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『あなたもリバイバルの勇士となろう!』

2011.11.20(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
ヨエル書 3章9節〜11節

『諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。‐‐主よ。あなたの勇士たちを下してください‐‐』

 ハレルヤ!一年も早いもので、間もなく十二月です。そして、すぐに新しい年を迎えます。本当に近頃はいろんなことがあって、時代の波に翻弄されている感じです。毎年、新年には「PPH」という24時間連鎖賛美大会がありますが、近頃ではPPHよりもTPPのほうが有名です。あれは一体なんだい、という感じです。全容がよくわかりませんけれど、先の読めない世界に私たちは住んでいます。
 川柳の中に、「先を読め。読めるわけない、先がない」というのがありましたけれど、先を読めと言っても先がないのです。「先を読め。言った先輩、リストラに」というのもありました。「仕分け人。妻に比べりゃまだ甘い」なんてのもありました。「我が家でも領土問題、『あなた邪魔』」というのもありました。本当にこの頃、いろんなことがありすぎます。このような時にこそ、「Back to the Bible」、聖書に戻らなければいけないのです。
 聖書をよくお読みいただきたいと思います。今日は午後からサンデースクールがあります。山崎先生が聖書を詳しく解説してくださいます。私のメッセージは上っ面ですが、山崎先生の講義は深いですから、是非ともサンデースクールに出席していただきたいと思います。
 そして、家でも毎日聖書をよく読んでいただきたいと思います。聖書の読み方は人それぞれだと思いますけれど、毎日一章ずつ読むことも大事だと思います。しかし、一章読んでも次の日には忘れてますから、なるべくボリュームを多くとって読むほうがいいかもしれません。
 私は毎週メッセージを語らせていただいていますから、一回になるべく多く、大きく読むようにしています。先週はヨエル書に目が留まり、何度も何度も繰り返して読んでみました。ヨエル書というのは、たったの三章しかない短いところです。全編をすぐに読むことができます。しかし短いところですけれど、そこにはかなり重要な事柄が記されています。
 ヨエルが語った言葉は、ほとんど未来に対する預言でした。ヨエルという人物についてはあまり情報がなく、最初に「ペトエルの子」と記されていますが、たぶん紀元前九世紀から八世紀頃の預言者ではないかと思われます。しかし彼の預言は、新約聖書でも、かなり重要な部分で引用されています。イエス様もきっとヨエル書を読んでいただろうと思われます。世の終わりについて語られた時、ヨエルと同じフレーズを使って語っています。また、何よりも有名なのは、聖霊が注がれた時、その現象について「ヨエルが語った通りの出来事だ」とペテロは語りました。
 実に、ヨエル書の中に含まれている預言は、近未来、中未来、そして遠い未来、そして世の終わりまで含まれています。
 聖書は世の終わりについても語っています。世界はこのまま永遠に続くわけではありません。やがて「もうこれまで」と、神が歴史をストップされる日が来るのです。それをみなさん信じますか?信じるも信じないも、この頃では「こりゃ人類、絶対やばいわ、どこに行っちゃうのか」と誰もが感じていると思います。
 原子力発電所が一箇所壊れただけで、これだけ苦しんでいるわけですから、世界中に原発はどれだけあるのか分かりません。日本だけでも五十いくつあるそうですが、そんなのが日本で何箇所も壊れたら、さらには、世界中で壊れ始めたらどうでしょうか?人類はもはや地球に住むことはできなくなってしまいます。それだけ考えてみても、人類は自らの手でさえ歴史に終止符を打つことができるわけです。
 今現在、世界では戦争も危機も高まっていて、これからどこへ向かっていくのか誰一人知りません。本当に祈らざるを得ません。
 ある方は、そんなことよりも中日とソフトバンクの行方のほうがもっと気になるという人もいるかもしれませんが。いずれにしても、行方はわからないのです(残念ながら中日は負けました)。
 ヨエルという預言者は、イスラエルでしばしば起こる自然現象を通して、将来を預言しました。ヨエル書一章二節〜三節、

『長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。』

 ヨエルの時代に何かすごい事件があったようです。「この出来事を忘れないで歴史に書き記せ、次の世代にも、次の世代にも伝えなさい」と。これは歴史に残る出来事だとヨエルは語ったわけです。どんなことが起こったのかというと、ヨエル書一章四節に記されています。

『かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。』

 イスラエルには時折、いなごの大群が発生します。

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 ちょっと気持ち悪いですね。いなごの大群が飛んで来て、収穫物をあっという間になめつくしてしまうわけです。ヨエルの時代にも、このようなことが起こったのでしょう。しかし『かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。』と記録されているように、それが一波だけでなく、次から次へと何波にも渡って押し寄せ、これでもか、これでもかと、踏んだり蹴ったりの状況が国に起きたと推測されます。「これはあまりにもひどい。歴史に残る災害だ」と人々が叫んだのに違いありません。
 
 この事柄と、日本の今年の出来事を重ねると、なにか共通する部分があります。三月十一日には東北で大地震があって、それに伴って大津波が起き、原発が壊れ、もう十分だと思っていたら、夏には大洪水も起こって、本当に踏んだり蹴ったりの二〇一一年です。
 ちょうどヨエルが過ごしていた時代も、歴史に残るようなイナゴによる大災害があったみたいです。日本は、これからも全然安心できないのです。三月の大地震の後に、日本にどのぐらい地震が起こっているのか図に示されていました。

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 これは三月十一日から四月二十六日までの約一ヶ月間、地震が起こった場所と規模を示した図です。東北どころか、日本全体で大小様々、数え切れないほどの地震が起こっています。これを見たら「日本はどこも安全ではない」と思います。「よくも、ようこそ、日本にいらっしゃいました」という感じではないでしょうか。外国人から見たら「なんでそんな危険な場所に住んでいるの?」と言うでしょう。踏んだり蹴ったりの日本。先の見えない日本。これからどうしたらいいのでしょうか。

 しかしヨエル書の素晴らしさは、このように踏んだり蹴ったりの出来事が起こる時、どのようにしたら回復が起こるのかについても言及している事です。私たちが聖書からその原則を学び取ることができるならば、来るべき二〇一二年、何が起こるのかわかりませんが、きっと神の憐れみによって日本は変えられると信じます。
 その秘訣とは何か。ヨエルがなんと語ったのかといいますと、ヨエル書一章十三節〜十四節、

『祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。』

 踏んだり蹴ったりの時には何をしたらいいのか。それは、主に仕える者たちが宮に集まり、断食を持ってきよめの聖会を行えというのです。続く、ヨエル書二章十二節〜十三節にも同じように記されています。

『「しかし、今、‐‐主の御告げ‐‐心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。』

 踏んだり蹴ったりのことが起こった時は何をしたらいいのか。神を信じる者たちが宮に集まり、真剣に、主の前に叫んで祈れというのです。そうしたら何が起こるのでしょうか。その後に、素晴らしい希望の言葉があります。
 『主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。』と語られています。
 日本の将来、世界の将来、誰がその鍵を握っているのかというと、「主を信じた者たちの手」に将来があるのです。なぜ私たちは日本において、たったの零点数パーセントのクリスチャンの中に入ったのでしょうか。それは日本の将来のために選ばれたのです。それは日本の未来のために、とりなし祈る使命です。そのために主が、私たちを選んでくださったのです。ヨエル書二章十三節、

『あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。』

と語られています。かつてイスラエルにおいては、大きな悲しみがあったり、大変なことに遭遇すると、着ている衣を引き裂き、悲しみを表す習慣があったようです。もったいない話ですよね。昔は服なんてそう簡単に手に入らなかったのに、それを破いてしまうのは、相当大きな表現でした。
 しかし宗教家たちは、それを一つのパフォーマンスとして使っていたわけです。「私はみんなのこと思ってますよ。悲しんでいるんですよ」と、パフォーマンスとして、衣を引き裂いていたようです。神様はそれを見抜いていて、「パフォーマンスじゃいけません。あなたの心を引き裂いてください」と語られました。これは今を生きる私たちにも、主は同じように告げておられるのではないかと思われます。
 今、私たちは教会に集まり、聖霊の油注ぎを求めてリバイバルを求めて叫んで祈ってます。けれども、それがパフォーマンスではいけないのです。「あなたの心を引き裂いてください!」と主は言われます。
 特に日本のクリスチャンに、教会に、「あなたの心を引き裂いて、主の前に出て、国の未来のために祈りなさい」と、主は語られているのではないかと思います。そうしたら、様々な災から回避されるばかりでなく、ヨエル書二章十四節、

『主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。』

と語られています。このことは何を意味するのかというと、二章二十八節〜二十九節に続くのです。

『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。』

 これはイエス様が十字架にかかって、よみがえって、天に帰られてから十日後に起こった、ペンテコステの出来事であったわけです。リバイバルでした。使徒の働き二章を見ますと、ペテロがヨエルの預言をそのままそっくり引用して語っています。使徒の働き二章十五節〜十七節、

『今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」』

 これでもかというような災害が国を襲ったとき、神の民が真剣に、心を引き裂いて祈ったら、未来の災から回避されるだけでなく、なんと、リバイバルが来る!これが聖書の原則であり、ヨエルが語った預言です。
 みなさん。今、日本は危機ですが、危機はある意味で最大のチャンスなのです。国にリバイバルが起きるチャンスなのです!今こそ、私たちクリスチャンが真剣にパフォーマンスではなく、心を引き裂いて、主の前に出てリバイバルを求めて祈らなくてはならないのです。みんながやるからついて行くというのではなく、自分の将来のためにも、国の未来のためにも、心を引き裂いて、自主的に主の前に出る必要があるわけです。
 ヨエル書二章十六節にはこんな言葉があります。

『民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。』

 誰が祈ったらいいのか、それは特定の人ではなく、なんと、幼子、乳飲み子、一般の人たちはもちろんのこと、花婿、花嫁さえも呼び出して来いというのです。
 イスラエルにおいては結婚したら一年間、兵役も免除です。一年間は遊んで暮らせるようになっています。いいですね。何もしなくていいのです。
 先日、私の友人のユダヤ人の男が結婚しました。私に「結婚式に来てくれ」と言いました。ちょっと遠いからやめましたけれど。彼に「結婚したら何するの?」と聞くと、「一年間は何もしないで遊ぶ」というのです。「一年も遊ぶ?けしからんな〜」と言ったら、「イスラエルでは結婚して一年間は何もしないで遊んでいても、何も言われない」というのです。ただ、新婚生活を楽しめばいいというのです。素晴らしいですね。

 しかし、緊急事態は別なのです。「花婿、花嫁も出て来い!」と。普段じゃ世離れしているような人たちも全員集合させて、神の前に、心を引き裂いて祈りなさいというのです。それが緊急事の祈りの要請です。今日、私はメッセージのタイトルを「あなたもリバイバルの勇士となろう!」とつけましたけれど、誰が勇士になるのかというと、全員です。国にリバイバルが起こる為には、全員が勇士にならなければならないのです。
 ここには幼子から、お年寄りまでおられます。いろんな背景の方がおられます。しかし今、私たち日本人は、ちょうどヨエルが預言したような状況下にあるのです。この時にこそ、私たちは神の前に出て、真剣に祈らなければならないのです。
 ヨエル書二章十五節〜十七節、

『シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。主に仕える祭司たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。「主よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておいてよいのでしょうか。」』

 「全員、主の前に出て、真剣に叫んで祈りなさい。祈りの勇士となりなさい」と教えています。それから、先ほど読んだ主題の言葉に繋がるわけです。ヨエル書三章九節〜十一節、

『諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。‐‐主よ。あなたの勇士たちを下してください‐‐』

 三章の言葉に結びつくまでに、今学んだような過程があるのです。『弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ』というのは、「赤ちゃんからお年寄りまで、全ての人」を含んでいるのです。緊急事は全員が主の前に出て、心を引き裂き、とりなし祈らなければならないと主は言われます。

 『聖戦をふれよ』という御言葉を私は昔から知っていましたが、あまりピンと来ていませんでした。しかし今こそ、真の意味を知り、聖なる戦いを宣言しなければならないと感じています。勇士となって立ち上がらなければならない時が来ているのです。「この時にこそ、真剣に祈ってください!」と主が、私たちに語っておられるという気がしてなりません。

 三章九節に『聖戦をふれよ』とありますが、「聖戦」という言葉は、現代社会においては、あまり響きのいい言葉ではありません。なぜならばイスラムがよく使っている言葉だからです。「ジハード」とかいって、聖戦というと、何か命がけで自爆テロを起こすような悪いイメージがあります。しかし本来、聖戦とは、「聖なる戦い」です。国を神の元に勝ち取るための戦いを意味するわけです。そのために「聖戦をふれなさい。」と告げておられるはずです。
 では、「聖なる戦い」とはなんでしょう。それは第一に「自分自身との戦い」かもしれません。我々が主の勇士となるために必要な聖なる戦いとは、「自分自身との戦いに勝利しなさい」という事だと思います。そうでないと、この国を勝ち取ることはできないのです。
 ローマ人への手紙七章十五節を見ると、なんとなく慰められる気がします。あの偉大な使徒パウロが語った言葉ですけれど、

『私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。』

と、彼は正直な告白をしているからです。
 私たちもクリスチャンになっても、やっぱり、強そうでも弱いですよね。もっと正しく聖く、神の前に生きたいと願うけれど、思いとは裏腹に行動は付いて行っていない現実があるからです。
 パウロもそんなところがあったみたいです。あれほど真剣に神に仕えた使徒であっても、自分の思うことをしているのではなく、自分の憎むことを行なっていると言うのですから。彼の中には、まだまだ、肉の古い性質があったわけです。「俺達が弱いのは当然だな」と思ってしまうわけですけれど、そこだけ読んで終わってはいけないのです。ローマ人への手紙を読み進んでいくと、七章にはそのように記されていますが、十二章には次のように記されています。十二章二節、

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

 このようにも、パウロは語っています。「この世と調子を合わせるんじゃない!」と。
 日本には、周りと調子を合わせてうまくやっていくのが美徳のような考え方があり、周りを見ながら、自分をどこに位置づけようかという心理がすぐに働くわけです。
 どうして日本人がこのような心理状態になったのかというと、それは歴史が関わっていると思うのです。
 先週もちょっとお話したのですが、日本人が本気でクリスチャンになろうとすると、ブレーキをかける力が強く働きます。どうしてかというと、日本人は歴史の中でマインドコントロールされている面があるからです。私は現在、日本人にかけられている「時代のマインドコントロール」(注:「時代」とは、時間の継続性の観点で特徴を持ったひと区切りを意味する)から解かれるように祈らなくてはならないと教えられているのですが、日本は江戸時代に、クリスチャンになれないシステムが出来上がったのです。
 先週もお見せしましたが、江戸時代の掲示板に「高札」というのがありました。そこにはキリシタン禁令と共に、キリシタンを見つけたら褒美をあげると記されていました。

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 「バテレン」とは宣教師の事ですが、それを見つけたら「銀五百枚」というのです。銀五百枚が現代では一体、どのくらいの値段なのかを先週、私は調べてみました。それを今のお金に換算すると、なんと「三千五百万円」相当だそうです。すごい金額です。立ち返り人は、銀三百枚です。クリスチャン一人を発見して密告したら、二千万円近くのお金がもらえたのです。五人組という組織を作って、お互いに相互監視させ、クリスチャンになる人が出ないように監視して、見つけたら、二千万円くらい入ったわけです。だからみんな真剣になって、お互いを見張ったわけです。
 それと共に、もしもクリスチャンであることが分かっていて黙っていたら、連帯責任でした。連帯責任で全員殺されたそうです。今でも銀行でお金を借りる時は、連帯保証人っていうのがありますが、あれは気をつけたほうがいいです。銀行関係者の方もおられますけれど、気軽に連帯保証人なんかになると、支払いが滞ると同じように請求されるわけです。連帯保証人がどこから始まったのかというと、五人組から始まったそうです。五人組の中で誰かが借金するときは、五人組の中で連帯して保証しなければならなかったそうです。
 「欠け落ち」という言葉知っていますか?それは男女がどこかに逃げることではないのです。五人組の中で一人が逃げると、その欠け落ちた年貢を他の人が連帯して保証しなければならなかったのです。
 そんな社会が三百年近く続いたのです。それで人々は他人を恐れ、人の目を気にして生活するようになったのです。そのようなシステムが、江戸時代にできたわけです。だから日本人には、自分を前に出せない精神状態がDNAの中に組み込まれてしまったのではないかと思います。他人と違ったことをしたらまずいと。
 みなさんの中でも、そのような気持ちが少なからずあるのではないでしょうか。私の中にもあります。これって、「俺は日本人だからしょうがない」じゃないのです。三百年間近く、江戸幕府によってマインドコントロールされた結果、そのようになったのですから。
 しかしクリスマスは、時代のマインドコントロールから解かれる絶好の機会です。日本人が最も教会に来やすい季節ですから。日本人は無理してでも教会に来なければいけないのです。そうすると日本人は、時代のマインドコントロールから解かれるわけです。私たちは主の勇士となって、クリスマスは、日本人のマインドコントロールが解かれる季節として、家族や友人を教会にお連れしましょう。
 常に私たちは自分との戦いの中にありますが、日本人に生まれただけで、すでに時代のマインドコントロールに縛られていますから、知らないうちに、この世と調子を合わせるようになるのではないでしょうか。それで神の御心がわからなくなってしまうのです。私たちは、このマインドコントロールから、解放されなければいけないのです。
 そのためには、まず、『心の一新によって自分を変えろ』と聖書は告げています。決断が必要です。決断しなければいけないのです。今日、教会に来るのも、決断と共に来られましたね?「教会に行くのどうしようかな〜。夜には中日戦もあるしな〜。体力をちゃんと整えておかなくちゃ」なんていう人はいるのかわかりませんが、「礼拝に行くのやだな〜。でもやっぱり行こう!」と決断して、来ることができたわけです。いくら教会に来たいと思っても、決断が出来なかったら来れなかったわけです。人間はもちろんマインドコントロールされたり、様々な影響を受けやすい動物ですが、自分の決断でどうにでもなる面もあるわけです。やっぱり、心の一新によって自分を変えろと告げる聖書は正しいのです。でも、ちょっと厳しい気がすることも確かです。
 しかし同時に、ユダ書を見ますと、ユダ書二十一節、

『神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。』

 ここでは『神の愛のうちに自分自身を保ち』と語られているように、すなわち「神の愛の中で決断しなさい」ということです。誰かを愛していると、その人のための決断は苦痛じゃないですよね。誰かを愛していたら、愛している人の言うことを聞くのは全然、苦痛じゃないのです。
 川柳の中に「離さない。十年経てば、話さない」というのがありましたけれど、出会った時は「君を離さない!」と言うのですが、結婚して十年、二十年経つと、「話さない」というように変わるのです。愛が失せてくると、頼まれることがうざくなります。
 私たちはどのような中で決断するのか?それは神の愛の中で決断しなさいと聖書は告げているわけです。そして、あなた自身の戦いに勝つために、聖戦をふれなさいというのです。
 今日もしも、「私には決断が必要だ!」という領域があったら、神の愛の中で心を決めて下さい。「私は心を引き裂いて日本のために祈っていなかった。街のために祈っていなかった。親族の救いのために祈ることが欠けていた」と感じたなら、決断してください。「私は祈ります!」と。
 また、「罪から離れるように主から語られているけれど、まだまだ負けていた、でも、決断が必要だ!」と。

 『聖戦をふれなさい』という命令の中で、何が聖戦なのかというと、ヨエルが再三、「聖めの集会を持て」と語りました。国が荒れ果て、大変な状況になった時、「まずは神を信じる者たちが、聖めの集会を持ち。悔い改めの集会を持て」と語られたのです。
 これは何を意味しているかというと、聖戦とは、「罪との戦い」です。私たちは、世界の不幸の源が罪であることを、はっきりと知らなければいけません。罪と妥協せずに、罪と戦わなければならないことを聖書は告げています。ヘブル人への手紙十二章四節、

『あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。』

 ヘブル書の記者は語っています。罪から離れる決断が必要だと。引っ張られるけれど、がまんして決断だというような消極的なものではなく、一歩進んで「罪と戦え」と命令されています。「罪と戦って血を流すほど抵抗したことがない」とありますけれど、私たちが「罪を敵として、罪に立ち向かう勇士となる」それが聖戦です。その為の聖戦をふれるのです。
 聖書が告げている罪に関して、私たちはどのくらい厳しさを持って受け取っているでしょうか。案外、甘い考えを持っていることが多いのかもしれません。
 聖書の中の一番大きな罪は何かというと「偶像礼拝」です。十戒の最初の戒めは『わたしの他になにものをも神としてはならない』です。偶像礼拝、これが最も大きな罪です。『罪と戦って、血を流すまで抵抗したことはない』とありますけれど、日本で偶像礼拝に関して、本気で戦い始めたら血が流されるくらいの迫害が起こるのかもしれません。
 先週もお話しましたが、偶像礼拝が神が喜ばれない最大の罪であり、それは「悪霊礼拝」だとしっかりと認識し、聖戦を宣言しなければなりません。

 聖書の罪の概念を集約して、大きな罪だと私が考えている罪は三つあります。人間には、「霊と魂と肉体」がありますが、霊的な罪で最も大きいのが偶像礼拝です。
 そして、もう一つ偶像礼拝と並んで、偶像礼拝と同じ比重の重大な罪が、肉体的な罪「性的罪」です。性的罪は偶像礼拝と同レベルの罪です。今日の日本は性的にたいへん乱れ切っています。この罪に引き寄せられたり、魅力を感じてはいけないのです。『あなた方はまだ罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがない』とありますけれど、これが本当に神の前に大きな罪であり、国を滅ぼしてしまうほどの罪であることを理解し、危機感を持って激しく戦わなければなりません。このことについて戦えるのは教会だけです。人々に対して「性的な罪は大きな罪です!」と、聖戦を宣言しなければならないのです。
 そしてもう一つ「憎しみ」です。憎しみが世界を破壊します。憎しみによって、最終的には戦争になり世界を滅ぼすわけです。集約すれば、偶像礼拝、憎しみ、そして性的な罪「霊、魂、肉体」の罪は、神のみ前に大罪であり、人類を滅ぼすほど、危険で恐ろしいものです。
 私たちに、血を流して抵抗するほどの気迫がないと、罪と戦うことは出来ません。その気迫がなければ、国を変えることはできないのです。「聖めの聖会のふれを出せ」とヨエルが告げましたけれど、イエス様の十字架の血潮によって聖くならなければ、神の国を見ることは出来ません。自分自身との戦い、罪との戦いに関して、聖戦をふれなさいと語られています。

 『聖戦をふれよ。』もう一つの聖なる戦いは、「いなご」とは、敵国を表しています。それは霊的には「悪魔と悪霊どもの組織」との戦いを指します。すなわち「霊的戦い」です。第一ペテロ五章八節〜九節、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

と書かれています。ここから「苦しみ」と「ほえたける敵である悪魔」の働きに関連性があるのが分かります。人生に起こる様々な問題には「霊的側面」があるというです。私たちの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っているというのです。
 もしも霊的な世界が見える眼鏡があったら、恐くて一歩も歩けなくなるかもしれません。あまりにも敵が多いから。敵が見えないからいいようなものですが、悪霊どもが私たちに迫っているわけです。獅子にとっての獲物は、やはり弱った動物です。弱った動物を猛獣は狙うわけです。我々クリスチャンも、自分自身の戦いに負けたり、罪に負けたりすると、悪魔の餌食になってしまいます。ですから、我々は、堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かわなければならないことを教えられます。ヤコブの手紙四章七節、

『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

 我々が神に百パーセント従うと共に、一方では、「悪魔に立ち向かう」ことが必要です。この点についてはいつも話していますから、これ以上話すこともありませんけれど、霊的戦いが『聖戦をふれよ』の意味であると信じます。

 そして、もう一つ、聖戦をふれよとは、第二テモテ四章二節、

『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』

 聖戦をふれよ、四つ目は「福音宣教」です。私たちが、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなければならないのです。
 先ほども話しましたが、十二月は時がいいのです。クリスマスは、福音を伝える絶好の機会です。十二月は日本人が時代のマインドコントロールから、一時的に解放される季節です。普通は「教会に行ったら、あの人はどう思うかな・・・、私がクリスチャンになったら、あの人はどう思うだろうか・・・」と、五人組の縛りがありますから、教会に行けないのですが、クリスマスは「教会行ってもいいんじゃない」と、自由に教会に来れる季節です。十二月は、時代のマインドコントロールが弱くなる期間ですから、この時にこそ、私たちは主の勇士となって、福音を伝えましょう。

 キリストのからだの中で、それぞれ役割があると思います。「福音を語れというけど、私は話すのが得意じゃない」という人もいるかもしれません。
 でも、話すのが得意じゃなくても、それぞれ得意分野で主のために働けばいいと思います。よく話をする人は福音を伝えればいいし、愛を表すことが出来る人は愛を表すことで福音を伝えればいいし、誰かを誘うのが得意な人は誘ったらいいのではないでしょうか。それぞれの賜物において、神のみ前に奉仕したらいいと思います。
 名前は体を表すとありますけれども、うちの孫に「架語/かたる」というのがおりますが、「何か、よくしゃべる雰囲気の名前をつけたな」と思っていました。両親はあまりしゃべらない方なので、おしゃべりな子にはならないだろうと思っていました。しかし彼女は、この頃は朝から晩まで異言を語っているようです。彼女の言葉は分かりにくいので、「異言を解き明かす力をください」という感じですが、よく分からない言葉を一日中話しています。また、私たちの会話も注意深く聞いていて、すぐに行動するのです。「おなかが痛い」などと私が言うと、すぐに走って来て、「アーメン!」と言って手を置いて祈るし、ちょっとけがをしたりすると、バンドエイドを持ってきたり、昨日も、「ひもがないかな・・・」なんて言ったら、「はい」とひもをどこからか探して持ってきたり、結構、こまめにやる性格なのかなと思います。幼い時から、神様は人に能力を与えていると思うのです。与えられた能力をフルに生かし、神の前に仕えていくならば、神の国は広がっていくのです。

 『聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。』子供たちから、またおじいちゃんおばあちゃんまで、全員参加型で聖なる戦いを宣言しなければならないのです。
 第一に「自分自身との戦い」、二番目に「罪との戦い」、三番目に「霊的な戦い」、そして、福音を伝える「宣教の戦い」です。そして、ここにおられます全ての方々が勇士なのです。

 ヨエル書三章には、同時に勇士になる為の条件が記されています。ヨエル書三章十節、

『あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。』

 まず、鋤を剣に、かまを槍に打ち直しなさいというのです。鉄という物質は、人類になくてはならない物質です。鉄を十キロもらったとします。それで鋤とか鍬とか鎌とか農作業の道具も作ることもできるし、一方では、剣も作ることができるわけです。戦争のための武器も作ることができるわけです。同様に、私たちも、神から与えられた能力をどう生かすかです。
 ここで特に、「鋤を剣に、かまを槍に、打ち直せ」ということは、鋤とか鎌は自分の糧を得るための農機具です。自分の食いぶちを用意するための道具です。しかし、それを武器に打ち直せというのです。太平洋戦争を体験された方々は、金属類を供出させられた思い出があるかもしれません。今まで自分のために使っていたものを、非常時には、敵との戦いの武器に打ち直したのです。
 私たちが自分のためにだけに時間や能力を使うのではなく、神のために、神の聖なる戦いのために、同じ能力を転換し用いてくださいということを意味していると思います。与えられている時間の中、自分の時間として使っていたのを、今度は神の為に、国の未来のために、福音を伝える為に使うとき、鋤が剣に、かまが槍に変えられるのです。

 そして、『弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ』とあります。ここにおられる方々、私を含めて、誰もが強いとは言えないと思います。自分との戦いの中で、「自分は弱いな」と感じているかも知れません。しかし「私は勇士だと言わせなさい」と命令されています。子供たちからお年寄りまで、非常時は、全員が勇士だと宣言しなさいというのです。
 今日、ここにおられますすべての方々が「私は勇士だ!」と宣言しましょう!人間は口の言葉で支配されます。「私はできる」というような、自己実現のために告白の力を使ってはいけません。しかし主のために「私は勇士だ!」と宣言する必要があるのです。「私は駄目だ。私は馬鹿だ」なんて言っているとうまくいきませんが、「私は勇士だ!」と宣言しなさいというのです。今日、私たちは主の勇士であると宣言して、主の前に出て行きたいと思います。
 そして、ヨエル書三章十一節、

『回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。』

 一九九三年、甲子園でリバイバルミッションが開かれましたけれど、その時に掲げた御言葉の一つが、このヨエル書三章十一節のみ言葉でした。『急いで来て、そこに集まれ』という御言葉を使って、全日本の教会に召集令状を送ったのです。「急いで集まって、日本のリバイバルのために祈りましょう!」と伝えました。
 一九九二年、一九九三年、結構日本中に祈りのムーブメントが広がりました。甲子園球場は六万席あったのですが、三日間で十八万人が集うようにと、参加される一人につき一時間の祈りを積みましょうと呼びかけました。それで「十八万時間祈祷」というプログラムを立てました。そんな祈りの運動を展開しました。あの時、全国の教会が祈りに燃えたのです。どれだけの祈りが捧げられたのか。一時間祈るとハガキに一マス塗って事務所に結果を送ってきました。それを集計しただけで、三十二万時間の祈りが捧げられました。それで甲子園ミッションは本当に祝福されました。「急いで来てそこに集まれ!」と。
 私たちも主の前に集まって、真剣に祈らなければいけないのです。今日、こうして私たちは遠くから近くから、礼拝に集まっていますけれど、「集まる」というのは大変重要です。たとえ小さい火でも、集まる時に大きく燃えるのです。今日は集まって、共に御言葉から学ぶ時に、主が油をそそぎ働いてくださるのです。主のために、率先して集まる者でありたいと願っています。
 ヨエルが語ったように、私たちは集まって聖めの聖会、日本の未来のために真剣に祈る者でありたいと願っています。それがただのパフォーマンスではなく、心引き裂いて悔い改め、祈る者になりたいと思います。特に来るべき二〇一二年は、そのような年にしなければならないと思っています。

 ヨエルが「主よ、あなたの勇士たちを下してください!」と祈っていますけれど、勇士とは、「あなたの勇士」すなわち、主によって任命された勇士なのです。それは聖霊によって導かれた、聖霊によって満たされた人たちの群れを意味します。主の勇士達を国に送ってくださいと祈っているわけです。まさしく日本に、そのような勇士の軍団、聖霊に満たされた、主の御心を捕らえた勇士たちが出現し、この国のリバイバルのために祈り始めることを、主は強く願われているのではないかと思います。

 今日、私たちはヨエル書から、主の宮に集まり、心引き裂いて祈る姿を学び、行動するなら、決してこの日本は見捨てられることはないと信じます。
 必ず主は日本を回復してくださるのです。『主が思い直してあわれみ、その後に祝福を残し、またあなた方への神。主への穀物の捧げものと注ぎのぶどう酒を残してくださらないと誰が知ろう。』と。必ずリバイバルに繋げてくださると、堅く信じる者です。

 最後に、みなさんとご一緒に祈りたいと思います。今から聖餐の一時を持ちますけれど、イエス様が私たちの身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださいました。そのことをもう一度思い、「主よ、私を勇士としてください」と、子供からお年寄りまで、全員で祈りましょう。
 「日本は非常事態です。今こそ、日本のクリスチャンたちが目を覚まし、祈ってください!」と主が強く、語られていると思います。
 しばらくみなさんでご一緒にお祈りしたいと思います。「聖戦をふれなさい」とお話をさせていただきましたけれど、自分自身との戦い、罪との戦いで敗北していたら、霊的戦いに勝利することはできません。「主よ。私は決断を持って主の前に出ますから、自分自身との戦いに勝利させてください」と、「罪との戦いにも勝利させてください」と聖餐を前にして、みなさんで祈りの時間を持ちたいと思います。
 イエス様の尊い十字架の血潮によって、罪、汚れを聖めていただいて、「私は勇士だ!」と宣言したいと思います。しばらくの間、みなさんでご一緒にお祈りの時間を持ちましょう。

 ハレルヤ。父なる神様感謝します。今聖餐式を前にして、私たちは主の前に出ています。まず私たちが自分自身との戦いに勝利することができますように。この世と調子を合わせるのではなく、心の一新を持って、私たちは神の前に出ます。罪との戦いに勝利させてください。罪を憎み、悪魔に立ち向かう者として下さい。
 今日は日本の未来を託されている、主を信じる者たちが今ここにおります。どうか一人一人の心をご覧下さい。私たちは衣ではなく、心を引き裂いて主の前に出ます。主よ、どうか私たちを十字架の血潮で聖め、この国のリバイバルのために用いてください。十字架の血潮による聖めを与えてください。聖餐式の一時を祝福してください。イエス様の御名を通して祈ります。アーメン。