教会という用語は、他宗教や団体でも使われています。「教会」と言う用語はキリスト教会専用だと思っていますが、違うみたいです。
 しかし、「共通の信仰によって形成される集団」となっていますから、イエス・キリストに目を留めて歩む集団が教会だと思います。
 イエス・キリストがおられなかったら、こういうグループは存在しません。教会は不思議な団体だと思います。教会には男性も女性もいるし、赤ちゃんからお年寄りまで、背の高い人、低い人、体重の重い人、軽い人、いろんな人がいます。
 ところでみなさん、新城教会の中で体重が一番軽い人って何キロか知っていますか?そんなこと考えたことないかもしれません。みなさんの体重は何キロありますか?新城教会中で一番体重が軽い人を教えてあげましょう。なんと、「三百五十グラム」です。信じられますか?三百五十グラムですよ。先日、インターナショナルのグループで生まれた「あやかちゃん」という女の子は、超未熟児で三百五十グラムでした。でも生きたのです。そして今は一・五キロほどになったそうです。現在、頭のサイズはオレンジサイズだそうです。写真を見せてもらいましたが、本当にかわいい顔をしていました。三百五十グラムから百キロ以上ある人まで、本当にいろんな方々が教会にはおられるわけです。

 しかし、みんなキリストのからだの中で、一つとなっているわけです。今回、韓国の先生方に、特に、新城教会のリバイバルのために祈っていただきました。
 教会とは、建物じゃないですけれど、新城教会がどんな所から始まったのかご存知でしょうか?ここには近頃教会に集ってくださった方々も多いですから、新城教会にどういう歴史があるのかわからない人も多いと思います。父と母がこの教会を始めて、すでに六十二年になるかと思います。
 最初は北設楽郡津具村(現在は設楽町津具)で始まったのですが、その当時の建物がまだ残っています。みなさん、このような建物だったらお集いになられるでしょうか?ちょっとお見せしたいと思います。

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 右側の小屋です。

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 初めての会堂は設楽町八つ橋という所にありました。ここから新城教会は始まりました。しかし、この場所の上には神社がありまして、神社の祭りの時に迫害にあったみたいです。教会を始めると、すぐに子供たちや、村人たちが大勢来たそうですが、神社の祭りの時、「私たちは神社の祭りには協力しません!」とはっきりと宣言したものだから、ぴたっと人が来なくなったそうです。
 その頃、そこにはかわいい二歳の坊やがいたそうです。どんな坊やだったか見たいですか?今回は特別お見せしましょう。

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 これは誰だと思いますか?私です。教会の中に石を投げ込まれたりして、そこにはおられなくなりました。場所も貸してくれなくなり、しょうがないから新城に来たのです。あの時、誰かが会堂に石を投げ、迫害しなかったら、新城に教会は出来なかったのです。それも不思議な摂理です。
 教会は、そもそも、迫害から始まっていますが同じです。迫害した神社は八幡神社といって、歴史的には韓国の方から流れてきた神社ですから、韓国の先生方と共に悪しき力を打ち砕き、原点で勝利を勝ち取る祈りをしていただきました。教会の歴史を表す写真を、もう少しお見せしたいと思います。

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 これは懐かしい写真です。新城中学校の前の教会です。四軒長屋の片隅でした。

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 現在の場所に、こんなかわいい三角屋根の教会が建ちました。当時のクリスチャンたちが一生懸命祈り、献げ、会堂が建ちました。この子どもは誰かといいますと滝元開です。

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 会堂を継ぎ足しました。少し成長したからです。そして六十年ほど経っても同じ場所に教会があることを心から感謝します。

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 これは現在の教会です。

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 本当に感謝です。六十二年前、みすぼらしい小屋から始まりましたが、徐々に成長して、今あることを本当に感謝します。
 六十二年の歴史を考える時、それは人の業ではなく、主がこの場所に教会を建ててくださったと言うことがわかります。様々なことがありましたが、悪いように見えた事柄でさえも、益としてくださり今日があるのです。『主がよくしてくださったことを何一つ忘れてはならない』と聖書は語っていますけれど、心から感謝しましょう。
 これから六十年後、教会があの小屋に戻ったと言うのでは寂しいですから、さらに前進し、リバイバルのために用いられる教会になりたいと願っています。

 イエス様も「教会」という言葉を使われましたが、それが今日みなさんとお読みした箇所に記されています。イエス様が弟子たちをピリポカイザリヤという地域に連れて行かれました。そこで何を促したかと言うと、マタイの福音書十六章十五節、

『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」』

 その時、ペテロは弟子たちのリーダーのような存在でした。弟子たち全員の意見を代表して、『あなたは生ける神の御子キリストです』と告白したのです。

 クリスチャンとは、イエス・キリストを「生ける神の御子キリスト、救い主です!」と告白した者たちの群れです。今日ここにおられるお一人お一人、「あなたは生ける神の御子キリストです!」と信仰告白しておられると思います。それが共通の信仰であり、その人たちが集まる場所が教会です。そしてイエス様は言われました。
 マタイの福音書十六章十七節、

『するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』

 今日、イエス様のことを「あなたは生ける神の御子キリストです!」と告白できるとしたら、自分で理解しているようですが、そうではないのです。なんと聖霊により、父なる神によって直接示していただいたのです。そのような奥義と真理を知らされているのです。
 イエス様はこう言われました。マタイの福音書十六章十八節、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』

 力強い言葉を語られました。続いて、十六章十九節、

『わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』

 以前にもみなさんにお話ししたのですが、イエス様がこの信仰告白を弟子たちに導く時、ピリポカイザリヤという場所にわざわざ連れて行ったと話しました。ちょっとその場所の写真をもう一度お見せしたいと思います。

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 ピリポカイザリヤとは、ガリラヤ湖の上の方にあたります。イエス様の活動の拠点はガリラヤ湖付近でしたが、わざわざ北の方のピリポカイザリヤにまで弟子たちを連れて行って「あなたはわたしのことをだれだと言いますか?」と問いかけられました。
 聖地旅行に行くと、そこに見学に行くのですが、その場所はガリラヤ湖の水源にもなっています。そこから水が沸き出てガリラヤ湖ができています。バスで行ってもガリラヤ湖から二時間くらいかかります。なんでイエス様はこんな場所にまで弟子たちを連れて来て、信仰告白に導いたのだろうかと不思議に思います。イスラエルに行きますと、イエス様の動かれた道のりとか地形、文化、習慣を体験できますから、聖書をもっともっと深く理解することができます。
 実は、そこはガリラヤ湖の元のようなところで、水が湧き出ているのですが、ここはどういう場所かと言うと、こんな風になっています。

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 このように遺跡となっています。いつもガイドさんが「ここでイエス様は、弟子たちを信仰告白に導かれました」と言われます。今はこんな状況ですけれど、昔はどんな風景だったかというと、今は洞穴となっているのですが、

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こんな看板があって、

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こんな状況になっていたのです。
 実は、ピリポカイザリヤは、当時は偶像礼拝の地でした。ヘレニズム文化でできた街でして、そこには大きなギリシャ神殿が建っていて、人々はここに来て礼拝していました。
 イエス様はわざわざ弟子たちをそこまで連れて行って「あなたはわたしをだれだと言いますか?」と問いかけられたのです。すると弟子たちは、「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えました。そこには意味があるのです。
 一般の人たちは、誰を神としていたかというと、ギリシャ神話の神々を自分の神としていました。この神殿に祀られている神々が、自分を救ってくれると信じて、大多数の人たちはそこに行っていたのです。
 しかし、そんな文化のただ中で、異教の神々の面前で「あなたは神の御子キリストです!」と宣言することを要求されたのです。

 実はこれは日本と同じです。この頃も秋まつりが多いし、偶像の行事が多いのです。そんなただ中で、「あなたは神の御子キリストです!」と宣言するのは、なかなか勇気がいることです。しかし、昔も今も同じです。イエス様はわざわざそこにまで弟子たちを連れて行って、「人々はこのギリシャ神話の神々を神としているけれど、あなたはどう思うのですか?」と聞かれ、「あなたは神の御子キリストです!」とイエス様に信仰告白したのです。
 みなさん、日本も異教の神々、偶像が多いですが、そんなただ中で信仰告白することが重要なのです。ある意味、新城教会の原点が偶像礼拝からの迫害から始まったのも、ピリポカイザリヤでの弟子たちの信仰告白と共通するのです。「神社の祭りに参加しなかったら、俺たちは教会なんかに絶対行かないぞ。ここから出て行け」と言われても、「それでも信仰を守って行きます!」とはっきりと宣言することが、信仰であり、祝福につながるのです。そんな信仰告白に応じて、イエス様は、マタイの福音書十六章十八節、

『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』

と語られました。この岩とは何か?それはイエス・キリストです。
 時々教会に来て、「この教会はカトリック教会ですか?それともプロテスタント教会ですか?」と聞かれます。この教会はプロテスタント教会です。「では、カトリックとプロテスタントでは、何が違うのですか?」とよく聞かれます。いろいろ違いがありますが、一番大きな違いは信仰告白にあります。
 岩とは誰のことを指しているか?それはイエス・キリストのことを指しています。これがプロテスタント教会の信仰告白です。しかしカトリックではこの岩を「ペテロ」だというのです。ペテロの上に教会が建てられたというのです。だから、ローマカトリック教会はペテロを最初の教皇とし、現在まで脈々と続いていると主張します。だから救いも含めて全てが、ローマ教会の下にあると教えているのです。しかしそれは明からに間違いです。岩はペテロではなく、イエス様御自身を指しています。
 教会はイエス・キリストの上に建てられていることを知る必要があります。だから、「Church on the Rock」なのです。それが教会です。

 それと共にイエス様が語られたことは、『ハデスの門もそれには打ち勝てません。』と言われたのです。
 「ハデス」を神学事典で調べてみると、「悪魔・悪霊どもの住処」と注解されています。イエス様はなぜそのように言われたかというと、先ほどの写真を見るとよくわかります。

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 人々は岩をくり抜いて神殿を建てたのです。日本もそうですが、この大岩が自分を救ってくれる救い主だと考えていたわけです。それで岩の中に神殿を作っていたわけです。ここにはギリシャ神話のパン神が祀られていました。人々は岩が自分を救ってくれると思っていましたが、そうではない、救いの岩はイエス・キリスト以外にないということを意味しています。
 それと共に、『岩の上に教会を建てる。ハデスの門もそれに打ち勝つことはできない』とは、人々は神殿の門をくぐって岩の中に入って行き、救いの門だと思っているけれど、「そこがハデスの門。すなわち悪魔・悪霊どもがたむろしている場所。悪魔が罠を張っている場所」と言われたのです。偶像礼拝は、悪魔と悪霊どもの住処に続く門なのです。
 日本人は、偶像礼拝を救いの門だと思っているのですが、実はそれはハデスの門です。背後には悪魔・悪霊どもが罠を張っているのです。
 しかし、教会は、その偽りの岩の上に建てられるのです。ハデスを打ち破る存在として敵を打ち砕く存在として、建てられるのです。ハデスの門は決して教会には打ち勝つことができないのです。教会はハデスの門の面前に建てられ、魂を救出するのです。

 そのことを理解するならば、神は教会に鍵をくれるのです。教会は鍵を受け取り、天の鍵を使って地上で繋ぐと、天でも繋がれ、地上で解くと天でも解かれるのです。なんと天と地、神の国と地上をシンクロさせる鍵を教会に与えてくださるのです。
 私たちもそのような教会になりたいです。暗闇を打ち破り、天と連動している御国の鍵を受け取る教会にしていただきたいです。

 私たちは簡単に「教会」という用語を使いますけれど、実はそこには奥義が隠されています。「教会」と訳された言葉は、誰かが日本語に訳したわけです。日本においては他宗教団体の集団も教会と呼んでしまう用語です。しかし聖書の中の教会と同一概念の言葉を拾いますと、真の意味が理解できます。教会と同一概念の言葉は旧約聖書では「カーハール」というヘブル語が使われています。それは「呼び集める」という意味があります。
 また、新約聖書はギリシャ語で書かれましたから、新約聖書で教会と訳されている言葉は「エクレーシア」という言葉が使われています。聖書は旧約と新約で一冊ですから、「旧約的概念プラス新約的概念イコール教会」だと思うのです。
 カーハールとは、「呼び集める」という意味で、「エクレーシア」はどういう意味かというと、それは元々、ギリシャ社会の議会を表す言葉でした。しかしこの議会には大きな目的があって、この議会は「種々の軍事行動に対する作戦と宣戦布告の決定機関」であったと、『新約聖書ギリシャ語精解』(バークレー)に解説されていました。
 旧約と新約の概念によって教会を理解する時、「霊的戦いのために呼び出された者たちの群れ」という意味になります。教会とはどんなところですか?といったら、「霊的戦いのために、神によって呼び出された者たちの群れ。それがすなわち教会です」と定義できるのです。そしてそこに目的があるわけです。
 そのために、教会はハデスの門前に建てられ、ハデスの門に落ち込んでいく人たちを救出する目的を持って作られたのです。
 よく引用する聖書の箇所ですが、使徒の働き二十六章十七節〜十八節に宣教の意味について書かれています。

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 教会とは、ハデスの面前に建てられ、そこに入って行く人たちを命がけで救出する場所です。それは何を意味するのかというと、暗闇から光、サタンの支配下から神の支配下に移し、罪の赦しを得させ、御国を受け継がせるという、偉大な働きなのです。その業のために建てられたのが「教会」です。
 今日、ここにおられるお一人一人は、決して偶然に集まったのではないのです。八橋という場所の教会だったら誰も来なかったかもしれませんが、代々のクリスチャンが、涙の祈りと献げものを通して、このような場所に教会が建てられ、時至りてみなさんは主によって招かれ、呼び出されたのです。
 それがなんのためかといったら、霊的な戦いのために主が呼び出され、主の軍隊を形成しようとされているのです。そのことを、私たちは深く認識する必要があるのです。

 旧約聖書から新約聖書を見ていきますと、旧約で語られていることが、新約で新たなる発展した意味が加えられていることに気づかされます。初めの人類はアダムとエバの二人だけでした。
 今回も韓国の先生たちが来て、メッセージを語ってくださったのですが、たいへん素晴らしいメッセージを語ってくださいました。二人の先生方が語られましたが、一人の先生は、「隔ての壁を打ち破る」という題でメッセージを語ってくださり、韓国リバイバルミッションを通して、自分の中にあった民族的な壁が打ち破られたという、正直な証しをしてくださいました。
 自分は人に対して壁がないと思っていたけれど、日本人と韓国人という民族的な立ち場になると壁があることが分かったというのです。そしてそれを越えることが出来ないでいたけれど、今回、聖霊によって壁を取りのけていただいたという証しと共に、本来、神が人間を造られた時には、どこにも壁はなかったと話されました。それを聞いて、なるほどと思いました。
 人と神との間にも壁がなく、自由に交わりができたというのです。また、人と人との間にも壁がなかったと話されました。
 しかし、壁ができたのは人の罪の為だと。壁は神の御心じゃないと話されました。みなさんの中でも、「あの人とはちょっと壁がある・・。あの人とはあわない」とかいろいろと壁を感じるかもしれませんが、その壁を取りのけましょうというメッセージを取り次いでくださいました。
 神は、初め、人間を全く壁なく交わりができるような存在として造ってくださったのですが、蛇、悪魔が来て、エバを誘惑して罪を入れ、壁を作ってしまったのです。そこから人間の堕落が始まりました。人間は罪のゆえに、呪いを受けたと聖書は語っています。創世記三章十四節、

『神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。』

 これは蛇に対する呪いの言葉ですが、次に神は言われました。創世記三章十五節、

『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』

 実はこの言葉は、イエス様の十字架を表す最初の預言だと言われますが、ここに述べられているように、『おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。』と。
 ここで「女」という言葉が強調され、サタンとの間に敵意が生じたと述べられています。
 今日、女性の方が多くおられますけれど、こうしてみますと、サタンは何か女性に対して敵意を持っているみたいですね。私は「男性で良かったな〜」と思うわけです。けれども、それはただ単なる「女性」を表しているわけではりません。「女の子孫」には男も含まれます。またイエス様のことも預言しています。しかし、「女」が強調されているのには意味があります。
 創世記は聖書の始まりですけれども、聖書の最後は黙示録です。そこにこんな言葉があります。黙示録十二章十七節、

『すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。』

 創世記では「蛇」となっていたのが、黙示録ではだいぶ成長して「竜」になったじゃありませんか。そして『竜は女に対して激しく怒り』というのです。「この女め!」と、女に対しての強い怒りが発せられています。しかしそれは、ただ単なる女ということではなく、『女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。』とあります。
 これは何を意味しているのでしょうか?サタンが一番激しく怒っている存在とは誰か?それは、「イエスの証しを保っている者」それは誰ですか?「クリスチャン」です。
 そして『者たち』と複数になっていますから、これは「教会」を表しているのです。みなさん、サタンが一番嫌っている教会にようこそいらっしゃいました。
 「怖いな。そんな場所に来ちゃって・・・」と思うかもしれませんが、それほど教会はサタンから注目され、強力な場所なのです。サタンは激しく教会に挑んでいます。女とは、キリストの花嫁であるクリスチャンであり、究極的には、その集団である教会であることがわかります。

 実は、男と女というテーマには深い意味があるのです。ただ単なるジェンダー、性の違いではなく、そこには奥義があるのです。エペソ五章三十節〜三十二節、

『私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。』

 人類は男と女、そして結婚を簡単に考えますが、聖書は奥義を含んでいると告げています。
 男はイエス様を指し、女とは教会を指すのです。『人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』というのは、キリストと教会が一つとなる等式です。結婚には、キリストと教会が一つとなる奥義があるのです。
 だから現代社会においてサタンは、夫婦を狙っているのだと思うのです。夫婦関係を壊すならば、「キリスト+教会」という構図が壊れるからです。ゆえに真剣に夫婦関係に対して攻撃を仕掛けているではないでしょうか。
 そのことに気づき、その狭間に立ってハデスの門に立ち向かうことができるのは唯一、教会しかありません。「教会が敵の門前に立つならば、社会は破壊から守られ、家族も破壊から守られます。そのために教会は立ち上がってください!」と聖書は力強く語っているわけであります。
 深い意味が「女」という言葉に隠されているのです。悪魔は策略的に、女、すなわち教会を弱めるために、計画を練っているような感じがします。

 世界で拝まれている神々を見ますと、その多くが「女神」なのです。日本はどうでしょうか?アマテラスという女神が祀られています。みんな女神を一生懸命拝んでいるのです。そうすると、何が起きるでしょうか?女性に攻撃が加えられると共に、地域の教会が弱められるのです。教会が戦いに立ち上がれないように、女神を拝ませているような気がします。
 さらには、キリスト教の中にも女神が持ち込まれています。カトリックではマリアがあたかも神であるかのように、礼拝されています。南米でリバイバルが起こっていますが、南米のリバイバルは、カトリックからプロテスタントに戻るのがリバイバルです。南米のカトリック教会に行くと、イエス様じゃなく、人々はマリアを真剣に拝んでいるのです。そうすれば、なにが起こるのでしょうか?教会にある霊的戦いの機能を壊されるのです。
 先日、ネパールに行きましたが、そこもカーリーという舌の長い女神が拝まれていました。その結果、地域の教会の腰はくだけるのです。みなさん、私たちはこのような悪魔の策略を見抜き、立ち向かっていかなければなりません。
 しかし、イエス様が教会を始めるにあたって語ってくださった言葉は、本当に希望です。マタイ十六章十八節〜十九節、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』

 教会が偽りの岩を踏み砕く役割として、イエス様という岩を与えてくださいました。ハデスの門は決して立ち向かうことはできないのです。
 エペソ人への手紙三章七節〜十一節を見ますと、次のように記されています。私はこの御言葉が大好きです。これはパウロが神様から奥義を教えていただいた箇所です。それは教会に対する奥義です。

『私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。』

 神が万物を創造し、一番造りたかったものは何であったのでしょうか。それは教会です。呼び出された者たちの群れを作りたかったのです。その意味は、エペソ人への手紙三章十節、

『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるため』

 この箇所は読みすごしてしまいそうな箇所ですが、「天にある支配と権威」というのは「悪魔と悪霊どもの組織」です。教会を通して、「天にある支配と権威に神の知恵を示す」というのです。それがハデスの門前に建てられた教会の役割です。
 教会は聖霊によって、すなわち、神の知恵によって悪魔と悪霊どもの策略を見抜いて打ち破る役割なのです。万物を造る中で最も造りたかった神の奥義に属するのが教会なのです。
 十一節にあるように、『私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画による』というのです。
 教会が立ち上がるなら、暗闇の力が打ち砕かれるのです。教会の中心的な存在目的がここにあるのです。それは宣教を通して、暗闇から光へ、サタンの支配から神の支配に人々を移すことによって、暗闇の組織が打ち破られていくのです。

 教会に属する一人一人は、そのための役割を任されています。その為に一人一人、神によって呼び出されたのです。そのような群れであるのです。第一コリント十二章二十七節、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

 ここに大勢の方がおられますけれど、私たちはキリストのからだであり、ひとりひとりは各器官だというのです。イエス様を頭にして、私たちは器官として、キリストのからだに当てはめられているのです。
 新城教会に来られているお一人一人は、かしらなるイエス様から司令をもらい、それぞれが各器官としての役割を果たすのです。キリストを頭として、それぞれの役割によって配備され、託された使命を果たさせていきたいと願っています。
 また教会は、日本のすべての教会の中のからだの一部として、また、世界のキリストの体なる教会の一部です。それぞれ役割の部品となっているのです。
 車でも飛行機でも、部品がうまく組み合わされて機能します。ゆえに動くし飛ぶのです。一つの部品が壊れたら、うまく動かないのです。教会も同じです。一人一人が神の作品としての役割が与えられていますから、一人一人が聖霊によって機能することが求められるのです。第一コリント十二章二十二節〜二十五節、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。』

 人のからだは、どこにも無駄がありません。それが正常に機能している時は、別にどこが目立つわけでもないのです。今日みなさんの中で、心臓が右にあるのか左にあるのかわかる人どのくらいいますか?心臓が動いているのが分かるという人は、病院に行ったほうがいいかもしれません。「今日は腹具合が悪い」と胃が目立つ時は、胃の調子が悪い時です。調子がいい時はどこも目立たないのです。でも動いているのです。
 教会も同じです。どこも目立つところはないけれど、イエス様を頭として機能しているのが健康な教会の姿だと思うのです。
 健康な器官を主からいただきたいと願うのですが、ここでは、『からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならない』と語られています。
 私自身のからだの中で一番弱い器官は何かと考えると、やっぱり脳じゃないかと思います。頭弱いですから。脳は豆腐みたいに弱いです。でも、それは硬い骨で守られていて、その弱い機能が全てをコントロールする役割を持っているのです。
 教会の中にはいろいろな方がおられますが、それぞれに役割があって、お隣の器官と調和の中で、一致の中で、一つの働きを生み出していくのです。教会の目的とは、天にある支配と権威を打ち砕くものですが、内側ではそれぞれの役割を果たすのです。
 今日、ここにおられますお一人お一人、日本のリバイバルのために、世界のリバイバルのために、主が呼び出し、教会に属させ、器官として用いてくださるように祈っていく必要があるわけです。

 前にも話したことがあるのですが、私は沖縄に時々行くのですが、沖縄の米軍基地の教会に何回か奉仕に行ったことがあります。カデナ基地という大きな空軍の基地があるのですが、そこの兵隊さんたちが集まる教会に行ったことがあります。緊張しました。泊まる場所もカデナ基地のゲストハウスで、中は完璧にアメリカです。お金も円じゃなくてドルを使わなくちゃいけないし、ここは日本なのかという感じでした。
 教会に来た人たちは軍服を着て礼拝に集まりました。戦争があったらすぐにでも飛んでいけるような感じでした。空軍でしたから、私は全員が戦闘機のパイロットだと思いました。「あなたはどんな飛行機に乗っているんですか?」と興味半分にいろいろと聞いたのですが、ある人は、「私はF-なんとかを操縦しています」なんて言っていました。すごいなぁと思って、一人の体格のいい兵隊がいたので、「あなたはどんな飛行機に乗っていますか?」と聞いたら、「私は飛行機には乗っていない」というのです。「じゃー、どんな仕事ですか?」と聞いたら、「レストランで人参を切っている」と言いました。その答えが本当に印象深かったです。その人は空軍に属しているのですが、やっていることは、レストランで人参をきざむことだというのです。湾岸戦争にも行ったと話しました。前線で戦ったのかと聞くと、「いや、食事を作っていた」というのです。しかしそれは大きな役割です。「腹が減っては戦は出来ぬ」と言われますが、その人がおいしい食事を作れば、兵士たちは戦いにも出ることができるのです。基地の中には、病院もあれば、学校もあれば、スーパーもあれば、レストランもあります。そこには都市機能があります。けれども、基地には一つの主目的があるのです。それは「敵に対して睨みを利かす」ことです。

 教会も同じです。中にはいろんな機能があるかもしれないけれど、目的を忘れてはいけません。敵に対して睨みを利かす教会にならなければいけないと思います。
 ヤコブ四章六節〜七節を見ますと、「さらなる豊かな恵み」が記されています。

『しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

 ここに、さらなる豊かな恵みをいただく秘訣が記されています。案外、教会が神の豊かな恵みを受け取ることのできない原因がここにあるのではないかと思っています。イエス様を信じたら恵みは与えられますが、さらなる豊かな恵みが与えられていないような気がします。そのためにはどうすればいいのかといったら、高ぶるのではなく、へりくだってくださいと言っています。
 でも、へりくだるといっても、どこまでへりくだればいいのかと思うのですが、実は「高ぶる、へりくだる」という対照的ペアが、七節の「神に従う、立ち向かう」というペアにリンクしているのです。「へりくだる」とは何を意味するかというと、「神に従う」ということなのです。神に従って悪魔に立ち向かう時、なんと大きな勝利を勝ち取ることができ、悪魔は逃げ去り、豊かな恵みが与えられるのです。これは教会の姿を表しているのです。
 私たちが神に従って行く時、悪魔に立ち向かうことができるのですが、実は、この「従う」という言葉をギリシャ語では「ヒュポタソー」という言葉が使われています。これは元々軍隊用語です。意味としては、「指揮下に服従させる、配備につく」という意味です。従うとは、ただ闇雲に従うのではなく、「配備につく」という意味なのです。
 軍隊は、隊長から命令を受け、それぞれの人たちが自分の持ち場を守り、敵と戦う時に勝利するのです。

 みなさんにとっても戦いの最前線があるはずです。そこに位置づくことを「従う」と表現しているわけです。
 毎日の生活の中で、「これが自分の最前線だ」という場所があると思うのです。ある方は、会社の中で最前線を感じておられるかもしれません。ある方は、家庭の中に最前線を感じておられるかもしれません。様々な最前線を任されていますが、そこがあなたにとって配備につく場所なのです。そこにハデスの門があり、人々はハデスの門に入りこんで行きます。しかしあなたが配備き、器官としての役割を果たし、悪魔に立ち向かう時、悪魔は逃げ去り、教会は大きな勝利を勝ち取ることができるのです。
 そのような働きのために、私たちは召されています。またキリストのからだの連携の中、敵の力が打ち砕かれていくことを、知る必要があるのです。
 新城教会も六十二年経ちましたけれど、主が徐々に勝利を与えてくださっているのではないかと思います。小さな小屋から導きだし、ここまで導いてくださったのです。しかしそんな中、「神に従い、悪魔に立ち向かう、キリストのからだの勝利」について、主が今語られているような気がします。

 今日は今から聖餐式を行ないますけれど、聖餐式は、「私たちはキリストのからだの各器官です」という宣言です。「体の一部として植えられる」ことを宣言するものです。そんな時にしたいと思います。

 さて、最後に一つの映像をお見せしたいと思います。それは「霊的戦い」という題の演奏です。この間、私はYouTubeを見ていたら、「Spiritual Warfare」という題の曲がアップされていました。誰が作った曲かと思ったら、なんとカズ加藤さんの曲でした。それを演奏しているのが、なんと、今日も礼拝でギターを演奏していた上條頌君と、うちの息子たちでした。音楽の中にも霊的な戦いがあります。いろんな楽器によって、それぞれ戦いをしている雰囲気の曲です。ちょっと見ていただきたいと思います。みなさんも、神の楽器の一つとして自分を位置づけ、ご覧になっていただきたいと思います。



 この曲は「Spiritual Warfare」、「霊的戦い」という曲ですが、私たちにはそれぞれの楽器のように役割があり、それぞれが役割を果たすのです。それが教会です。
 今から主の前に出て、「私も主の楽器として、役割を果たさせてください」と祈り、キリストのからだに属するように、祈りたいと思います。


 ハレルヤ、父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたは一人一人に役割を与え、キリストのからだに属させ、敵を打ち破り、魂を勝ち取る素晴らしい働きを託してくださっていることを心から感謝します。ハデスの門もそれに打ち勝ちませんと約束してくださいました。今日はイエス様、あなたのからだに属するという意味で、聖餐式を行ないます。一人一人を十字架の血潮で聖め、その人にしかできない役割と、その人のために用意してくださった場所に植えてください。主よ、末の日のリバイバルのために、私たちを用いてくださいますよう、お願いします。
 聖霊と御言葉によって聖餐式を行ないます。キリストのからだに属する聖餐式を行ないます。あなたが語られたような、岩の上にある教会として私たちを作りかえてください。最前線を守る者となりますように。イエス・キリストの御名により、信じて祈ります。アーメン。