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「時がついに満ちて実現します」

2011.1.2(SUN)
新城教会牧師 滝元 順

エペソ人への手紙 1章7節〜10節
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。


 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。そして、新年あけましておめでとうございます。
 12月31日からずっとこの場所で、聖会が開かれておりまして、今日は3日目ということで、年をまたいで連日、礼拝が捧げられております。今日は2011年1月2日ですね。そして、2011年、最初の日曜日です。こうして礼拝が捧げられます事を本当に感謝しています。

 さらに、この礼拝が終わりましたら、毎年恒例になっております「24時間連鎖賛美」が、4時から行われます。全国から来てくださいます。ぜひとも礼拝の賛美で恵まれたから、これでいいやではなくて、ご出席いただきたいと思います。
 今回はスペシャルゲストがいます。それは、「Rina & Kana」という双子の姉妹です。今年は韓国リバイバルミッション第2弾があります。今週から、岡本泉さんがまた韓国のほうに派遣され、準備がなされていきます。5月に2箇所で集会がありますので、今年は本当に忙しいです。
 そんなことで、この方達は在日韓国人の方々で、韓国語も大変よく出来て、韓国語と日本語で賛美します。歌がたいへんうまいです。なかなかさわやかな歌声で、今風な賛美ですので、ぜひとも聞きに来ていただきたいと思います。夜の平岡先生の聖会の時、奉仕してくださると思います。

 実は、昨年、12月31日に6名の先生方が、2011年に対する預言的なメッセージを語ってくださいました。主の前に取り組んで祈って、2011年、主が何を教会に、また、日本に成してくださるのかを、祈り求めた結果をメッセージとして語ってくださいました。なかなか恵まれた聖会でした。出席出来なかった方も多くおられるかと思いますが、まもなくそれらを文章にしてお渡しすることが出来ますので、読んでいただけるとよくわかると思います。
 私は、6人の先生方が話したメッセージをまとめて、自分のものを付け加え、1月1日にはお分ちする役割です。ですから、毎年、12月31日はなかなか大変です。彼らが何を語るのか全く知りませんので、6人のメッセージをもらさず聞いて、メモって、終わってからそれを分析して、1月1日にはメッセージとして語らせていただきます。

 今年は今までに増して、主がこの教会に、また日本に大きな計画をお持ちなのではないかと強く感じました。毎年毎年、そのようなメッセージが語られるのですが、今回は、「主が何かをなされる」という期待感が高まったメッセージでした。私は期待に胸を大きく膨らませています。

 私を含めて、7名の牧師たちのメッセージを総合して、2011年に対する預言的メッセージをまとめました。私たちが預言者として語るというものではなく、主から与えられた御言葉を、信じてまとめる作業です。これは私の願望も含まれているかと思いますので、みなさんで吟味してくださればいいと思います。昨日来られなかった方のために、2011年の預言的メッセージを、まず最初にご紹介したいと思います。

 最初にメッセージに立ったのは、上條実先生だったんですが、彼が引用した御言葉が、もしかしたら全体的テーマの御言葉かもしれないという、気がしました。

2011年に対する預言的メッセージ

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 昨年、チリの鉱山で起こった事件を思い出しなさい。地下に閉じ込められた人々は、自分の力ではどのようにしても、地上に出ることは不可能でした。しかし、地上からの一方的な救援活動によって、全員無傷で地のどん底から救出されました。
 2011年はあの救出劇に象徴されるような、奇跡の年となります。人々の命が地獄の穴から救われ、病がいやされ、恵みと憐れみの冠が与えられる年となります。

 わたしは今年、多くの奇跡を用意しています。今まで、どうにもならなかった領域に奇跡を現します。ヤイロの娘が生き返ったように、不可能が可能となるのです。
 奇跡を止める不信仰、つぶやき、神への不平・不満の泣き声を追い出しなさい。恐れを捨て、ただ、わたしを信じなさい。

 あなた方が長年にわたって、リバイバルの為に流した汗と涙をわたしはよく、知っています。今年は、今までせき止められていた、リバイバルの堤防が決壊する年となります。
 準備しなさい。安住の地にとどまっていてはいけません。みこころをさらに求め、攻め上りなさい。絶対に不可能と見える領域に対しても、神の息を宣言しなさい。ひどく干からびた骨さえも生かす、わたしの霊によって預言しなさい。「息よ四方から吹いてこい!」と。

 あなたの立場、遣わされている場所を確認し、わたしについてきなさい。そこからわたしは働きを始めます。収穫の時を見逃してはなりません。実は熟しています。おびただしい群衆がわたしの元に来ます。なぜなら、神の時が来たからです。


 以上のように、まとめさせていただきました。
 語られた御言葉が実現するように、信仰を持って進んでいこうじゃありませんか。
 私が今回、主から導かれている御言葉が何かと言いますと、昨日の新年礼拝において、発表させていただいたのですが、今読んでいただいた中に、キーワードがあります。エペソ1章9節、

『みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。』

 それは、「時がついに満ちて、実現する」というキーワードです。神様は、予め計画をお持ちであり、その計画はやがて時が満ちると実現するのです。
 聖書の神様は、決して気まぐれの神ではありません。日本の神々は、常に気まぐれの神々です。思いつきというか、その場限りの神々です。これは神ではなく、神のふりをした悪霊どもの働きです。しかし、私たちの神は天地宇宙を造った神であり、決して気まぐれの神ではなく、初めに計画ありきです。そして、時が満ちると、神の計画が実現するという、法則の中で働いておられます。
 私たちがこの地上に生まれたのも、最初に、計画ありきなのです。ゆえに時が満ちると実現する計画があるのです。

 日本は教育の中で、進化論を教えます。進化論というのは、突然変異を進化の過程としますから、全く計画性がありません。突然、何が起こるのかわかりません。突然変異しかないとしたら、人生はなんとむなしいでしょうか。でも、神がおられ、初めに計画ありきで、やがて時が満ちると、神の計画が現れるとしたら期待できます。
 「私は年をとってしまった。なんの希望もない…」というようなことはありません。生きている限り、神の計画の中であるはずだし、また、時が至って、計画されている事柄が実現するのです。

 イエス様がこの地上に来られて、宣教を開始された時の第一声はなんであったかというと、バプテスマのヨハネが捕らえられた後に、イエス様がガリラヤに行って第一声をあげられました。
 マルコの福音書1章14節〜15節、

『ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」』

 これが、イエス様の第一声でした。「時が満ちた!」と。そのように、最初に語られ、福音を宣言されたわけです。

 昨日もお話ししましたが、ギリシャ語で新約聖書は書かれましたが、ギリシャ語世界の「時」に関する概念がありまして、私たち日本人にはあまりはっきりとした概念がなく、「時間」と言ったら「時間」なのですが、ギリシャ人たちの時間の概念は、二つあるそうです。それは、クロノスという言葉と共に、「カイロス」という言葉が使われています。クロノスというのは、アナログ的に、時間の連続を表す概念ですが、カイロスは、「特定の時」を表す言葉として使われています。
 エペソの1章で、「時がついに満ちて実現します」という時の「時」も、イエス様が「時は満ち、神の時は近くなった」という時の「時」も、クロノスではなくて、「カイロス」が使われています。
 カイロスのイメージは、コップに水をつぐと、だんだんと水かさが増えますが、それはクロノス的に増えていきます。しかし、やがてコップが水で満ち、のりこぼれる瞬間があります。これは、ただ一度しかありません。この、のりこぼれる瞬間が、「カイロス」のイメージです。それは特定の時を表すのです。

 神様は計画をお持ちで、そんな中でクロノス的に計画は進んで行くのですが、ある時に差しかかると、水が溢れるように、「神の時が現れる」瞬間があるのです。私たちはそのような二つの時の中に生かされているのです。
 みなさんに対する、また私に対する、この教会に対する、クロノス的神の計画は、常に前進しています。しかし、ある時になると、突然、カイロスが訪れて、コップから水がこぼれ出るような「特定の時」が用意されているのです。

 1992年、私たちは愛知県民の森で祈っている時に、激しい聖霊の注ぎを体験しました。1992年以前から新城教会に来られている方も多くおられますが、その前後は、激動の時代であったわけです。まさしくそれは、神の時でした。しかしそれは決して、偶然に起こったことではありません。
 1992年の2月13日、忘れることもできません。愛知県民の森で祈っている時に、激しく主が訪れてくださったのは、決してきまぐれな神の訪れではありませんでした。けれども、考えてみれば、1970年くらいから、愛知県民の森では、ずっとリバイバルの為の祈りが積まれていましたし、また、新城教会においても、1988年からと記憶していますけれど、教会のスタッフたちが月曜日と水曜日、あの頃は体力がありました、毎週、山頂まで登り主に叫んで、リバイバルを祈っていました。
 毎週、祈っていても、別にどうってことはなかったのですが、しかし、甲子園ミッションの準備段階のただ中で、突然、神の訪れ、神の時が現れました。そして、聖霊様が爆発的に働かれ始められたのです。それから、霊的な戦いが始まり、今日に至っています。それは、神が予め立てられた計画が徐々に前進し、一つの特定の時を迎えたということを、今になってわかります。
 みなさん、これから「第二弾」が必ずあります。覚悟していただきたいと思います。新城教会に来られたということは、1992年に一度、神の時が現されましたけれど、第二弾が必ずあるのです。何が起こるのか・・・、怖いな…、なんて思わないでください。それは素晴らしい「リバイバルの訪れ」です。必ず、それがあるはずです。

 神は、私たちの叫び声に、そっぽを向いていることは決してありません。「あなた方が今まで祈ってきた祈り、流してきた涙は絶対に忘れていませんよ」語られています。私たちの知らないうちに、神の計画は前進し、ある特定の時、「カイロス」を迎えるのです。
 そして、この2011年、カイロスを迎える重要な年になるのではないかと、私は期待しています。

 私は昨年、マルコの3章、4章、5章を神様から強く示されて、そこから何度もメッセージさせていただきましたけれども、神の国がどのようなものかが、記されています。
 マルコの福音書 4章26節〜29節、

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 農作業をされている方は分かるかと思いますが、種を蒔いて、収穫に至る過程は、もちろん人手は入れるのですが、作物が育つのは「出てこい、出てこい」と手でひっぱるわけではありません。夜は寝て、朝は起きて、そうこうしている内に、どんどん成長するのです。庭の雑草を見たらよくわかります。夜は寝て、朝は起きて、そうこうしている内に、草だらけになります。作物が育つのは自動運転です。
 神の国も同じです。私たちは、何気なく毎週のように教会に来て礼拝に参加していますけれど、目に見えない世界では、夜は寝て、朝は起きて、そうこうしている内にどんどん前進しているのです。
 やがて特定の時が来るのです。それはどういう時かと言うと、「実が熟して収穫の時が来る」のです。神の計画を「収穫をする」瞬間があるのです。
 作物でも、実が熟する瞬間は一番気をつかいます。なぜならば、その時を逃してしまうと、収穫に至らないからです。収穫時期になったら、もちろん作物は人手によらずに成長するわけですが、お百姓さんはいつも作物を見張っていて、収穫する瞬間を見極めて鎌を入れます。それを怠るとどうなってしまうかと言うと、せっかく実を結んだ作物が腐ってしまいます。
 神の国も同じです。神は、計画を独自に進めておられるのですが、特定の時期、実が熟する時には、人が鎌を入れのです。私たち、人が関わらなければならない瞬間があります。

 リバイバルも同じだと思います。神はご自分の計画を進めておられますが、そこに人が鎌を入れるのです。人には、神の時に対応する責任が負わされています。
 2011年、私たちは、神の国の進展に細心の注意を払い、その瞬間に鎌を入れ、リバイバルに対応させていただきたいと願います。

 今、日本の政治も、経済も、教育も、社会も、何もかも混乱しています。どんなリーダーが出ても、うまくいかないと思います。神が介入してくださらない限り、この国は、ある意味で、迷走状態が続くでしょう。しかし、必ず神が国に介入してくださる瞬間があります。
 そんな時に向かって準備をし、実が熟するカイロスを決して見逃さないことが重要ではないかと思います。

 聖書を見ますと、イエス様がこの地上に来られ、多くの業を為されました。イエス様と出会った人たちは、人生が変えられて行きました。そのレポートが福音書の中には多く出ています。
 しかし、イエス様を人がどのように受け取るかで、神の時の実現か、否かが掛かっていたことを教えられます。
 人は神の時に敏感にならなければならないのです。

 マルコの福音書10章を見ると、イエス様がエリコという町に来られたことが書かれています。
 今年、4月にイスラエル旅行があります。よかったら出かけてみてください。今回は滝元明牧師がみなさんをイスラエルまでご案内させていただきます。82歳のじいさんですが、心配しないでください。ちゃんとガイドさんもいますし、助ける人もいますから。みなさんが明牧師の背中を押さないと、山なんかは登れないかもしれませんけれど。でも、彼は元気です。
 イスラエルに行くと、聖書の舞台がよく見えます。エリコに行くかどうか、わかりません。なぜなら、現在エリコはパレスチナ側なので、ユダヤ人は入れません。でも、外国人は交渉すれば行くことができます。
 イスラエルに行くと、イエス様がどんな働きをしたかが、よくわかります。一度くらい、クリスチャンなら、イスラエルに行ってみたいものですよね。お金と暇があったらの話ですけれど。

 マルコの福音書10章45節から読むと、一人の男が出て来ます。それは、バルテマイという盲人の乞食です。イエス様がエリコに来た時、彼は盲人ですからイエス様を見ることは出来なかったのですが、そのチャンスを掴まえました。そんな中から、「神の時を掴む秘訣」を学ぶことが出来ます。
 マルコの福音書 10章45節〜52節、

『人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。』

 イエス様がエリコの町に来た時、みすぼらしい服を着て、物乞いをしている盲人の乞食が座っていました。彼は、目は見えないけれど、周りの雰囲気で、風の動きでイエス様が来られたのを感じ取りました。「この町に何か特殊なことが起こっている・・・」と。
 彼の耳は開いていましたから、あのナザレのイエスという奇跡を行う人物が、今、町に来られているという情報を、敏感にキャッチしたのです。その時、彼は、周りの人のことなんてまったく気にせず、「ダビデの子よ!私を哀れんでください!」と気が狂ったように叫び始めたのです。周りの人たちは、「そんな大声を出したら、恥ずかしい、黙りなさい!」と彼をたしなめたほどでした。しかし彼は、狂ったように叫び続けました。

 その時、イエス様はその声を聞いたのです。イエス様は立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われ、彼はイエス様の前に連れて来られたのです。
 「盲人は上着を脱ぎすてて、すぐに立ち上がってイエスの所に来た」と記されています。よほど汚い服を着ていたのでしょう。
 イスラエルに行くと、乞食がいるんですが、彼らには営業用上着があります。
 私が始めてイスラエルに行った時に、乞食が座っているもんだから、かわいそうに思って、私にも少しは哀れみの心があるので、1ドル札をおばちゃんの手に握らせてあげました。「これで何か食べてください」とか言って、「今日はいいことしたな〜」と心暖かくなりました。
 しかし次の年に行くと、また、同じおばさんがそこに居ました。昨年も、子供を抱いて物乞いをしていたんですが、同じ格好をして、同じサイズの子供を抱いているのです。これはおかしいぞ、と思って聞いたら、そういうのは営業用の乞食で、世界から観光客が来ますから、乞食業は結構儲かるらしいのです。

 けれども、このバルテマイというのは、正真正銘の乞食でした。彼は、イエス様に叫んで、イエス様のところに連れて来られました。その時、イエス様が何と言われたかというと、「わたしに何をして欲しいのか?」と聞かれました。
 イエス様は、むやみやたらに何かをするのではなく、「何をして欲しいですか?」と聞かれるお方です。今日も、私たちが主の前に立ったら、聞かれると思います。「わたしに何をして欲しいですか?」と。

 バルテマイは乞食でしたから、「ワンダラー、プリーズ」と言うことも出来たと思います。そうしたらイエス様はポケットから1ドル札を出して彼に渡し、去って行かれたかもしれません。
 しかし彼は何を言ったかと言うと、「先生!目が見えるようになることです!」と叫んだのです。
 その時に、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われ、目がいやされたのです。
 神の時に対応するためには、信仰が試されるということです。

 バルテマイがなりふり構わず、人がなんと言おうと、自分が一番願っている事柄に関して、熱く、大声で叫んだように、私たちも日本のリバイバルのために、人々の救いのためには、なりふり構わず、叫ぶ熱い部分もないといけないと思います。それがないと、リバイバルには対応できないのではないかと思います。
 ある意味、私たちのようなタイプの教会というか、リバイバル運動なんかをしていると、「なんであんなに感情的にやるの?なんであんなに大きな声で祈るの?」と批判されたりします。
 ある時、私がある聖会に行って、私はメッセンジャーではなくて、賛美リードをやっていました。昔はそういうこともやっていました。そこで私が熱く会衆賛美を導いて、みんなで大声で祈りました。そうしたら、講師の先生がやって来て、「なんであんなに大きな声で祈るんですか?なんであんな大きな声で歌うんですか?神様は耳は悪くないですよ」と言って、メッセージを始められました。それを聞いてむかつきました。

 でも、その後、その先生は聖霊によって変わりました。ある時、東京でトイレに入っていると、隣に雰囲気を感じて横を見たら、その時の先生でした。すると彼は、「あっ、あの時の!」と言って、私の顔を見ました。
 今ではその先生も熱くなって、私たちの働きを助けてくれています。

 キリスト教が冷静になり過ぎて、淑やかになると、イエス様は通り過ぎてしまわれるのかも知れません。やはり、叫んで祈る祈りを聞いて下さるのです。それは我々がどのくらい、情熱を主にぶつけているか否かを意味します。やはり私たちは自由意志の中で過ごしていますから、大事だと思います。
 韓国に行くと、いつもそれを教えられます。韓国の教会の祈りはすごいです。真剣に叫んで祈るし、あの情熱は日本人にないものだと思います。日本人は祈りましょうと言っても、ぼそぼそと祈りますが、韓国だと「チュヨー!!」と叫んで、すごい祈りです。それを見て、いろいろと批判する人もいるのですが、私は日本教会は学ばなければいけないと思います。案外、日本人は、理性派と言うか、「あんまり感情的になるのはやめよう」というようなところがあるのですが、やはり、神の時を迎えるためには、バルテマイのように、叫んで、主を求める態度と信仰が必要です。

 叫びは、祈りに対応しています。信仰と祈りは、ある意味で、表・裏一体です。祈らなければ信仰も与えられないし、信仰がなければ祈りません。
 今年は、バルテマイのように、主に叫んで祈る年にしましょう。来週の日曜の午後は、毎年恒例になっていますけれども、愛知県民の森に行って祈るプログラムも用意されていますし、明日は、総合公園で夜の8時から祈祷会があります。是非とも今年は叫んで主の前に祈り、信仰を持って主の前に出て行く年としましょう。我々のレスポンス、応答を、はっきりと主に告げようではありませんか。

 イエス様は「わたしに何をして欲しいんですか?」と聞かれていると思いますから、「主よ、日本にリバイバルを与えてください」と、「聖霊様を送ってください」と。すでに聖霊様は送られていますけれども、聖霊により「神の時を現してください!」と、真剣に主の前に出る時、カイロスに対応する準備がなされ、バルテマイと同じように、時に出会うことができるのではないかと思います。

 聖書は、何度も何度も繰り返し、祈りについて教えています。私も、新年には祈りについてメッセージを語ることにしています。祈りなくして力なしです。私たちの叫びに応じて、応えてくださいます。これは、一つの原則であると思います。
 イエス様もこの地上に来られた時には、その原則に従って力を受けました。イエス様は神様だから、何か特権があったというのではなく、完全な人としてこの地上に来られました。ゆえに、イエス様の力の源は、祈りにありました。
 ルカの福音書 6章12節、

『このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。』

また、ヘブル人への手紙 5章7節、

『キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』

と記されています。ということは、イエス様は神であったにも関わらず、私たちと同じ姿をとって、人としての弱さを体験してくださり、私たちに手本を示して下さったのです。イエス様でさえも山に登り、祈りながら夜を明かされたとありますから、祈りは重要です。
 私の人生を考えてみても、やはり神の時を迎えたのは、祈りの背景がありました。祈りによって、神の時を迎えることは確実です。
 私は、いつも話すのですが、あんまり祈らない者でした。祈りは好きじゃありませんでした。ある時、私は韓国のリバイバルを見学に行きました。すごかったです。1970年、80年と、韓国ですごいリバイバルが起こっていて、ソウルに、今は公園となってしまいましたが、ヨイド広場という、かつては飛行場だった場所があり、そこに百万人、ある時は200万人近くが集まって、リバイバルのために祈っていました。韓国のクリスチャンは祈りの最初に「主よ〜」と3回、叫ぶのです。100万人が「主よ〜」と叫ぶ怒濤の中に入ったことがありますか?一斉に叫ぶと、周りのビルのガラスが割れそうでした。私は、日本人で冷ややかですから、「すげ〜な〜。なんでこんなに祈らなくちゃいけないのかな・・・」なんて思っていました。
 しかしリバイバルの秘訣を聞くと、みんな答えは同じでした。「祈りです。祈りによって、リバイバルが起きるんです」と言いました。私は「他に何かいい方法はありませんか?」と聞くと「ないよ」と言うのです。
 朝、早く起きたら、4時半くらいから通りが忙しいのです。みんな、何か小脇に抱えながらどこかに向かっているのです。日本で4時半くらいに何かを脇に抱えて小走りに走っているのは、新聞屋さん以外いません。私は、韓国には新聞屋が多いな、と思いました。
 でも、よく見ると、みんな聖書を持って、教会に向かっているのです。そして、早天祈祷会に行って、朝から叫んで祈っているのです。
 「これはついていけんな」と、私は思いました。

 しかし、私の人生の中にも、祈らなくてはいけないようなテーマがたくさん起こって来まして、いつも話していますから、そこは省略しますが、本当にそんな中で、神の時を迎える準備がなされ、1992年に主が訪れてくださったのではないかと思います。
 私は、月曜日の県民の森祈祷会は、よほどのことがない限り、「行って祈ろう!」と、心に決めています。県民の森に行って叫んで祈っています。そんな中、新しいメッセージを主が与えてくださるし、新しい扉も開いてくださっています。
 だからみなさん、今年は、イエス様も山に行って夜を明かされたように、我々も祈りの人になろうじゃありませんか。別に、山に行って祈らなければいけないということではなくて、常に、祈りを忘れてはいけないということです。
 エペソ人への手紙 6章18節、

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 ここに、「どんな時にも御霊によって祈りなさい」とあります。この、「どんな時」の「時」もカイロスです。エペソの6章の祈りというのは、どういう祈りかと言うと、これは山に入って叫んで祈る祈りというよりも、「とりなしの祈り」です。
 神から与えられる時をタイムリーに受け取って祈る、御霊によって祈る、とりなしの祈りです。この祈りは特に大切です。
 そのためには、「絶えず目を覚ましていて、すべての聖徒とために、忍耐の限りを尽くす・・・」これは、徹底して根気よくという意味だそうですが、祈り続けなさいというのです。

 教会というのは、キリストを頭とする一つの体です。一人ひとりに役割があって、それぞれ、受け持ちの部分があります。今年、この新城教会の中に、いろんな問題とか、病気とか、様々な悪しきことが起こらないために重要なことは、一人ひとりが見張り人として立つことだと思います。一人ひとりが自分に任された立場で、見張り人として、どんな時にも御霊によって祈ることが、重要だと思います。

 31のメッセージの中で、四元雅也先生が語ったメッセージに、「自分の立ち場を確認して、その場所を神に捧げる」ということが語られました。みなさんは、様々な場所で生活しておられます。そこは、神が遣わされた場所であり、重要な見張りのポジションなのです。
 私の仕事は霊的には何の関係もないと、言わないでいただきたいのです。全ての領域は神の前にあり、霊的な世界とのつながりがあるのです。ゆえに、あなたしか受け取る事ができない、キリストの体に対する情報があります。御霊によって祈る時、それが与えられるのです。

 「目を覚ましていなさい」、「眠らずに」という意味は、「警戒していなさい」という意味です。敵であるサタンが、私たちに攻撃を仕掛けようとしている時、とりなしの祈りの機能が働いていたら、その場で敵の力は打ち砕かれ、体全体が守られるのです。
 教会の牧師やスタッフたちの働きは、体全体に対する警備の役割だと思います。四六時中、新城教会というキリストの体が、害を受けないように、常に警備員のように働く仕事です。
 今日、こうして礼拝を安心して守っていますけれど、礼拝の最中に、警備の方々がみなさんの車とか、施設、子供たちを見張るために奉仕して下さっています。彼らは無線機を持っていて、何かあったらすぐにお互いを呼べるようになっています。
 これは霊的にも同じです。牧師や伝道者、またスタッフはそのような働きをするのですが、それだけでは不十分なのです。一人ひとりが立場・立場で、警戒しなければなりません。
 そうするならば、体全体が健康で、抱えている問題も解決していくでしょうし、様々な不思議としるしにも出会うのではないかと思います。

 私たちは見える世界に生き、見える物に支配されていますけれども、実は、一番見張らなければ領域は、見える世界ではなくて、見えない領域です。見えない世界で勝利を取ったら、見える世界でも勝利を取ることができます。しかし先に見えない世界で敗北すると、地上でも敗北するからです。
 ですから、派遣されている会社、学校、家庭こそ、「私の受け持ちだの場所だ」という認識を持って、警戒し、あなたしか祈る事の出来ない領域を警戒していただきたいのです。それが、神の時を迎えるために、大変重要な条件です。
 第二コリント人への手紙 4章18節、

『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』

 他の聖書の訳では、「見えるものは過ぎ去り、見えないものはいつまでも続く」と訳されています。
 年を重ねるというのは、嬉しいような悲しいところもあります。私は今年、60才です。若い時代はすでに過ぎ去ってしまいました。昨日、私は、昔のアルバムを見てみました。あまりにも過ぎ去った時間が長く、ちょっと悲しかったです。こんな時代も俺にもあったんだな…と。私は、好きでこのヘアスタイルにしているわけではありません。出来ることならば、他のヘアスタイルも試してみたいのです。でも、昔は違いました。今日は、みなさんにその証拠をお見せしたいと思います。
 今からは少しリラックス・タイムです。新春おもしろ写真集です。「こんな時代もあった…」という感じです。

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<グロリアシンガーズ>

 私たちはグロリアシンガーズをやっていました。新城文化会館小ホール。こんなコンサートをやっていたんですね。かっこいいですね。兄弟三人でやっていたんだな〜。

 古いものは過ぎ去っていくというか、新しくなるよりも、新しいものが古びていくという悲しい現実です。人生は、二度と戻れませんから。写真の中の僕だけが微笑んでいます。昨日もアルバムを見ながら、「寂しいなーっ」と思いました。私の葬式の時に、今日の写真でも使ってもらえるように、上條先生に頼んでおこうかと思ったのですが、みなさん、見える物はどんどん、過ぎ去ります。
 今年、確実に言えることは、あなたは1才年をとって、古びます。本当に悲しい現実です。

 さきほど、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」と読みましたが、「一時的」という言葉は、ギリシャ語では、「プロスカイロス」という言葉が使われています。この「プロスカイロス」というのは、「ひと時だけ続く」「一時的」「しばらくしか存続しない」という意味なのですが、実は、プロスカイロスという言葉は、「プロス」という単語と「カイロス」がくっついて出来た言葉です。プロスという意味は、「○○のところへ」とか、「○○の近くへ」とかいうような意味があります。
 ということは、「過ぎ去る」、プロスカイロスは何を意味するかと言うと、「カイロスに向かっていく」という意味なのです。カイロスとは「神の時」です。

 さっきの写真も、「あんなに若かったのに、こんなに古びてしまった…。もう希望がない。」ではなくて、「過ぎ去る」とは、プロスカイロス、神の時に近づいて行くという意味なのです。
 やがて、この地上を離れて、天国に行くという、まさしく、神の時の中に近づいているのです。

 私たちは今年一年で古びていく領域もあるかもしれませんが、しかしそれは、「プロスカイロス」なのです。神の時に向かっていく、そんな人生でありたいです。
 アナログ的なクロノスの彼方には、カイロス、神の時があります。「あなたは神の時に出会います。だから、希望を捨てないでください。期待を持って、神の時に対応するそんな人生を歩んでください!」と、主は語られます。

 最後に、伝道者の書 3章1節〜2節、

『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。』

 七十人訳ギリシャ語聖書「セプチュアギンタ」を見ますと、この「時」というのも「カイロス」と訳されていました。何事にも神の時があるのです。神が用意された時があります。
 そして、伝道者の書 3章11節、

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』

 初めから終わりまで、神様の計画はあまりにも大きくて、深淵で、見極めることが出来ないけれど、神の美しいタイミングによって、特定の時を与えて下さいます。
 今年、神が与えてくださるカイロスを逃すことがないように、聖霊の油注ぎをいただいて、熱い祈りと、とりなしの祈りの中、神の時に対応していきたいと願っています。
 2011年、新城教会に、神が大きな時を用意しておられると私は信じます。神の時に向かって、過ごしていることを、忘れないでいただきたいと思います。

 最後に祈りましょう。今日は、一度立ち上がって祈りを実践したいと思います。「イエス様は山に行って、大声で祈った」とありますから、韓国の教会には負けないように、「主よ〜」と3回叫んで、バルテマイのように、「ナザレのイエス様、私のところに来てください。私のところに訪れてください」と、大きな声で、叫んで求めようじゃありませんか。
 みなさんが信仰を持って、イエス様に関わって行く時に、必ず主はみなさんのところに来てくださいます。あなたの前に立ってくださり「何を必要としていますか?」と語ってくださるはずです。


 ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝します。今、こうして私たちは、教会を代表して、あなたの前に叫んで祈っています。主よ、私たちの教会に立ち止まってください。そして、リバイバルを起こしてください。主の業を現してください。この国に、主が訪れてくださいますように。今年こそ、神の時を迎える年となりますように。なることを感謝します、信じます。主が栄光を現してくださいますように。
 神の時を逃す事がないようにして下さい。主よ、どうか、神の時に対応するための、強い聖霊の油注ぎと、とりなしの油を注いでください。
 今年、誰も悲しい叫び声をあげることがありませんように。主よ、どうかあなたが完璧な守りを与えてください。
 今年、数々の奇跡を用意してくださっていることを、感謝します。主よ、新しい奇跡の業を見せてください。死の力が打ち砕かれる奇跡を見させてください。地域の人々が救われ解放されますように。この会堂が狭くなりますように。あなたがどうか新城にリバイバルを現してください。
 大いなる愛を心から感謝します。私たちのために十字架にかかり、死んでくださり、甦ってくださり、今も生きておられることを感謝します。
 2011年。私たちはあなたに大きく期待します。
 今日、聖霊様が働いておられることを心から感謝します。一人ひとりに触れてください。もう業が始まっていることを心から感謝します。すべての栄光をお返しして、イエス様の御名を通していのります。アーメン。