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「大いなるリバイバルを求めよう」

2011.2.20(SUN)
新城教会牧師  滝元 明

使徒の働き 2章36節〜41節
ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

 ハレルヤ!おはようございます。
 一言お祈りします。愛する天のお父様、これから御言葉を語りますけれども、どうかイエス様がここにいてくださって、御言葉が聖霊様によってひとりひとりの内に語りかけられ、恵みを受けることができますに。今日は、遠い所から近い所から多くの人たちが来ましたけれども、誰ひとりとして恵まれずに帰ることがないように、あなたの愛に包まれて、聖霊に満たされて帰ることができるように助けてください。これからの時間、御手に委ね、イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

 みなさん、おはようございます。ひさしぶりにメッセージを取り次ぐことができますことを、心から感謝しています。みなさんのお祈りに支えられて、私も今日まで健康が守られました。

 今日は、これからみなさんと一緒に御言葉を学びますけれども、今日は「大いなるリバイバルを求めよう」という主題です。先週は、順牧師が「聖霊の力を求めよう」というテーマで使徒の働き1章8節から語ってくださいました。素晴らしいメッセージでした。先週は、私もすごく恵まれました。昼からは2時間の集会があり、それも出ましたし、夜は県民の森にも行き、県民の森でも2時間位立ったままで賛美して一生懸命祈りました。本当に恵まれました。
 なぜ、順牧師が「聖霊の力を求めよう」とメッセージしたかというと、先週語られたのは、1992年の2月13日、その日に聖霊がこの新城教会に訪れたからです。その時から、この教会に霊的戦いとか、素晴らしい祝福が与えられたからです。だから、記念日として行ったわけです。

 実は、個人的なことになりますが、62年前の2月20日が何曜日だったか知っている人はいますか?
 62年前の2月20日は、日曜日です。それから、2月13日も日曜日です。ちょうど、今年は同じになりました。なぜ、私がわかるのかというと、頭がいいわけではなく理由があるからです。
 私が東京に初めて行ったのが19歳の時でした。そして1949年2月13日、初めて教会に行きました。だから忘れることができません。そして、2月20日、2回目に行き、その日にイエス様を信じました。
 ですから、私にとって生涯に記念されるべき日で、あの2月20日がなかったら今日はないのです。考えてみると、62年前にイエス様を信じて救われたということを考えると、非常に嬉しいです。
 私がちょうど日本農業研究所に勤めていて、夜は政治経済の夜学に行っている時に、よく話しますが、一人の学生が、私の顔を見て「君、君の顔は牧師に似合いそうな顔をしとる」と言った言葉がきっかけになりました。それ以来、勉強をしていても、働いていても、「牧師に似合いそう」という言葉が気になりました。そして、その当時、「生きる」という意味がわかりませんでした。こんなに働いてもいつかは死ぬ。人生とは何か。しかし命を懸けて働く仕事が欲しい。そんな気持ちを持っていた時、その言葉を言われましたので、「そうだ、一回教会に行ってみよう!」と、2月13日、私は自分から教会に電話をかけました。「もしもし、教会に行ってもよろしいですか?」
 そして、3人の友達を誘惑をして、4人で教会に行きました。今でも忘れることができませんが、その日、教会行った時に、クリスチャンの目が美しくて、顔も美しくて、非常に感動を受けました。
 集会が終わったあとに、私はそこの先生に聞きました。「もう他に集まりはないですか?」と。すると、「あります。」というので、何があるのかと聞くと、日曜学校の先生の祈り会があると言いました。「出てもいいですか?」と聞くと、初めて行ったばかりなのに、「出てもいい」というのです。それで、日曜学校の先生と一緒になって、友達達と祈り会に出席しました。大学生が多かったです。今日、ここにおります私の家内も、そこにいました。お祈りする時に、みんないいお祈りをしました。すると、私と一緒に行った友達が祈りの後で、「アーメン」と言うでしょ。そうすると、彼らがくすくすと笑い出すのです。しかし、私は笑えませんでした。私は自分のことで精一杯だけど、この人たちは人のために祈っている、なんと素晴らしいだろうと、非常に感動を受けました。もし、こんな素晴らしい人生に入れるのならば、入りたい。そうだ、わかるまで教会に行こうということで、それからずっと教会に行って、次の日曜日にミセス穐近を通して、「イエス様を受け入れなさい」と勧められました。それで、ヨハネの福音書の1章12節の言葉、『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』という言葉によって救われました。
 そして、1年のうちに故郷に伝道の為に帰ったのです。62年前の2月20日は、私にとって忘れることができない日です。

 ということで、今日は、感謝なことに2月20日です。先週は、2月13日で、順牧師が「聖霊の力を求めよう」と語ってくれました。
 前に、私がグロリアシンガースと一緒に、インドネシアに行きました。明日からインドネシアの人達が来ますが、インドネシアに行ってクルセードをしました。ジャカルタとかバンドンとか、スラバヤという所で大きな集会をしました。その時に、インドネシアリバイバルの指導者、オクタビアヌスという方にいろいろと聞きました。
 あの国はイスラムの国だけど、どのようにしてリバイバルが起きたのかと聞くと、ある時、どこだか知りませんが、山の中で真剣に祈ったそうです。リバイバルが来るようにと祈っていたそうです。すると、突然、聖霊が臨んだそうです。その時、みんなその場にぶっ倒れ、すごい聖霊の感動を受けたそうです。それからリバイバルが始まったというのです。
 それを聞いて当時はわかりませんでしたが、みなさん、新城も同じような事が起こりました。1992年の2月13日に、私はそこにはいませんでしたが、聖霊が下って主の臨在が現れた同じようなことが起こりました。
 そしてインドネシアは、今、クリスチャンが多くなりました。明日からインドネシアの人たちが来ますので、彼らから聞かれたらいいと思いますが、クリスチャンが非常に多くなって、今は、20パーセントくらいではないかと思います。あのイスラムの国が変えられました。
 ですから、日本にもリバイバルが来たら、必ず日本に大きなことがなされると期待なければなりません。

 今日読んだ使徒の働き2章は、弟子達が五旬節の日に聖霊を待ち望んだ時、突然上から聖霊が臨まれました。ここには『響きと共に』とあります。県民の森でも響きがあったと言いますが、弟子達の上に炎があり、みんなの上に聖霊が臨みました。
 弟子達はその時に、異言を語ったりして聖霊に満たされました。人々はこれを見て何と語ったかというと、「彼らはぶどう酒に酔っているのではないか。」
 しかし、ペテロが立って、「みなさん、今は朝の9時です。私達は酒に酔っぱらっているのではありません。預言者ヨエルの書に約束されたことが、今ここに成就したのです」とメッセージを語りました。
 今日、読んだ御言葉はその結論です。何を語ったかというと、「みなさん、イエスを十字架につけて殺したでしょ?あのイエスこそが、私達ユダヤ人が、イスラエル人たちが待っていたメシア、救い主キリストだったのです。みなさんは、このメシアであるイエス・キリストを殺したけれど、神はこの人を死人の中から甦らせたのです」と説教をしました。その時、彼らが強く心を刺されたというのです。

 ユダヤ人達は、長いこと救い主が来ることを待っていました。聖書を読みながら、いつ、どこに来られるかと待ち望んでいました。聖書を見ると、「ベツレヘムに救い主がお生まれになる。」とありました。イエス様がお生まれになったのは、ベツレヘムですが、ベツレヘムでお生まれになって、ナザレで育ちました。
 だから、ユダヤ人たちの考えの中には、神が人間となって救いにくる、メシアが来る、油注がれた方が来ると期待していました。だからその方は相当素晴らしい姿だと思っていたわけです。しかし実際に来られたイエス様は、馬小屋に生まれて、大工さんの家に育てられ、貧しい、人々から見たら見栄えのない生活をされていました。

 イエス様は30歳から、伝道を始め、奇跡をされましたが、彼らは疑いました。「なんだ、あの大工のせがれが、なぜメシアなのか?なぜこの人が救い主か?」と信じませんでした。特に信じなかったのは、律法学者だとかパリサイ人という宗教家たちは信じませんでした。非常にイエス様に対して酌にさわったのです。イエス様があまりにも奇跡をされるし、安息日でも人が癒されるし、素晴らしい奇跡をされる度に妬みました。それで最後には、十字架につけて殺したということですが、これは、神様の計画で、イエス様がおっしゃったことは、「誰かがわたしから命を取るのではない。わたしは自分から命を捨てるのだ。わたしには捨てる力もあるし、受ける力もある。」と語られました。そして、十字架につけられ、葬られました。しかし、葬られたけれど、死人の中から3日目に甦えられました。

 みなさんに祈っていただきましたが、4月になったら私はイスラエルに行きます。イエス様が歩かれた道は、今もそのままです。ベツレヘムにも行きます。ナザレも行きます。イエス様が奇跡を行われた場所も、十字架につけられた場所も、甦られた墓にも行きます。
 25人の予定が、今、何人申込があるかというと、39人になりました。少し多すぎるのです。飛行機の席がないかもしれなくて、3人くらい断らなければいけない状況なんですが、みなさんが行けるようにお祈りください。
 私も団長を務めて行くことは、楽しみです。私は回目です。世界中どこに行っても感動しますが、一番感動するのはイスラエルです。ガリラヤ湖で、船に乗っている時にガイドさんが「みなさん、こちらを見てください。こちらはマグダラでございます。こちらはゲラサでございます」と言っただけで、涙が止まらなくなるのです。
 なぜかというと、マグダラというと誰を思い出しますか?七つの悪霊につかれた女性が解放されたのです。七つの悪霊に悩まされた人をイエス様が解放しされました。女性はイエス様が甦った朝、最初にお会いしたマグダラのマリアさんでした。
 ゲラサとは、悪霊につかれて墓場に閉じ込められた人が解放された場所です。イエス様の奇跡を見ると、素晴らしいですね。
 そして、「あなた方が十字架につけたイエスがキリストであり、メシアで救い主なんです!あなた方が待ち望んでいた救い主を十字架につけた!」と聞いたので、彼らは心刺されました。
 十字架につけられた時イエス様は、「父よ、彼らを赦してください」とお祈りした時、お昼から午後3時まで、真っ暗になったことなどを思い出して、「あ〜、やっぱりあの方は救い主だった。申し訳ない。」と思ったのです。
 何が罪かというと、救い主を十字架につけたと苦しんだのです。そこで、彼らは叫びました。「兄弟たち、私達は何をしたらいいですか?」と。するとペテロは「悔い改めなさい。悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうしたら、聖霊の賜物を受けます」と言いました。

 彼は、「バプテスマを受けなさい」と言って、その日、何人バプテスマを受けたかというと、「3000人」バプテスマを受けたというのです。
 みなさん、私も将来ひとつ期待しています。いつか、新城の教会も、何千人かになると思います。

 私は、この間、韓国に行きました。1月28日に行きました。寒かったです。零下15度か16度でした。寒くて、着いたその日に、徹夜祈祷会に行きました。聖霊教会という教会に行きました。あまりにも寒くて、その教会の牧師先生がこう言うのです。「今日は、韓国でも、かつてなかったほどの寒さなので、祈りに来る人が少ないかもしれません。」
 やはり、本当に少なかったですね。何人来たかというと、800人集まりました。みなさん、夜ですよ。少なくて800人集まりました。5000人くらい入る会堂でした。私も、「将来、新城でもこういう教会が出来たら素晴らしい」と思いました。聖霊様が臨んだら、韓国に素晴らしいことがあったように、日本にも、必ずリバイバルが来ます。みなさん、信仰を持ちましょう。

 みなさん、今朝も、遠い所から来られた方も、近い方もおられますが、期待して来られたでしょ。「日曜か、仕方ない・・・」ではなく、教会に行ったら祝福されると期待を持ってきた人は祝されます。
 「期待する」ということですけれど、私の家の裏に庭があります。そこに、樫の木、いちじく、ぶどうの木が植わっています。いい家に住まわせてもらっていますけれど、私はその庭に最近、パンなんかが残ったら、捨てないで小鳥にあげることにしています。
 すると、小鳥たちが、今、寒いから餌がないでしょ。来るのです。いろんな鳥が来ます。一番よく来るのは雀です。朝早くから来ます。私も「ちゅんちゃん、元気か〜?」と声をかけたりします。ヒヨドリも来ます。昔、びわの実を食べられたことがあり、ヒヨドリはあまり好きではありませんが、彼らもよく来ます。それからムクドリも来るし、烏も来るし、いろんな鳥が毎日やってきます。
 すると、最近、テンが来るようになりました。テンというのは、イタチとは違いますが、ちょこちょこやって来て、餌を捕まえて近くの物置のところに入り込んでいます。昨日も私が豊橋から帰って来たら、ベランダの所にテンが走って来て、餌を求めていました。
 そんな中で、今はヒヨドリは嫌いじゃないですが、一羽のヒヨドリがベランダの所で、私のほうを見て、「おじいちゃん、パンちょうだい」という顔をして、じっと私を見ていました。私も、冷たい心で、「おまえにはやらんよ」という顔をしておりますけれど、それでも、そこから動かないでいると、やっぱり負けます。あげなきゃいけないと。
 みなさん、鳥でも期待します。クリスチャンもやはり期待しなければいけません。「リバイバルが来る!人々が救われる!」
 今、期待していることは、昨年の11月18日に与えられた御言葉です。マルコの福音書4章1節、

『イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。』

 私と家内と一緒に聖書を読んでいる時、ちょうどその御言葉を神様が語りかけてくださいました。『おびただしい数の群衆がみもとに集まった。』これは、新城にこういう時が来る、とイエス様が語りかけてくださったのです。

マルコの福音書 4章26節〜29節、

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 『収穫の時が来た』、この言葉は、今年は日本に収穫の時が来るということです。必ず、そういう時が来るに違いありません。ですから、みなさん信じましょう。
 去年か、その前、この教会に時々来られている婦人がこんな話をしました。その方は、クリスチャンだと思いますけれども、教会に来れないこともあるのですが、ある晩、夢を見たそうです。
 夢の中で、大勢の人が新城駅の前の神社に向かって歩いて行ったそうです。神社に着いたら、今度は向きを変えて歩いて行くのです。どこに歩いて行くのかと思ったら、みんな新城教会に入って行ったという夢を見たそうです。そういう夢が実現したら素晴らしいですね。
 イエス様は、すべての人が救われて、真理を知るに至ることを望んでいるとありますから、そういうリバイバルが起きるように、御言葉を信じましょう。

 今日、この中を見ると、『バプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』とあります。みなさん、ここで、バプテスマを受けている人は手をあげてください。ほとんどですね。まだ受けていない人は、受けなさい。
 バプテスマ受けたら、聖霊の賜物を受けるとは、受けた人は、聖霊の賜物を既に受けているのです。県民の森で起こったみたいな、特別な力はもらってはいないかもしれないけれど、聖霊の賜物は受けているのです。それを信じなければいけません。
テモテへの手紙第二、1章7節、

『神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』

 みなさん、バプテスマを受けた人は、聖霊の賜物を受けますといいますから、賜物をもらったわけです。おくびょうの霊ではありません。みなさん、臆病な方は、いらっしゃいますか?『おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊』を神様がくださっているのです。だから、みなさん、信仰を持ったらいいです。信仰を持って、もう既に、臆病の霊でない力が与えられています。
 ローマ人への手紙8章15節、

『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。』

 「アバ、父、お父ちゃん」と呼べるということは、既に聖霊の力を受けているのです。信じるか信じないかが問題なのです。今日、みなさん、バプテスマを受けている方は、「私はおくびょうの霊ではない、力と愛と慎みの霊が与えられています!」と信じましょう。信じますか?信じますね。みなさん、信じましょう。
 御言葉というのは、信じなければなりません。聖書を見ると、マルコの福音書16章16節〜18節、

『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』

と書いてありますけれども、悪霊を追い出す権威というのは、牧師だけではありません。『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し』とあります。バプテスマを受けても信じなければいけませんが、みなさんには悪霊を追い出す権威が既に与えられているのです。信じますか?

 私も、今年、3月は10日間くらい、アメリカのほうでミニストリーをやるのですが、7月からも、また、ロンブラウンさんとイボンヌさんとかマキーダさんとかで、全国を回って集会をします。この間、ある所で、イボンヌさんがこういう証をしました。
 イボンヌさんは、ハリウッドの女優で、なかなか有名な方ですけれども、朝、ランニングすることが好きで、水辺を走ることを、何年か続けたそうです。しかし、ある時から走れなくなったそうです。しかし、これではいけないと思って、ある時、また走ったそうです。
 すると、一人の男が座っていて、急にイボンヌさんに飛びかかってきたそうです。イボンヌさんの首をぎゅっと締めて、ナイフを出して、イボンヌさんを刺しそうになったそうです。
 みなさん、そうしたらどうしますか?動くこともできず、イボンヌさんが、こう言ったそうです。「ジーザス!イエス様!」と叫んだそうです。イエス様の名前を叫んだ時に、この人が震え出したそうです。
 みなさん、イエス様の名前に力があるのです。男が震え出したので、今度は思い切って、「ジーザス!!!!」と叫んだそうです。そうしたら、男の人がびっくりして逃げて行ったそうです。みなさん、イエス様の名前に力があります。

 私が昔、行っていた教会の一人が話しました。夜遅く帰ったら、暗い所を歩いていると、ある男がくっついて来たそうです。だんだん近付いてきて、いわゆる痴漢ですが、そして暗い所に来たら抱きついて来たそうです。
 その時に、その子が、「イエス様〜!!!」と叫ぶと、男は、イエス様という男が側にいると思って、逃げ出したそうです。だから、イエス様の名前を使うというのは、素晴らしいことです。

 この間、私は韓国の教会に行った時に、聖霊教会と、新しい心の教会という所で集会をしました。その時に、私の通訳は、金斗植という先生なんですが、私より少し年下で元空軍大佐の人ですが、その方が私の通訳をしてくださいました。その方は丁寧に通訳をし、私の通訳を喜んでやってくださっています。私がこんな証しをしました。
 私がイエス様を信じて教会に行った時に一番最初に聞いたことは、「イエス様の名前に力がある」ということでした。イエス様の名によって悪霊をも追い出すことができると。
 私は、よく話しますが、私と、小松君という友人と甲斐君という3人で一緒に農場で働いていました。働いている時に、クワで作業をしていたんですが、とかげが出てきて、とかげのはらわたを切ってしまいました。とかげでも痛いと思いますが、逃げて行ってかわいそうなことをしたな、と思いましたが、その日の仕事は終わりました。
 そして、また3人で仕事をしてきたら、またとかげが出てきました。昨日、僕がお腹を切ったとかげが、のたりのたりと出て来たので、かわいそうだと思い、その時に私はイエス様の名前を思い出しました。そして、私は教会に行ってまだ一ヶ月でしたが、「イエス様の名前によって命ずる!とかげよ上がって来い!」と言ったら、手に上がってきました。不思議じゃないですか。
 それで、かわいそうだから、とかげを天国にやってやろうと思って、「イエス様の名前によって命ずる!とかげよ、死ね!」と言うと、ぱたっと死にました。嬉しかったです。あ〜、天国に行ったと思いました。
 それから、小松君と甲斐君と葬式をやってやろうということで、木の下に穴を堀り、とかげを葬って、讃美歌を歌い、私は初めて葬式の司式をやりました。その時の歌を今でも覚えています。「イエスよ、この身を、行かせたまえ♪」という讃美歌を歌い、「とかげさんが安らかに永遠に眠りますように」とお祈りをし、祈りが聞かれたことを嬉しく思っていました。
 その日は土曜日で、教会に行きました。すると、ミセス穐近が「みなさん、何か祈りが聞かれたことがありますか?」と言われるのです。そこで、私は、「はーい!」と言いました。「今日、とかげに手の上に上って来いって言ったら、上ってきたし、死ねと行ったら死に、とかげさんが天国に行ったから、葬式をしてあげました」と言うと、そこにいた人たちが、笑い始めました。
 一人の女性なんか、真っ赤な顔をして転げ回るように笑っていました。その人は誰だったかと言うと、今の私の家内ですけれど、私はなんでこの人たちはとかげが天国に行ったのに笑うかと思ったら、ミセス穐近がこのように言いました。「滝元さん、とかげは天国に行かないんですよ。天国に行くのは人間だけですよ」と。

 今まで私には仏教の思想があったことに、初めて気がつきました。でも、ミセス穐近という人は、偉い方でした。「だめだめ!そんなとかげが天国に行くなんて異端よ!」なんて馬鹿にしたら、私もつまづいたかもしれませんが、ニコニコしながら、「滝元さん。信じたら大きなことを見ることができますよ。信じていきなさい」と励まされました。
 今日まで、イエス様の御名によって守られたことを考えると、みなさんも信じていたら、ひとつ、イエス様の名を使ってごらんなさい。そして、病める者に手を置いたら癒されるとありますから、イエス様の名前によって祈ったらいいと思います。

 弟子達は、聖霊の力によって一つの賜物が与えられました。マルコの福音書3章13節〜14節、

『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』

 順牧師の得意というか、与えられた賜物ですが、弟子達は福音を宣べ伝えさせ、そして、悪霊を追い出す権威を与えられるのです。クリスチャンも信じたら悪霊を追い出す権威を与えられるのです。
 私が、米沢の教会に行った時に、一人の宣教師が後から走ってきて、「先生!神様が御言葉を先生のために与えていますから、聞いてください!」と言うのです。なにかと聞くと、宣教師が私のためにイエス様が語ったと、ルカの福音書から、『確かに、蛇やさそりを踏みつけ、あらゆる敵に打ち勝つ権威を与えた』と書いてあるけど、神様は先生にその権威を与えたと話していますよ、と。嬉しいですね。
 みなさん、信じたら、サタンに打ち勝つのです。イエス様の名前を呼ぶだけで勝利することができます。

 聖書の中に、信じた人にはそれぞれ賜物が与えられるとありますけれど、第一コリント人12章8節、

『ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、』

と書いてあります。
 聖霊の賜物というのは、全て同じではありません。それぞれに賜物があるのです。みなさん、聖書を見ると、知恵の賜物、知識の賜物があるのです。どうでしょうか、みなさんの中で今年、高校受験の方はいらっしゃいますか?大学受験の人は?その方は今日の言葉を信じなさい。知恵の霊をくださるとありますから、知恵が与えられるように求めることです。
 それから、また、第一コリント12章9節〜10節、

『またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。』

とあります。
 聖書を見ると、ステパノという人は殉教をしたけど、彼は、知恵と御霊によって語っていたという言葉がありますけれども、使徒の働き 6章8節〜10節、

『さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。』

 学校の成績がどうであっても、聖霊の力をいただいたら知恵と知識の力が与えられると書いてあります。みなさん、福音を伝える時に、「知恵と知識を与えてください。人に語る力を与えてください」とお祈りする必要があります。
 それから、癒しの賜物と書いてあります。先ほど言ったように、バプテスマを受けた者は、病める者に手を置いたら癒されるとありますから、教会に頼むこともいいですが、バプテスマを受けた人は、誰か子供が病気でもあったら、子供に手を置いて、「イエス様、治してください」と信仰を持って祈ることです。祈ってごらんなさい。そうしたら、祈りが聞かれます。
 そして、「信仰の賜物」と書いてあります。みなさん、信仰の賜物、欲しいですね。イエス様はこうおっしゃっています。マルコの福音書11章22節〜25節、

『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」』

 みなさん、お祈りする時に、誰かに対して恨み事があったら赦してあげなさい。だから、お祈りする前は、神様と自分との関係が良い関係にあるかどうかを考えなければいけないので、まず悔い改めることです。
 人の悪口ばかり言っていて、祈っても聞かれないので、「今日は悪口を言いました。心の中に憎しみがあります。赦せない気持ちがあります。しかし、あの人も赦します」という具合に祈ったら、神様が祈りを聞いてくださるとありますから、信仰を持ちましょう。信仰にはお金はかかりません。信じるだけです。信じます。神を信じます。
 聖書は素晴らしいことに、いろんな模範があります。アブラハムさんが神を信じて祝されたとか書いてあるので、真似をしたらいいです。「アブラハム、神を信ず。」どのように信じたかというと、神は彼を外に連れ出し、「星を数えてごらんなさい。数えることができるか?あなたの子孫はこのようになるんだよ」と言われた時、「大宇宙を造った神様、あなたには出来ないことはない!」と信じたのです。みなさん、地球を造り、太陽を造り、星を造られた神様は、素晴らしい神様だから、信じたら、私達も同じように祝福を受ける事ができます。

 また、「奇跡を行う力」とありますが、時々、聖書を見ると、そんな・・と思えるようなことがあります。イエス様が男だけでも5000人に、5つのパンと2匹の魚を分けてあげたとあります。余ったのを籠に分けたら、12の籠にいっぱいになったとあります。そんな馬鹿なことあるかと思うかもしれませんが、信じることです。
 何年か前に、この教会から時間をもらって、私と家内と里辺架と清香と一緒にスウェーデンに行きました。彼女たちはスウェーデンだけで帰りましたが、私たちはノルウェーに行き、スウェーデンに戻り、その後、フィンランドに行きました。

 スウェーデンに行った時、非常に立派な先生で、ハンセンという先生がいました。安城などで伝道してくれた先生ですが、とっても素晴らしい方で、うちの里辺架や清香がファンになりました。本当に温厚な方で、その方がこう言いました。
 「先生、宣教師になった時に、私は信仰によって宣教師になったのです」と。そして、近くに浜名湖がありますが、あそこにキャンプ場を作った時、国から全然お金を送ってこず、生活費までなくなったと言うのです。「でも、先生、感謝でしたよ。ミンチボールを1ヶ月以上食べて、毎日喜びの感謝の生活をしたんですよ」と言いました。素晴らしいじゃないですか。
 神様は奇跡を行う方だから、人間的には駄目だと思っても信じることです。

 ある集会で、穐近という先生が説教をしました。「イエス様は水の上を歩いたんだよ」と語ると、ちょうど田中政男先生がイエス様を信じたばかりの時で、前に座っていて、「そんな馬鹿な〜!」と言ってしまったのです。すると、穐近先生が怒って、「何を言っているんだい!君!畳屋さんが畳を作って畳の上を歩くのは当然だろう、神様が水を造ったんだから、水の上を歩いても当然だ」と。
 私達が信じている神様は奇跡を行う神様ですから、信じていきましょう。

 そして、ひとりひとりが用いられたら、リバイバルが来ます。今週誰かに臆さないで、イエス様の愛を伝えてください。伝道してください、導いてください。そして、一緒に天国の道を歩いてまいりましょう。

 今日の話はここまでにして、一言お祈りします。みなさん、信仰を持ってお祈りしましょう。みなさんの欲しい賜物を求めてお祈りしましょう。また、与えられていることを信じ、お祈りしましょう。

 愛する天のお父様。リバイバルの来ることを信じます。すでに私達に与えられている霊は臆する霊ではなくて、力と愛と慎みの霊が与えられていることを感謝します。「信じた者には、次のようなしるしが伴う」と書いてありますけれど、今日も、イエス様を信じて聖餐に預かります。
 この聖餐の間に、病める人がいたら癒されるように、問題のある人が癒されるように、力のない人は力を持つことができるように。心の中に満たしのない方は、今日は満たしを受けることができるように導いてください。
 イエス様、あなた御自身が共にいて、どうかあなたの裂かれた肉体と、あなたの流され血潮を受け取りますから、聖餐のパンを、またあなた御自身の杯を祝福してくださいますように。一人一人が信仰をもって受け取るように、お願いいたします。信じて感謝してお祈りいたします。アーメン。