HOME > 2010年バックナンバー > 11月 > メッセージ2010年11月7日

「古いパン種を取り除きなさい」

2010.11.7(SUN)
新城教会牧師 上條 実

第一コリント人への手紙 5章1節〜8節
あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。


 ハレルヤ!今日皆さんの前でお話ができますことを心から感謝いたします。早いもので、もう11月始めの礼拝になりました。つい数日前に新しい年を向かえたと思ったのですが、あと一ヶ月しますとクリスマスの集会が始まります。まだクリスマスは遠い向こうのように感じるのですが、あと1ヶ月しかありません。今日の週報に掲載されていますが、12月5日には毎年恒例となっています、クリスマスジャズナイトというコンサートを計画しています。ロンブラウンさんをはじめとする、世界トップミュージシャンの方々が、素晴らしい賛美と演奏を聞かせてくださいます。12月5日の日曜日まであと1ヶ月しかありません。とても良い伝道の時ですので、早めにチケットをお求め下さい。メッセージャーは滝元明牧師がしてくださいます。クリスマスコンサートまで「あと28日」です。これからポスターやチラシが作成されます。いい伝道のチャンスですので、今から祈り備えていきましょう。
 さて今日は「教会」をテーマにみことばを学んでいきたいと思います。よく、教会を軍隊に例えられます。ある人は戦いの前線に出かけて行きます。またある方は基地の中で食事がかり、ある方は武器のメンテナンスがかり、ある方は軍服の洗濯などなど様々な働きがあります。教会は、イエス・キリストが頭。そして私たちは各器官であるとみことばにあります。今日その軍隊である「教会」が更に一つとなり、神さまからパワーアップさせて頂くためには何が必要かをみことばを通して学んでいきたいと思います。
 先ほど読んでいただきました第一コリント人への手紙5章1節から8節は、自分に対しても、また教会に対しても大切なみことばです。数日前のある夜、私はふと目を覚ましました。いつもですと起きてもすぐに眠ってしまうのですが、その日は突然自分の心の中に、一つのことばが思い出されました。それは「へりくだりなさい」ということばです。あまりにも突然、私の心の中に強い思いで「へりくだりなさい」と語られたので驚いてしまい、なかなか寝付くことができませんでした。何でこんな夜中にこんな事を思うんだろうと思いを巡らし、自分の高慢さを教えられ、悔い改め祈らされました。その日はそれで寝てしまいましたが、次の朝先ほど読んで頂きました第一コリント5章を読み教えられました。特別7節、8節をリビングバイブルで読んでみたいと思います。

『恐ろしい癌であるその人を、あなたがたの間から除きなさい。 そうすれば、きよさを保てます。 神の小羊であるキリスト様は、私たちのためにすでに殺されたのです。ですから、悪意や不正でいっぱいの、癌に冒された古い生活から、全く離れなさい。 しっかりキリスト様につながり、クリスチャン生活において、力強く成長しようではありませんか。 悪意や不正のまじったパンではなく、栄誉と誠実と真実の純粋なパンを、食べようではありませんか。』

 ここではある病気をたとえていますが、教会はイエス・キリストが頭で、私たち一人一人は各器官で体であると言っています。教会という体の中で、病があったら直さなくてはいけない。今私たちの教会に病んでいるところがあるならば、直して頂く必要があります。教会が更にこの世の暗闇の敵と戦っていくためにも、霊的戦いをしていくにも健康な体、健康な教会にならなくてはなりません。今日私たち教会が健康になるには、結論から言うと「きよめられる」ことです。戦いの武器であるみことばの剣は、聖さによって刃が磨かれ、武器として整えられます。鋭くなっていくのです。「聖さ」の中に力があります。私たちはイエス・キリストの十字架によって救われています。イエス・キリストが私たちの罪のために、また私たちの病のためにも十字架にかかってくださいました。そして当然私たちが犯した罪の結果として滅びなければいけないところを、身代わりに滅んで下さり、三日目に甦ってくださった神、イエスキリストを信じています。そのイエス・キリストの十字架を信じた時に、私たちは救われています。これは最高の奇跡です。このイエスキリストは私たちの全ての罪を赦して下さいました。このイエスキリストは聖なる神です。だから私たちも神さまの目から見て聖なるものでなければなりません。では今日何から聖められなければならないでしょうか?
 第一コリントの5章を見るとパン種の事が書かれています。「古いパン種」、それは

『あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。』

と言うことは、罪、汚れがパン種を指しています。今日は古いパン種を取りのぞき、純粋で真実なパンでなくてはいけないと言うのです。前回滝元順牧師がメッセージの中で、アメリカにいらっしゃる韓国の方から、「まもなく新城教会にリバイバルが起こります」と預言をされたと言っておられました。私はリバイバルを信じていますが、あのことばを聞いて更に心がワクワクしました。私たちの教会の礼拝が一回だけではなく、何回もしなくてはいけない。そのために更に大きな会堂が必要となる。また病の方々がいやされ、また問題が解決される。聖書の世界がそのままこの教会に起きるなら素晴らしいことです。新城市に働く暗闇が打ち破られ、いつもどこでも主を心から賛美し、あがめ、主に栄光をかえす事のできる教会になればうれしいなと思いました。そのリバイバルをいただくためには、更に「聖さ」が必要です。食事時にみなさんの子どもさんが泥まみれになっていたら、「手を洗いなさい、きれいにしなさい」と言うと思います。リバイバルを求め、神さまから頂く前に、私たちは点検しなければいけません。きれいに汚れを落としているかどうか、今日再度点検し、古いパン種を取り除き聖さを頂き、健全な教会となることが必要です。
まず何からきよめられる必要があるかと言うと、第一コリント5章1節を見るとこのように書かれています。

『あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。』

 「父の妻を妻としている」ということは、注解書を見る時「父の妻(おそらくまま母)」とあります。不品行の罪を示しています。第一コリント人への手紙5章4節から5節にはこのように書かれています。

『あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。』

 不品行のものをサタンに引き渡したとあります。主は不品行を忌みきらわれます。私は子供会を担当させて頂いています。子どもたちには、分かり易く、ストレートに話すように心がけています。でも不品行ということをストレートに話すことには抵抗がありました。なかなか教えにくいところがあります。しかし今では、ハッキリとこれはいけないことだと具体的に話すようにしています。その子ども会から育った兄姉たちと話てみると、不品行や淫乱がどんなに恐ろしい罪であるかを教えたにも関わらず、年数が経ち、知らず知らずのうちに悪魔の罠に、まんまと捕まってしまいそうな時代になってきているので気をつけなければいけないと思います。私たちの道徳というか、生活の基本は「聖書」です。知らない内に、この聖書の基本ではなくて、今の時代、インターネットや、テレビや、またいろんな情報を見、聞き、妥協して、不品行のことに関して軽く考えてしまっているのではと思います。子ども達でも簡単にインターネットで、汚れた画面が見れてしまいます。子ども達が見ているテレビ番組を知っていますか?どんな内容なのか知っていますか?読んでいる漫画、ご存知ですか?「これ、エロ本じゃないか」というほどの本を、子どもたちが平気で読んでいる時代です。あなたは聖書が土台でしょうか?性的なことを悪魔にだまされて失敗していませんか?罠にはまっていたり、罠にはまりそうになっていませんか?教会に古いパン種が入らないように祈り、悔い改めて聖められる事を追い求めていきましょう。夫婦でも、このような問題があると思います。
第一コリント 6章16節には

『遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。』

 「一体となる」と書かれています。このみことばは、みなさんがご存知だと思います。夫婦は一体となるのです。しかしこのみことばは遊女と交われば、遊女と一体となってしまうとあります。不品行という罪を犯した場合、相手が偶像礼拝をし、占いなど悪魔、悪霊にやられていたら、その人と一体となり、今まで完璧な聖さを持っていたとしても、その時以来私たちは偶像礼拝者です。新城教会と言う体が罪に汚染され、悔い改めない限り、「このような者をサタンに引き渡したのです。」というみことばどおり、滅ぼされてしまいます。神の前に聖さを求めていかなくてはなりません。「古いパン種を取り除きなさい、悔い改めなさい」と言っています。
 悔い改めるということには、恥ずかしさと恐れがあるかもしれません。辛いかもしれません。しかし隠して悔い改めないまま裁かれるのと、辛くても悔い改めて、永遠の命を持つのとあなたはどちらを選択しますか?主のみことばはでも、徹底的に聖さを持ちなさい。悔い改めなさいあります。今日も聖餐式の時を持ちます。命をかけてイエス・キリストは、あなたのために滅んでくださいました。罰を受けてくださいました。ただ恵みによって私たちは救われました。にもかかわらず、あまりにも軽く考えていませんか?特に不品行というのはナイーブな所であり、隠したくなる部分です。告白して悔い改めた時、家族がどうなるんだろう、夫婦がどうなるんだろうと恐れてしまいます。本当は天国に行きたいにも関わらず、隠し続けてしまいます。しかし私たちクリスチャンは十字架によって聖められたものです。聖さをいただき、二度と罪の世界に入ることがないように、古いパン種を取りのぞかなくてはいけません。
  また、もう一つのみことばは学んでいきたいと思います。それは私が夜中に語られた「へりくだり」です。第一コリント人への手紙5章6節には

『あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。』

「あなたがたの高慢は、よくないことです」とあります。不品行のことが書かれて、その後高慢について語っています。この高慢、高ぶりというのは、誰もが陥りやすいものです。箴言 16章18節、

『高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』

箴言 16章18節(リビングバイブル)、
『プライドが高すぎると身を滅ぼし、なまいきなことばかりしていると失敗します。』

 聖書は高慢であったならば「破滅」と言うのです。生かされるのではない。生きて祝福を受けるのではなく、高慢が、私、またこの教会を滅ぼしてしまうとみことばは語っています。ですから私たちの高ぶりを、またこの教会の高ぶりを砕いていただいき、主の前にへりくだった者にさせて頂きたいと願います。 私は、悔い改めないといけないことがあります。私はこの教会の息子として生まれ、この愛知県に生まれ、そして豊かな日本という国に生まれたことを本当に感謝しています。そんな経済的な苦労もなく、恵まれた国に生かされているということは、本当に感謝です。前回、滝元順牧師が「幸せってなんだろう」というテーマでメッセージを語られていました。その時アメリカ在住の韓国人の方の豪邸を映像を通して見ました。しかしその後、ネパールの山地族の豪邸を見せてもらいました。そのコメントの中には竃が二つあるからです言われていました。私はその時、正直「あんな国に生まれてなくて良かった」と思いました。そしてイエス様に感謝しました。しかし今回「へりくだりなさい」と神様が語ってくださった時に、悔い改めました。「あんな国に」と思った事に高慢さがあったからです。私は日本が優っていて、ネパールという国にたいして「あんな国に」と考えていました。また今私たちの教会にインターナショナルの方々も礼拝しています。今から20年前くらいからペルーやブラジルの方々が、経済危機の中で家族と離れて、日本に来られました。派遣会社から提供された家はプライベートもない、ただ押し込まれているというような部屋で、きつい仕事を一生懸命しておられました。そんな中で私たち日本人は、上に立っていました。「そういう汚い、きつい仕事は外国人たちがやればいい」「出稼ぎなんだから」と高慢になっていました。しかし聖書は

エレミヤ書 1章5節、
『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』

 私たちがこの日本に生まれたのも、また親に生まれたのも、全て神様の計画の中に生かされています。胎内に形造る前から、あなたを知っていて、主の権威の中で、本当に一人一人を振り分けてくださった。全て神の計画の中で生かされている。自分が選んで生まれてきたのではない。人が人をさばくことも、はかることもできない。私たちが知らない間に、人を見て裁いてしまい、高慢になりそういう人たちに対して接し、教会ですから、その人たちの祝福のために祈りますが、上からの高ぶった思いで祈っていたら、これは本当に主の前に対して罪を犯している。高慢な者でした。聖書の中には、「すべての人を自分よりも勝っていると思いなさい」というみことばがあります。それにも関わらず、高慢でした。飢餓対策のためには哀れんで献金はします。そして献金すれば良い事をしたと満足しています。確かに良い事ではありますが、しかし上からなのです。そんなことを考えると、人に対して、地域に対して、様々な高慢さがあることに気がつきました。
 また、霊的な傲慢があるかもしれません。私たちの教会は、本当に感謝なことに、今300数名の方々と一緒に礼拝が出来ています。しかしある教会は一生懸命、この教会よりもっと一生懸命やっている教会が、なかなか成長できずにいると「もっとやり方があるんじゃないの?」と思ってしいます。そして霊的戦いが分かったら教会は伸びるのになど考えてしまいます。私たちは裁いてしまいます。主が霊的戦いを開いてくださいました。しかし私たちはリバイバルを真剣に祈り続けてきたから、霊的戦いを教えて下さったんだ。なにか霊的戦いを「特別扱い」として、新城教会に下さったスペシャルギフトのように考えてしまいます。自分たちが祈ったからと思ってしまいます。しかしただ私たちは祈る道具であって、権威を持ってその暗闇の力を打ち砕く方は、私たちではなくイエス・キリストです。主が、戦って、勝利をくださっているのです。それを、あたかも、私たちが霊的戦いをしているから、こんなに恵まれているんだ、こんなに祝福なんだと、高慢になってしまっていることがあります。また、兄姉を見て、「あんな問題や病気を持っているのは、真剣に祈らないからだ」とか、同じ体をいたわり合わずに、けなしあい、裁きあってしまいます。第一コリント12章22節、有名なみことばで

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

 知らないうちに、自分が何かよく祈れるから、よく賛美できるから、よく私は証しができるから、よく友達を誘って来れるからと高慢になっています。しかし私たちの目から見て、弱いと見られる器官がなくてはならない器官なのです。私たちは高慢なのです。地位を持ったり、知恵を持つと、私たちは高慢になりやすいと思います。
 また、夫婦の間でも裁いてしまいます。「あいつは何回言ってもわからない」という風に、知らないうちに、一番の愛する夫婦であり、相手にも関わらず、相手を裁いているのです。夫婦は一心同体なのですから、相手を裁いたのなら自分が自分を裁いていることと同じなのです。にも関わらず、相手のことしか気にならず裁き合ってしまっています。高慢です。
 また、年齢的な高慢があります。「今の若い子たちは」と言って裁いてしまいます。「若いやつはわかっていない」とか、逆に「年を取ってボケたんじゃない」と裁いてします。高慢です。ピリピ人への手紙 2章3節、

『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』

ローマ人への手紙 12章9節から10節、

『愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』

 全ての人を優れた人と思い、尊敬しなくてはなりません。ヨハネの福音書 10章1節には

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。』

 囲いの外から乗り越えて、盗人や強盗が入り込んで、不品行や高慢を行わせます。今日悔い改めましょう。Ⅰヨハネの1章9節

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

告白して悔い改めましょう。またルカによる福音書 7章36節から39節、

『さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、冊の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、冊を塗った。イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。』

 パリサイ人は罪深い女だと裁いていました。しかし主は48節で、

『そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。』

 イエス・キリストは十字架にかかって、裁きを受けてくださいました。私たちが悔い改めた時、あなたの罪は赦してくださるのです。そうすけば体が健全となり、元気になって、戦うことができます。祝福を勝ち取ることができます。
今日聖餐をいただく時、徹底的に悔い改めて聖さをいただきましょう。徹底的に悔い改めて、罪から離れられるように祈りましょう。あなたの罪は赦されています」とあなたに宣言してくださるように。そして「赦された」という確信を持って、進んで行けるように祈りましょう。

 最後にもう一度古いパン種が残っていないかチェックしましょう。不品行から、高慢から解放されて、「あなたの罪は赦されています」と言って頂けるように悔い改めましょう。そしてその暗闇の力に対抗していきましょう。リバイバルを早くいただくためにも、主の前に、教会が聖められることを願って祈りましょう。最後にお祈りします。

 愛する天の父なる神さま、私たちはあなたの前にへりくだります。イエスさま、私はあなたが十字架にかかってくださったことを知りながら、救いを軽く考えていたことを許してください。
 今日不品行の罪から聖めて下さい。また高慢の罪を赦してください。古いパン種をイエス・キリストのみ名によって、取り除かせてください。
 主よ、お願いします。あの罪深い女性がイエス・キリストから「あなたの罪は赦されています」と宣言されたように、この聖餐式を通して、一人一人に、「あなたの罪は赦されています」とはっきりと宣言していただく時になりますように。聖餐式を祝福してください。この悔い改めを悪しき力が奪い取ろうとしますから、今イエス・キリストの名前によって戦います。
 この聖餐の中で、軽く考えさせ、罪を悔い改めさせないようにさせてきている暗闇の力を打ち破ります。今聖霊様臨んでください。一人一人の心にノックしてください。そして、扉を一人一人が開けて、全ての病んでいるところを、汚れているところを、全部贖い出して、「あなたの罪は赦された」と宣言される時になるように、この聖餐を祝福してください。そしてリバイバルをお与え下さい。イエスさまの皆によって感謝してお祈りします。 アーメン。