HOME > 2010年バックナンバー > 12月 > メッセージ2010年12月12日

「義の太陽、イエス・キリスト」
〜そこにはいやしがある〜

2010.12.12(SUN)
新城教会牧師 滝元 順

マラキ書 4章1節〜3節
見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。‐‐万軍の主は仰せられる‐‐しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。‐‐万軍の主は仰せられる‐‐


 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日は聖歌隊のすばらしい賛美を聴かせていただきました。本当に感謝です。歌詞の意味はあまりわかりませんでしたけれど、あれはラテン語でしょうか?イエス様は世界中で誉めたたえられています。本当に素晴らしいことです。
 一人の人物の誕生日が、これほど世界中で祝われるのは、本当にすごいです。私の誕生日なんか、「あれ?昨日だったっけ?」と家族に言われてしまいますが、イエス様の誕生日は1ヶ月も2ヶ月も前から楽しみにされています。

 この新城教会でも、先週の日曜日からクリスマスのいろいろなプログラムが始まっています。先週は残念ながら私は、東京のある教会での奉仕があり出席できなかったんですが、ロン・ブラウンさん一行を迎えて素晴らしいコンサートがありました。400名以上の方々が集われました。出席出来なかった方のために写真をお見せしたいと思います。

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 昨日は、また、子供たちが祈って準備をした「子供クリスマス」という恒例の行事がありました。何名集まったかというと、クリスマス・コンサートよりも大勢集まりました。430名の子供たちが集まりました。本当に迫力がありました。
 そして、毎年、みんなで歌う歌が「イエス様を信じれば天国に行ける。信じないと地獄に行っちゃうよ。」という歌です。子ども達がみんなで大きな声で歌っているんですね。感動しました。

 先週のコンサートに出たくても出られなかった人のために、その中でも一番良かった曲をビデオで撮ってありますので、今の聖歌隊の賛美も素晴らしかったですが、先週のコンサートの様子をお見せしたいと思います。ロン・ブラウンとそのバンドの素晴らしい迫力ある演奏をしばらくお楽しみください。

 「イエス様は今も生きておられます」と賛美されていました。クリスマスとは、生まれたばかりのベイビーをお祝いするような感覚がありますが、イエス様は今も生きておられる方です。私たちはクリスマスに、今も生きておられるイエス様を礼拝したいと心から願っています。

 今日は、「義の太陽、イエス・キリスト、そこにはいやしがある」というタイトルで御言葉を学んでいきたいと思います。
イエス様のお生まれは、偶然ではなく、旧約聖書にしっかりと預言があります。預言が成就して、イエスさまはこの地上にお生まれになったわけです。
 旧約聖書中最後の書が、「マラキ書」です。私たちが手にしている聖書は、新約聖書から旧約聖書は、たった一枚の紙で仕切られています。しかしマラキ書から新約聖書に至るには、400年のギャップがあるのです。ある意味、400年間の沈黙の時代があったわけです。
最後の書、マラキ書の中に何が預言されていたかと言いますと、「この地上に救い主がお生まれになる」という預言でした。
 特に、今日読んでいただきました4章の1節からは、イエス様のお生まれを預言しています。2節を見ると、「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」と預言されました。
 イエス様は「義の太陽」と象徴され、旧約聖書の最後のパートを飾っています。「まもなく義の太陽のような方が、この地上に現れますよ」と告げています。それが誰であったかと言うと、イエス様です。

 今年は西暦2010年と言いますが、イエス様がお生まれになって2010年ということです。イエス様は姿は見えませんけれど、「世界中で働いておられます」と、今も賛美されました。今日もイエス様はここにおられる、という信仰によって私たちは、礼拝に臨んでいるわけです。

 2010年前と現代を比べると、本当に世の中は変わりました。私の子どもの頃と比べても、時代は変わりました。昨日も、子供クリスマスがあったのですが、いろんなプレゼントがありました。毎年、プレゼントがいろいろな方々のご協力によって、提供され、子供たちに渡るんですが、近ごろの子供たちが一番欲しいものは何かとアンケートをとったら、私たちの時代は食べ物が一番という食糧難の時代だったのですが、この頃の子供たちは、iPodだとか、iPod touchが欲しいというのです。考えられません。私の子どもの時代に、今の時代はまったく予測できませんでした。

 私の小学生時代、大好きなテレビ番組がありました。知っている人は知っているかもしれませんが、「少年ジェッター」という番組でした。これを知っている人は、かなりの歳の人です。「少年ジェッター」は当時の少年達に夢を与えました。あれはちょっとした、予言的な漫画でありまして、未来の世界を描いていました。彼は腕に時計をはめていて、それはテレビ電話になるのです。そんなアイテムをジェッター少年は持っていました。私はそれを見ながら、すごい!と思っていました。私もいつかそんな物が持てたら嬉しいな、しかし、絶対無理だろう、と思っていました。
漫画の中では、少年ジェッターが、緊急事態が発生すると、腕にはめているテレビ電話のアンテナをぱっと引き出して、「こちらはジェッター」と通信するのです。そうするとすぐに助けが来るのです。それは全く空想の世界でした。

 そんな時代が来るのかな、しかしまず、無理だろうと思っていましたが、今の時代はどうでしょうか。少年ジェッターどころではありあません。誰だって携帯電話を持っていて、携帯電話にはテレビ電話がついています。今は世界中と電話が通じます。メールもあって、飛躍的にコミュニケーションの手段が拡大しました。
 人間でも、これほどのことが出来るのですから、生きている神に祈ったら、通じないはずはないのです。人間だってここまで通信手段を持っているのに、人間を造られた神が、通信手段を持っておられないはずがありません。
 時に、私たちは、「祈りは本当に神さまに届いているのかな〜。間違って届いているんじゃないかな」と心配したりしますけれど、決して心配ご無用です。人間のコミュニケーションは、完璧ではありませんので、時々、伝えようと思っても伝えられないことがあります。

 ある時、少年がメールを受け取ったそうです。その内容は、「忘れないでね。絶対に!佐藤。」とあったそうです。その少年は、「え?佐藤さんって知らないんだけど…。変な人からメールが来ちゃった…」と思って、少し気味が悪くなって、メールのアドレスを変えたそうです。
 家に帰ったらお母さんが、「ねぇ、あんた砂糖買って来てくれた?」と聞きました。「そんなこと聞いていない」と言うと、「今日メール送ったじゃん!メールが不得意なのに、1時間くらいかかって送ったのに!!」と、お母さんは怒りました。しかしお母さんは、「佐藤」と「砂糖」の変換を間違えたのです。
 私たちには変換間違いが多くあります。しかしイエス様には変換間違いはありません。確実に、私たちの祈りは届いるのです。

 イエス様はどのように象徴されているかと言うと、「義の太陽」と象徴されています。「義」とは何かというと、正しさの基準です。それは真理です。
真理とは何んでしょうか?今の時代は、何が正しいのか、何が間違っているのか、基準がありません。しかしイエス様こそ義の太陽だと言うのです。イエス様さえ見ていれば、それは正しさの基準ですから、正しく生きることができるのです。そして、義の太陽であるイエス様を見るのならば、その翼にはいやしがあるのです。
 イエス様の傘下に入っていたら、いやしを受け取ることが出来るのです。まさしくイエス様は、義の太陽としてこの地上に現れて来てくださったお方です。

しかし、クリスマスは、義の太陽なるイエス様に対抗しているような季節です。
 イエス様がお生まれになったのは、12月25日だとは聖書には書いてありません。これは時のローマ皇帝が、巷に太陽礼拝を教えとするミトラ教が流行っていたので、太陽の再生という偶像礼拝の祭りを、権力によってイエス様の誕生日と置き換えてしまった経緯があります。その歴史を見ても、「義の太陽なるイエス様」に、サタンが対抗しているように思います。
 日本はどうでしょうか?日本は義の太陽どころか、「偽りの太陽神」です。日本の国旗は、日の丸と言いますけれど、あれは何を現しているのかと言ったら、「この国の神様は太陽だ」と言っているのです。あれは義の太陽ではなくて、偽りの太陽です。日本は特に、義の太陽なるイエス様に対抗しているような感じがします。
 しかし私たちが、義の太陽なるイエス様に目を向けて行くならば、神からのいやしを体験することができます。

 イエス様がこの地上に来てくださったのには、どのような目的があったのでしょうか。永遠の命を与えるということは、間違いはないのですが、この地上に来られたのには、目的がありました。その目的の中で大きなシェアをしめていたのが「いやし」でした。
 実はイエス様がお生まれになったのはどこかと言いますと、ベツレヘムという小さな町です。機会があったらイスラエル旅行に行かれたら、聖書の世界がよくわかります。来年の4月には、私の父の滝元明が団長となって、イスラエル旅行があります。80過ぎのおじいちゃんが団長となって、イスラエルに行ったら大変なことになりそう、と心配しないでください。ちゃんと補助する者がおりますから。
イスラエルへ行くと、本当に恵まれます。聖書の世界が見れます。ベツレヘムも、たぶん行くことが出来ると思います。ベツレヘムはパレスチナ側になっていまして、入るのが少し難しいんですけれど、「こんな田舎でイエス様は生まれたのか」とわかります。
 本当にイエス様の当時なんて、ベツレヘムはこの茶臼山よりも寂しいような場所だったと思います。閑散とした村でイエス様はお生まれになったわけです。そして、イエス様がお育ちになった場所は、ナザレという町でした。町というよりも村でした。そこは、今は結構人口が増加したんですが、イエス様の時代は、その村はせいぜい500人ぐらいではなかったかと言われます。500人も住んでいなかったような、ひっそりとした村でイエス様は育ちました。30年くらいそこで生活をされました。
 イエス様が頭角を現して、人々の前に立たれたのは、たったの3年でした。しかし今や、キリスト教は、私は宗教とは言いたくありませんけれど、世界宗教となっています。世界中の人たちが、田舎で生まれた人物を神として崇め、信仰しているというのはすごいことだと思います。

 実は、一つの国に住む人々が共通した宗教観を持つには、どういう要素が必要かと言うと、ほとんどの場合、政治とか権力が関わっています。今まであった宗教が一掃され、新しい宗教色に塗り替えられるためには、それなりの権力や政治的要素がなければ、新しい宗教が一般化することはありえません。
ましてや、世界宗教になるのは、相当なパワーが必要です。
 日本は仏教国と言っていますけれど、なんでこれほど仏教が盛んになったかと言うと、やはり政治的なものです。また、権力が関わっているのです。
 仏教は、6世紀に日本に入って来ました。朝鮮半島の百済から入ってきました。百済から、くだらんものが入って来たわけです。しかし仏教受容をめぐっては戦争がありました。当時、日本は縄文時代の名残があって、縄文色の強い氏族がいて、それを物部氏と言いました。また、仏教を擁護するこれまた強い氏族がいて、それを蘇我氏と言いました。この2つの氏族が仏教受容をめぐって対立しました。仏教を入れるか入れないかで戦争までありました。仏教を日本に入れたら、国神の怒りを買う事になると物部氏は反対しました。それで物部氏と蘇我氏が戦争をして、仏教擁護派である蘇我氏が勝ち、それで日本に仏教が伝わりました。あの時に蘇我氏が負けていたら、日本に仏教は入って来なかったかもしれません。

 近年においては、国家神道で日本は支配されました。今、日本のどこに行っても神社がありますけど、これも政治的、権力的なものが関わりました。
 神社は沖縄から北海道まで同じ様式の建物です。すごいと思います。神社の創設された年代を見ると、縄文時代、2000年以上の歴史があるなんて書いてあります。「すごい。2000年も神社がこの場所にあるのか」と思います。
 しかし、なんで神社が同じ建築様式かというと、権力が関わっています。明治維新により、それまで将軍、徳川が日本を支配していましたが、朝廷が支配をするようになりました。その時、朝廷はあまり有名ではありませんでした。なんらかの支配するための方策が必要でした。それで、古代の神道などをいろいろと研究した平田篤胤という人物の理論が採用され、国家神道で日本を固めることになりました。それで、南から北まで一斉に同じ様式で神社を作りました。神社の鳥居に建立した年代が記されているのですが、今度、鳥居をよく見てみてください。江戸時代の鳥居なんてほとんどありません。ほとんどが昭和の初期です。
 神社の建築様式を見ると、旧約聖書の神の幕屋に似ていたりします。ユダヤ教と似ていたりして、伊勢神宮なんかに行くと、ダビデの紋章なんかがあったりします。日本にユダヤ人が来たんじゃないか、と言う人がいます。しかし、それは全くの偽りです。
 平田篤胤は、ユダヤ教も研究し、それを取り入れて国家神道を編み出したのです。実は、明治時代に「神社整理」というものがありました。それによって当時あった神社の半分くらいが壊されて、新しくされました。そして、自分たちのイデオロギー保持に合う神社を創設しました。三重県は伊勢神宮があってすごい場所だと思いますが、三重県にあった神社の9割が壊されて、新しい神社が創られたと言われます。ゆえに神社は、南から北まで、全て同じ建築様式なのです。あれは人民支配のために故意に創作されたものです。日本人は「神社は古い物だ。」と信じています。もちろん神社は明治以前からもありました。それは縄文人たちの祭祀場の上に祭壇が築かれたもので、たいへん縄文色の強い祭祀場でした。
 けれども、明治時代からは権力が関わって、国家神道でみんなを縛るために、縄文色を消して、今のような神社が創作されたのです。だから、騙されてはいけません。宗教とは、ほとんどが、こう言った国家的権力が関わっています。

 しかし、イエス様は、新約聖書をよく読んだらわかります。権力や国の政策は全く関わっていないからです。むしろそれらをイエスさまは避けられました。イエス様は三年間活動されただけで、なんと世界の色が塗り替えられてしまったのです。その後、キリスト教が権力とタイアップした歴史もありますが、原点において働きが拡大して行ったのは、実に、権力によらず、能力によらず、神の霊によって拡大したのです。神の国は人手によらず広がったのです。これは世界宗教という視点から見ても、本当に不思議なことです。ということは、よほど、イエスさまの働きには、インパクトがあったのです。

 実は、イエス様がお生まれになる時代背景が、どんな時代であったかと言うと、旧約聖書が書き終わり、マラキ書から新約時代まで、だいたい400年くらいのギャップがあると言いましたが、その間、パレスチナにどんなことが起こっていたかと言いますと、世界史を勉強した人なら分かると思うのですが、ギリシャ帝国が台頭して、ギリシャ化した町々が多くできました。それをヘレニズム時代と呼びます。
 イエス様の時代はギリシャ帝国からローマ帝国に権力が移った時代でした。でも、ローマ帝国とは、ギリシャ文化をそっくり利用しましたから、ギリシャ的な影響が強く残っていた時代でした。
 ギリシャは、ギリシャ神話の神々を礼拝していました。そういう世界がイエス様のお生まれになった時代には広がっていたわけです。ギリシャ文化の影響の直中に、イエス様はお生まれになりました。そして、何が起こったかと言うと、なんと、地中海周辺を含めて、ギリシャ神話の神々とか文化を、全てはね除けてしまったのです。イエスさまに続く弟子達やクリスチャン達は命をかけて、福音を伝えるようになったのです。よほどのことがなければ、そういうことはありえないのです。

 先日、その背景を記した本を読みましたが、イエス様の働きは、当時の他の宗教とは全く違うものでした。権力とか、政治は関わらないで、彼の行動だけで、なんと当時のヘレニズムの世界で行われていた、ギリシャ神話の神々礼拝が消えて、人々はイエス様に目を向けるようになったのです。それは驚くべきことだと言うのです。当時はギリシャ神話の神殿に行きますと、魔術や呪術を使って儀式が為されていたのが、イエス様はそういうことを全くされなかったというのです。ただ「言葉だけ」で、時代を変えてしまったというのです。これは驚くべきことです。それは神が人となってこの地上に現れたとしか、考えることができません。

 そこでイエスさまは、何をされたかと言うと、実はイエス様の働きの中心は「いやし」でした。前回もちょっとお話をしたのですが、その本の中に書かれていたのですが、マタイとマルコとルカの共観福音書の三つの中で、イエス様がいやしの奇跡を行われた記事を平行記事も含めて数えると、実に、50話に渡るというのです。イエス様の働きのほとんどが、いやしの働きだったというのです。
 そして、マタイ、マルコ、ルカの中、断片的ないやしとか、また弟子達によって行われたいやしや奇跡を数えると、105話に渡るというのです。というのは、本当にイエス様の地上での働きは、いやしを人々にもたらす働きでした。

 当時は、ギリシャ神話が元となるギリシャの宗教がありました。当時、パレスチナで最も流行っていた神は、実は、いやしをもたらすという触れ込みの「アスクレピオス」でした。パレスチナにはそれが多く祭られていて、その神殿にみんな行っていたというのです。アスクレピオスはいやしの神と言われ、人々からの信仰を一身に集めていました。その神殿は、いやしを求める人々であふれていました。イスラエルはユダヤ教だったのですが、ユダヤ教と言っても、やはりその影響を受けていて、アスクレピオスの神殿に行く人も大勢いたようです。アスクレピオスのいやしを求めるのは、一般的になっていたのです。
 そんな直中、イエス様が現れて、アスクレピオス神を物ともせず、蹴散らして、神殿も取り壊されるくらいにまで変わったと言うのです。

これは何が言えるのかというと、歴史的に調べてみても、イエス様のいやしが当時のギリシャ神話の神々によるいやしとは、比べものにならないほどすごかったのです。一瞬にしてすっ飛んでしまうくらいの、比べ物にならない、素晴らしいいやしが起こった事を意味します。人々はイエスさまによるいやしが、余りにも凄いので目を見張り、今までの偶像を捨てて、イエス様に命をかけて従ったに違いないというのです。政治的権力も、策略も何もなく、ただ一人の男があのベツレヘムに生まれて、ナザレに育ち、世界を変えるほどに成長したのです。これは本当に不思議なことです。実に、イエス様は旧約聖書で預言されていた通り、義の太陽として、翼にはいやしがあるというみことばの成就でした。いやしを人類にもたらすために、神が人となってこの地上に来てくださったことを現しています。

 イエス様の生涯を預言している箇所は、旧約聖書の中に多くあるのですが、有名なところはイザヤ書の61章です。
イザヤ書 61章1節〜3節、

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。

 このイザヤ書の61章の御言葉と、先ほど読んだマラキの4章1節から3節の御言葉を対比してみても、そのテーマは共通しています。
 心傷ついた者たち、病の人たちがいやされるということと、捕われている人たちが解放されるという共通の預言がなされています。イエス様がこの地上に来られて行われたことは、それら2つのテーマに添ったものであったわけです。
 今日も、イエス様は生きておられますから、同じテーマで私たちに触れることが出来るお方です。イエス様はこの地上に、義の太陽としていやしをもたらすために来てくださったのです。私たちがそれを理解してイエス・キリストに目を向けるならば、翼にはいやしがあります。子牛たちが牛舎の中に閉じ込められているのではなく、外に出て跳ね回るように、喜んで走り回るのです。違った世界がそこにはあるのです。

 私は今、3人、孫がいます。みんな女の子です。近頃も孫が一人生まれて、一ヶ月以上にもなるんですけど、まだ実際にはその孫には会ったことがありません。3人目くらいになると、大分テンションも下がると思いますが、会いたくても忙しくて会う事ができません。
 すぐ近くに12月に一歳になる孫が住んでいまして、そいつは毎日我が家にやって来ます。
 生まれた時には、「おとなしい子だな。平和な子だな。」と思っていたら、それは大きな勘違いでした。本当にチビ・ギャングのように、我が家に来て暴れまくります。来た時は嬉しいですけど、帰った時にはもっと嬉しいです。
 先週、彼女は突然人間になりました。両足で歩き始めたのです。今週は、彼女の誕生日です。子どもは歩き出したらすごいです。初日は二・三歩、歩いては転びよたよたしていたのですが、翌日は10歩くらい歩くようになって、一週間の間に自由に歩き回るようになったのです。それまではゴキブリのように、這いずっていたのが、両足で立って、今までいけなかった所にまで入り込んで、更にいたずらをするようになりました。
 両足で立って歩き回るというのは、本当に人間にとって重要だと思いました。そこには全く違った世界があるのです。
 今まで伏せって、閉じ込められていた者達が、義の太陽なるイエス様と出会い、外に出て飛び回るようになると教えています。

 ヨハネの福音書の5章を見ると、こんな記事があります。イエス様は、普段はガリラヤ地方におられたのですが、ユダヤ人の祭りがあって、エルサレムに上って行かれた時の話です。
ヨハネの福音書 5章1節〜9節、

その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、38年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

 実は、イエス様がエルサレムに上った時、羊の門のすぐ近くにベテスダの池という池がありました。そこには神殿があって、中には五つの回廊があり、そこは有名な場所でした。なぜならば、病人が集まるということで、有名でした。回廊は病人たちでごった返していました。
 なんで病人がそこに集まっていたかと言うと、その池には古くからの伝説があって、池の水が動く時は、天使が降りて来ていて、水をかき回している時だと。この時に最初に池に飛び込んだら、病気が治るという言い伝えがありました。それで、いつ池の水が動くのかと、イスラエル中から病人が集まっていたわけです。
 聖書の記述だけでも、いろんな人がそこにいたのがわかります。目の見えない人、足の利かない人、やせ細った人たちが、五つの回廊を根城にしていたみたいです。

 そして、そこには有名な一人の男がいました。なぜなら彼は38年間も、その池の畔で、いやしを待ち続けていた男であったからです。
 実は私は今年、2回ほどイスラエルに行ったのですが、ベテスダの池の跡地にも行きました。すると、私たちをガイドしてくださったガイドさんが、いろいろ歴史的なことを話してくれました。
 「この場所がどういう場所かを説明します」と言って、実は、なぜここに大勢の病人が集まっていたかと言うと、ここにかつてアスクレピオスが祀られた神殿があったというのです。それで、人々はそこに集まっていたというのです。
 そして時々、池の水が動くというのです。「あっ!水が動いた!それ。天使が降りてきたぞ!天使が癒すぞ!」と、いろいろな民間信仰もそこに重なっていて、最初に池に飛び込んだら治るということだったのです。
 実は、その池を調べてみると、そこは間欠泉でした。英語ではガイザーというのですが、時々、下からガスの圧力と共に温泉が吹き出すわけです。昔の人たちはそんなことはわかりませんので、それを天使が降りて来たと信じていました。水の動きがいやしをもたらすということで、アスクレピオスというギリシャ神話の治癒神の神殿がその場に建ち、人々はいやしを待ちわびていたわけです。

 そんな直中にイエス様は行かれました。そして、なんと38年もの間、病気にかかり、回廊を根城にしていた人に声をかけられました。この人に「よくなりたいですか?」と声をかけました。よくなりたいのは当たり前ですよね。そうでなければ、38年もそこで生活するはずはありません。
 彼の心のどん底は、「よくなりたいです!」と叫んでいたはずです。でも、その叫び声さえ、出なくなるほど彼は希望を失っていました。彼の答えが5章の7節に記されています。
ヨハネの福音書 5章7節、

「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

 本当に彼は38年も、池の畔に寝転がっていますから、いやされたいのは当然ですけれども、全く希望を失っていた人であったわけです。
 みなさん、38年と一口で言いますけれども、これは長いです。私は今年で59歳ですけれども、38年前と言ったら21歳からです。私が21歳の時から今に至るまで、ずっと池のほとりで転がっていたとしたら、冗談じゃないと思います。
 でも、相当な期待もあったのだと思います。アスクレピオス神の所に行くと、たまには本当に奇跡が起こったのかもしれません。
 実は、こういう偶像の神々に頼っても、時々、いやしが起こったり、奇跡が起こったりすることがあります。日本の新興宗教なんかでも、ほとんどがいやしを売り物にしています。「いやされますよ。だから来てください。問題解決しますよ。来てください。」それで、みんな行くのです。
 また、「儲かりますよ。」それで行くわけです。たまには華々しいことが起きるもんだから、38年間もそこから動けないくらいの集客力、束縛力もあったのです。何もなかったら、38年もそんな所にいません。やはり何かがあったと思います。

 しかし、真の神のいやしと、悪魔の関わるいやしの違いはどこにあるかと言うと、ここに記述されている通りだと思います。悪魔の働きというのは、同じ職業の方がおられたら申し訳ないですが、パチンコ屋と同じだと思うのです。
 パチンコ屋にどうして人々が行くのかというと、儲かる人がいるから行くのです。一部は確かに儲かるのです。でも、ほとんどの人たちは損します。ギャンブルは同じです。一部の人たちは儲かるのですが、ほとんどの人たちは損するのです。しかし儲かった、いやされたということが、クローズアップされるのです。
 すぐ近くにも、○○稲荷がありますが、「儲かりますよ」ということで売り出しています。そういう所に行って儲かる人が一部いるわけです。だから、みんな「私も行こう」となるのです。しかしほとんどの人が大変なことになるのです。うまくいく人というのは、ちょうどベテスダの池で水が動いた時に、最初に飛び込んだ人みたいな人です。2番目の人はいやされないのです。「最初の人だけ。努力した人だけ。でも飛び込めない人は駄目」というのです。
 だいたい、病人が集まっているのですから、最初に飛び込めるような人はその中では、一番健康な人ではないでしょうか。
 水が動いて本当にいやされるのなら、38年も苦しんでいる人から、みんなで協力して水の中に放り込めば良かったのではないでしょうか。でも、そういうことはなかったのです。人々は「我先に!自分さえ良ければいい!」そのような考えがその池を支配していました。

 でも、イエス様はどこに来られたのかと言うと、38年間もずっと苦しんで希望を失っていた男のところに来てくださいました。そこには多くの病人が伏せっていたと思いますけれども、その中のしんがりというか、最も希望を失ってどうにもならない、最後列に訪れてくださったのです。そして「床を取り上げて歩きなさい!」と宣言され、いやされたのです。
 これこそ、神のいやしに他なりません。なにか一生懸命努力をして、強い者がうまくいくというのではなく、最も希望を失っていた人をいやしてくれたのです。
 「○○大学入試」と言ったら、一番良く出来た人から入れてくれるのです。出来なかった人はがっかりするわけです。ある大学に入ろうと38年間も努力したけど駄目だったなんて言ったら、どのくらい落ち込むでしょうか。
 しかし、一番出来ない人の所に行って、「あなた、どうですか?38年、駄目なんですか?じゃぁ、あなたから入れてあげますよ。」そんな学校はどこにもありません。

 けれども、イエス様の働きは一番駄目だと、最悪だと、希望はないという人から、いやして下さいます。希望を失った人に目を留めてくださいます。本当の神と、悪霊的ないやしとは全く違うことを意味しています。

 教会に来ると何が起こるのでしょうか。何か努力をした人からいやしてあげますよ、助けてあげますよ、ではなく、全く希望を失っているような人のところに、イエス様は訪れて下さるのです。そしていやし、立たせてくださるのです。

 イエス様が語られた言葉は、「床を取り上げて歩きなさい!」でした。「床」というのは、この男にとっては人生そのものでした。彼は38年もの間、床の上でしたから。全くそこから動くこともできず、池の中に入ることもできなかったのです。そんな男が、床を取り上げて歩き、全く新しい人生が始まりました。
 義の太陽を私たちが仰ぐ時、今までとは全く違った人生が始まります。彼の人生は床の上だったのですが、床を取り上げて歩き出しました。
 まさしく、これはマラキ書に預言されていた通りでした。「義の太陽が上る時にはその翼にはいやしがあり、あなた方は外に出て牛舎の子牛のように跳ね回ります」と預言されていた預言の実現でした。
 イエス様は今日も同じ力を持って、ここにおられます。イエス様を仰ぐ時に、そのことを体験する事ができます。
 家の中に閉じこもっていたら、陽の光を浴びることはできません。けれども、戸を開けて外に出たら、自然に太陽の光が当たります。私たちもイエス様に注目して、イエス様のほうに向くと、知らないうちに人生が変わってくるのです。努力だとか、修行だとか、そういうものではなく、「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と預言されたように、神の霊によって、人の手によらず、人生が動き始めるのです。

 先週、ある方とお話する機会がありました。新城教会に、近頃来られた方です。その方は、毎朝考えていたことは「死にたい」ということだったそうです。それしか考えなかったというのです。朝起きると、「は〜。まだ私は生きている。どうやったら死ねるのだろうか」と考えていたそうです。そんな生活が長いこと続いていたそうです。
 でも近ごろ、誘われて教会に来たのです。彼は、いつも考えることは死ぬことばかりで、自分の気持ちを紛らわすために、酒ばかり飲んでいたそうです。でも、義の太陽なるイエス様に出会ったら、気がついたら、「あれ?朝起きても死にたいって思わないぞ」と、死の気持ちから解放されたというのです。そして、気がついたら、酒も必要なくなったというのです。
 私がその方と最初に出会った時、あまりにも痩せていて、「大丈夫かな〜」と思いました。しかし教会に来て、気持ちが変わったら、気がついたら10キロも太っていたそうです。普通10キロ増えたら大変なことですが、その方にとっては良かったです。知らない内に、義の太陽なるイエス様と出会ったら、外に出て跳ね回るようになるという御言葉の成就です。
 「どこに行っても助けがない。」という人がいたら、イエス様は、そんな所に来て、解放してくださり、いやしてくださる方です。

 そして、その背後には、敵の力が打ち破られたという事実があるのです。イエス様は、105話もいやしを行われたのですが、患者の病名を拾っていくと、一番多いのが、「汚れた霊からの解放」だというのです。それが、述べにして、48話もあるというのです。病の大半が、悪しき力からの解放だというのです。
 少し前にヨブ記を学びましたけれども、不幸な事件と、目に見えない敵の力が強く関わっているのです。
 イエス・キリストを信じるということは、何を意味するのかというと、敵の力が打ち砕かれるということです。マラキ書の中にも「あなたがたは悪者どもを踏みつける」と書かれていました。「彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となる。」新約聖書では、「…平和の神はあなたがたの足でサタンの頭を踏み砕いてくださいます」。
 イエス様は私たちと共に戦ってくださり、敵の力が打ち砕かれる時、なんとそこにはいやしがあるということを、同時に現しているのではないかと思います。

 今日も、ここにいろいろな所から集まっておられますけれど、イエス様がこの地上に来てくださった目的に「いやし」があることを、堅く信じようではありませんか。
 それも、最初に飛び込んだ者がいやされるのではなくて、一番のしんがり、一番最後の、どうにも希望のないようなところに、イエス様は訪れて、いやしを与えてくださる優しいお方です。
 ゆえに、ギリシャの神々は蹴散らされ、みんなイエス様を信じるようになりました。だから、政治的要素はなくても、世界を塗り替えたのです。
 キリスト教は宗教じゃありません。義の太陽。まさしく真理そのものです。このような素晴らしい神、イエス様に出会うことが出来るとは、この上もない幸せです。義の太陽なる方と共に生きるならば、間違いありません。

 今日も、イエス様に期待をしましょう。いやしが必要ならば、いやしを与えてくださいと祈りましょう。生きておられるイエス様に願うならば、そのことが起こると信じます。最後に一言、お祈りして、終わりにさせていただきたいと思います。


 ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。
 あなたは計画通りにこの地上に来てくださったことを感謝します。あなたの傘下に入る時に、私たちはいやしを受けることが出来る特権を感謝します。
 今、この会衆の中に、特に、インターネットで礼拝に出ておられる方々の中には、床に伏せっている方もおられます。主よ、どうかそのような方々に訪れて下さい。
 苦しんで希望を失っている人のところに、自ら来てくださって、床を取り上げて歩けと宣言してくだい。
 いやし主であるイエス様、あなたに期待します。あなたに目を向けます。主よ、今日、一人一人に触れてください。いやしを与えてください。
 今日、ここにおられるお一人一人の状況をよくご存知ですから、心から感謝します。
 あなたの十字架の血潮を心から感謝して、今から聖餐を持ちます。今日はどうか私たちのところに、義の太陽なるイエス様が訪れてください。そんな時となりますように。イエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げします。アーメン。