「時がついに満ちて実現します!Part2」
2011.1.16(SUN)
新城教会牧師 滝元 順
エレミヤ書 29章10節〜14節
まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。‐‐主の御告げ‐‐わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。‐‐主の御告げ‐‐わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」
ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日は雪が降って、ここまで来るのが大変だったと思います。また、来ることが出来ない方々も多くおられます。日本は四季がはっきりしていて、四季を楽しむことができるのですが、時には、こんな雪景色もいいですね。この近所では、滅多にあることではありません。これも感謝です。また、今日はセンター試験もあるようで、大変なようです。みなさん、風邪など引かないように、お互いに祈り合っていきましょう。
前回も「時がついに満ちて実現します」というタイトルで語らせていただきましたけれど、今日はその続きを語らせていただきたいと思います。
今から、20年ほど前、この近くの唯一のスーパーマーケットの前で、チラシ配布をしていると、2人のペルー人の方々が教会に来ました。彼らは日本語も出来ず、私たちにとっても、スペイン語は初めて聞いた言葉でしたので、身振り手振りで話しました。
しかし、不思議とそれからこの地域に外国の方々が住んでいることがわかり、新城教会でインターナショナルミニストリーが始まりました。
そして今では、日曜日の午後四時から大勢の方が集まって、スペイン語とポルトガル語で礼拝をもっています。
こんな田舎町で世界宣教が出来るなんて、すごいことだと不思議に思います。これは神の計画であって、いつの間にか実現したのではないかと思います。
先ほども祈りの中にありましたが、今週、私はペルーに行きます。今回はリマから北に3時間くらい上った所に、ワッチョという町があるのですが、そこで集会を中心的に持ちます。そこは大変暗い町です。なぜならば、町には霊能者が大勢住んでいて、特に、年間一度、全国から魔法使いが集まって、全国大会を開くのです。新聞の広告にも「魔術します」というような広告が多く載っているような町です。
その町に何年か前に行き、ある教会で奉仕をしましたが、その教会は霊的に苦戦していたそうです。でも、そんな中、牧師が祈っていたら、ある時、神様が語りかけてくれたそうです。
「アジアから一人の男が来て、あなたを助けます」と。そして、しばらくして、私がその教会に行ったのです。私は霊的戦いのことを話しましたので、牧師は本当に興奮しました。「また来て3日間続けて集会をやって下さい。」と頼まれました。
是非、祈っていただきたいと思いますが、来週の木曜日から土曜日までワッチョで聖会を行います。また、今度の日曜日には、新城教会で救われて帰国したペルー人の方々を集めて、リマで新城教会の礼拝をします。神の計画は、初めは小さく見えても、後には大きな働きとなって広がって行くのです。
20年前にスーパーの前でチラシ配布をした時、2人のペルー人が来られましたが、20年後、私がペルーに行ってペルーの教会にお仕えするようになるとは、考えもしないことでした。しかし主は、その頃から計画をお持ちだったのです。心から主をあがめます。
前にもお話ししましたが、私たちの神様は、決して気まぐれな神ではありません。日本の偶像の神々は、気まぐれの神々です。しかし聖書の神様は、初めに計画ありきの神なのです。
私たちがこの地上に生まれたのも、決して偶然ではなくて、初めに計画があり、時が満ちて実現したということです。
前回もお話ししましたが、ギリシャ語には、時を表す2つの言葉があり、一つは「クロノス」と言って、連続する時を表す言葉です。また、もう一つは「カイロス」と言って、特定の時を表す言葉です。
神様は、クロノス的な時の積み重ねの中で、必ず、「カイロス」を用意されています。そして、時が満ちると実現する神の大きな計画があるのです。
「私は年をとって、何の希望もない」というようなことを時々耳にしますが、年を重ねて行くのは何を意味するかと言うと、来たるべきカイロスに近づいているのです。そのことを、前回にお話しさせていただきました。
そのような視点を持って聖書を読むと、多くの個所で神の時が満ち、神の業が起きたことを学ぶことができます。
今日、読んでいた箇所も大変有名な箇所ですが、エレミヤ書29章10節〜11節、
『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」』
実はイスラエルという国は、ある時、2つに分裂してしまいました。それは北イスラエルと南ユダという、2つの王国に分裂してしまったのです。北イスラエルはアッシリアに、南ユダは、バビロニア帝国という大国に征服され、多くの住民がバビロンに捕虜となって連れて行かれました。
そんな事になったらどうでしょうか。普通なら、希望はありません。いつ帰れるのか全く望みはありませんでした。
しかし、そんな最悪な状況の中にあっても、神様は彼らと約束しました。「バビロンに七十年が満ちる頃、あなたがたを解放します」と。
バビロンに連れて行かれたことも大変なことでしたが、そこにも実は大きな意味がありました。
一つの時が満ちて、神の計画が実行に移されたのです。約束された通りのことが起こりました。70年を経て、ユダの住民は元住んでいたエルサレムに帰ることができたのです。
神の計画は、災いを与えるためのものではない、「平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ」とあります。
人生にはいろいろな坂があります。上り坂もあれば、下り坂もあります。そしてもう一つ、「まさか」という坂です。本当に「まさか!」というような、突然の出来事に、人生は幾度となく出くわします。教会の働きも、時々、本当に「まさか!」というような、突然の知らせに驚かされることがあります。しかし、渦中では大変な経験かもしれませんが、やがて全てが相働いて、益としてくださる神を体験するのです。
「神が私たちのために持っておられる計画は、災いではない。平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのもの」です。先ほども「将来と希望」という賛美をしましたが、これを私たちの信仰告白として、常に心に刻み、口ずさんでいきたいと思います。
エペソ人への手紙 2章10節は、私が好きな言葉です。
『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』
「私たちは神の作品であって、良い行いをするために造られた」とあります。そして、「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えた」とあります。この「良い行い」というのは、「将来と希望」を意味します。神様は、私たちのために「将来と希望」を、既に創造済みだというのです。私たちがイエス・キリストを知る時、将来と希望に向かって新しい歩みが始まるのです。
今日は、神の計画は決して災いではなくて、良いものであるということを、まず第一に確認したいと思います。
そして、それを手に入れるためには、いくつかの条件があります。エレミヤ書29章12節〜13節、
『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』
私たちが神の計画を手に入れるためには「心を尽くして、探し求める」という、主に対する熱い思いが必要です。それも前回語らせていただきました。
教会に来るということは、そもそも、イエス・キリストに対して興味がなかったら来られません。それは御言葉の路線上にあります。「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら」の路線です。
人間というのは、祈りの動物です。「私は人生の中で一度も祈ったことがありません」という人は、決していません。必ず祈り心が湧いてきます。クリスチャンだとか、クリスチャンではないに関わらず、祈り心があるのは、人間である証拠です。
今日もセンター試験が行われていますが、クリスチャンでなければ、どうでしょうか?近くの神社や、学問の神といわれる天満宮に行き、自分はあまり勉強しなくても、なんとか神頼みで入れてもらおうと必死に祈ります。
祈るなら、神が祈りを受け取ってくれるというのを、人間は本能的に知っています。神頼みはその表れです。
私たちの信じる神は、私たちの要請に答えてくださる神様です。私たちの祈りと叫びに応じて、事を行ってくださるお方です。
バルテマイという男が、「ナザレのイエス様、私を哀れんでください」と叫んだ時、イエス様は、「わたしに何をして欲しいですか?」と訊ねられました。彼は盲人であったため「私の目を癒してください」とイエス様に願いました。その時にイエス様は、「あなたの信仰があなたの目を癒したのです」と語られ、彼にとってもっとも必要であった目が見えるようになったのです。
このように叫びと願いに応じて、祈りを聞いてくださる神様です。ですから、祈りは大変重要です。
先週も、愛知県民の森で祈祷会がありましたが、寒い中、多くの人が山の中に入って祈ったのは、教会にとって大きなことだったと思います。また、日々の生活の中でも、「常に祈りなさい。いつも祈りなさい」とありますから、いつも祈り心を持って、主の前に出るのはとても大切です。
また、「呼び求める」の「呼ぶ」は、別の訳し方をすると、「書物を読む」という意味があるようです。神の御言葉である聖書を私たちがよく読む時に、神は語りかけてくださることを教えています。
そして、「歩く」とは、ただ「歩く」ではなく、「生活をする」、「出発する」、そして、もう一つ、「離れる」という意味もあります。
「わたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなた方に聞こう」とありますが、今朝は「歩く」が「離れる」という意味において学んでみます。
それはどういうことかと言うと、「悔い改め」です。
人間は、悪いことをしたら、どんなに悪いことをしている人でも、「悪かったな。悪いことをしてしまった」と良心の責めを感じます。なぜ良心の責めを感じるかと言うと、やはり人間が神によって造られたからです。悪いことをしたら、神の前に「悔い改めたい」と思うのです。
ということは、悔い改めを見て、主は罪を赦してくださるのです。
第二歴代誌7章14節、
『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』
私たちから、神の前に悔い改めることが、大切であることを教えています。
この「70年が満ちる頃、わたしはあなた方を省みます」というのは、何を意味しているのでしようか。聖書で7という数字は、完全数であり、神の数字です。70も7の10倍で完全数に入ります。
というのは、「70年の満ちる頃」とは、一つは、「神の計画は、いつも完璧です」という意味を現しているのでしょう。神の計画は、気まぐれではなく、立てられた計画は必ず実現するのです。神の計画は、人間の計画とは違い完璧であることを表しています。
それと共に、70年とは何を意味するのかと言うと、北イスラエル、南ユダ共に、なぜ外国に連れて行かれたかというと、原因は一つです。それが何かと言うと、天地宇宙を造った真の神様がおられるのにも関わらず、「偶像の神々を礼拝した」という理由です。
いつも話しているんですが、罪の中で一番大きな罪は何かというと、真の神様がおられるのにも関わらず、「自分の手で作った神々を礼拝する」「偶像礼拝」が一番大きな罪です。
なぜ、聖書が「偶像礼拝をしてはいけない」と告げているかと言うと、それは本当の神様がいるのに、その方を拝まないで、手で作った神々を拝むのですから当然、罪に決まっています。
けれども、もう一つ理由があります。偶像の後ろには、神ならぬ、神のふりをした神々、すなわち、悪霊の力が働いているのです。ゆえに、偶像礼拝をすると、神のふりをした悪霊どもに人生を奪われるのです。そして、一度捕まえられると、どのぐらい続くかというと、なんと、三代、四代にも渡って束縛を受けると言うのです。
ある人が偶像礼拝をして、悪霊に捕まえられると、その人だけで終わらないのです。三代、四代も束縛が続くのです。それは、たまったもんではありません。だから、「偶像礼拝は危険ですから、やめてください。なぜなら、その背後に悪霊がいますから」ということです。私たちが偶像礼拝から離れるとは、最も大切です。
旧約聖書の時代は、十字架の贖いの業が完成していなかった時代でした。それで一度偶像礼拝をしたら、三代、四代束縛されるという、ある意味、律法がそのまま実行された不幸な時代でありました。
ユダの国に天地宇宙を造った神が、何度も現れてくださったのにも関わらず、彼らは偶像礼拝をしました。その結果として、バビロニア帝国の首都に捕囚され、閉じ込められてしまいました。
解放までになぜ、70年も掛かったかと言うと、私は今年で60歳ですが、私の父は82歳です。私の父親が見ている世代は、孫もいるし、ひ孫もいるので四代です。ということは、昔の人はもっと寿命が短かったですから、70年というと、三・四世代ということになるのではないでしょうか。三代、四代が生まれるまで、ずっとバビロンに閉じ込められていたのです。
彼らは自分の国で偶像礼拝をやっていたのですが、よそ国に連れて行かれました。そこで、どうにも自由の利かない環境に閉じ込められ、初めて彼らは気づきました。「今まで偶像礼拝をやったことは、本当に申し訳なかった!」。
あのバビロンに閉じ込められた70年とは、偶像礼拝から完全解放されるために必要な長さだったのです。
聖書を見ていきますと、ユダがバビロンから帰った後、初めて国から偶像礼拝が消えています。今までの長い偶像礼拝の文化が、異文化にぶち込まれ、困難の中で変えられたのです。神に叫んで祈らなければならない環境の中、70年が満ちて解放されたということではないでしょうか。私はそのように推測しています。
しかし今は感謝なことに、イエス・キリストの十字架と復活の勝利がありますから、70年間も、三代も四代も待たなくても、信じたその日から束縛から解放されるのです。「あなたは今日、解放されて自由になることが出来ますよ」というのが、新約聖書にある十字架の恵みであり、十字架の勝利です。それを心から感謝しなければなりません。
旧約聖書と新約聖書の両方を読むと、「旧約時代の人たちは大変だったな」と思います。なぜなら、神の律法がそのまま反映されたからです。それで70年も苦しめられたのですが、今はどうでしょうか?イエス様によって、瞬間的に解放されるとは、なんと素晴らしい事でしょう。
でも、同時に理解しなければいけないのが、「偶像礼拝は危険」という事です。なぜなら、偶像礼拝とは、悪霊を呼ぶ降霊術そのものだからです。
今週、私はペルーのワッチョという町に行きます。そこに行きますと、霊を呼ぶ場所が多くあって、特に一つの湖が有名です。その湖の名前を「魔法の泉」というのですが、不気味な色をしている湖です。夜になると、小動物なんかを携えた魔術師たちがやって来て、それらを殺して悪霊に生け贄として捧げ、願いを叶えてもらおうとします。気持ち悪いところですが、今回も私はそこに行ってとりなして来たいと思います。
今回は、四元雅也先生を連れて行きます。雅也先生はインターナショナル・ミニストリーが始まった20年前から、ずっと忠実に働いておられます。ペルーの方々ともよく接しておられ、スペイン語も出来ます。私は出来ませんが、彼は出来ますので、一緒にとりなすことが出来てうれしいです。また、フェルナンド先生夫妻も行きますから完璧です。
なにしろ、魔術とか偶像礼拝は本当に危険です。考えてみれば、この教会は、1992年2月に聖霊が注がれて、7月から霊的戦いが始まったんですが、前にもお話ししましたが、あれは神の時の現れであって、次の現れが必ずあると話しました。まさに今年はその年になると私は信じています。
実は、神様が何か事を起こす時、いきなり起こすのではなくて、前準備をなさいます。全く何も知らないことが突然起こると、人はびっくりして受け取ることが出来ないからです。そのため主は、初めに、ちょっとした事を起こして、やがて来る神の時の為に準備されるのです。
ちょうど、雨が降るのと同じです。雨が降る時もどうでしょうか?初めは、ぽつ、ぽつ、というところから始まり、パラ、パラ、ざざざーーーっと本格的に降るじゃあないですか。あの、ぽつぽつ、パラパラという雨の兆候を捉えて洗濯物を寄せるなら、事なきを得ますけれども、兆候を見逃すとどうでしょうか?せっかく洗濯物が乾いていても、台無しになってしまいます。うちの家内なんか、ぽつぽつにすごく敏感です。車に一緒に乗っていても、雨が一粒でも降ると、「あ〜っ!!家に戻って!」と叫ぶのです。私は「なんで?」と聞くと、「雨が降ってきたじゃん!」と言うので、「このくらい、いいじゃん」と言うんですが、それが大雨の兆候なのです。それを捉まえると、大雨に対応できるのです。
実は1992年2月から、この教会に新しいことが起こったのですが、遡れば、もっと前から、ぽつぽつという兆候がありました。私はそのことを「主が立ち上がられた日」という本を書きましたから、是非とも、一度は読んでいただきたいと思います。
私たちは当時、霊的戦いなんて全然わかっていませんでした。けれども、分からない私たちのために、主が「ぽつぽつ事件」をいくつか起こしてくれていました。
ある日、一人の婦人が突然、この教会に来られました。「なんで来たんですか?」と聞くと、「教会の前を通ったら、なんか大きな光みたいなのが見えて、入ってみたくなった」と言うのです。「変なことを言う人だ」と思いましたが、イエス様の話を聞かせて欲しいと言うのです。なんと、それから毎日、朝から晩まで彼女は教会に居ました。福音を聞きたいと言うのです。私は熱心に、話をしてあげたのですが、「全然、理解できない」と言うのです。私は聖書を一冊あげて、「これを読んでみてください。わかるようになりますから。」と言いました。
3日目くらいに、こう言うのです。「今朝、新城教会に来る前に、近くにある富永神社に行って拝んで来たんですよ。そうしたら、神の愛が押し寄せてきて、涙が出てたまらなかった」と言うのです。
私はイエス・キリストの愛について2日間も話したのに、そんなことを言われてがっかりしました。そして、私の差し上げた聖書のブックマークとして、その人はある新興団体に入っていたのですが、呪文の書かれた紙を挟んでいました。呪文を聖書のブックマークとして使っていました。それは20年以上も前の話ですので、私はまだまだ若く、それを見て、かーっとしました。
「3日間も話しを聞いて、まだわからんのか!そんなところに行っちゃ駄目だよ!」と、その人から呪文の紙を奪い取って、目の前で破って捨ててしまいました。今から思えば「過激だな〜」と思うんですが、その途端です。「今、呪文を破った途端、私の中から悪霊が飛び出て、肩の上に乗ったのです。だから肩が抑えられて動かない。」と言うのです。
今でも覚えていますが、私の家で、狭い所だったんですが、体が動かなくなってしまいました。それで、なんとかしてくれというのです。私は、本当に混乱しました。「何が起こったんだろうか…」と。
彼女は「私のために祈ってください。肩の上に霊が乗っているから、取ってください」なんて言うのです。私は、そんな祈りはやったことがありませんでした。それで、どうしようかと思いました。
当時、うちの娘が小学校2年生ぐらいだったと思いますが、「お母ちゃん、腹減った〜」とか言いながら入ってくるし、一方では人が固まっているし、どうしようかと思いました。
その時に、「そういえば、聖書になんか書いてあったな」と思いだして「悪霊がいたら出てけ~」と、弱々しい祈りをしました。
すると、「あっ!肩が動くようになりました!」とか言って、「私、今日からイエス様を信じます」と言うのです。そして、「偶像礼拝が悪いということが突然わかりました。偶像を焼いてくれますか?」と言うのです。あまりにも突然な変化でビックリしましたが、「いいですよ。焼いてあげますよ」と言うと、その人は家に戻って、乗用車いっぱいの偶像を持って来ました。そして、「まだ家にありますから、取りに行って来ます」と言って、なんと3往復して、毎回、車にぎっしりの偶像を持ってこられました。この家にはどれだけの偶像があるのか、という感じでした。
でもその方は、その時から、はっきりとクリスチャンになりました。私はそれらの偶像を焼くのに、一晩かかりました。大変でしたが、その人はそれからはっきりと救われました。「不思議な事があるな」と思いました。
するとその人が、一人の大学生の女の子を教会に連れて来ました。「この女の子のために祈ってください」と言うのです。なぜかと聞くと、ある大学のコンパで、タロット占いをしたそうです。すると、その中の一人の女の子が悪霊に取り憑かれて、男の声で、狂ったように叫び出したそうです。何と叫んだかと言うと、「わしを寺に連れて行ってくれ。わしを寺に連れて行ってくれ」と叫んだそうです。
みんなびっくりして、寺どころか、病院に連れて行かなくてはと、救急車でその女子大生を病院に連れて行ったそうです。しかし救急車の中でも、「わしを寺に連れて行け」と叫んでいたそうです。すると、この教会で救われた婦人の親戚の女子大生がそこにいて、その子も例の新興宗教に入っていたので、「私がよく知っている寺に連れて行ってあげます」と言って、ある寺に連れて行ったそうです。でも、全く良くならず、混乱する一方だったそうです。
その後、クリスチャンになりたての婦人が、親戚の女子大生から、その事を聞いて「寺に連れて行け」と叫んだ女子大生を教会に連れてきたのです。それでその子の為に私たちが祈ってあげたら、普通に戻り元気になりました。
実は、その女子大生が連れて行かれた寺は、密教系の寺で、火を焚いて悪霊を呼ぶ護摩寺でした。護摩台に祈りの課題を奉納し、霊を呼んで毎日祈祷してもらうというのです。私は「そんなのを奉納しておくと、絶対にいいことはありませんよ」と言うと、「じゃぁ、その祈りの課題が書かれた願文を取り戻しに行ってくれますか?」と言うのです。
私は霊的戦いのことなんてわかりませんでしたが、ただ寺と交渉して願文を撤去するつもりで了承しました。簡単に「いいですよ」と答えて、岡崎にある寺に行きました。その寺に着くと誰もいなかったので、電話をすると、「勝手に中に入って取って行ってくれ」と言うのです。夕方寺に行きましたので、たぶん中は暗いだろうと思って懐中電灯を持って行ったんですが、案の定、寺の中は真っ暗で、不動明王や気持ちの悪い仏像たちが立ち並んでしました。
そこに潜り込んでいろいろと探したんですが、願文を見つけることが出来ませんでした。しょうがないから帰ろうと思ったら、タロットでおかしくなった女子大生が言いました。
「この寺に連れてきた私の友人が、どこにあるか知ってると思うから電話する」と言いました。今のように携帯はありませんでしたので、今でも覚えていますが、近くの公衆電話から電話をしました。「奉納した願文はどこにあります?」と聞くと、その友達は本当に親切な子で、「私は寺のメンバーですから、今から行って願文を取り出してあげます」と言って、その子は名古屋に住んでいたんですが、岡崎までわざわざ来てくれました。
そこは神仏習合の寺で神社も併設していました。私たちは鳥居の前で長いこと待たされました。「早く来んかな〜」と思いながら、スタッフと一緒に待ってました。すると、結構遅くなってから、その子がやって来ました。「やれやれ、早く取り出して帰りたいな」と思って、寺に入っていこうとした時、聖霊様が私に語られました。「おまえ。そんな願文なんか後回しにして、まず、この子がわざわざ来たんだから、伝道しろよ」と言われました。
ちょうど鳥居の前でしたが、「ちょっと待った」と言って、「あなたの友達、教会に来てから良くなったでしょ?」と言うと、「良くなったね。良かったね。良くなったね。」と言うのです。「どうして良くなったか知ってる?イエス様を信じて良くなったんだよ。あなたも、こんな寺に通うのをやめて、イエス様を信じるといい事があるよ」と言うと、その瞬間、ほんの一分も話さなかったのに、鳥居の前で、はらはらと涙を流して、「私もイエス様を信じたい」と言うのです。
何これ?と思いましたが、すぐに教会に連れて来て、イエス様の事を話してあげました。
するとその子が言いました。「私、今から、洗礼を受けられますか?」と。「洗礼?冗談じゃないよ。早いよ。」と思いましたが、後にも先にもそれだけですが、なんと翌日に洗礼式を行いました。極端だな〜と思うかもしれませんけれど、それが神の時でした。
なんと、その子の家は、一家で新興宗教に固まっていましたから、娘がクリスチャンになったということを聞いて、烈火のごとく怒って、教会に怒鳴り込みに来ました。それは新城教会の歴史に残るぐらいの激しい怒鳴り込みだったそうです。時々、教会にはそういうことがあるんですが、私はそれらに対応するのが得意です。しかしたまたま、私はその日はいませんでした。「あんたがいなくて良かったわ〜」と家内に後から言われました。多分、その子の両親と大喧嘩になったと思うのです。その日は穏やかなスタッフが対応したので、喧嘩にならずに済みました。その家の人たちは激怒して、むちゃくちゃ言って去って行ったそうです。
それっきり、洗礼を受けた女子大生は教会に来られなくなりました。
でも、彼女は洗礼を受けたことがずっと心に残っていて、大学を卒業をした頃、再び、隠れて教会に来るようになりました。それからしっかりとクリスチャン生活を始めました。
この話のきっかけとなった「教会に光が見える」と言って最初に来た女性も、鳥居の前で救われた女子大生も、今でも熱心に教会に来られています。20年の間に、鳥居の前で救われた女性も、教会で結婚し、うるわしいクリスチャンホームが出来ました。
先日、記念すべき鳥居の前で、20年ぶりに一家で勝利の記念撮影をしたと言って、写真を見せてくれました。
それで、実は先週の事ですが、あの怒鳴り込みに来た家に少し問題があって、「是非イエス様の話を聞きたい」と言われるのです。私はその家族の所に行きました。そして最後にはイエス様を告白する祈りをしました。すごいでしょう。
20年越しでこんな勝利につながるとは夢に思いませんでした。神の計画は、本当にすごいです。災いではなくて、将来と希望を与える計画です。一断面だけみれば、放り出してしまいたい事でも、それで終わりではないのです。神の計画は、年月を経て、さらに大きくなって前進するのです。
ということは、救われたということは、それで決して終わりではなく、さらに前進して大きな勝利につながることを意味します。
そんな中、偶像礼拝から離れることは大切であり、素晴らしい祝福につながることを私たちも知ったのです。
そのころから神様は霊的戦いの準備をされていて、私たちを整えて下さいました。やがて本格的に教会に霊的戦いが開かれ、地域のとりなしと個人の解放の祈りが始まり今に至っています。
先週、かつて怒鳴り込んで来た家族に聞きました。「あれから、20年ぐらい時間が経ったけど、どっちが幸せですか?教会に来たほうが幸せですか?寺に行ったほうが幸せですか?」と聞くと、「教会のほうが幸せだね〜」と言っていました。
「よく分かるでしょ。イエス様を信じたら素晴らしいですよ。偶像礼拝は悪霊を呼んでいるんですよ」と言うと、「わかりました。私たちのために祈ってください」と言いました。するとその家の嫁さんが、「私の妹も呼んでいいですか?」と、妹も呼んで一緒にお祈りしました。
70年を満たさなくても、即、主は勝利を与えて下さいます。
第二歴代誌の7章14節、
『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』
とあります。クリスチャンになるためには「悔い改め」が大切であると共に、「わたしの名を呼び求めているわたしの民が」とあるように、「クリスチャン達が」まだイエス様を信じていない人たちの罪を、同じ立場に立ち、日本人なら同じ日本人として、その罪を、自分の罪として悔い改めることが必要なのです。それが地の癒しにつながるのです。
地域のとりなしの祈りは、地域の人々が犯した偶像礼拝の罪を、神の前に「私の罪として悔い改めますから、主よ赦してください」と祈る事でもあります。敵の力を打ち砕く為には、自分だけではなく、地域の人たち、国に住む人たちの祝福と将来と希望のために祈ることが重要です。そんな中、「地が癒される」ような、大きな勝利に結びつくのではないかと思います。
今年は2011年ですが、日本にキリスト教、特に、プロテスタント信仰が入ってきて、150年以上になりますが、宣教はあまり進んでいません。1パーセント以下という悲しい現実です。日本の教会がいくらがんばっても、何かひき止める力が働いているような感じがあります。一生懸命がんばっているのに、なんで止められるのか、という感触があります。お隣の韓国に行けば、国民の2割から3割がクリスチャンです。教会もいっぱいあります。なんでこんなに違うのか、と思うんですけれども。
でも、私は今読んだ悔い改めの御言葉と『70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』とありましたが、何かそこにリバイバルの鍵があるのかもしれないと思うのです。
日本教会はバビロン捕囚にされているような感じがあります。そんな現実があるのでしょうか。日本教会自体が悪魔の支配下に入って、教会がいくらもがいても、どうにもならない現実があるのではないかと思うのです。
先々週、PPHがあって、その中で、私の弟が話していましたが、実は、日本教会の歴史にはバビロン捕囚のような事件があるのです。
実は、1940年10月17日がどういう日であったかと言うと、神武天皇即位2600年を祝う祝典が日本各地で開かれていました。
ちょうど、太平洋戦争に突入する直前で、日本は軍国主義一色に染まっていました。その時、日本教会が何をしたかと言うと、「皇紀2600年奉祝全国キリスト教信徒大会」と称し、東京の青山学院に2万人のクリスチャンを集めて集会が開かれたのです。
そこで何をしたか言うと、2万人のクリスチャンが「皇紀2600年奉祝全国キリスト教信徒大会」と名打って礼拝を行ったんですが、どんな礼拝だったかと言うと、「宮城遥拝」と言って、天皇が住んでいる場所をまず拝み、その後、君が代を歌い、その日のために創作された「天皇を賛美する賛美歌」が高らかに歌いました。集会が終わった後、2万人のクリスチャンはこぞって、明治神宮を参拝したというのです。信じられないことですが、こんな事が日本で起こったのをご存知でしょうか。
「開会の宣言」を富田満が行い、「皇統連綿という無比の歴史に意味があり、日本人の誇りはここにある。キリストの十字架の精神こそ滅私奉公という精神に最も近い。」と語りました。
滅私奉公という言葉を知っている人は古い人ですけれども、キリスト教会が、国家体制に組み込まれ、こぞって偶像礼拝をしたという悲しい歴史があるのです。
阿部吉宗が黙示録21章1節から、「我また新しき天と新しき地とを見たり」という、タイトルでメッセージを語っているんですが、「この皇紀2600年の皇運を喜ぶ集まり、これこそが、日本のキリスト教会におけるペンテコステの日だ」と語りました。それで一同、神社を拝みに行ったのです。
もちろんこれは、国からの強い迫害があった結果起こったことですが、日本教会が罪と戦うというよりも、偶像の神々に屈したわけです。
翌年1941年の6月には、国家によって「日本キリスト教団」が作られて、その創立総会においては、再び、君が代が斉唱されて、宮城遥拝がなされて、皇軍兵士のための黙祷があって、皇国臣民の誓いと言う国民儀礼を行った後に、「キリスト教信者は、キリスト教信者であると同時に、日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くす。これを持って第一とする」と宣誓しています。本当に、悲しい日本教会の歴史があります。
国家神道に、ほとんどの教会が巻き込まれ、ほとんどの教団・教派が偶像に膝をかがめたのです。
その後、戦争に負け、日本キリスト教団も解体されましたが、1940年に日本の全教会が集い、日本の神々にひざをかがめ、「この日が日本教会のペンテコステだ」と宣言した罪は、どうなつているのでしょうか?
これは日本教会のバビロン捕囚であって、他の何ものでしょうか。ゆえに、伝道しても人々は救われないし、教会には不思議も奇跡も起きないし、四苦八苦しています。
しかし、神様は、『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』と言われています。
日本のクリスチャンがその罪について気づき、悔い改めの祈りを捧げる時、神は必ずその罪を赦し、地を癒してくださるのではないかと思います。
そして、エレミヤ書 29章10節、
『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』
70年が満ちたら、新しい契約が始まります、と約束されていますが、これとどう繋がるのかはわかりませんが、今年、2011年は1940年から数えて「70年が満ちた」年となります。
ということは、もしかしたら、神様は今年、日本教会に哀れみの季節を持っておられるのではないかと思います。それに対して私たちが応答する時、日本にリバイバルを起こしてくださるのではないかと期待します。
もちろん、この御言葉は一義的にはユダに対して語られた言葉ですから、日本にどう適応されるか、はっきりとはわかりませんが、私は主に祈っています。
「主よ。2011年に、日本にリバイバルを起こされるのはいかがでしようか。聖書的に一番覚えやすく、歴史にも残るし、いいじゃないですか!日本のバビロン捕囚から70年が満ちた年、日本にリバイバルが起きた!聖書に書かれている通りでいいじゃないですか!どうか日本にリバイバルを起こしてください!」と祈っています。
みなさん、是非とも、今年は、神の時が訪れるように祈ろうじゃありませんか。日本教会のバビロン捕囚の時代から、70年が満ちたこの2011年。新たなる神の季節が訪れることを期待し、信じる者であります。
最後にイザヤ書43章を読んで終わりにしたいと思います。これはイザヤが語ったバビロンに対する預言でありますけれども、イザヤ書43章14節〜21節、
『あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。』
昔のことを考えると、本当に暗い過去ばかりで、ろくな事はなかったと言うかもしれません。けれども、「先のことを思い出さなくてもいいですよ。昔のことを気にしなくてもいい時代が来ますよ。なぜなら、わたしはあなた方に新しいことを計画していますから。もうそれが起ころうとしています。」と主が語られているかのようです。
私はこのイザヤ書の43章の14節からの御言葉を、今年与えられた御言葉の一つに加えたいと思います。荒野に水が流れる2011年にしていただきたいと心から願っています。
この御言葉が、みなさんの人生にも当てはまりますように。主は偉大な計画をお持ちです。今、荒野のような人生を送っていても、必ず主はカイロスをお持ちです。私たちはそれを祈り続けたいと思います。
最後に一言お祈りしたいと思います。今から聖餐式を行いますけれど、ユダの国が70年間、閉じ込められ、やっと解放されました。しかし、イエス様の十字架と復活によって、70年が必要なくなりました。いつでも瞬間的に解放されるようになりました。これは、イエス様の十字架の犠牲と血潮のゆえです。これを、感謝して、聖餐式を行いたいと思います。
一言お祈りさせていただきます。
ハレルヤ、天の父なる神様。御名を崇めて心から感謝します。あなたが私たちのために持っておられる計画は、災いではなく、将来と希望を与えるものですから感謝します。
今日は、あなたの尊い十字架の血潮を仰ぎながら、主の前に出る事が出来、感謝します。一人一人の中にあなたが働いてくださいますようにお願いします。災いではなくて、平安と将来と希望をお与えくださいますように。
今日、私たちは教会の罪を悔い改めます。罪を赦し、この地を癒してください。どうか、私たちの祈りを聞いてください。この時を心から感謝します。今からの聖餐式、主の臨在の中で進みますように。尊いイエス様の御名を通して、祈りをお捧げします。アーメン。


































メッセージ2011年...




