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「信仰の塔を建てよう」

2011.1.9(SUN)
新城教会副牧師 四元雅也

第一コリント人への手紙 10章12節
ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

 ハレルヤ!みなさん、明けましておめでとうございます。と言っても、正月はもう九日前ということで、みなさんの中ではもう正月気分は抜けてしまったところではないかと思います。既に先週末から学校のほうも始まっておりますし、会社のほうもスタートされていることかと思いますけれども、実は新年開けてまだ二週目です。そして、こういう機会にみなさんの前でお話できることを心から感謝したいと思います。
 特に、みなさんがこの新城教会を愛し、私や私の家族のためにも、いつもお祈りしてくださって、こうやって新しい年を祝福のうちに迎えることが出来たことも、心から感謝したいと思います。本年も今までと同様によろしくお願いいたします。

 「一年の計は元旦にあり」という言葉もありますけれども、年が始まる時に、自分なりに一年の目標を立てて、今年はああしようこうしようと、いろんな思いを巡らすのがこの時期です。また、新年にまつわるいろいろな出来事として、1日の夜から2日の朝にかけて見る夢を初夢と言ったり、また、正月が明けて初めに書く文字を「書き初め」と言ったりします。いずれも、新しい年に向けての決意表明だったり、目標の設定だったり、またある意味では、1年を予表するような意味合いを持つ、そんな物であります。
 こう言った、年末や年始の行事というのは、日本の文化であったり、また年中行事と言われたりしますが、元々は「年神信仰」と言われるような偶像礼拝に端を発する物も多いのです。

 この礼拝が終わってから、成人祝福祈祷というプログラムが予定されています。今年も何人かの方が二十歳を迎えられたことをみなでお祝いします。成人を迎えることは、法律的にも社会的にも、大人の仲間入りをするということでありますけど、これも新年の行事のひとつで、全国的にお祝いされるわけです。新城教会でお祝いされる成人祝福祈祷は、祈りをもって、新成人を祝福します。この世の中の偶像の前で成人式をしたり、また、ただ単に友達との同窓会のような形でこの時を迎えるよりも、素晴らしいことだと思います。

 1月1日の順先生のメッセージの中でも、西暦の新年は、イエス様の誕生日であるクリスマスから第8日目と定められた、という経緯がありますので、西暦に従って1月1日を迎える時、意識していなくても、イエス様の名の下に新年が迎えられているとお話がありました。
 私たちもそういった意味で新年を迎えているという「立ち場」を持って、この新年を過ごしていくことがよいのではないかと思います。

 さきほど、「あけましておめでとうございます」と言ったんですけれども、それよりも、イエス様の誕生日から由来されているのですから、英語で「Merry Christmas & A Happy New Year」と、新年の挨拶を言いますけれども、そんな意識で、この時期を受け止めることが出来たらいいのではないかと思います。
 また、そういう意味でも、今日の成人の祝福の祈りと、その後で、今日は、午後から県民の森祈祷会が持たれます。県民の森祈祷会というと、新城教会の十八番のような祈祷会でありまして、毎年新年の日曜日の午後に、この教会では神様にある年中行事という感じで県民の森祈祷会が行われています。県民の森祈祷会あって、新城教会の恵みがある、というと大げさかもしれませんが、そんな一面もあるかと思いますので、今日は皆でお祈りの時を持って、祈りの中で、新しい年の指針をもう一度受け取ることが出来たらと思います。

 また、今朝は御言葉によって、この一年間の目標をお一人お一人が受け取る時にしていただきたいと願っています。

 先週は、年末年始のプログラムが、教会においても、リバイバルミッションのプログラムにおいても持たれていましたけれども、本当に祝福された時が持たれました。参加できた方は、その恵みを実感されたことだと思います。

 この教会では、7名の牧師・副牧師たちがいるんですけれども、年末に6名の牧師、副牧師先生たちがメッセージをしまして、年が明けて、1月1日の新年礼拝では、滝元順先生がその6人の先生が話したメッセージを一つにまとめ合わせて、そのエッセンスを合わせたものに、順先生ご自身が与えられた御言葉を合わせて、この教会に対する神様からの一年間の指針となる御言葉というか、預言的なメッセージが紹介されていました。
 合計7名の先生方のメッセージが一つに合わさるという中で、それがまとまって一つの流れを作っていると思うと、これはある意味で奇跡のような話ではないかと思います。でも、まとめ上がった一つのメッセージをみんなで読んだ時に、これは神様のなせる業だと心から思いました。私は涙が出るほど感動しました。
 神様が、私たちの教会に対して、恵みを与えてくださっている、愛を注いでくださっている。そして、今年もこうして御言葉が与えられた、ということを、すごく感動を持って受け取りました。今日は、みなさんに、このような冊子が配られまして、これは、12月31日のメッセージと、1月1日のメッセージが印刷されたものでありますので、また、是非、これを家に帰ってから、もう一度、お読み直しいただきまして、この神様の恵みを共に共有していきたいと思います。

 今、もう一度、1月1日に順先生がお話になられた「2011年の預言的メッセージ」を読んでみたいと思います。先週の礼拝でも紹介されていましたけれども、さらに心に留まるように、信仰によって、一人ひとりがこれを受け止めて、今年一年間を歩んで行けるように、という意味で、もう一度読んでみたいと思います。

2011年に対する預言的メッセージ

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのち を穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 昨年、チリの鉱山で起こった事件を思い出しなさい。地下に閉じ込められた人々は、自分の力ではどのようにしても、地上に出ることは不可能でした。しかし、地上からの一方的な救援活動によって、全員無傷で地のどん底から救出されました。
 2011年はあの救出劇に象徴されるような、奇跡の年となります。人々の命が地獄の穴から救われ、病がいやされ、恵みと憐れみの冠が与えられる年となります。

 わたしは今年、多くの奇跡を用意しています。今まで、どうにもならなかった領域に奇跡を現します。ヤイロの娘が生き返ったように、不可能が可能となるのです。
 奇跡を止める不信仰、つぶやき、神への不平・不満の泣き声を追い出しなさい。恐れを捨て、ただ、わたしを信じなさい。

 あなた方が長年にわたって、リバイバルの為に流した汗と涙をわたしはよく、知っています。今年は、今までせき止められていた、リバイバルの堤防が決壊する年となります。
 準備しなさい。安住の地にとどまっていてはいけません。みこころをさらに求め、攻め上りなさい。絶対に不可能と見える領域に対しても、神の息を宣言しなさい。ひどく干からびた骨さえも生かす、わたしの霊によって預言しなさい。「息よ四方から吹いてこい!」と。

 あなたの立場、遣わされている場所を確認し、わたしについてきなさい。そこからわたしは働きを始めます。収穫の時を見逃してはなりません。実は熟しています。おびただしい群衆がわたしの元に来ます。なぜなら、神の時が来たからです

 この御言葉が、神様にあって、この教会が受け取るべき信仰であるということを、今日はもう一度皆で確認したいと思います。この御言葉が2011年、新城教会に、神様にあって実現されるということを、みなさん、信じますか?本当に心から信じていきたいと思います。そして、これは聖書の御言葉から先生方が語られたメッセージですけれども、神様にあって与えられた御言葉に私たちはしっかりと信頼して、毎日を歩んで行きたいと思います。

 お互いに、「神の御言葉が私たちと共にあります」とお隣の方に宣言しましょう。

 神様が必要な時に、折りにかなった御言葉をもって、私たちを励ましてくださるとは、本当に素晴らしいことだと思います。さきほど、「初夢」だとか、「一年の計」だとか、そういったことをお話しましたが、あれは、言ってみれば、自分の思いであったり、ひらめきであったり、どこに立脚してその計画を立てているかと言うと、案外、不安定な物に立って、計画を立てたり、また、こうしていこう、ああしていこうと考えるわけですけれども、私たちには「御言葉」があります。御言葉の後ろ盾の中で、神様にあって、ああしていこう、こうしていこうという、そういったことが、この新しい年に際して出来るということ、これは本当に大きな恵みであると思います。私たちには御言葉による人生というものがあるわけです。

 少し話がそれるかもしれませんが、聖書は新旧約聖書を合わせて、66巻。その著者は、40人ほどだと言われています。聖書というのは、長い時代に渡って書かれていますし、いろんな場所で書かれていますので、その聖書を深く読んみ、深く理解するためには、聖書の本文に書かれている文字だけを読んでいっても本当の意味がわからないことがあります。
 聖書が書かれたその時代背景とか、著者の人生背景とか、当時の世界の情勢だったり、社会の中での、様々な文化風習など、本文の文字になっていない情報を学んで、それをあわせて読んでいくと、聖書を理解していく上で助けになるものであります。

 新城教会には、リバイバル聖書神学校という神学校が併設されており、やる気さえあれば、誰でも聖書をより深く学ぶことができるという、そういった環境が整えられているのも、素晴らしいことだと思います。
 また、この新城教会の順先生、望先生、山崎ランサム先生といった先生方から教えを受ける事もできます。特に、山崎ランサム先生はアメリカでそのような専門的な学びをされて、今は、リバイバル神学校の校長先生をなさってますけれども、本当に素晴らしい先生だと思います。新城教会では、今年度、山崎ランサム先生からサンデースクールで、聖書を学ぶ時間を持っています。今年度は、7回シリーズで、ローマ人への手紙の講義を先生を通して受けることができます。あと3回、この講義が残っているんですけれども、それが、1月、2月、3月と月一回ペースでもたれます。ちなみに、1月は来週、山崎先生に講義してもらうことになっています。これはすごく好評で、ローマ人への手紙に、私たちの知らない新しい理解が深まるいい時だと思いますので、是非参加していただきたいと思います。
 今日は、山崎先生は明先生と共に、九州で御用に当たっています。

 さて、本題に戻っていきたいと思います。今日は、私が年末のカウントダウンの聖会の中でお話ししたメッセージをもう一度、さらに掘り下げて、みなさんと共に学んでいきたいと思います。

タイトルは、「信仰の塔を建てよう」というタイトルをつけさせていただきました。これも、この年末にお話しした時と同じテーマであります。もう一度、先ほどの聖書箇所を読んでみたいと思います。
第一コリント人への手紙 10章12節、

『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』

 ここで、「立つ」と言っても、単純に地面に足をついて垂直な状態になっているということではなく、ほかのの意味があります。人生における立ち場、立ち位置、人生の中であなたはどういうところに立っているんですか?ということを、このところでは語っていると思います。

私たちには、一人ひとり、いろんな立ち場があります。みなさんは、どこに立っているのでしょうか?
 家庭では、夫としての立ち場があったり、また、妻としての立ち場があったり、子供としての立ち場があったり、親としての立ち場があったり、また、社会に出れば、会社員としての立ち場。会社員であっても、その中で、どの部署の、どの役目で、どんな肩書きがあって、という立ち場がそれぞれあります。また、学生としてならば、何学科の何年生という立ち場があったり、なになに部に属しているなどの立ち場がり、その中に、それぞれ人間関係や役割があります。
 新城教会には大勢の方が来ておられますので、いろんな職業の方がいらっしゃり、さまざまな領域で活躍されています。
 どのような立ち場に今、自分が置かれているのかというのは、その人の人生を語る上でも一番の根幹と言いますか、大きなウエイトをしめるのではないかと思います。
 私たちは、その立ち場がどこであっても、どの場所に自分がいるのであっても、その立ち場、立ち場で、自分が安心して過ごしていけるようにということを努力します。
 今の世の中には、それらを揺り動かすような問題が数多くあると思います。社会的にも景気が後退して、雇用の不安があったり、経済的な不安があったり、また、そういった不安ではなくても、人間関係の不安があったり、あの人とうまくいかないとか、そういったものは、自分の立ち場を揺り動かすものになってきます。また、健康上の不安もそうです。自分が持っている立場を継続し続けていくことに対して、病は揺り動かす脅威となっていくことがあるわけです。そういった自分の立ち場を揺り動かす不安が多いのが、今の世の中ではないかと思います。
 そして私たちは、なんとか自分の立ち場が安定していくようにと、いろんな努力をして、走り回っているというような、そういうところもあると思います。

 この冒頭にお読みした御言葉というのも、私たちに「立ち上がりなさい」と言っているというよりは、立っている人たちに、「倒れないように気をつけなさい。自分の立ち場を守るためにチェックしなさい」と、そういった言葉ではないかと思います。
 立ち場ということで、今までお話ししてきましたが、僕も、順先生の真似をしまして、おもしろ画像がインターネットにありましたので、ちょっとお楽しみということでご覧いただけたらと思います。

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<立ち場逆転1>

 生クリームと苺というのは、切っても切れない関係だと思うんですけれども、これは生クリームと苺の立ち場が逆転してしまったというものです。

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<立ち場逆転2>

 これは見ての通りです。ウサギが逆にオオカミを食べてしまったということです。

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<立ち場逆転3>

 これは、人間が貯金箱になっちゃったと言うものです。

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<立ち場逆転4>

 これは、鼠と人間の立ち場が逆転してしまったというものです。

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<立ち場がない1>

 これは、ロバもこうなってしまったら、立ち場がないのではないかと思います。

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<立ち場がない2>

 この一番左の人は、どうも立ち場が怪しい状態になってしまっています。世の中、この右側にいる人たちのように、しっかり組み合わさっていればいいんですけれども、なかなかそうでない事が多いのではないかと思います。

 こういうずっこけた映像で、自分の立ち場と重なってしまうのを、私も感じたりします。

 立ち場ということで、これも、カウントダウンの時にお読みしましたが、御言葉をお読みしたいと思います。ルカの福音書 14章28節〜30節、

『塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、「この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった」と言うでしょう。』

 「立っている者は倒れないよに気をつけなさい」ということを、考えていった時に、神様は、私にこの御言葉をぱっと思い出させてくださいました。この聖書箇所では、塔のたとえ、塔を建てるということをイエス様がお話しされたわけですけれども、この聖書箇所は、私たちに何を教えているのでしょうか。
 この箇所を読む直前の聖書の箇所を見ると、ここを読む上でヒントになると思います。ルカの福音書 14章25節〜27節、

『さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。』

 ここで、イエス様は、イエス様の話を聞こうと集まってきた全ての群衆に対して、この御言葉をお話しされています。イエス様はこの場所で、とても厳しいことをおっしゃいました。「もし、わたしについて来たいとあなた方が思っているならば、自分の父、母、家族、その上に、自分自身さえも憎みなさい。そして、あなたにも神様が与えられている十字架があるから、それを背負っていきなさい」とおっしゃって、そして、この塔の話をされました。
ルカの福音書 14章28節〜30節、

『塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、「この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった」と言うでしょう。』

 この話の中で、イエス様が何をテーマにして話をされているかと言うと、これは、クリスチャンがイエス様の弟子となることについてです。それが塔を建てることと同じだと言うのです。
 これらのことを踏まえて考える時に、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、また自分のいのちを憎まない者は、わたしの弟子になることができない」というのは、何かというと、私たちの人生において、ある意味では拠り所となっている、また土台となっている、自分の家族や、自分の命、それは、自分の立ち場、人生というものを、神様の前に捧げてしまう。全てを神様の前にお委ねしてしまうという、そう言ったことをしていくことが、イエス様の弟子になることだと、イエス様はここでおっしゃっているんだと思います。
 自分の立ち場を通して主に仕えていく。自分の立ち場を主に捧げていく。サラリーマンなら、サラリーマンとして、その自分の置かれている場所を通して主に仕えていく。学生なら学生として、自分の行っている学校で、そのクラスの中、その先生との関係の中で、神様に仕えるということを実行していく。親なら親、子なら子として。あなたの立ち場を通して神に栄光が帰されるようにということを私たちの心の中心に据えて毎日を生きて行く。
 そして、あなたが今立っているというその場所は大丈夫ですか?倒れないように気をつけなさい。という風に、自分自身に問いかけて、そして、神様の前に、日々、歩んでいくということを年末のカウントダウンの中ではお話させていただきました。

 「塔」というものは、どんどん高く積み上げていくものです。それが高ければ高いほど有名になったり、もてはやされたりします。日本でも、世界一の塔だと言われるスカイツリーという塔を建てていますけれども、今、500数十メートルの高さになり、あと100メートルくらいで完成だそうです。高くなればなるほどマスコミでも取り上げられるようになり、話題も増しています。そして、塔というのは、まっすぐ上に建てられていくものです。曲がっている塔というのはほとんどありません。
 ピサの斜塔という塔がローマにあります。この塔は50数メートルあるそうですけれども、約五・五度傾いています。その建てられた経緯を調べてみますと、最初はまっすぐ建てようと思っていたんですが、土台が軟弱な所だったそうで、何段階か建てられた時に傾きが始まって、工事が途中で中止になって、それを直してまた建てようとしたら、またまた傾いてしまって、結局、傾いたまま建てられて、傾いた塔は珍しいということで、逆に有名になって、世界的な観光名所となっています。でも、最近は、倒壊する危険性が高まったということで、しばらく土台を強固にする工事をしていたそうですが、非常に難しい工事だったそうで、結局、ある程度補修をして、これで何百年は大丈夫だろうと言われるようになったわけですけれども、傾いたままで据え置かれているこういった塔は、崩れやすいわけです。
 カウントダウンワーシップの中でも、私は北朝鮮の平壌にあります、105階建ての世界最大のホテルになるだろうと言われた建物を写真でみなさんにご紹介しました。

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 「柳京ホテル」と言うんですが、巨大な建物です。
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 この中央にあるのは金日成広場という軍事パレードなどをする広大な広場ですけれども、その右端に三角形の建物が見えます。これは、平壌一の高さを誇るさきほどの写真の建物です。この建物は、建設途中で放棄され、20年もそのまま完成することなく放置されています。
 窓枠もついていないし、内装も施されていないし、外壁もコンクリートの打ちっぱなしそのままで、外壁にもひびが入ってしまって、北朝鮮というのは寒いので、ひび割れに水が浸食すると凍ってひびを押し広げて、どんどんひび割れが進み、建物としても、非常に危ない状態なのではないかと言われています。こんな建物が崩れてしまったら、大災害になってしまうんじゃないかと思います。世界中から「現代のバベルの塔」とか、「傾いた北朝鮮式シンデレラ城」とか、そんな風に揶揄嘲弄されている建物であります。

 塔というのは、こんな傾いたような、廃墟のような塔であったとしても、ランドマークとよく言われますように、周りからよく見えるものです。先ほどの写真でも、ひと際高くそそり立って、どこにいても見えるという、そう言ったものであります。
 周りから目標になったり、ある意味で、目印と言いますか、あっちに向かえばあの方向に行けるんだなという、そういったものが塔であるわけです。
 塔を建てるということが、私たちのクリスチャン生活、イエス様の弟子としての歩みと同じだということなのです。私たち一人ひとりも、人生において、イエス様の弟子としての塔を建てているんだと、この聖書は言っています。「私たち自身が塔だ」と言うのです。

 ここにいるお一人お一人はどんな塔を建てておられるのでしょうか?神様の前に。
 自分では、格好のいい塔が建てていると思っていても、傾いていたり、崩れそうになっているというような事があったら、これは大変なことです。
 塔というのは、周りからも見られる、どこから見ても分かるという物が塔であるわけです。それがまた、悪い意味で、ピサの斜塔のように土台がどこか軟弱で、まっすぐそそり立つことのできない定まっていないものだったとしたら、大変なことになってしまいます。
 あなたが置かれた場所からリバイバルが始まる。また、キリストにつく者としての立ち場からリバイバルが始まるということを、私はカウントダウンの中でもお話をさせていただいたんですけれども、その意味というのを、この塔の例えに照らしてさらに深く考えていくと、私たちにとっては戒めになる言葉なんだなということを思います。
 「私たちの中から神様はリバイバルを起こしてくださることを信じましょう」ということを、新年の礼拝でも順先生がお話しされていました。これは本当に希望のある素晴らしい言葉でありますけど、それと同時に、私たちには、それなりの責任を伴う御言葉でもあると思います。
私たち自身がどういう塔を建てるかということによって、神様の栄光が現れるか、また、逆に傷つけられる、ということも起こり得ることを、私たちはこの新年に際しまして、深く考えさせていただいて、とにかくリバイバルのために、今年、用いていただけるように、今年一年を神様に捧げていく者でありたいと願います。
 主は、みなさんお一人お一人の置かれている立ち場から、リバイバルを始めたいということを願っておられます。それは確かなことだと思います。

ユダの手紙 1章20節、
『しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、』

 ここにも、神様から私たちへのメッセージとして、聖い信仰を土台として、そこに築き上げられなさいということが語られています。

 新城教会の歩みの中に、何十年も信仰を持って集っておられる方もおられますし、また、つい最近集まるようになったという方もおられるかと思います。この新城教会も、もう60年の伝統があるわけですけれども、その中で、いろいろな出来事があって、素晴らしい神様の恵みばかりでありますけれども、そういった中でも、ある時期には、悲しくて涙を流す時もあったり、多くの痛みを通ることもありました。しかし、一貫してリバイバルのためということは貫かれてきている。そして、その中で、リバイバルクルセードに始まって、リバイバル甲子園ミッション、全日本リバイバルミッションへと移って、東京、また様々な全日本で、そして海外で働いてきているというのも、一つの塔が積み上げられている状態だと思います。
 そして、今集まっている私たちもその上に建てられているということです。
 そのことを考える時に、またこれからもその働きが継続されていく。継続されていかなければならない。そして、周りにいる全ての人々に対して、この神様の栄光を現す塔が現されていかなければならないということを、私たち皆が、一人ひとりが共有しなければならない一つの使命であると思います。

 この働きも今まで導かれてきていますけれども、例えばこれは、今終わってしまったとしたら、、中途半端なものではないかと思います。本当にリバイバルを目指して、この働きが今まで導かれているならば、リバイバルを見させていただいて、そして、この日本に、神様の栄光があらわされたということを本当に私たちが見て、完成させていただくという、そこまで追い求めていかなくてはいけないと思います。

 最後に、もう一箇所、聖書を読んでこのお話を終わりにしたいと思います。これも、今日の「信仰の塔を建て上げよう」という一つのテーマを語っている御言葉だと教えられたところですけれども、ご一緒に声を出してお読みしたいと思います。

ヘブル人への手紙 6章11節〜19節、

『そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、‐神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません‐前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。』

 この場所では、神様御自身が、アブラハムに対して、ご自分をさして誓って、「わたしはあなたを必ず祝福して、あなたを大いにふやす」と御言葉を持って約束されました。その約束を、アブラハムは握って、「その忍耐の末についに約束のものを得た」と書いてあります。
 これは、私たちの信仰の歩みの模範となるような出来事だったと思います。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす」という言葉は、滝元明先生もよくメッセージの中で、自分に与えられた御言葉だと、宣教の働きの初めに神様から頂いた約束の言葉だとお話をされる言葉でありますので、ある意味では、この教会に対しても、神様はこの御言葉を約束してくださっているのではないかと思います。その約束をアブラハムがしっかりと土台にして生きていった中で、素晴らしい祝福をいただきました。
 そして、この19節は、「その望みというのは、安全で確かな錨の役を果たし」と、書かれていますけれども、塔で言ったら土台です。私たちが、揺り動かされることのない土台というものがそこにあるということです。その土台をしっかりと据えて、私たちがこの11節にもあるように、「同じ熱心さを持って、最後まで確信を持ち続ける。それは怠けずに信仰と忍耐によって約束のものを得たアブラハムのような、先人たちに習う者となるためだ」と、ここでは教えていますが、私たち、先ほど、2011年に対するメッセージも皆でお読みしましたけれども、神様が、私たちに対してみ言葉を与えてくださることは、本当に感謝なことだと思います。
 御言葉を土台として、そして与えられた御言葉を最後まで、この確信を持って、握って、またこの一年をリバイバルのために前進していく一人ひとりとなるように、お互いにお祈りしあって行きたいと思います。
 これが、「信仰の塔を建て上げよう」という、今日の私のメッセージです。
 どうか、お互いに、中途半端にならないうように、最後までしっかりと建て上げられていくように、励んでいきたいと思います。

 最後にお祈りをしたいと思います。それでは、みなさん、一度、お立ち上がりいただけますか?今日は、「立ちつづける」というメッセージを受け取りましたので、神様の前に立って、私たちが今年一年間も、神様の前で揺るぐことのない信仰の歩みを全うさせていただくことができるように。

 この世には、いろんな暴風があったり、地震があったり、私たちを揺り動かそうとする様々な出来事があるかもしれませんが、今年、私たちは、主にあって、堅く立って揺り動かされることなく、信仰と忍耐によって約束のものを得る者となることが出来るように。
 新年に神様が私たちに様々な御言葉を持って、「恵みが注がれるよ。あなたに祝福を注いであげますよ」と約束してくださいましたけど、それをしっかりと受け止めていくことができるように、ご一緒にお祈りの時を持っていきたいと思います。それでは、しばらく、お祈りしましょう。

 それでは、一言、お祈りさせていただきます。
 ハレルヤ。天のお父様。今日、あなたが私たちの中にリバイバルを与えてくださり、また、その働きを進めてくださることを、私たちは信じ、受け入れます。その信仰を本当にしっかりと、あなたの御言葉によって、土台として、さらに建て上げられていくことが出来るように、どうか導いてください。
 もし、その土台がどこかで欠けていたり、緩くなっていて、外からの外圧に対して脆くなっていたならば、揺り動かされやすいものになっていたならば、もう一度、お一人ひとりの土台が強固にされますように。あなたという土台にしっかりと足を置いて、立ち上がって、そして、揺り動かされることのない信仰者として歩むことが出来ますように。どうか、今日、お一人お一人を祝福してください。
 その家庭の中に、またお仕事の中に、また学びの中に、どうぞ主よ、あなたが共にいてください。日々、あなたがそれぞれに必要な、なくてはならない物によって、それは御言葉ですから、どうか、お一人お一人を励まし、立たせてくださいますように。

 そして、イエス様、リバイバルのために、お一人お一人が用いられる者となることができるように助けてください。

 この新城教会にあなたが、リバイバルへの思いを与えてくださり、今日まで導いてくださっていることも感謝します。主よ、今年は、九州リバイバルミッションがあり、また韓国でリバイバルミッションが計画されています。これらの一つ一つのために、あなたが更に、良い塔を築き上げていくことができるように、御心を示してくださり、どうか導いてください。

 どうぞ、主よ、この一年間、お一人ひとりの家庭が主にあってまっすぐと建てられて、周りの人々からも、あれが目標だと、あれが目印だと、主イエス様、あなたにある、この地のランドマークとして、お一人お一人が建てられていくことができるように、どうか祝福してください。そのための新しい油注ぎと、聖霊の満たしをどうか主よ、与えてくださいますように。心からお願いいたします。

 そして、また今、必要を覚えている、今、あなたからの助けを必要としておられる方には、今、あなたが天からお一人お一人の上に触れてくださって、その人生に解決を与え、そしてしっかりとした強固な足場を与えてくださいますように、心からお願いします。

 主に心から感謝します。すべての栄光をお返しして、尊きイエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

 お隣の方に「神様を土台として立っていきましょう」と宣言してお座りください。