HOME > 2011年バックナンバー > 11月 > メッセージ2011年11月13日

『聖霊の油そそぎを求めよう!(パート2)』

2011.11.13(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
イザヤ書61章1節〜3節

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

 ハレルヤ!みなさんおはようございます。今朝のメッセージぱ先週と同じテーマで「パート2」です。
 先週も、「聖霊の油そそぎを求めよう」というタイトルで語らせていただきましたが、それに続くメッセージとさせていただきたいと思います。先週のメッセージもぜひ、インターネット等でお読みいただきたいと思います。インターネットにアップされているメッセージのほうが、今、語っているメッセージよりもいいですから。なぜなら、間違った箇所は修正し、わかりにくいところには説明を加えて、読みやすくなっているからです。ぜひそちらの方も、読んでいただきたいと思います。

 聖霊の油注ぎとは「権威」だと、先週、お話しさせていただきました。それはリバイバルのために必要な権威です。
 権威とは、何よりも力強いものです。イスラエルにおいては、王になる時、預言者が王となる予定の人物にオリーブ油を注いだわけです。サウルにも、ダビデにも、ソロモンにも、油が注がれ初めて王となりました。油が注がれた瞬間、それまではただの男が、なんと一国の王となって人々を治めるようになったわけです。なぜなら、油そそぎと共に権威が授けられたからです。私たちにも同じことが言えると先週、お話しさせていただきました。

 さて今週の週報、ちょっと変わったところがあります。何が変わっているのかというと、「今週の執り成しテーマ:七五三のために祈りましょう」とあります。子どもたちが偶像に捧げられています。是非、とりなして祈っていかなければいけないのです。
 その次に、「今週の御言葉の剣」というパートが新しく設けられました。「御言葉を暗唱しましょう」となっています。この御言葉が、一週間のみなさんの剣となるようにと願っています。是非とも、御言葉を覚え、暗唱していただきたいと思います。
 今日の御言葉の剣は、「ルカの福音書十章十九節」です。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 これはイエス様が語られた言葉ですが、これを主から直接与えられた御言葉として、受け取っていただきたいと思います。ここにも、イエス様が弟子たちに権威を授けたとあります。聖霊の油注ぎと共に、権威が与えられたのです。
 日本という国はキリスト教信仰を持ち続けるのが困難な国です。いつも話しているのですが、特に新城周辺は田舎ですから、クリスチャンになると生活しにくい環境があるわけです。組み付き合いとか、近所付き合いとか、結構めんどくさいです。私の家も来年から組長です。あんまりやりたくないと思っていますが、やらなければなりません。
 でも感謝なことに、この地域は父の時代から偶像礼拝に対して、戦ってくれていますから、偶像関係のことは「滝元さんはそういうことはできませんよね」と向こうから言ってくださいます。この地域の人たちは「クリスチャンは偶像礼拝をしない」と理解してくれているので感謝です。「葬式も、クリスチャンの方々は自分たちでやりますよね」と言われます。「自前でやりますよ。だから組の方々のお世話にはなりません」というように、みんなわかってくれています。
 しかし一般の地域ではなかなか理解してもらえません。ですから、組長なんかになったら本当に大変です。偶像の行事がいっぱいからんでくるからです。
 けれどもそんな環境の中で、迫害に耐え、戦いながら信仰を守っていくことはたいへん重要です。マタイの福音書五章十一節、十二節を読んでみますと、時々、私たちは迫害され、落ち込んだり、辛くなったりすることもあるのですが、イエス様はこう語られました。十一節、

『わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。』

 イエスさまはあなた方は「幸せ」だというのです。いろいろと迫害されたり、責められたり、信仰に関して文句をつけられたりするのは、幸せなことだと言うのです。マタイの福音書五章十二節、

『喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。』

 迫害があったら、「喜びなさい。喜びおどりなさい」というのです。私たちがクリスチャンであると人々に宣言する時、迫害があったり、困難があります。その時は天国銀行の貯金通帳に丸が一桁増えます。「喜びなさい」と言うのです。「やった!天で貯金が増えた!」という感じです。迫害に対する天の報いは大きいのです。地上では、なかなか喜ぶことのできない現実もあるのですが、御言葉に基礎を置き、力強く戦って行きたいと願っています。
 五章十節には、迫害される時、天の御国があなたのものになると語られています。その時にこそ、天の御国が降りて来るのです。

『義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』

 田舎で、クリスチャンとして戦っていく中には、困難もあるのですが、未来のために戦い続けなければいけないのです。
 しかし、この地域は本当にたいへんな地域です。近頃も、二つのクリスチャン家族の方々が、地域からというか、親族から迫害を受けています。祈っていただきたいと思いますが、それも同じ地域に住む方々です。
 ある家がクリスチャンになったら、両親と同居しているのですが、両親が来て、「なんでクリスチャンになったんだ!クリスチャンになったら、地域の人たちに顔向けができん。この家から出て行って欲しい」というのです。かわいい孫もいるのに、出て行けというのです。私にも孫がいますから、「そんなこと言っているけど、本気じゃないよ。そんなの冗談だよ」と言っていたのですが、親は本気なのです。何度、話し合っても、「出て行け!」の一点張りです。そこまで言うかと思うのですが、なぜかというと、両親は人目が怖いのです。
 また、もう一人の方がクリスチャンになろうとしたら、家族一同が先日、私の所にねじ込んで来ました。「この人の信仰をやめさせてください!」と奥さんが言うのです。私はいつも、「私は止めさせる役割じゃなくて、信仰に入れる役割なんですけど・・・」と言うのですが、「牧師さん、主人にクリスチャンをやめるように言って下さい。もしも主人が止めなかったら私は主人と離婚します。私は決めました!」なんていうのです。それは脅迫です。私はこう言いました。「信仰の自由は国民の権利ですよ。どんな信仰に入ったっていいのです。信教の自由がありますよ。」というと、「法律なんか関係ない!」というのです。
 なぜなら、周りの人たちの目が怖いからです。「うちからキリスト教徒なんかが出たら、周りの人たちはなんと言うのだろうか・・・」と。
 残念なことに、日本人は自分の信念を通すよりも、周りがどう考えているのかのほうが優先されます。そんな人生じゃ悲しいですよね。日本も変わっていかなければなりません。明るい未来のためにも、誰かが戦うしかありません。迫害にめげず、戦って行く時、必ず主は勝利を与えてくださいます。

 また、迫害のただ中で、神の国が降りて来るのです。「喜び踊りなさい!」と。その時にこそ、聖霊の油そそぎ、霊的権威が増し加わるのです。
 先週もお話しさせていただきましたけれど、油はどこで注がれるのか?それは敵の面前で注がれるのです。それを詩篇二十三篇から学ばせていただきました。私たちの目の前に迫害があったり、敵がいるかもしれないけれど、そんな中で、がんばって主に仕えて行くならば、なんと、敵の面前で油注がれ、だんだんと敵を見下ろすほどに権威は増大するのです。そして、敵の目の前で食事を整えてくださるのです。それもただの食事じゃなくて、「宴会」を主は催してくださるのです。
 日本のリバイバルのためには、やはり少しは迫害があるかもしれませんが、忍耐と共に福音を伝えていくことが重要ではないかと思います。

 同じ地域の中で同じような迫害が二件もあったので、先週は、「真剣に祈らなくちゃいけない!」と思いました。こういう時、人が敵だと思ったらこっちの負けです。
 「あの人はひどいことを言うね。あの親は何を考えているのかね。あの嫁さんは何を考えているのかね・・・」と考えたら、負けなのです。実は、これが霊的戦いです。福音に覆いをかける、目に見えない敵の勢力がいるわけです。それらに立ち向かう権威を、主は与えてくださるとルカの福音書で述べているのです。私たちは人を敵とするのではなく、目に見えない敵を敵としなければなりません。

 先週は、そのためにとりなしの祈りをしたいと思いました。「主よ。何を、何処で、どのように祈ったらいいのですか。私たちに教えて下さい。」と祈っていました。すると主が、日本の歴史について心を留めるように導いてくださいました。

 実は、日本において、キリスト教を自由に信仰できるようになったのはいつからかというと、それはつい最近で、明治になってからです。それも、明治になってすぐにではないのです。明治政府の迫害は江戸幕府よりも強かったと言われます。すでに江戸時代から日本のすべての地域に「高札」というものが掲げられていて、そこには「クリスチャンになったら処罰される。クリスチャンを見つけたら褒美をあげる」と記されていました。全国に高札が掲げられていました。新城にもあったし、みなさんの街にもありました。それは江戸時代から三百年近くに渡って、地域に掲示され続けていました。日本の人々は三百年近くにわたり、「クリスチャンになったら迫害される。罰せられる。クリスチャンを見つけたら褒美がもらえる」と、強く印象づけられたわけです。

 その高札が撤去されたのがいつかというと、「一八七三年」です。明治維新が一八六七年ですから、明治になって数年経って、やって撤去されたのです。それも「信教の自由を保障する」と宣言し、「キリスト教解禁!」と言ったわけではないのです。明治になって海外の勢力が入って来て、特にヨーロッパとアメリカはキリスト教圏でしたから、明治政府のクリスチャンへの迫害を強く責めたのです。「日本は人権を踏みにじっている。信教の自由も保障されていない!」と強く責めたのです。
 そうしたら一八七三年になって、明治政府は何も公式には言わないで、誰も知らないうちに高札を撤去したのです。「あれ?知らないうちに高札がなくなったぞ?」という感じです。
 ということはどうでしょうか?それは霊的世界では、日本は江戸時代、明治時代の環境そのままということです。禁教令は継続しているということです。だから、今でも五人組制度みたいな雰囲気があって、誰かがクリスチャンになると、「なんでクリスチャンになったのか?」と訴えられるのです。人々は周りの目を恐れるわけです。その恐れの源に、かつて三百年近く掲げられていた「高札」が関与しているのではないかと思いました。「その背後に働いている、悪しき力を打ち破る祈りをしなさい」と主は、私に先週、語って下さいました。

 私はそのテーマについて祈ろうと思いましたけれど、今は高札なんてありません。しかし、かつて地域にあったことは事実ですから、象徴的な場所に行って祈りたいと思いました。それで「主よ。どこに行って祈ったらいいですか?」と求めていました。そうしたら、一つの場所が思いに浮かびました。
 隣町に豊川市がありますが、そこに江戸時代の街並を再現・保存している場所があります。そこは江戸時代を象徴する場所ですから、「そこに行って祈ろう!」と思いました。
 それで、迫害されている二つの家族のご主人がたと一緒に祈りに行きました。夜その場所に行って、「霊的世界に掲げられている高札を打ち破ります!」と宣言の祈りに行きました。

 聖霊様が導かれる時、不思議なことが起きます。夜だったので、周囲の景色はよく見えなかったのですが、なんとなく、ある場所に車を止め、ぱっと懐中電灯を照らしたら、暗闇の中、掲示板のような物が目に入りました。なんだろうかと思って近づいてみました。
 私はその場所を昨日、昼間に行って写真に撮ってきたのでお見せします。これが夜中に私たちが見つけた看板です。

スライド1.JPG

 フラッシュライトが照らした部分がここでした。

スライド2.JPG

 それは何と、「キリシタン宗門禁制」の高札でした。今でも地域にあるじゃないですか。たいへんびっくりしました。もしもクリスチャンを見つけたら褒美をあげるとはっきりと記されています。バテレン訴人には銀五百枚の褒美です。バテレンとは、ポルトガルの宣教師です。宣教師を見つけたら、「金五百枚」。イルマンとは宣教師の下の位の人です。教会のスタッフとか我々のような存在だと思うのですが、それらを見つけたら「銀三百枚」だそうです。そして、立ち返り人とは、クリスチャンのことです。
 今日ここにおられる皆様。どうでしょうか。あなたは立ち返り人です。見つかったら「銀三百枚」です。すごいですね。
 隣町にこんな高札が今でも立っているのです。この高札は「正徳元年」となっていました。調べてみたら、一七一一年に立てられたらしいです。もちろんこれはレプリカです。江戸時代の町並みを再現し、このような高札があったと再現しているのです。
 私はこういう物が隣町にあるとは知りませんでした。しかし、なにか知らないけれど、ふらふらと祈りに出て行って、何気なく、フラッシュライトを照らしたらこんなものを見つけたのです。それは聖霊の働きであったと信じます。たいへん、びっくりしました。

 私たちは霊的世界で福音をとどめている力が打ち砕かれるように、こころを合わせて、主の権威を宣言して祈りました。
 一緒に行った一人がこの高札を見ながらつぶやきました。「イエス様は十字架にかかる前、ユダから銀三十枚で売られたのに、なんと、日本のクリスチャンはイエス様よりも値段が高い銀三百枚か〜」と、ため息をついていました。私はそんなこと考えませんでしたから、いや〜、鋭い視点を持っているなと感心しました。これをつぶやいた人は銀行員でした。やっぱりお金関係のことはよく気づくのですね。
 日本のクリスチャンは、イエス様よりも高い値段で売られたのです。今でも同じような環境があります。しかし主は「そんな迫害のただ中で、油を注ぎます。喜びなさい!」と言われるのです。
 日本のクリスチャンが本気でリバイバルを求め、戦い始めたら、迫害が起こるかもしれません。しかし、そんなただ中で、主は油をそそいでくださると信じます。

 みなさんの地域にも、一八七三年までは高札が立っていたのです。今日は家に帰ったら、「今も福音をとどめている暗闇の力を打ち破ります」と権威を使って祈っていただきたいと思います。そのような祈りによって、きっと地域は変えられるのではないかと思います。先週、私は聖霊の導きを強く感じ、感動しました。この高札は、つい最近、この地域が整備され、再現されたみたいです。こんな物は取り下げて欲しいです。人々はこの看板を見たら、昔と同じように考えると思いますから。「やはりキリスト教はいかん」と考えると思います。
 私たちは更なる聖霊の油注ぎをいただきたいと願います。

 預言者イザヤは、イエス様がこの世に来られる目的を「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒すため」と預言しました。イエス様は人として来てくださったのですが、その時、父なる神様から聖霊の油注ぎ、権威をもらって働かれたのです。イエス様の時代も大変困難な時代でしたけれど、イエスさまは油そそぎによって、困難を打ち破られ、大きな働きが出来たのです。

 預言者イザヤより、さらに古い時代の預言者たちにも、いろいろな戦いがありました。彼らもまた、戦いの中、聖霊の油注ぎによって勝利したのです。イザヤからさかのぼること百年前、イスラエルに「エリヤ」という預言者がいました。彼はたいへん大きな迫害と戦いに遭遇しました。
 当時、イスラエルはアハブという王が治めていた時代でした。このアハブという王はたいへん悪い王でした。彼は国中に偶像を持ち込み、その時、バアルとかアシュラという悪霊礼拝が大流行しました。そして悪霊に属する霊能者が多くいました。
 しかし、エリヤは神からの油そそぎをもらい、ある時、たった一人で、バアルの預言者四百五十人と、アシュラの預言者四百人を相手に戦いました。そして、彼らを全て打ち破ったのです。それほどの権威を神は一人の人物に与えたのです。
 私たちの神は、昔も今も変わらない神様です。あのエリヤに力を注いだ聖霊様は、現代においても、求める者たちに力を与え、その力は受け継がれるのです。

 私は毎年、聖霊の油注ぎというメッセージを語るようにしています。私がメッセージを語らせていただく時には、極力、毎回違ったことを話させていただきたいと願っているのですが、案外よく似ています。いつも、同じようなメッセージでごめんなさい。
 その中でも、毎年語るメッセージがあります。それはどこからかというと、エリヤの弟子に「エリシャ」という人物がいたのですが、彼がある家族の所に行って油を増やす奇跡を行った箇所があるのですが、そこから毎年、語るメッセージであります。その箇所を、今年も読んでみたいと思います。第二列王記四章一節〜七節、

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 この箇所から私は、聖霊の油注ぎについて、毎年語らせていただいています。この箇所からのメッセージを、皆さんは何度も聞いかもしれません。なぜ私は、毎年繰り返し、この事について語るかというと、このメッセージは主から受け取った、重要なメッセージであると信じているからです。

 実は、一九九三年、「全日本リバイバル甲子園ミッション」という、日本のリバイバルのある意味、発火点のような集会が行なわれました。今日は午後からリバイバルミッションニュースの発送作業が行なわれますが、ぜひ、今日は特別な発送日ですから手伝っていただきたいと思います。
 いつもは四千数百通のニュースを全国に発送しているのですが、今回はその倍以上の九千五百通を全国に発送することになっています。祈りと共に、日本のリバイバルの為にお手伝いをよろしくお願いいたします。
 今日はお手伝いくださる方々のために、スペシャルプログラムを用意しております。それは、みぎわさんというゴスペルシンガーが、手伝ってくださる方だけのためにミニコンサートを開いて下さるからです。手伝う人だけにですよ。でも、一枚ニュースを封筒に入れるだけでも、手伝ったことになりますから大丈夫です。

 実は、一九九三年に開催された甲子園ミッションは、本当に大きな霊的戦いでした。私は九三年から、日本にリバイバルが始まると思っていましたけれど、そうではなく、本当に疲れました。でも、それから全日本リバイバルミッションの働きが本格的に始まり、働きが継続されることになりました。
 今日、差し上げましたリバイバルミッションニュースは、一九九三年から現代に至るまで、どんな働きがあったかをダイジェストしています。この働きも、甲子園ミッションから数えると、今年で十八年。再来年は「二十周年」を迎えます。
 甲子園後、働きを継続したいと願って、「主よ。どこからミッションを始めたらいいでしょうか?」とみんなで祈りました。その時に主が最初に選ばれた地が、「東北」でした。あの大きな甲子園ミッションの後、主が最初に導かれたのが東北だったのです。
 今年は東北で大きな地震がありました。一昨年は韓国でリバイバルミッションを開催し、次に何をしようかと祈った時、主は、「東北に行きなさい」と語られました。なにか、日本のリバイバルと東北に関連があるように思います。

 一九九四年には「東北リバイバルミッション」がありました。それで私は東北の決起大会に行く途中、東北新幹線の中で祈っていました。「主よ。東北で何を語ったらいいですか。私にメッセージを与えてください」と祈っていた時、第二列王記四章一節から七節の御言葉が与えられたのです。
 神様が語ってくださる時は、情報のすべてが同時に入って来る感じです。一、二、三、四という順番もテーマが、ぼんっと同時にコピーされる感じです。突然御言葉が私に飛び込んで来たのです。「このメッセージを携えて、聖霊の油そそぎについて語りなさい」と語ってくださいました。
 今でも覚えているのですが、東北新幹線下り、進行方向の右側、窓側の席でした。ちょうど福島県に入ったくらいに、主からのメッセージが降ってきました。

 その時からです。私はこのメッセージ一本で、世界中で働いています。どこの国に行っても、第二列王記四章一節〜七節ばかりを話しています。韓国でも、アメリカでも、南米でも、スペインでも、世界と言ってもそのくらいですが、どこでもこのメッセージを語っています。
 主が私に「聖霊の油注ぎの秘訣について、あなたに教えます」と語られたようでした。

 この箇所は、預言者エリシャが実際に油を増やした奇跡の物語です。しかし聖書は、最初に出て来た言葉が最終的に何を意味するかで、前半の解釈を変えることができるという、聖書解釈の原理があります。油とは、最後には聖霊、聖霊の油注ぎに繋がっています。
 さて、第二列王記の四章の奇跡のストーリーの前に、エリヤとエリシャの関係を見ることができます。今日も、ここから語るのですが、新しい視点を加えつつ、語らせていただきたいと願っています。

 第二列王記を家に帰ってから、一章から続けて読んでいただきますと、四章に至るまでの過程を知ることができます。いつも話していますけれど、聖書は、前後関係がたいへん重要です。二章を見ると、エリヤとエリシャの関係が出ています。
 ある日、主がエリヤに、「おまえを竜巻に乗せて天に引き上げる」と語られました。聖書の中には、死なないで天国に直接、引き上げられた人物が二人います。いや、三人います。一人はエリシャです。もう一人はエノクという人物。そして、イエス様です。死なないで天に上ったのです。そのことが第二列王記二章一節〜二節に記されています。

『主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言ったが、エリシャは言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。』

 エリヤはエリシャに言いました。「私は天に上る日が近い。だから、あなたはここにとどまっていなさい」と。でも、弟子のエリシャは、「絶対にあなたからは離れません!」と言って、しつこくエリヤにつきまといました。余りにもしつこくつきまとうので、エリヤはエリシャに聞きました。第二列王記二章九節〜十節、

『渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言った。エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」』

 エリヤはエリシャに「何か欲しいのか求めなさい。私はあなたのために何をしようか。」と聞いたのです。当時、エリヤは有名でしたから、弟子も大勢いました。その中の一人がエリシャでした。彼には地位も名誉もあったと思います。人間的にも権力があったかもしれません。国の中で確固たるポジションもありました。このエリヤに対してエリシャは、なんでも求めることができたのです。もしかしたら土地も持っていたかもしれません。「エリヤさん。土地の権利書を私にください」ということもできたかもしれません。また、「あなたが集めた弟子たちを、私の弟子としてください。」「あなたの地位を私にください」とも言うことができたかもしれません。
 でも、エリシャはそうは言いませんでした。なんと言ったかというと、『あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように』と言ったのです。

 「あなたの持っている霊の二倍が私のものになりますように」と願いました。エリシャの願いは、大胆な願いです。
 その時にエリヤは言いました。「おまえは難しい願いをするな」と。「でも、あなたが私が天に上る様を目撃したら、それはあなたの物になる」と言いました。そう言われてからエリシャは、なお一層、エリヤにくっついていたことでしょう。エリヤがトイレに行ったらトイレの扉の前に立っていて、食堂に入ったら隣の席に座って、コンビニに入ったら一緒にコンビニに入ったかは知りませんが、どこにでも付いて行ったのです。

 やがて、来るべき日が来たのです。なんと突然、火の戦車が現れて、竜巻が起こって、エリヤは天に上って行きました。その時、天からエリヤがまとっていた一枚のマントがひらひらと落ちてきたのです。エリシャはそれを拾ってまとった時、願い通りに二倍の霊が注がれたのです。エリシャはエリヤの二倍の油そそぎを受けたのです。
 エリシャほど、多くの奇跡を行った預言者もいませんでした。それも苦しんでいる人々のただ中に入り、多くの奇跡を行なったのです。それもきめの細かい、人の利益となる、多くの奇跡を行ないました。
 そのような背景で、エリシャは油注がれ、イスラエルを背負って立つ預言者になったのです。そして四章の記述に続くわけです。
 先ほど読みましたけれど、第二列王記四章一節に、

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」』

 さて一節を読んで、みなさん不思議に思いませんか?先ほどエリヤとエリシャの関係が描かれていて、エリシャはエリヤの二倍の油注ぎをもらったのです。しかしここでは、それとは正反対に『あなたのしもべである私の夫が死にました』と言っています。 エリシャが訪れた家は、「エリシャの弟子」の家でした。かつてのエリヤとエリシャの関係と同じような、師弟関係の家にエリシャは行ったわけです。しかし、そこに行って聞いたことは、あまりにもコントラストが激しいものでした。エリシャは師匠から二倍をもらったのに、エリシャの弟子は「何もなくなった」のです。それどころか、本人さえも死んでしまって、残された未亡人と二人の子どもの家にエリシャは行ったのです。さらに悪いことに、家には借金が残っていて、借金取りが毎日のように来て厳しい取り立てをしていました。それどころか、残された二人の子供を奴隷にしようとしていたというのです。
 みなさん、本来ならばどうでしょうか?エリヤの弟子のエリシャが二倍をもらったのなら、エリシャの弟子はエリシャの倍、エリヤから見たら「四倍の油注ぎ」をもらっても良いのではないでしょうか。しかしここでは、何もかも失い、本人も死んでしまい、弟子の家は、悲惨な家族に成り下がっていたのです。
 そんな家に、エリシャは行ったのです。エリシャも、多少、責任を感じていたかもしれません。「なんてこった。どうしてこんな風になってしまったんだろうか・・・」と。

 時々、クリスチャンの人生にも、このようなことが起こるのかもしれません。日本の教会はなぜ成長しないのか?リバイバルはなぜ、前進しないのか?それは、初代のクリスチャンが一生懸命働き、戦い、困難な中に道を切り開いたとしても、次の世代が二倍を受けるどころか、何も受け取ることができないからです。初代以上に失ってしまうことが繰り返されています。ゆえに、なかなかリバイバルは前進しないのかもしれません。
 ある意味、エリシャとその弟子に見られるような、本人も死んで、その上、借金は残っているは、毎日貸し主は来るは、子供たちも狙われると、最悪の状況があるのではないでしょうか。
 しかし、そんなところにも、大きな希望があると教えているのが、この箇所です。やもめの家になにが起こったか言うと、油が増え、最終的には大きな祝福と勝利がもたらされたのです。

 ここに、日本のリバイバルのための、一つの鍵があります。我々が心をとめなければならない重要な事柄が、含まれているのではないかと思います。エリシャがエリヤから二倍の油注ぎを受けたという流れの中で、油が増える奇跡が起こったのです。この油とは、ただ単なる油ではなく、「聖霊の油そそぎ」を象徴しているのです。やもめの家の中で増えた油とは、聖霊の油そそぎによる霊的権威を象徴しているに違いありません。

 一節から七節までを読んでいきますと、どのようなプロセスを経て油が増えたのかを知ることができます。この家には何もなくなってしまっていたのですが、エリシャはやもめに何と言ったのかが二節に書かれています。

『「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」』

 この一家は、ほとんどの物を失っていたのです。しかし「何をしてあげようか。あなたには何がありますか」と聞くと、一つだけ残っていたのです。それは何かと言うと、油つぼでした。それは小さな油つぼであったと思われます。「それを持って来なさい」とエリシャは言ったのです。やもめはエリシャの前に、小さな油つぼを持って来ました。すでに油はほとんど使い尽くされ、ほんの少しだけ油が残っている油つぼだったかもしれません。しかし、なんとそこから、奇跡は始まったのです。

 日本のリバイバルを考える時、「リバイバルの働きを始めたはいいけれど、全てを失ってしまった。何が残っているというのか・・・」と思うこともあります。また、「クリスチャンになったけれど、あまりいいことはなかった。クリスチャンになってから全てを失った」なんていう人も時にはいるかもしれません。しかし、すべてを失ったと思うかもしれませんが、「あなたには最も重要なものがまだ残っている」のです。それは何かといったら、「油のつぼ」です。油とは先ほど言いましたように、聖霊を象徴しています。
 イエス・キリストを信じるとは、何が起こっているのか。それは、「誰も聖霊によらなければ、イエスは主ですと告白できない」とありますから、私たちが「イエスは主です!」と告白する時、それは自分の意思ではないのです。聖霊によって告白しているのです。今日、みなさんの内側になくてはならないお方が存在しています。それは誰かと言ったら、聖霊さまです。私たちが「イエスは主です!」と心の底から宣言できるとしたなら、たとえ何を失ったとしても、油つぼがある以上、希望があるのです。
 みなさんで「イエスは主です!」と力強く宣言してみましょうか。それはみなさんの内側になくてはならないものが残っている証拠です。
 「イエスは主です!」良かったですね。内側に油つぼがあるじゃないですか。その告白は聖霊によって告白しているのです。主はあなたに言われます。「その油つぼをあなたの目の前に持って来なさい」と。

 私たちが聖霊様に関して関心を持つ時、そこから奇跡は始まるのです。私たちの神は三位一体なる神様です。父なる神様。子なるイエス様。そして聖霊様です。
 でも、父なる神様については語る、子なるイエス様については語る、けれども、聖霊様についてはあまり語らないのです。あまり関心がないのです。ゆえに油つぼを目の前に持って来ることができないのです。
 しかし、私たちが聖霊様について関心を持ち、油つぼを目の前に持って来る時、そこから油は増え始めるという原則を知らなければなりません。
 その次に出された条件はなんであったかといいますと、三節、

『すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。』

 「外に出て行って、からの器を借りてこい」と言われました。この条件が出た時、やもめの家族は、多少戸惑いがあったと思います。なぜならば、家には何もないのに、隣近所に行って「からの器を貸してください」と頼むのは、やっぱり恥ずかしかったと思います。「あなたはなぜ、そんなことをするのですか?なんでそんな無駄な行動をするのですか?気は確かですか?」と言われるのは決まっています。それなのに、その行動を強いられたわけですから。
 しかし、そんな無駄に見える行動が、大いなる奇跡の序曲となったわけです。時々神様は、私たちにもう一歩前に出るようにと強いられる時があります。「その場に留まっていないで、外に出て行きなさい。器を借りて来なさい」と言われるときがあります。聖霊の油注ぎは、そこから始まるのです。

 さらに『からの器を持って来なさい』とは、何を意味するのでしょうか。これもいつも話していますが、聖霊様に対する「飢え渇き」だと思うのです。私たちが聖霊様に飢え渇いて、満たされることを求める時、主は私たちに油を注がれるということではないでしょうか。

 エリシャのことを考えてみてください。「二倍の油注ぎをください」と頼んだとき、エリヤは言いました。「私から離れないで、ついて来い」ということでした。エリシャは、片時も離れず、エリヤの後について行きました。
 エリヤとエリシャの関係は、イエス様と弟子たちの関係に似ています。また、イエス様と私たちの関係にも似ています。よみがえられたイエス様に、弟子たちは付いて行き、最後に、イエスさまが天に上る様を弟子たちは目撃したのです。その十日後、聖霊が注がれたのです。その後、弟子たちは全世界に出て行き、イエス様以上の働きをしたのです。

 聖霊の油注ぎをいただくためには、イエス様から目を離さないで、どこまでもイエス様に従って行く時、油注ぎをいただけるのです。「聖霊様に対して飢え渇きを持ってください。その時に油が注がれます」ということを、この箇所から教えているのではないかと思います。

 私が聖霊様に触れていただいたのは、やはり飢え渇きが起こってきた時からでした。これもよく話しますけれども、今から二十数年も前の話ですけれど、この教会にいろんな問題が一度に起こって、私の家内が病気になって、弟も病気になって、本当に八方ふさがりのような状況になった時がありました。もうこれ以上進めない、祈るしかないと思いました。聖霊様に触れていただいて、自分を含めて変えてもらうしかないと思いました。強い飢え渇きが私の心に芽生えてきました。
 ある晩、たった一人で、愛知県民の森の山の中に入って、叫んで祈ろうと思いました。普通の私は夜中に県民の森に入って祈る勇気はありません。しかしその晩は夜中に県民の森に入って、真剣に主を求めました。その時から聖霊様は私を変えてくださいました。そのことがきっかけになって、今でも毎週月曜日の夜には愛知県民の森で祈祷会を持っています。雨が降っても、雪が降っても、台風でも、何があっても、「月曜の夜は県民の森祈祷会だ!」と決めました。この頃は雨が降ったりすると教会でやったりもしますけれど、二十数年前の飢え渇きから祈祷会が始まりました。
 そして、さらに飢え渇いて主を求めているさ中、一九九二年二月十三日、激しく聖霊様が訪れてくださったのです。私たちは飢え渇いて、主を求めなければならないのです。

 日本のリバイバルのためには、先に救われた者たちには責任があると思います。私たちが救われたのは、まだ救われていない方々の先駆けとなって救われたのです。多少、迫害があっても、しっかりと信仰に立ち、この国を変えるために祈らなければならないのです。そして、見えない敵と戦っていかなければなりません。そのためには、聖霊の油注ぎがどうしても必要です。飢え渇いて、主を求めなければなりません。
 今年は、日本にいろいろなことが起こっています。これはクリスチャンと教会に対してはサインです。「あなた方は、もっと、もっと真剣に主を求めなさい!激しく主を求め、わたしから目を離さないで、空の器をたくさん集めて祈りなさい。」と語られているのではないかと思います。

 やもめの一家においては、借りて来た器の数だけ油はいっぱいになったのです。六節から見ると、

『器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。』

 借りてきた器の数だけ、油がいっぱいになったのです。油が止まった時、やもめの一家は、「残念。もっと多く借りてくれば良かった。お姉ちゃんが恥ずかしいから、借りに行くのはもう止めようって言うから、これだけで終わっちゃったじゃないの」と喧嘩になったのかもしれません。
 私たちがどのくらい主に期待するかで、与えられる権威の度合いは変わってくるのかもしれません。
 やもめの家に油が増え終わった時、神の人、エリシャがこう言いました。そのことが七節に書かれています。

『彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 なんと素晴らしい言葉ではないでしょうか。全てを失っていた家族が回復したのです。負債がなくなれば、二度と貸し主は来ません。そして、「その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます」というのです。自分の人生も、子供たちの人生さえも保障されたことを意味します。こんな素晴らしい勝利と回復を見ることができたのです。全てを失っていた家族が、なんと、小さな油つぼから回復を見たのです。

 しかしこの奇跡が起こる直前、エリシャはやもめにもう一つの条件を出しています。それはなにかというと、四章四節、

『家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。』

 エリシャは『あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい』と言いました。実は、この箇所が主が私に語ってくださったメッセージの中核です。中心点はここにあります。
 聖霊の油そそぎのメッセージをしなさい、といわれた一番のポイントは、「油が増える直前の条件、『うしろの戸を閉める』ことを人々に語れ」ということでした。九四年、東北に向かう車中で主が語ってくれたのは、この部分が中心でした。

 もしも、扉が開いたまま油が増えたらどうでしょうか。この家には毎日のように貸し主が来て、「金返せ!」と言って来ていたわけですから、扉が開いていたらどういうことになったでしょうか。増えた油も全て持ち去られ、二人の子供もそこにいたわけですから、なによりも大切な二人の子供も失ったはずです。奇跡が起こったことによって、「以前よりも惨めになった」はずです。しかし、後ろの扉を閉めたゆえに、増えた油は奪われなかったのです。

 日本の多くの教会は、「聖霊の働きもいいけれど、聖霊運動なんかすると、後からいろんな問題が起きる。だからあんまり関わらないほうがいい」と考えています。それは経験的にも言えることです。以前、その点について私も疑問を持っていました。しかし主は言われました。「その理由は、後ろの扉をちゃんと閉めていないからだ」と。

 後ろの扉を閉めるとは、聖霊様は聖い神ですから、「聖さを求める」ということです。もしも私たちに罪があったら、罪によって貸し主、すなわち、悪魔・悪霊どもに対する扉が開かれることになるのです。そのため、せっかく神からいただいた権威も奪われてしまうのです。ですから、常に聖い歩みをしなければいけません。私たちが「霊においても、魂においても、肉体においても」聖さを求める時、聖霊の油注ぎは、私たちのものになるということを教えていると思います。

 そして、もう一つ大切な点があります。借金を作ったのは、たぶん死んだ主人であったと思われます。けれども、狙われていたのは子供たちだったのです。借金も作ったことのない、罪のない、子供たちが狙われていたのです。それに関する罪が偶像礼拝です。特に日本人が閉じなければいけない扉が、「偶像礼拝によって悪しき存在と結ばれた契約の扉」です。それらを無効にする祈りが大切だという事でした。
 私はこのことを主から教えられて、本当に心の底から感謝しています。一九九二年に油が注がれ、今まで聖霊様の働きが教会に留まっているとしたなら、どこに秘訣があるのか・・・。それは後ろの扉を閉めることを教えていただいたからです。

 「後ろの扉を閉める」特に、「偶像礼拝によって、悪霊どもと結ばれた契約を破棄する祈りを、一人一人としなさい」と主から語られ、それを今まで実行してきました。その祈りをするようになった結果として、主は今まで、私たちを支えてくださったと信じています。
 日本の偶像礼拝は、個人というよりも、家族・家系を巻き込んだものです。その罪を悔い改め、契約を破棄する宣言が「後ろの扉を閉める」ことであると、私は信じています。

 私たちは、多くの偶像の神々と悪霊礼拝のただ中にありますけれど、私たちが、家族・家系の中に開かれた悪しき扉が閉められるように祈る時、油は奪われることはないのです。

 最後に、今日は「後ろの扉を閉める」という概念に、もう一つ付け加えたいと願います。それは先週も語らせていただきましたけれど、マタイの福音書六章六節の御言葉です。

『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』

 イエス様は「戸を閉めて祈れ」と言われました。エリシャがエリヤにいつもついていたように、私たちもイエス様から離れることなく、隠れた所で見ておられる主に祈ると言うことです。
 第一に、自分と神様の関係をしっかりと立て直し、閉ざされた祈りの部屋を用意することです。個人的な祈りが確立し、そこに共同体の祈りが加えられる時、大いなる勝利が表されると信じます。

 今の時代、主が、すべてのクリスチャンに新しい油を注ぎ、日本にリバイバルを起こそうとされているのではないかと思います。今こそ、主を求める時です。私たちはエリシャのように、エリヤの二倍の油そそぎを求めて、主の前に出て行きたいです。決して、エリシャの弟子のように、すべてを失う者であってはならないのです。
 日本の教会は、ある意味、岐路に立たされているのかもしれません。次の世代がすべてを失うのか、倍をもらうのか、岐路に立たされていると思います。決してエリシャの弟子のように、すべてを失う者であってはならないのです。もちろん、油つぼさえあれば、いつでも回復しますから大丈夫ですが。
 しかしエリシャのように、二倍の油そそぎをもらって、この国、そして世界に仕える教会になっていきたいと願っています。

 最後に一言お祈りして、終わりにさせていただきたいと思います。イエス様は地上に来て、私たちの罪のために十字架にかかり、血を流してくださいました。そのことを心から感謝し、聖餐を持ちたいと思います。一言、祈りの時を持ちます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたが今日ここにおられますことを心から感謝します。日本のリバイバルのために、私たちに更なる聖霊の油を与えてください。主よ、私たちもエリシャのように、二倍の霊をいただいて働くことができるようにしてください。決してエリシャの弟子のようになることがないようにお願いいたします。
 主よ、今日は、あなたの流してくださった尊い十字架の血潮をいただいて、聖餐式を行ないます。主よ、私たちを聖めてください。後ろの扉をしっかりと閉めてください。そして、私たちの内側から油をそそいでくださり、リバイバルのために用いてください。
 尊い主イエス・キリストの御名によって、祈りを御前にお捧げ致します。アーメン。