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「与えられた人生を全うする」

2010.10.17(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘

伝道者の書 12章
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。(1節)

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(13節)

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。
 今日こうしてみなさんと共に主を賛美し、主を礼拝できる恵みを心から感謝します。
 先回メッセージをさせていただいたのは、七月のものすごく暑い時でしたが、今は過ごしやすい季節になりました。まだ寒暖の差のある時期ですので、みなさん健康に気をつけてください。
 九月には東北リバイバルミッションがあり、私も一週間程、盛岡・仙台に行かせていただき、恵まれた時を持ちました。車で十四~五時間かかり、なんと遠いのだろうと思いましたが、事故もなく行って帰ることができました。また集会においては、参加された多くの方が「本当に恵まれた」と言っておられ、新城からも参加し、応援してくださって本当に感謝しました。財務を受け持っている私としては、正直なところ、もう少し大勢の人が集まってほしかったのですが・・・。しかし、小さな教会が多いので、その中でこれだけの方が集まってくださったというのは、素晴らしいことだと思います。これからも続けて東北のリバイバルのために祈っていきたいと思います。
 リバイバルミッションでは、来年の五月に韓国のチュンチョンとソウルで大会が開催されることが決まっていますが、九月には九州で開きたいと願い、先日、その話し合いのために私は九州に久しぶりに出かけていきました。九州の牧師先生が十人ほど集まってくださり、来年の打ち合わせをさせていただきました。まだ詳細は決まっていませんが、ぜひ、ミッションの今後の働きのためにお祈りください。
 また、ざわめきの賛美で巡るイスラエル・リバイバルツアーに、この教会からは滝元開副牧師をはじめ何人かの方が行かれています。今週水曜日に帰っておられますが、私が東京に仕事に行きながら、夜、成田に迎えに行くことになっています。最後まで恵まれた旅となるように、また守られるように、そのためにもお祈りいただきたいと思います。

 さて、今日は、「与えられた人生を全うする」というテーマでお話させていただきます。
 みなさんも、「人生とはなんぞや」と考える時があると思います。私は、人生とは、神様から預けられた期間であると考えています。私たちがこの地上で生きている時間をどのように使うかは、人それぞれに任せられています。しかし、御言葉の中に
『すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。』(第一コリントの十章二十三節)とあるように、人が自分勝手に自由に、気の向くままに生活してもよいとは聖書は教えていません。
 「人生を全うする」というテーマを掲げましたが、「全うする」という言葉には、完走する、やり遂げる、やり抜く、完結させるという意味があります。マラソンなど、最後まで走り抜くことを完走すると言いますが、ただ走ればよいのではなく、幾つかの踏むべきプロセスがあり、そのプロセスを通り走り抜いた時、完走したということになります。私たちの人生の中でも、完走する、全うするためには、いくつかの通るべきプロセス、押さえなければならないポイントがあると思います。今日は、そのうちのどうしても必要な三つのことをみなさんにお話ししていきたいと思います。

 「人生にとっていちばん重要なことは何ですか?」と質問されたら、みなさんは何と答えますか。私は、「私たちを生かし、私たちを救ってくださる神に出会うことがいちばん重要であり、そのことは、私たちの人生の中で、不可欠なことです」と答えます。
 先ほど読んでいただいた、伝道者の書二章一節には、 
『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。』とあります。
 ここにも生まれたばかりの赤ちゃんから、学生、青年たちが大勢います。若い時にイエスさまに出会うことができたことは、特権であり恵みです。私もクリスチャンホームに生まれ、小さい時にイエスさまを信じることができたことを、神さまに心から感謝し、親にも感謝しています。年輩になってから救われた方は、「もっと早くイエスさまに出会っていれば良かった」と思っておられるでしょう。しかし、それぞれ神さまに与えられた人生があり、時があります。ここで、人が神に出会い、救われるということを考えてみたいと思います。

 ヨハネの三章にニコデモという人が出てきます。一節からを少し読みます。
『さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」』(一~四節)

 パリサイ人であるニコデモは、イエスさまに質問をしましたが、「そんなことできないでしょ」というように、反論しているのです。しかし、このやりとりの最後に、イエスさまは、彼にこう言われました。

『神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネの福音書三章十六節)

 クリスチャンの方だったら何十回も聞いたことのある有名な御言葉です。人は罪を持っているがゆえに、永遠の滅びに行かなければならないということが決まっていましたが、そんな私たちを救うために、天の父なる神さまは、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。さらに、『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』(ヨハネの福音書十五章十三節)とあるように、イエスさまは私たちを「友」と呼び、人間の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったのです。ご自分のいのちを投げ出すほどに、私たちを愛してくださっているのです。多くの人はそのことを知らず、あたかも自分の力で生きているかのように錯覚していますが、実は、私たちは神によって生かされているのです。
 クリスチャンのみなさんは、このことをよく知っています。しかし、まだイエスさまを知らない家族から反対され、迫害を受けておられる方もいるかもしれません。しかし、聖書は約束しています。

『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』(使徒の働き十六章三十一節)

 このように、希望に満ちた御言葉があるように、神さまは家族を見捨ててはおられず、必ずあなたの愛する家族に語ってくださり救いに導いてくださいますから、この御言葉を信じ祈り続けていきましょう。

 先ほど私は、この人生は、神に預けられた期間と言いましたが、その期間は、死という人生の終わる時までの、執行猶予期間のようなものではないかと思います。それぞれに与えられた人生はどれだけかわかりませんが、この猶予期間に神に出会うこと、私たち一人ひとりが神さまからの救いを受け取ること、それがいちばん大切なことであり、私たちの人生を全うするために不可欠な第一のプロセスです。

 そして、「神と共に生き、神と共に生活すること」、これが、第二番目のプロセスです。
 人生には、いくつかのターニングポントがあります。小学校、中学校、高校の入学・卒業、社会に出るなどの状況による転機、また、友達や先生との出会いなど、人に関わることによって人生が大きく変わることもあります。しかし、何と言っても結婚は、人生においてもとても大きな転機だと思います。
 私は、結婚して今年でちょうど三十年になりましたが、結婚生活が三十年間守られてきたことを、心から感謝しています。
 先週は、上條頌兄と大石なつみ姉の結婚式がありました。教会も人数も増え、これから結婚される方もたくさんいらっしゃって、結婚式の形もいろいろ変化していくと思いますが、今回は、両方の家族だけで結婚式を行いたいという二人のたっての願いで、軽井沢において、とてもシンプルに行われました。
 結婚式では、誓約があります。夫に対する誓約には「あなたは神の教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りあなたの妻に対して堅く節操を守ることを約束しますか」と質問し、新郎は、「約束します」と力強く返事をします。新婦に対しても、同様の質問がなされます。
 私は今回初めて結婚式の司式をさせていただいたので緊張して、新婦を新郎と言い間違えてしまいました。しかし、本当に二人が幸せそうで、こちらまで幸せな気分させていただいましたし、クリスチャン同士の結婚は、やっぱりいいなぁと思える恵まれた結婚式でした。二人がこれから祝福された家庭を築いていかれるように、ぜひみなさんもお祈りしてあげてください。
 結婚されている方は、自分の結婚式のことを思い出されるかと思います。結婚式も素晴らしいですが、結婚生活も素晴らしいです。世の中では「結婚は、人生の墓場だ」と言う人もいますが、その人は可哀想だと思います。二十代、三十代で結婚したとすると、結婚以前より結婚してからの方がずっと長いわけです。その間、ずっと墓場の中にいると考えているのだとしたら、なんと寂しいことだろうと思います。
 私は、これから結婚される方のために、主によって良い方が与えられ、幸せな結婚ができるように祈っています。また、結婚されている方は、これからも、夫婦仲良く愛し合っていっていただきたいと思います。

 人生において起こってくる問題に対して、いろいろな人に相談し、助言を受けて支えられることもたくさんありますが、人に相談しても解決のつかないことがあります。人間には限界があります。みなさんの相談事は、「これからどうしよう」といった、将来に対することがほとんどだと思います。相談された人は、助言はするけれども、その助言が本当に正しいものだったかどうかは、しばらくしてその結果を見ないとわからないのが現実です。聖書はどのように教えているでしょう。

 『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』(ヨハネの福音書八章十二節)

 よく、「一寸先は闇」と言われますが、暗闇でも一本のマッチがあれば目の前のものを見ることができますし、懐中電灯があれば、行く道を照らして横道にそれることなく、障害物に当たることなく、どぶに落ちることもなく進むことができます。
 同じように、世の光であるイエスさまに従って行くなら、イエスさまが私たちの前を進み、道を照らし、私たちが右にも左にもそれないように、つまずくことがないように、導いてくださるのです。
 私も牧師なので、いろいろな方から祈りを依頼されお祈りさせていただきます。祈った後、課題をすぐに忘れてしまうので、カードに書いて聖書に挟んでいます。そして、毎朝聖書を読み、そのカードを見ながらお祈りをしてから一日を始めています。皆さんも何かありましたらリクエストしてくだされば、お祈りさせていただきますので、おっしゃってください。
 多くの人の祈りの課題は、将来のことです。健康のこと、経済的なこと、家族や友人のことを心配し、不安に思い祈りを要請します。私にも心配もありますし、問題がないわけではありません。
 先月、責任を持たせていただいているプレイズ出版の仕事で大きな失敗をして、依頼主に呼び出され、怒られ、始末書を提出してペナルティを支払いました。しかし、それも正しく処理さえすれば、たいしたことはありません。
 また、先週、私にとっては大きな問題がありました。金曜日に東京に行き、タクシーに乗りました。行き先を告げましたが、運転手さんの知らない所だったので、急いでいたこともあって「ほかのタクシーに乗ります」と言ってあわてて降り、その際、携帯電話を置き忘れてしまったのです。みなさんにとってはたいしたことではないと思いますが、私は、家に携帯を忘れてると、「いのちの二番目に大切な携帯を忘れたよ」(笑)と家内に言われます。一日に何十本という電話がかかってきますし、仕事には欠かせないものなのです。
 普通は、タクシー料金の領収書をもらうので会社がわかるのですが、すぐに降りたのでどこのタクシー会社かもわからず、一瞬、途方に暮れました。早速携帯会社に連絡すると、私の携帯にはGPS機能は付いていないのですが、ある程度のエリアを特定してもらえます。広い東京の中で、何区、何々町、何丁目くらいまで教えてもらうことができました。それで、昨日は、そのエリアにあるタクシー会社に電話をしたり、出向いていったり、警察に行ったりと自転車で走り回り、ありとあらゆる手を尽くしてみましたが、いまだに見つかっていません(幸いなことに、月曜日の朝にタクシーの運転手さんから連絡があり、見つかりました。ハレルヤ!)。
 このことは、私にとってはショックなことですが、実際には、いのちにかかわること以外は、たいしたことではないとも思っています。それでも、携帯が出てくるようにと、真剣に祈りました。こんな小さなことであっても、私たちクリスチャンはすぐに「イエスさま」と祈ります。その祈りも、イエスさまは聞いてくださっています。生活の中で、いつもイエスさまを意識し、共に生きることが大事です。

 最近、ホームページの中に、「『私は、何のために生まれてきたの。生まれてこなければよかった。私がいるだけで、みんなに迷惑がかかっている』と思って日々暮らしている青年がいっぱいいるそうです。」という記事を読みました。
 この世界には、それだけ、いろんな悲しみや苦しみがあふれているといえます。世の中、便利になりましたが、一方で悩みも大きくなっているというのが現状です。世界保健機構によれば、世界で毎年百万人以上の人が自殺しているそうです。すごい数です。教会に一度行ってくれていたらと残念に思うと同時に、私たちがもっと伝道していかなければならないと思わされます。
 また、「私はこのために生きている、という明確な目的を持っていない、生きる目的が分からない人が増大している」とも書いてありました。みなさんはいかがですか。何のために生きているのか、何のために生かされているのか、しっかりとした目的を持っていることは、とても重要です。
 私たちは、人生について悩んでいる時、問題にぶつかった時、親や友達、信頼のおける人に相談します。しかし、相談しても解決を得られないとなったら、どうするでしょう。世の中の多くの人が、占いに頼るのです。先行き不透明な世の中においては、以前よりも数倍もてはやされているそうです。新聞・雑誌、テレビ・ラジオ、携帯、自分が望まなくても占いが目に入ってきてしまうような、聞いてしまうような時代です。時々、言われたことが当たったりするので、引き込まれてしまうのです。もちろん、私たちクリスチャンは占いを信じていません。占いはインチキです。サタンの手先である占いは、過去のこと、現在のことを言い当てることができても、明日のことはわからないのです。将来のことも占いはしますが、間違っているのです。人の弱みにつけ込んで、金儲けをしているだけなのです。聖書にはどのように書かれているでしょうか。

『だから明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。』(マタイの福音書六章三十四節)

 この意味は、「何も考えなくてもいいよ。たいしたことないよ」という意味ではありません。「明日のことを心配してくださる神さまが、明日のことを導いてくださる神さまが共におられるから、あなたは主に委ねていったらいいんですよ」、「イエスさまが責任を持って導いてくださるんですよ」ということを語っておられるのです。
 みなさんに、「イエスさまを愛していますか?」と質問したなら、誰もが「愛しています」と答えることでしょう。しかし、みなさんは神さまをどのように愛しておられるでしょうか。
 ヨハネの手紙第一 五章三節には『神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。』とあります。ここには、「神の命令を守ることが、神を愛することである」と教えており、そうするなら一人ひとりは祝福を受け取ることができるのです。
 新約時代における代表的な神の命令は、『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』と、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』の二つです。旧約時代では、モーセに与えられた十の戒めのうちの最初にある、『あなたには、わたしのほかにほかの神々があってはならない。』(出エジプト記二十章三節)という御言葉がとても大切な命令です。
 『わたしのほかにほかの神々があってはならない。』とは、「偶像を避けなさい。偶像礼拝は罪です」ということですが、単に、神といわれるものを拝むことだけが偶像礼拝ではありません。イエスさま以外に第一にするものがあったら、それが偶像です。金やたばこ、酒、情欲、ギャンブルなど縛られ、奴隷となっていますが、それこそ偶像礼拝であり、それは、神の祝福を失うことなのです。
 お金は必要です。「お金を儲けたいですか?」と言われれば、私もビジネスをしていますから「儲けたいです。どうやったら儲かるか、いつも考えていますよ」と答えます。でも、奴隷になってしまったら終わりです。
 たばこの奴隷になってもいけません。最近、たばこが値上がりしましたね。それによって、喫煙者の半数が禁煙したいと言ったそうですが、実際に禁煙できる人は十%程度だろう、と言われているそうです。しかし、たばこは麻薬のようであり、喫煙は中毒ですから、値段が高くなったからといってすぐにやめられるものではないようです。
 また、酒の奴隷になってもいけません。酒をたしなむ方がいらっしゃるかもしれません。「聖書には、『酒に酔ってはいけません。』とはあるけれど、飲んではいけないとは書いてないじゃないか」と言われる方がいます。確かに、聖書には「飲んではいけない」と書いてはありません。しかし、人はそんなに強くはありません。少し飲み始めたら、どんどん量が増え、酔わずにはいられなくなるものではないでしょうか。また、日本の酒は、造る段階から偶像に捧げられ、偶像礼拝との関わりが強いものなのです。飲むことによって、知らず知らずのうちに偶像と関わってしまい、縛られ、祝福を失っていくことが多いのです。ですから、気をつけなければなりません。
 このように、自分をかえりみて、どうしてもやめることができないものがないか、神さまよりも大切にしているものはないかをよく調べ、そのようなものがあったなら悔い改めて、捨てなければならないのです。そして、ここにいるほとんどの方が真の神さまに出会い、神さまと共に歩んでおられると思いますが、まだこの救いを持っていない方がいらっしゃったら、ぜひ神と共に生きる人生を選び取っていただきたいのです。

 第三番目に重要なことは、晩年をどう過ごすかです。
 私たちは、何年生きられるか、誰もわかりません。私も五十歳を過ぎて、「あと何年、人生が残っているのかな?」と考えたりすることがあります。
 これは余談ですが、先週の日曜日の午後、教会の運動会が中学校の体育館をお借りして行われました。百五十名くらいの方が参加され、本当に楽しいひとときでした。
私は毎年、教会の運動会を楽しみにしていました。走るのはそんなに早くはないのですが、毎年パン食い競争には必ず出て、いつも一番で今まで負けたことがありません。しかし、だんだん年をとってきて、「運動会か、若い人がやってくれればいいよ。今年は出なくてもいいかな・・・」と思っていました。
 ところが、ある人が「先生、今年も出るんですよね。先生が出て誰かがそれに対抗して争うのを見てみたい。それが今日の私の唯一の楽しみなんですよ」と言われ、「そう言ってくれるなら出ようかな」と、すぐその気になって、やるからには真剣にやらなければ、と競技に臨みました。
 毎年、いろいろなものが袋に入れられているのですが、今回は、バナナ・あんパン・ミカン・ヤクルトが一つずつ一袋に入れられており、それを全部食べて「ハレルヤ」と叫んでゴールに走る、というものでした。私はすぐに、何から食べれば早いか考えていました。するとすぐに同じチームの夏目兄が私のところに来て、「何から食べたらいいですか」と尋ねたので、必勝法を教えました。「まずバナナをむいて、あんパンを半分食べて・・・・・・・、そうすれば一分くらいですべてが終わる」と説明をしました。そして、私はそれを実践しました。
 私の隣に私に対抗しようとして走り出した一人の兄弟がいました。私は、考えた通りまずバナナの皮をむき、二、三秒で食べました。その兄弟はその様子を見てあっけにとられ、自分で食べるのを忘れて、私が食べるのに見とれていました。「何でこの人は食べないで、私を見ているのかな」と彼の視線を感じながら完食し、私は今年も圧倒的に早く、断然トップでした。
 終わった後、ある人が「先生は、毎日早食いの特訓をしているんですか?」と尋ねてきました。またある人は「先生は人間じゃないね」と言った人がいましたが・・・(笑)。
 そんなことでトップになっても何の自慢にもなりませんが、今年も元気で運動会に出られ、楽しい時を過ごせました。これも、いつもみなさんが祈って支えてくださっているからだと思い、心から感謝します。競技に参加しなくても、見に行くだけでも大丈夫ですので、今年参加できなかった方も、来年はぜひ楽しんでいただきたいと思います。

 余談は、このくらいにして・・・・
 先日私は、「高齢化社会における諸問題」というセミナーに参加しました。キングスガーデンという特別養護老人ホーム(全国には四十カ所ほどあるそうです)の練馬区の所長をされている方が講師として話をしてくださいました。老人ホームの写真を映しだし、介護の様子が語られました。そこは設備も素晴らしく、至れり尽くせりの介護がされているようで、私も年をとったらこんなところに入りたいと思わされ、「そこに入りたければ入れるのですか?」と質問してみました。「練馬区民でなければ入ることができません」と言われ、それはそうだと思いました。続けて言われたことにビックリしました。それは、そのホームは五十人限定ということですが、「今、願書を提出して入所を待っておられる方が七百人おられます」ということでした。「七百人!!」この方たちは、生きてこのホームに入れないのではないかなぁと心配になりました。とにかく、特別養護老人ホームは、すごく倍率が高いそうです。
 その所長さんが言われるには、今、日本で六十五歳以上の人が、人口の二十五パーセント(四人に一人)いるそうです。六十五歳以上の人が人口の中の二十パーセントまでだと高齢化社会と言われ、二十一パーセント以上になると超高齢化社会と言われるそうですが、日本は何年も前から、超高齢化社会の位置づけだそうです。
 平均寿命という言葉をみなさんも聞いたことがあると思いますが、現在日本人の平均寿命は、男性八十歳、女性八十六歳です。今回、平均余命というものがあることを知りました。それは、例えば七十五歳まで生きている人が、今後何年生きられるかという年数ですが、男性は平均十一年、女性は十五年生きられるそうです。ですから、男性は八十六歳、女性は九十歳となります。今七十歳で、私はもう年寄りだと思っている方も、まだまだ十分時間がありますから、ぜひ人生を楽しんでください。
 このセミナーで、「明確なゴールが見えている人と見えていない人は、亡くなる直前に大きな差が出る」と語られていました。天国に行く者になるか、ならないかが重要だということです。
 今、一人で生活する人が増え、孤独死する方が多くなっているそうです。そして、「生きていても仕方がない」、「生きていても何の喜びもない」と思っている人が、すごく増えているそうです。最初にお読みした『「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。』の御言葉が心に響きます。
 でも、ここにいるみなさんには幸せです。多少、腰が痛かったり、肉体的に病気を持っていたりしたとしても、死も苦しみも痛みも悲しみも嘆きもない、天国に行くことができるという希望があるからです。それは、素晴らしい喜びです。

 新約時代にイエスさまとともに歩んだペテロは、何度も挫折しました。しかし、最後にはイエスさまのために殉教の死を遂げたと言われています。また、パウロは、クリスチャンたちを激しく迫害したけれども、神に出会い、いのちがけで素晴らしい働きをしたのです。
 ヤコブ書一章十二節には、『 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。』とあります。
 「私は、昔、三十年間クリスチャンだったんですよ」と言う人がいたとしても、現在イエスさまとともに歩んでいなかったら何にもなりません。この救いを失うことなく、忍耐し、天国への明確なゴールを目指し、いのちの冠を受ける者となりたいと思います。

 最後に一節だけ読んで終わりたいと思います。

『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。』(伝道者の書十二章十三節)

 今日お話しした三つのプロセスを通し、神さまに与えられた人生を勝ち取り、全うしていただきたいと思います。
お祈りします。