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『先生。目が見えるようになることです!』

2011.12.11(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
マルコによる福音書 10章45節〜52節

『人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。』

 ハレルヤ!おはようございます。今の聖歌隊の賛美、すごかったですね。目をつぶって聞いていると、中世の大聖堂にいるような感じがしました。けれども、目を開けてみると新城教会でした。ここまで歌えるようになるには、相当練習したのだと思います。私はいつも礼拝が終わると、祈りを必要としている方々のために、祈らせていただいているのですが、私の大きな祈りの声にめげず、側で練習されています。相当、私の声は邪魔だろうと思っていますが、本当に素晴らしい賛美を聴かせていただきました。ありがとうございます。そしてクリスマスだな、と感じました。

 すでに、新城教会ではクリスマス集会が始まっています。昨日はその先駆けとしまして、「子供クリスマス」が開かれました。毎年、子供クリスマスはたいへん祝福されています。子供たちが自主的に集まって、この地域を歩き回り、暗闇の力を打ち破る祈りをするのです。そして友達をクリスマス集会に誘うわけです。毎回、動員目標を立てるのですが、いつもその目標を信じないのは大人たちです。今年は子供たちは何人集める目標を立てたかというと、「八百人」だそうです。しかし、上條先生が五十パーセントオフの四百人にしたそうです。しかし、なんと神様はちょうどよく、昨日、五百二十二名を集めてくださいました。私の撮ったビデオをお見せしたいと思います。



 なかなか素晴らしいでしょう?子供達に大きな拍手をしてあげてください。子供たちが祈って準備した集会です。五百人以上がこの歌を大合唱したのです。これは毎年、全員が歌わされている歌です。みんなすでに知っているのです。学校に行くとこの歌を教室で歌うそうです。それで学校から時々クレームがつく事もあるのですが、でも、この歌の内容は本当ですから。「イエス様を信じたら天国に行ける。信じなかったら地獄に行っちゃうよ」と歌っています。なかなか究極的な歌です。でもイエス様の御名を告白するのは素晴らしいことです。

 人生は突然、信じられないことが起きます。子供たちの将来にも何が起こるかわかりません。しかし、イエス様の名前を知っていたらどうでしょうか。救われるのです。そして永遠のいのちを得ることができるのです。
 今日はみなさんのために、「人生、何が起こるかわからない」というテーマの映像を用意しました。ちょっとご覧になってください。


 これはやらせじゃありません。本当に起こったのです。こんな結婚式もあるんですね。もう一つの映像は、韓国の牧師先生から教えてもらった映像をお見せしたいと思います。



 本当に人生はいろんなことが起きるわけです。けれども何があっても、イエス様を信じていたら問題ありません。
 はい。気を取り直して、聖書の御言葉を学んでいきたいと思います。

 今読んだ節の四十五節にこのように書かれていました。

『人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』

 このクリスマス、イエス様が地上に来てくださいましたけれど、その目的が記されています。この箇所は、盲人の乞食、社会の中で最も弱い人がイエスさまによって救われ、目をいやされた箇所です。
 イエス様は盲人にこう語りました。五十一節。

『「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」』

 今日、みなさんのところにイエス様が来られて、「わたしに何をして欲しいのか?」と聞かれたら、みなさんはどのように答えるでしょうか。この盲人は「先生。目が見えるようになることです。」と率直に、自分の願いをぶつけました。すると、その通りになったのです。クリスマスは、私たちのために救い主が生まれてくださったわけですから、盲人の乞食と同じように、私たちにも聞いてくださるはずです。「わたしに何をして欲しいですか?」と。
 みなさん、今日は、自分がイエス様にして欲しいことを、率直に申し上げたらいいと思うのです。

 それと共に、この箇所で教えている意図をしっかり汲み取ったら、盲人がいやされた時と同じ状況を作る事が出来ます。
 この盲人はイエス様が近くに来たことを聞き、叫び声をあげました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください!」と、周りの制止を無視して大声で叫んだのです。
 「ダビデ」というのは、紀元前千年くらいのイスラエル、第二代目の王様です。今から三千年以上前の王です。しかし今でもイスラエルに行きますと、ダビデ王はヒーローです。みんなダビデ王を慕っています。
 この「ダビデの子イエス様」という叫びは、何を意味しているのでしょうか。ダビデは王ですから、その子だとしたら、イエス様も王であることを意味しています。盲人は乞食をしていましたけれど、聖書をよく知っていた人物でした。
 イザヤという、イエス様が生まれる七百年前くらい前の預言者がこんな預言をしています。イザヤ書九章六節〜七節、

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』

 ダビデ王の時代、イスラエルは最も強かったのです。国は回復され繁栄していました。しかしその後、いろんな事件があってイスラエルは弱くなり、イエスさまの時代はローマの属国になっていました。
 しかしイザヤは預言していました。再びダビデの王座に着くような、イスラエルの王が生まれると。それはただの王ではなく、『「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』と預言していたのです。イザヤ書九章六節の言葉は、実に、イエス様の誕生を預言していたのです。
 イエス様はどのような家系に生まれたのかというと、「ダビデの家系」に生まれました。初めて聖書に接する方は、新約聖書、マタイの福音書から読み出すと、すぐにつまづくのではないかと思います。なぜなら、最初に出て来るのは家系図だからです。マタイの一章一節、二節、

『アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、』・・・・・。

生まれ、生まれ、生まれて、生み疲れ、という感じで、私たちが読むと「なんでこんな家系図なんか最初に出て来るわけ?」と思うわけです。このような表現は日本人には馴染みがないのですが、マタイの福音書は一義的にはユダヤ人に対して書かれたと言われます。ユダヤ人がこれを読んだら「本当だ!旧約聖書の預言通りだ!」と分かるのです。マタイの福音書一章十七節、

『それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。』

 マタイはイエスさまの家系を十四代、十四代、十四代と分けました。しかし、実際に調べてみると、十四代ではありません。結構、間引きしてあるのです。なぜ、アブラハムからダビデまでが十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代と、「十四」という数字にこだわったのかというと、実は十四という数字に意味があるのです。「ダビデ」という言葉をヘブル語で表記すると、ヘブル語の子音は数字を表していて、「ダビデ」というのが、「四・六・四」で足すと「十四」になるのです。十四という数字を見たらユダヤ人は気がつくのです。「あっ、これはダビデ王のことを言っているのだ。ダビデの子孫に救い主がお生まれになる、それがイエスさまだ」と。
 ユダヤ人は旧約聖書を知っていましたから、それを理解してマタイは意図的にそのように書いたのです。
 この盲人の乞食のおじちゃんも、道ばたに座って物乞いをしていたのですが、彼は旧約聖書を知っていたのです。彼もまた、救い主が来られることを、ダビデの子孫から王座が回復することを待ち望んでいた一人でした。
 彼は目が見えませんでしたから、イエス様の顔を見ることができませんでした。でも、いろんな所から耳に入って来る噂や情報により、「これは聖書が預言している、ダビデの子ではないだろうか。イエス様は救い主ではないだろうか・・・」と心に信じ、期待していたのです。

 やがて彼の街に、イエス様がやって来たわけです。彼は盲人でしたから、その時感じたのは、人々のざわめきや周りの喧噪だけです。「何かちょっと街に変化が起こっているぞ!なんか起こっている!何だろう?」と。
 そして耳を澄ますと、イエス様がこの街にやって来たという情報をキャッチしたのです。その時、彼はなりふり構わず、大きな声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください!私をあわれんでください!」と叫んだのです。そしてその叫び声が、イエス様の耳に入ったのです。

 盲人の乞食、バルテマイという人物は、ある意味で私たちと条件が同じではないかと思うのです。私たちも現代において、イエス様を見ることはできません。でも、どうでしょうか?私たちはイエス様を信じていますよね。目で見ることはできませんけれど、イエス様が近くに来られるのを、色々な状況下で感じます。教会で賛美をしている時にも感じます。今日の礼拝の会衆賛美、聖歌隊の賛美の中、目には見えないけれど、イエス様がおられるのを感じます。私は今朝、主の臨在をひしひしと感じました。そんな時、私たちはこのバルテマイと同じように、「ダビデの子イエスさま!」と叫んでイエス様を呼び止め、願いを聞いていただくことができるはずです。

 聖書は、しっかりとした意図を持って書かれています。何を伝えたいのか、しっかりとした意図を持って書かれているわけです。今日はマルコの福音書十章を読みましたが、十章をまたゆっくりと読んでみてください。マルコという記者が、ただイエス様に付き沿って行動し、何の意図もなく行動を記録したのではなく、伝えたい事柄、しっかりしたコンセプトを持ってこの章を記していることがわかります。
 十章を見ると、子供たちがイエス様のところに来たことから始まっています。その時、弟子たちはどんな態度を取ったのかというと、マルコ十章十三節、

『さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。』

 昨日も、子供たちが多く集まって主を賛美しました。純粋に主を賛美している姿を見て、本当に感動したのですが、当時のイスラエルで子供はどのような存在であったかというと、今の社会とは全く異なっていました。当時、子供とは価値のない存在の代名詞のように考えられていました。労働力にもならない子供は、社会的に価値がないと考えられていたのです。だから、大人たちは子供が来ると「あっちへ行け。仕事の邪魔だ。」と追い払ったのです。
 私の子供の頃も、まだまだ子供の人権が低いところがありまして、私が鼻水をたらしながら「おじちゃん〜遊んで」なんて近づいて行きますと「うるせぇな、ガキはあっちへ行け」とよく言われたものです。イエスさまの時代はそれよりももっとひどい状況であったと思います。「子供はあっちへ行け。あっちへ行け!」と追い払われたわけです。
 大人たちは、子供なんか全く気にしていない時代でした。当時は幼児死亡率もたいへん高かった時代です。国の未来は子供にかかっているわけですから、本来は子供たちを大切にしなければならないのです。しかし、そんな文化的環境があったわけです。しかし、イエス様は何と言われたのでしょうか。マタイの福音書十章十四節〜十六節、

『イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。』

 イエス様は当時のイスラエルの文化とか習慣に毒されていた方ではありませんでした。先週もお話しましたが、日本人は知らないうちに、日本の文化とか習慣に毒されていて、キリスト教に対して恐れを持っています。教会に行くと大変なことが起こるかのように考えています。そして偶像礼拝をするのが当然のように考えています。それは日本文化の影響です。
 けれども、イエス様は決して国の文化に媚びっていたわけではないのです。神の国の文化を社会に広げたお方でした。一般の文化では「子供は取るに足らない存在」と考えていましたが、イエスさまは「そうじゃないですよ!子供を私の所に来させなさい」と語ったわけです。そして子供を祝福されました。これは、当時としては画期的なことであったわけです。
 十章をさらに読んでいきますと、イエスさまの考えは普通の社会の考え方や文化・習慣とは全く違った世界観をもっておられたことが分かります。
 その後、金持ちがイエスさまのところに来て「永遠のいのちをもらうためには、どうしたらいいのでしょうか?」と問いかけました。しかし最終的にイエスさまが弟子たちに語られたのは、「裕福な者が神の国に入ることはなんと難しいことか」でした。
 続いてゼベダイの子、ヤコブとヨハネがイエス様の所に来て、盲人の乞食と同じように、イエスさまに一つの願い事をしました。マルコの福音書十章三十五節〜三十七節に記されています。

『さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」』

 イエス様は分け隔てなく、盲人の乞食にも、ゼベダイの二人の息子、ヤコブとヨハネにも「何をして欲しいのか?」と聞かれています。
 ゼベダイの二人の息子たちは何をイエスさまに頼んだのかというと、「あなたはやがて王になるでしょう。その時、私も入閣させて大臣にしてください」と頼んだのです。彼らの願いは「自分たちが偉くなりたい」という願いでした。
 この世の人たちは、人に仕えるよりも、誰かから仕えられたい、少しでも偉くなりたい、少しでもみんなに差をつけたい、上に登りたいという考えです。社会はそのような考えで、古代から現代まで成り立っています。その頂点が誰かといったら、やはり「王様」です。王様は、全ての権力、権威を掌握した存在です。権力の頂点が王様でした。
 イエス様は王家に生まれ、正真正銘の宇宙の王です。その方が人の姿を取り、地上に来られたわけです。普通ならばどうでしょうか、みんなから仕えられ、「俺が一番偉いんだぞ」と権力を振るうはずです。しかしイエス様がこの地上に来たのは、この世の文化ではなく、天国の文化によって来られたのです。それがみなさんと一緒に最初に読んだ箇所でした。十章四十五節、

『人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』

 なんと宇宙の王なる方が人となり、被造物である人間に仕えるために来てくださったのです。そして多くの人の贖いの代価として、ご自分の命を十字架上で捧げるために来てくださったのです。それは究極のへりくだりの姿です。
 イエス様は、誰かから仕えられるためではなく、人に仕えるために来られたのです。この宇宙の王は、「私を大臣にしてください」というような人たちの祈りを聞くためではなく、「へりくだった、力のない、何の望みもない人々の祈りを聞くために来てくださった」のです。盲人の乞食とは、正真正銘、社会の弱者でした。
 よく話すのですが、イスラエルに行きますと、その国の文化とか習慣が見えますから、聖書の時代とか背景を垣間見ることができます。私もイスラエルに十回くらい行ったのですが、時々、バルテマイのような乞食にも出会います。イエス様が十字架を前にして祈りを捧げられたゲッセマネの園とか、三日後に甦られた園の墓の前に行きますと、ぼろぼろの服を着た女の人が、ハエがいっぱいたかった赤ちゃんを抱いて手を出していることがあります。私は最初にそこに行った時に、その親子を見てたいへんかわいそうに思いました。また、この聖書の記事を思い出して、バルテマイもこんな感じだったのかなと思って、私は感動して、おばちゃんの手に一ドル札を握らせてあげました。それからツアーバスに乗りました。「俺は今日、本当にいいことをしたな・・・」と、なんか心が暖かかったです。
 そして、次の年にも同じ場所に行きました。そうしたら、なんと、同じおばちゃんが同じサイズの赤ん坊を抱いて、手を差し出していました。前の年は感動したのですが、よく見たら、昨年の赤ん坊は成長してないし、去年の赤ん坊とはちょっと顔が違うような感じでした。ちょっと不思議に思いました。そしてだんだんと分かってきました。「これは本物の乞食じゃない・・・」。
 だいたい、世界中から観光客が来るような一等地で店を出せる乞食は、世界で一番裕福な乞食ではないでしょうか。ただ座っているだけで、世界中の人たちからお金をもらえますから。それは世界中の乞食が店を出したい、あこがれの場所なはずです。
 後からガイドさんに聞いてみました。すると、そういう人たちはたいへんお金持ちで、高級ベンツなんかに乗っていて、すごい家に住んでいる人もいるそうです。しかし朝になったら、仕事用のぼろぼろの服に着替えて、仕事用の赤ちゃんに仕事用の化粧をして、砂をいっぱいかけて出かけて行くそうです。一日、その場所に座っているだけでたくさんのお金が入るのです。仕事が終わると、彼らはすぐにシャワーを浴びて、着替えてディスコに行くと言っていました。「なんだ、俺は騙されていた・・・」と分かってからは、お金をあげなくなりました。イスラエルに行った時は、ちょっと疑いながら見てから、めぐんであげて下さい。
 でも、このバルテマイという盲人の乞食は、本物の乞食でした。彼になんの希望もありませんでした。そんな乞食の叫び声に、イエス様は耳を傾けてくれたのです。

 この箇所を見ますと、私たちがイエス様に祈りを聞いていただく秘訣も、同時に学ぶことが出来ます。それは、ゼベダイの二人の息子、ヤコブとヨハネのように自分の野望を実現する願い事ではいけないのです。「俺を大臣にしてくれ。もっと権力を与えてくれ。人を支配したいんだ」という願望ではなく、盲人の乞食のように「どこにも行き場がない。どうにもならない」という、どん底の人の願いに主は応えて下さるのです。
 私たちが、いわば乞食と同じようになって、イエス様のところに行き、「ダビデの子、イエス様、私をあわれんでください!」と叫ぶならば、イエス様は私たちの祈りを聞いてくださると教えていると思います。
 イエス様が地上に来てくださった目的は「心を傷ついた者をいやすために遣わされた」とイザヤ書にありますけれど、最も苦しんでいる人たちを救うために来られたわけです。

 イエス様のお生まれの第一報が誰のところに入ったりかと言うと、首相官邸に第一報が入ったのではありません。日本で大きなは事件が起きら、第一報は首相官邸に入ることになっています。それが遅れたりすると、首相は怒ったりします。
 けれども、救い主がお生まれになった第一報は、なんと「羊飼い」の所に入ったわけです。
 羊飼いとはどういう人たちかというと、これもイスラエルに行くとよくわかります。羊飼いとは、遊牧民です。今でもその子孫たちがいるのですが、ベドウィンと呼ばれる人たちです。ベドウィンという人たちは国籍も定かではありません。季節によって砂漠を旅する人たちです。
 イスラエルの地理的条件は、南にはエジプトが控えており、西にはローマ帝国が控えていました。周辺を大国に囲まれていました。イスラエルは大国の王が他国を攻める時、必ず足台、踏み台とされました。ユダヤ人はそもそも、常に苦しめられていた民ですが、そんな中で一番行き場を失っていたのが遊牧民達でした。今でもイスラエルに行くと、そのベドウィンの人たちに会うことができます。ベドウィンたちは何千年も遊牧生活をしていて、国籍も定かでない人たちでしたが、イスラエル政府は彼らを定着させようと努力しています。政府はベドウィンたちのために素晴らしい住宅を建て、「ベドウィンさん、ここに住んでください。部屋を見てくださいよ。立派でしょ。これは高級ホテルの五つ星クラスの部屋と同じです。どうぞお入りください」と住まわせるのですが、しばらくして政府の役人たちがベドウィンたちがちゃんと部屋に定着しているかを見に行くと、なんと、五つ星クラスの部屋にはやぎや羊が住んでいて、自分たちは外で寝ているそうです。
 「なんでこんな素晴らしい部屋を作ったのに、外で寝るんですか?」というと、彼らは「俺たちは五つ星より、満天の星の方がいい」と言うそうです。今でも彼らは定着できない弱者ですが、当時はもっとたいへんな生活であったでしょう。実は、彼らに救い主が生まれた第一報が伝わったのです。

 私たちが宇宙の大王、イエス様と会うために必要なのは、権威とか、権力、能力、お金ではなく、バルテマイのようにへりくだって、「もう行き場がないのです。助けて下さい!」と叫ぶ声に耳を傾けてくださるのです。

 このクリスマス、どのような人たちの所にイエスさまは来てくださったのかを学ぶ時、今日においても、イエス様と出会うことができ、願いをも聞いてくださるのです。私たちも、バルテマイと同じようになりたいです。

 彼はイエス様を感じた時、「ダビデの子、イエス様!私をあわれんでください!」と力の限り呼びました。イエス様はたいへん力がありましたから、イエスさまのお気持ちとは別に、周りはイエス様を現実的にも王にしようとしていたわけです。「これはすごい人物だぞ。イスラエルにすごい人が出たぞ。多分、王になるだろう」と。みんなでイエス様を王様にしたいと願っていましたから、乞食がそんな偉いイエスさまに叫んだものだから阻止しようとしました。「おまえはイエス様のような高貴な方に、下品な叫び声なんかあげるんじゃない!身分をわきまえろ」と。みんなでとがめたのです。
 しかしイエス様は、乞食のおじさんの叫び声に耳を傾け、「あなたはわたしに何をして欲しいのですか?」と尋ねたのです。
 神は人類が神と交わる方法を用意されました。それは「ダビデの子、イエス様!私をあわれんでください!」とバルテマイが叫んだようにへりくだって主に叫ぶという方法です。それは私たちに置き換えれば「祈り」です。
 必死の祈りが大切であることをここでは教えているのではないかと思います。イエス様の祈りからもその態度を学ぶことができます。ルカ六章十二節、

『このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。』

イエス様は地上に人として来られました。神の子としての特典や特権を使ったわけではありません。私たちと同じように、祈りが必要だったのです。祈りによって力を受けたのです。真剣な祈りを通して、父なる神に祈りを聞いていただいたのです。ヘブル人への手紙の記者は五章七節でこのように語っています。

『キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』

 現代においても、私たちがへりくだって、バルテマイのように神に叫ぶのは、イエスさまの祈りでもあります。私は韓国によく行きますが、今週、私は中国に行きます。中国は宣教禁止ですから、下手に宣教に行くと捕まってしまいます。しかし今回は、中国にある韓国教会から招かれています。外国人が、外国人の教会で奉仕するには問題ありません。三日間、奉仕しますので是非とも祈っていただきたいと思います。
 韓国に行くと、韓国教会になぜリバイバルが起こったのかわかります。それは熱い祈りによって起こったのです。韓国のクリスチャン達は、隣の人を気にしないで主に向かって大きな声で祈ります。

 私は、1970年、80年代に韓国で大きなリバイバルが起こっているのを聞いて、見に行ったことがあります。その時はすごかったです。ソウルに当時、ヨイド広場という飛行場跡地があったのですが、そこに百万人くらいの人たちが集まっていました。百万人が同じ場所に集まっているのを見たのは、後にも先にもその時しかありません。その人たちが何をしていたかと言うと、リバイバルのために叫んで祈っていました。「主よー!」と叫んで祈っていました。百万人の叫び声は、周りのビルのガラスが割れそうでした。
 でも、私たち日本人にはそんな熱意はありませんでした。「ようやるな・・・」というような感じで見ていました。私はその頃、祈りが好きではありませんでした。私はクリスチャンホームに生まれて、祈りや聖書を読むのが好きではありませんでした。なぜなら、父親の育て方が悪かったと思うのですが、父はスウェーデンの宣教師達から文化的なものも習って、我が家は七人兄弟でしたが、食事の前には必ず聖書を一章読んで、父が長い祈りをしました。七人兄弟で、ちょっぴりの食糧をみんなで狙っているわけです。その前に聖書を一章読んで、長い祈りです。拷問みたいなもんでした。私はいつも、いらいらしながら食事の席にいました。いつも食べ物ばかり見ていたので、一瞬にしてどちらが大きいかを見分けてしまう特殊能力が備わってしまいました。聖書を読むことや、祈ることがあまり好きではありませんでした。しかし韓国の人たちはみんな叫んで祈っていました。

 私は韓国の方々に聞きました。「韓国のリバイバルの秘訣はなんですか?」と聞くと、みんな「祈りが秘訣だ」というのです。私は「他にいい方法はないですか?」と聞くと、「ない、ない」と言うのです。
 朝、四時半くらいになると外が騒がしいのです。なんだろうと思って外を覗いたら、大勢の人たちが通りを行き交っています。何かを小脇に抱えて、小走りにどこかに向かって行くのです。日本で朝の四時半頃、小脇に何か抱えている人は新聞屋さん以外にありません。私は韓国は新聞屋が多いなと初めは思っていました。
 でもよく見たら、みんな聖書を小脇に、教会の早天祈祷に急いでいるのです。そして朝から叫んで祈っているのです。これはついてはいけないと思いました。私はリバイバルとは関係ないと思っていました。けれども、そのような頃は、私の祈りはほとんど聞かれませんでした。
 でも、私にも真剣に祈らなければならない時が来ました。バルテマイのようにどん底に落とされた時、主を叫び求め始めました。その事を通して、主が私にもふれてくださったのをを体験しました。

 時々、人生には突然の出来事が起こります。今日の映像じゃないですけれど、考えられないようなことが起き、どん底に落とされる事があるかもしれません。バルテマイという男は、旧約聖書を知っていたくらいの人物でしたから、乞食になる前はひょっとしたら、インテリだったのかもしれません。彼には地位があったかもしれません。でも、どん底に落とされていたわけです。
 そんな時、イエス様が彼の近くに来られたのです。彼は決してチャンスを逃しませんでした。だれが阻止しようと、「ダビデの子イエス様!私をあわれんでください!」と必死の叫びの祈りが、彼の奇跡につながったのです。
 私たちも日本のリバイバルのために、神の国の栄光のために、イエス様を呼び止める必要があるのではないかと思います。誰の所に立ち止まってくださるのかというと、イエスさまは宇宙の王ですが、へりくだった者たちの前に来てくださるのです。私たちも心を低くして、バルテマイのように、真剣に主を求めることが重要ではないかとこの箇所から教えられました。

 イエス様が「わたしの所にあの人を呼んできなさい」と言った時に、十章五十節を読んでみると、『すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。』と記録されています。バルテマイはイエス様が「来てください」と言ったら、今まで着ていた上着を脱ぎ捨て、イエス様の所に行ったのです。それは興味深い話しです。
 私も時々、家でリラックスしていると、誰かが家に来る時があります。シャツ一枚で短パンの時、お客さんが来たらすぐに上着を着て出て行くのです。しかしバルテマイは上着をわざわざ脱いで、イエス様のところに行ったのです。これは何を表しているのでしょうか。
 イスラエルの気候風土がわかると、なんで上着を脱いだのかがわかります。あの辺はすごく乾燥していて、ほこりっぽいのです。それで彼の上着はかなり汚かったと思います。そもそも彼は乞食でしたから、コインランドリーに行って上着を洗うお金もなかったわけです。だから上着は一番、汚く、ほこりっぽかったと思います。彼は、「こんな汚い上着のまま、イエス様の前に行くことはできない」と思い、彼の精一杯のイエス様に対する歓迎の心と配慮として、上着を脱ぎ捨ててイエス様の前に出て行ったのではないかと思われます。

 これは現代の私たちにも、同じことが言えます。私たちが神であるイエス・キリストの前に出る時、何が必要なのか。それは「上着を脱ぎなさい」ということではないかと思います。「上着を脱げ。そうしたら主の前に出られる」と教えているのではないかと思います。この箇所と関連して、ゼカリヤ書三章一節〜四節、

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」』

 大祭司ヨシュアは神の前に立っていました。でも、一方ではサタンが大祭司ヨシュアを訴えていたのです。前にも、ここからお話しさせていただきましたけれど、見えない世界で悪魔に訴えられる時、地上では苦しみがありました。敵が来て、実際的にも訴えられました。天の領域で訴えられる時、地上では実際的な事件になるという、見えない世界と見える世界が表・裏一体であることを現していると思われます。
 見えない世界でサタンが我々を訴える時、地上においてはいろんな問題となって現れるのです。
 その時、サタンが何を訴えていたかと言うと、「ヨシュアはろくでもないやつだ」とヨシュア自身を訴えていたのではなく、「彼の上着が汚い」と、上着の汚れを訴えていたのです。「なんでこんな汚い上着を着ているのだ!」と訴えていたのです。
 しかし、そんな時に周りからのとりなしがありました。「その汚い服を脱がしてあげてください。礼服を着せてあげてください」と。それでヨシュアの上着が取り替えられました。その時に何が起こったのか。
 地上の敵は力を失い、彼の仕事を止めることは出来なかったのです。私たちが訴えられるのは、何が訴えられるのかというと、それは衣の汚れです。盲人がイエス様の所に行った時、汚い上着を脱ぎ捨てたのは、「罪で汚れた衣を脱ぎ捨てなさい」と教えていると思います。大祭司ヨシュアは、イスラエルを代表していましたから、「イスラエルの民全体が犯していた偶像礼拝の罪」が汚れとなって衣を汚していたのです。
 私たちがイエス・キリストを信じる時、新しい衣を与えてくださるのですが、クリスチャンでも毎日の生活の中で油断をして罪に陥ってしまうと、衣が汚れるわけです。罪があると何が起こるのか。悪魔が神の御前に私たちを訴えるのです。「なんだ。その衣は。汚いじゃないか!」と訴えられる時、その結果が地上に現れるわけです。
 それでは何をしたら良いのでしょうか?ヨシュアと同じように、汚れた衣を脱ぎ捨てる、バルテマイと同じように汚い衣を脱ぎ捨てて、イエス様の元に行くのです。衣の汚れを洗うために、イエス様は、十字架の血潮を用意してくださいました。その時、主の前に祈りは受け入れられのです。

 教会にいろいろな方が来られますけれど、祈りの答えを受け取る時は、やはりこの原則に当てはまるのではないかと思います。この頃、教会において、素晴らしい奇跡を見ることができました。
 先日一人の女性が教会に来られました。昔から教会に来られていた方ですが、しばらくお顔を見なかった人でした。その方が久しぶりに来られて、祈りの列に付いていました。どうしたのかと聞くと、彼女は暗い顔をして言いました。「私は独身ですけれど、子宮に筋腫ができました。それも『巨大子宮筋腫』という病名です。なんでこんなになるまで放っておいたのですかと言われています。」と言いました。その筋腫は子供の頭の大きさくらいあると言うのです。すぐに手術をしなければならないということでした。それも大きな手術で、卵巣も、子宮も、腸の一部もすべて取り去らなければならないとのことでした。彼女は本当にへりくだって、神様の元にいやしを求めて来ました。私もそれを聞いた時、「この祈りが聞かれるのはなかなか難しいな・・・」と思いました。そして、どのようにしていやされるのか、想像も出来ませんでした。
 精密検査に入ったら、悪いことに貧血でこのままでは手術ができないということでした。それと血栓があったら手術できませんから、とのことでした。私は「そんな物はないだろう」と思ったのですが、調べたら、なんと血栓が足のつけねに見つかったのです。いろんな障害があって、解決するのはなかなか難しい状況でした。でも、彼女はへりくだって共に祈りました。特に、衣の汚れとなっている家系の偶像礼拝をよく調べて、手術までの一ヶ月、真剣に祈りました。その中で聖霊様が本当に強く働いてくださいました。
 祈りの中で彼女はいやしの信仰と確信を持ったそうです。それで医者に言ったそうです。「筋腫だけ取って、子宮も全て残してください!」すると、医者が「そんなの無理です」と言ったそうです。しかし本人があまりにも強く言うものだから、「一応そのつもりで手術を試みてみましょう。しかし開いてみてだめなら、全部取ることを了承してください」とサインをさせられたそうです。
 しかし結果は、血栓も消えて、貧血も正常になり、開けてみたら筋腫の周りが溶けていて子供の頭ぐらいの筋腫が、すっと取れて、子宮も全く傷つかなかったというのです。それで彼女は一週間くらいで退院し、教会に来ました。医者もこんなこと初めてだと言いました。本当に神様は愛なる方です。へりくだって主の前に出て、上着を脱ぎ捨てる時、いやしを与えてくださるのです。

 先週、もう一つ嬉しいことがありました。私の息子は東京に住んでいますが、息子の嫁さんは関西出身です。家族はほとんどクリスチャンですが、お父さんはクリスチャンではありませんでした。教会には行ってくれていましたが、洗礼を受ける決意は出来ませんでした。
 先日、そのお父さんに重大な病が発見されたというのです。それは胆管癌といって、たいへんややこしい病気です。それで家族一同、真っ暗になってしまいました。しかし、人間はたいへんなことがあると神に向かいます。お父さんは自ら、「私にもバプテスマを受けさせてください」と言って、バプテスマを受けたのです。それだけでも、たいへん嬉しかったです。病もひょんな事から偶然に見つかったので、普通は手遅れになって見つかる事が多いようです。見つかっただけでも感謝しなさいという程でした。しかし手術はかなり大変だというのです。
 私はお父さんが手術する前に、もしも汚い上着を着ていたらいやされませんから、それを脱がす解放の祈りをしなければいけないと思い、家内と関西まで行ってお父さんに会いました。それで三時間くらいかけて、衣の汚れとなっている原因を見つけて共に祈りました。お父さんは社会的にも地位のある方ですから、普通はなかなか心のうちを私のような者に話すのは嫌かもしれません。しかし、人は心が低くなるとなんでもします。私も、彼が完全に衣が礼服に替えられるようにと真剣に祈りました。
 祈りが終わるとお父さんは「私はこれで大丈夫だ!バプテスマも受けたし、牧師に祈ってもらった。私はいやされたと信じます!」と言っていました。
 私は「お父さんは以外と単純だな〜」と思っていました。その週に彼は、自分の担当医に言ったそうです。「私は教会でバプテスマを受けました。そして、わざわざ愛知県の牧師に祈ってもらったのです。だからいやされていると思います。ですから、もう一回検査してください。」と頼んだそうです。そうしたら、医者が笑って、相手にしてくれなかったそうです。
 私は、私の解放の祈りが、ちょっぴりでもプラスになったらいいと思って祈りましたが、お父さんはいやしの信仰を持ったのです。私はいやされたと信じることは出来ませんでした。しかし彼は信じたのです。しかし、なんとか再検査を要求したのですが駄目でした。
 それどころか「手術しなかったら、大変なことになりますよ」と脅されました。しかし彼は、「もしも手術して、ガンがなかったらどうなるのですか?」と聞くと、「もしもなかったら、治療はそれで終わりになります。」と言うのです。「でも、検査の時にガンが確かにあったから、患部を全て取り出し、細かい検査をするからはっきり分かる」というのです。手術して、細胞を顕微鏡で検査し、さらに、細胞を培養して、2ヶ月くらいかけて精密に検査するというのです。それで、はっきりした結果が出るというのです。手術した病院はガンの治療では有名な病院で、最新の方法で検査するというのです。「手術後にはっきり結果が出ますから、その時に話しましょう。」と言われて、手術を受けました。
 案の定、大手術で手術が終わっても、二十日間くらい身動きも出来ず、飲まず食わずでした。みんなたいへん心配しました。
 しかし、先週電話がかかってきました。なんと、細かい検査をしたけれど何も発見されなかったというのです。がん細胞が全くなかったというのです。「これで治療は終わり。明日退院」というのです。お父さんの信仰通りになったのです。
 医者が結果を持って来た時に彼にこう言ったそうです。「前にはあったのに、まったくありませんでした。これはあなたが洗礼を受けて、愛知県の牧師に祈ってもらったからかもしれません。」と。やっと医者も認めたくれたそうです。
 『あなたの信仰があなたを救ったのです』とありますけれども、信仰を持って神の前に出る時、祈りは答えられるのです。そのことをもう一度、確認させられ、教えられたような気がしました。
 お父さんは幼子のような信仰で、神に信頼したのです。私は信じきれずに「悪い物を取ってもらったらそれでいい。」と思っていましたが、「彼の信仰が病をいやした」と信じます。本当に良かったです。

 主は生きておられます。主はここにおられます。私たちをいやし解放するために来てくださっています。私たちも、バルテマイのように叫んで祈ろうじゃありませんか。叫んで祈ることは、へりくだりを表しています。全てを放棄して神の助けを求めて叫ぶのです。その時、私たちの信仰を通して、主は御業を表してくださいます。

 イエスさまがこの地上に来たのは、人から仕えられるためではなくて、仕えるためであり、また、多くの人のために贖いの代価として自分の命を与えるためでした。このような大きな愛と使命を持って、主は地上にきてくださったのです。ゆえに、良いものを与えてくださらないはずがありません。

 最後に一言お祈りして、イエス様が流してくださった十字架の尊い血潮をいただく聖餐式を行います。その後、みんなで叫んで祈りましょう。「ダビデの子、イエス様!私のところに来てください」と。

 ハレルヤ、父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。今日はこのようにして、イエス様が誕生された月に、十字架の尊い血潮をいただくことができますことを、心から感謝いたします。主よ、あなたは私たちに仕えるために、社会で最も苦しんでいる人を助けるために来てくださいました。今、私たちはへりくだってあなたの前に出ます。主よどうか、私たちの叫びに答えてください。今、この聖餐を祝福してください。御言葉と聖霊によって、聖餐式を行います。あなたの十字架の血潮の力を宣言します。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。