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「クリスマス 祈りは聞かれる」

2010.12.5(SUN)
新城教会牧師 滝元 明

マルコの福音書 4章1節
イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。

マルコの福音書 4章26節〜29節
また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」


 ハレルヤ。一言お祈りします。
 愛する天のお父様。イエス様をこの地上に送ってくださり、贖いをなし、今日も天において地において全ての権威を持っておられることを感謝します。
イエス様、この教会に素晴らしいゲストを送って下さり、あなたをお祝いすることになりました。今日の一日を祝してください。今日、特別、イエス様御自身を歓迎します。この中にお入りください。イエス様があがめられますように。
 また、小さな僕があなたの御言葉を取り次ぎますけれども、あなたはソロモンよりも勝る方ですから、『知恵のかけた者がいたら、惜しむことなく咎めることなく全てを与えられる神に願い求めなさい。きっと与えられます』と書いてありますから、これから語るべき御言葉に新しい油注ぎがありますように、お導きください。語る時、聖霊様が働いてくださって、イエス様が行き巡ってくださって、一人一人に触れてくださるようにお助けください。感謝を持って、愛するイエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

みなさん、おはようございます。今日は素晴らしいゲストをお迎えしています。ロンさんたちは12月2日に日本に来られました。そして、3日には大阪でコンサートを持ち、昨夜は西尾で持ち、今日はここに来ました。
 今回のロンさんたちの演奏して下さる曲は、今までとは違って新しい歌が多いです。みなさん、是非、夜も期待してください。世界最高の音楽です。普通、この人たちの集まりだと入場料が1万円以上になりますけれども、今日は安いです。
 今日、私は礼拝のメッセージをして、夜も話しますので、私のためにも覚えて祈ってください。

 今読んでいただいた聖書の中から、「クリスマス 祈りは聞かれます」というテーマでお話ししたいと思います。
 今、マルコの福音書から読んでくれましたけれども、先週、順牧師がここから話しました。実は、毎朝、朝起きると、私と家内は一緒に聖書を読むことにしていますが、順番に聖書を読んでいて、だいたい3章ぐらい読んで、それから一緒にお祈りする時間を持っています。

 先月の11月18日は、忘れることができません。なぜなら、聖書というのは非常に不思議です。聖書は、神の言葉であり、生きていて力があります。「御言葉が打ち開かれると、光を放つ」とありますけれども、聖書を読んでいると、さらさらさらと読んで、ある時は眠くなったり、ある時は「あ〜、わかった」という時もありますが、時々、御言葉が打ち開かれることがあります。主が今語ってくださった、という時があります。
この御言葉は11月18日の朝、聖書を読んでいた時に、私の心の中に聖霊様が語りかけてくださった言葉として握りました。それがこの御言葉です。
マルコの福音書 4章1節、

イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。

 これが強く、私の心に来ました。
 順牧師がニューヨークへ行った時、韓国の牧師さんが二人ほど来て、「まもなく新城教会にリバイバルが来る。神様がそう言ってらっしゃる」と、知らない人が二回も語ったと言うのです。
 ですから、みなさん期待しましょう。まもなく新城教会にリバイバルが来る、非常に私も期待していますけれど、この御言葉をいただいた時、特に「おびただしい数の群衆がみもとに集まった」という箇所を見た時、まもなくおびただしい数の群衆が集まる日が来る、と信じました。
みなさん、信じましょう。私は信じました。これは主から教会にくださった言葉だと信じます。
 その後で、ずっと聖書を読んでいきましたら、神の国について書いてあります。
マルコの福音書 4章26〜29節、

「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 この御言葉を読んでいる時に、特に「実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです」という言葉が強く打ち開かれたと言いますか、長い間リバイバルのために祈ってきましたけれども、心に来ました。ここに約束されているように、「実が熟すると」とありますが、既に実が熟していると思います。「人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 みなさん、嬉しいことに、収穫の時が来たとあります。日本の宣教というのは、非常に難しいところがあって人々が救われませんけれども、しかし、今まで種を蒔いてきました。種を蒔いてきましたから、必ず実を結んで収穫の時が来るのです。
ここには、「収穫の時が来たからです」と書いてありますから、イエス様が素晴らしい収穫を見せてくださると信じています。
 私も家内も同じですけれど、「リバイバルが来るまではとにかく生かしてください」と祈っています。収穫の時が来るということを期待したいと思います。
 この中に「おびただしい数の群衆が集まった」とありますけれども、聖書を見ると、イエス様のところにおびただしい群衆が集まったと言うのです。リバイバルは、イエス様が訪れてくださったら起きるということです。

 甲子園の時によく賛美しましたけれども、「主よ来てください、主よ来てください、私たちの国に訪れてください、主よ来てください、主よ来てください、私たちの町に訪れてください〜♪」
 みなさん、イエス様が訪れてくださったら、おびただしい群衆が集まります。

 信じられないほどの奇跡、全能の神のことを今もロンさん達が賛美してくださいましたけれど、全能の神が信じられないほどの奇跡を見せてくださることを期待しましょう。
聖書を見ると、奇跡が起きた時に人々は集まります。ですから、ここにもイエス様が働いてくださって、奇跡を見せてくださると思います。

 そして、もう一つ見ると、ヨナの宣教の時、ニネベの町で「みなさん!この町は40日たったら滅びます!」と、彼が命をかけて伝道をした時に、その町の王様から人々まで皆が悔い改めたという記事があります。それは、「福音を伝えることによって」リバイバルが来るわけです。

 私は東京で救われて、東京からこちらに帰って、津具に3年くらいいて、その後、新城に出て来て、豊橋の麻工場に努めていました。その時に、豊川で伝道していたオーケ・レナンデルという宣教師が私を招いてくださいました。そして初めて、10日間の伝道集会の説教に行きました。それから私は16年くらいの間、スウェーデンの宣教師と一緒に働いたんですけれど、このオーケ・レナンデルという先生は、スウェーデンのリバイバルで救われた方でした。
 私は、「リバイバルの時は、どんなことがあったんですか?」と聞きました。その方は田舎に住んでいたそうですが、田舎で木を切っているきこりさんたちが急に「あ〜、俺は罪人だ。教会行かないとな。」
畑で仕事をしていた人たちが「俺たちはこのままだったら地獄に行く」と、なんの宣伝もしないのに、人々が教会に集まってきたというのです。それは、その地方にイエス様が訪れてくださったのだと思います。
ですから、この町にも、日本にも、イエス様が訪れてくださるように祈りましょう。

 クリスマスの月を迎えたわけですけれど、クリスマスはイエス様の御降誕をお祝いします。ヨハネの福音書3章16節に、これは有名な言葉ですが、こう書いてあります。
ヨハネの福音書3章16節、

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 これは神様が御子イエス様をこの地上に送ってくださったということです。非常に不思議な言葉です。

 今日は、ロンさんも有名ですけど、ドラマーの方は、アメリカで3万人のドラマーの中で1位になったと言います。この人は超素晴らしい音楽家です。
 ですが、今日演奏してくれるメンバーの中で、誰が一番新城教会では有名かと言うと、滝元堅志君だと思います。なぜなら彼は私の孫で、小さい時からみんな、知っているので有名だと思いますけれど。
 堅志がまだ四歳ぐらいの小さい時に、彼は疑問を持ちました。私たちの教会は「イエス様、イエス様」とよく祈りますけれども、トンデラハウスの大冒険というキリスト教の番組を見て、彼はびっくりしたようです。「イエス様がお祈りしてる!」と。「イエス様がお祈りしているってことは、まだ他に神様がいるのか?」と。そこで、パパに聞いたそうです。「パパ。イエス様がお祈りしてるけど、神様がどこかに他にいるのか?」と。
 そこで説明したそうです。「神様は三位一体なのだ」と説明したのです。四歳の子に三位一体は難しいですね。そして、三位一体が何かということを説明したようです。「水があるだろ、それを凍らせると氷になるだろ、それを熱で暖めると蒸気になるだろ。同じ物なんだよ。これが三位一体なんだ。」
 しかし、彼は「わからーん」ということで、私が伝道から帰ったら、四歳の堅志を私の所に長男が連れてきて、「おじいちゃん、三位一体とは何か説明して」と言いました。それで、私が話そうと思ったら、彼は天才的な頭があるので、「わかった!」と言いました。そして「合体してるんだ!」と言いました。
ロボットが合体しているように、父、子、聖霊が合体していて、その中の子なる神様がこの地上に肉体をとって来てくださったのです。わかりましたね。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とありますけれども、みなさん信じるだけです。
 イエス様は神であり、神が人となられたということをみなさん信じなければなりません。
ローマ人への手紙 1章2節〜4節、

この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

 これは、ローマ人への手紙の書き始めですけれども、「肉によればダビデの子孫」と書いてあります。マタイによる福音書を見ると、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書いてあります。だから、神様が堕落したアダムの子孫を救うために、アブラハムを選んで、「あなたの末によって諸族が祝される」と約束されたわけです。
 そしてまたダビデを通して、いわゆるダビデの子孫を通して来ると約束されました。その通りにイエス様は肉によると、ダビデの子孫として生まれ、聖霊により、三日目に甦られ、「大能によって公に神の御子として示された方」なのです。
 イエス様が甦ったことによって、「この方こそ神の御子だ」と断定されたということです。断定されたというのは、「確かだ」ということです。みなさん、今日はこのイエス様を、神の子として信じたら救われることが出来ます。信じる事は幸いですね。
 聖書の中に、こんな言葉があります。一緒に読んでみましょう。
ローマ人への手紙 8章32節、

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

 これは御子さえも十字架につけてくださったんだから、信じたら全てのものを与えてくださるという約束です。
 クリスマスとは、神が御子イエス様を遣わしてくださった事を信じたら、御子さえも十字架につけてくださった方ですから、信じた人には恵んでくださらないことはありません、という事です。
 だから、みなさん、このクリスマスは特別神が恵んでくださる日であると、信仰を持って受け取りましょう。

聖書を見ると、恵まれるということは、非常に易しいことです。イエス様の話は難しくありません。
マタイの福音書 7章7節〜10節、

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

 子供たちが、「お父ちゃん!パンちょうだい!」と言ったら、「よし、目をつむっておれ」と言って、パンの代わりに石を与えるなんてことはありません。また、「お父ちゃん!魚食べたい!」と言う子供に「目をつむっておれ」と言って蛇を持ってくる親もいません。
マタイの福音書 7章11節、

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

 みなさん。天の父は求める者には、必ず、良いものをくださいます。今日、みなさんこの礼拝中にどれだけ御言葉を受け取るかで、人生が祝されますから、簡単なことです。ですから、信じましょう。また、ここにも同じ様なことが書いてあります。
ルカによる福音書 12章24節〜28節、

烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。

 「空の鳥にも、神はこんなに良くしているじゃないか。ゆりの花でもあんなにきれいじゃないか。あなたたちはもっと優れているでしょう。だから、あなたたちには、どんなに良くしてくださるか。」と言っています。
みなさん、今日は神が良くしてくださるということを信じることです。「信じます!良くしてくださいます!」と信じましょう。信じなかったら「あ〜、信仰の薄い者たちだ」とありますから、みなさん、信仰を持ちましょう。
ルカによる福音書 12章29節〜31節、

何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。

 まず、神の国を求めなさい。そうしたら必要な物は与えられます。ヨハネの福音書14章12節から14節は、私に対する約束だと信じています。こう約束されています。みなさんも、信じてください。信じたらあなたのものになります。
ヨハネの福音書 14章12節〜14節、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

 この中に、「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう」と、「何でもしましょう」とあります。これは私が忘れることのできない言葉です。
 私が救われたのは19歳の時ですけど、バプテスマを受けたのは、1949年5月30日です。東京の小さな教会でバプテスマを受けた時、私にバプテスマを授けた牧師先生がこう言われました。「兄弟。祈れ。罪に対して死んで神に対して生きるんだ。バプテスマの時に祈った祈りは何でも聞かれるんだ。何でもいいから祈れ。」と大きい声で言われました。聞いたことない事です。「バプテスマの時に祈った祈りは何でも聞かれるから祈れ」と言うのです。きっとここから言ったんだと思います。
 そして、その時に何でも聞いてくださるのなら祈ろうと思い、罪を悔い改めて、「イエス様、私の人生を捧げます。日本中回って伝道できるように、世界中回って伝道できますように」と祈り、バプテスマを受けました。
 あの祈りを聞いてくださって、今日まで伝道者としていろんな所で使ってくださったことは、信じたからです。ですから、みなさん、「何でも祈りを聞いてあげよう」と言うイエス様の約束ですから、今日、信じましょう。

 今日、イエス様は生きている神様です。死んだ神様ではありません。みなさん、「クリスマスおめでとうございます」と言います。私たちの誕生日の時には、「おめでとうございます。何歳ですか?」と言います。私は81歳です。イエス様の誕生日は2010年前にこの地上にお生まれになったけれど、甦って今日も生きておられるから、今年は「2010年、誕生日おめでとうございます」ということです。
イエス様は神様です。甦られました。イエス様は十字架につけられた後、甦られました。その時に、弟子達が二人、エマオに行く途中で話をしていました。クレオパという人と、もう一人の人が、話をしながら歩いていると、そこにイエス様が一緒に入ってこられたというのです。だけど、目を遮られて、イエス様だとわからなかったと言うのです。
イエス様は質問しました。「あなたたち、何を話しているんだい?」すると、彼らは、「えっ?このエルサレムにあった、すごいことを知らないのですか?ナザレのイエスのことですよ。彼は預言者で、この方こそ私たちを救ってくださると思ったけれど、指導者たちが十字架につけて殺したんですよ。だけど、それだけじゃないんです。今日、朝早く女たちが墓に行ったら、天の使いが現れて、イエス様が甦ったと言っているんだ。」

 その時、イエス様がなんておっしゃったかと言うと、誉めてはいません。
ルカによる福音書 24章25節〜27節、

するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

 イエス様はこの地上に来られた時、何回か「私はあなたたちのために十字架について死ぬ。しかし、三日目に甦る」と話しておられたのに、信じなかった人に対して、イエス様はこういう言葉を使いました。「ああ、愚かな人たち」と。
日本的に言うと、「なんておまえは馬鹿なんだ」ということです。愚かな人ということは、「おまえ、どこの大学?おまえはどのくらい学校で勉強した?おまえ、馬鹿だな」とか、そういう意味はありません。神の前には学力があるとかないとか、学校を出たとかどうだとか言う事は関係ありません。愚かな人とは、「信じなかった人」に対して愚か者と言われました。

 聖書の詩篇の中にこう書いてあります。「愚かな者は心の中で神がないと言う」と。「おまえは信じないのか?愚かな奴だ。」そこで、イエス様がモーセから始め、預言者とずっと解き明かしてくださって、そしてイエス様は必ず十字架につき甦ると話された。
 すると、夕方になったので、弟子達が旅館に入って泊まろうとした時に、イエス様は一緒に泊まることにされて、それでパンが出されて、イエス様がパンを裂かれた途端に、目が開かれて、「あぁ、イエス様だ」と分かったと書いてあります。
 彼らはイエス様の話を聞いている内に心が燃えたと書いてあります。今日、みなさん、ここにイエス様がいらっしゃいます。神です。全能の神です。甦られた方ですから、信じたらみなさん奇跡を見ることができます。イエス様がこの地上に来られた時に、いろいろなことをしました。今日、みなさんここにイエス様が来てくださったことを信じましょう。
マタイの福音書 4章23節、

イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

 イエス様は、「二、三人わたしの名によって集まる所にはその中にいる」とおっしゃいましたので、今日、目に見えませんが、一つ、信仰を持ったらいいと思います。
 前にアナコンディア先生が大阪に来られた時に、その時に私も説教をしました。すると、ある人が言いました。「先生、先生がメッセージなされた時に、あの会場をイエス様がずっと歩いて一人一人に触れていましたよ」と言いました。
私は霊的な目が開かれていません。まだ見た事がありません。前に、うちの孫が「おじいちゃん!説教をしている時に天の使いがおじいちゃんの側に立っていたよ!」と言いました。子供たちにわかるのは羨ましいと思いました。
 しかし、聖書は「見ずして信じる人は幸いだ」とありますから、今日ここにイエス様が来られています。それを信じた人に「民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」とあります。
マタイの福音書 4章24節、

イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。

 この中に書いてあるように、さまざまな病気をイエス様が癒されたとしたら、もしイエス様が2010年前のイエス様が同じように生きていてここに入ってくださったら、みなさんに触れることができるのです。
 今日、痛みに苦しんでいる人はいますか?癒されます。悪霊につかれた人も解放されます。中風の人なども皆、イエス様は癒されたと書いてありますから、こういう奇跡があるように祈りましょう。
 でも、ある人は言うかもしれません。「でも私は一生懸命祈っているけど、全然イエス様は聞いてくれない。イエス様は寝ているか、他の人の祈りばかり聞いて、私の祈りなんか聞きやしない。イエス様は耳が悪いんだろうか。」こういう人もいるかもしれませんが、この間、私は聖書を読みながら悔い改めて祈りました。

 聖書を読んでいる時に、この箇所を読みました。見て、自分のことを不信仰だと悔い改めました。
詩篇 94篇7節〜9節、

こうして彼らは言っています。「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかない。」気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

 神様はモーセにおっしゃいました。モーセが「神様、私は口べたで口の人ではありません」と言った時に、「誰が口を造ったか」とおっしゃいました。今日、みなさん、耳を造られた方は祈りを聞いてくださっていますから、みなさんがお祈りしたことは、聞いてくださっていると信じましょう。
 だから、私も悔い改めて祈りました。みなさん、リバイバルが来ます。みなさん、リバイバルはどうして来るかというと、人手によらずにきます。

 教会というのはどういう所かと言うと、ちょうど良きサマリヤ人の話があります。
 エルサレムから下る途中に、一人のユダヤ人が強盗に襲われて倒れていた。祭司が来たけど、放って通って行った。レビ人が来たけど、見ないフリをして行った。最後にサマリヤ人が来て、介抱してあげて、ぶどう酒を注いで洗ってあげたり、油をつけてあげたりして、宿屋に連れて来た。そして、宿屋の主人に、「介抱してあげてください。旅に行って帰って来ますから、お金が足らなかったらまた払います」と言い、2デナリ払ったことが書いてあります。この良いサマリヤ人が誰かというと、イエス様です。

 みなさん、教会に来た人たちは、自分で来たようだけど、神が、父が引かなければ誰も来ることはできません、とあります。みなさん、神様が引いてくださったのです。傷ついた人を教会に送り込んでくださるのは誰かと言うと、これはイエス様です。教会は宿屋みたいな所です。2デナリ出して、「これで面倒をみてあげてください」と。
 みなさん、傷ついた人の面倒をみるのは教会の仕事です。ですから、みなさん、リバイバルはイエス様が連れてきてくださいます。
 また、クリスチャンが良いサマリヤ人にならなければなりません。みなさんの隣に、近くに、傷ついた人がいたら、その人たちを連れてくることです。連れてきたら、宿屋で介抱して、元気になります。聖霊様が私たちの傷を包んでくださって、素晴らしい恵みを与えてくださいます。

 今日は、これから一言お祈りしましょう。今日は、ここにイエス様がいらっしゃることを信じて、病める人も癒されるように、わずらいのある人も癒されるように、また、悪霊に悩まされている人も介抱されることができるように祈りたいと思います。
 イエス様が今日ここにいらっしゃると信じて、病める人は悪いところに手を置いて、どこか痛いところがある人は、痛いところに手を置いてください。イエス様が来られた時に癒したと書いてありますので、今日は「癒してください」と祈りましょう。
 それから、わずらいを持っている人、精神的に悩んでいる人たちは心の上に手を置いてください。また、悪霊に苦しめられている人たちは、心の中にいろんな苦しみがある人だったら、胸のところに手を置いてください。そうして、イエス様御自身がおっしゃったように、求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見出します。叩きなさい、そうすれば開かれます。
 何か、今日、問題があって、今日この事を求めたいという人も、一緒にお祈りしたいと思います。今日はここにイエス様が訪れてくださって、奇跡を現し、そして業を成してくださるように、みなさん、一緒にお祈りしましょう。
 「経済的に乏しい。必要な物を与えてください。」という方、空の鳥でもよくしてくださるから、野の花、百合の花でも、あんなに装っています。信じて祈りましょう。心配を取ってもらいたい、イエス様に触れてもらいたいという方、一緒にお祈りしますから、祈りたい方はお立ちになってください。今日はイエス様に触れてもらいたい方と一緒に祈りますから、病んでいる方、特別にイエス様に触れていただきたい方、どうぞお立ちください。
 クリスチャンであっても、クリスチャンでなくても、それは別のことですけれども、今日はみなさん、ここにイエス様がいらっしゃることを信じて、今日は救い主として、イエス様をお迎えし、一緒にお祈りしましょう。

 愛する天のお父様、不信仰な私たちを赦してください。しかし、信じます。私は全能の父なる神を信じます。また、子なるイエス様を信じます。聖霊なる神様を信じます。イエス様、あなたは神の子であり、救いを完成して今日、甦られて、天においても、地においても一切の権威を持ってらっしゃることを信じます。
 主よ、どうか覚えてください。今日、あなたの御言葉によって、どうか一人一人に触れください。今日から弱い人は強くなりますように。病める人は癒されるように。痛いところは癒されるように。そして家庭に問題がある人は解放されるように。イエス様のお名前によって、素晴らしい祝福が一人一人に与えられますようにお導きください。
 経済的に恵まれていない人も、今日は経済的に必要な物を与えてください。お願い致します。
 また、命の心配のある方も、どうか救われるようにお願い致します。イエス様、あなたの打たれた傷によって癒されることを信じ、あなたを信じて、この祈りを御前にお捧げします。アーメン。

 イエス様に向かって賛美しましょう。ハレルヤ!