HOME > 2011年バックナンバー > 3月 > メッセージ2011年3月6日

「町を勝ち取ろう!!パート2」

2011.3.6(SUN)
新城教会牧師  滝元 順

ヨシュア記 5章13節〜6章2節
さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日もこうして、メッセージを取り次がせていただけますことを、心から感謝しています。
 「君を愛するイエスがおられる」という、素晴らしい賛美を聞きましたけれども、私たちの神は愛なる神様です。しかし日本人は「神様があなたを愛していますよ」というメッセージを聞くと、ちょっと戸惑います。なぜならば、日本人の神イメージは怖い神だからです。よく拝めば神にもなるけれど、ほっておくと鬼になるという神です。「神にもなれば、鬼にもなる」という神ですから、初めから鬼です。愛してくださる神とは、ほど遠いのです。神と聞けば、不動明王が出て来たり、千手観音がイメージに出て来て、そんなものに愛してもらいたくない、と思うわけです。神に対する間違った考えがあるのです。しかし、イエス様は、決してたたるような神ではありません。私たちを愛して下さり、いつも共にいてくださる神様です。そして、地上だけで人生は終わるのではなく、永遠の国、天国にまで導いてくださり、永遠に世話をしてくださる方です。素晴らしいです。

 昨晩はNさんが天に帰られました。先々週も葬式があって、その後、Nさんの入院されている病院の側を通った時、「きっと近いうちにNさんは召されるだろうな・・・」と感じて祈りましたが、主の御手の中、安らかに天に召されていきました。
 Nさんはこの教会で30年ほど一緒に礼拝を守った信仰の仲間でしたが、この2年くらい、闘病生活が続いていました。意識があるのかないのか分からない感じでしたが、時々お見舞いに行って、「Nさん、順が来たよ!」と言うと、声を出し喜んでくれました。今は苦しみから解放され、礼拝を天から眺めておられると思います。
 誰でもやがて、この地上から出て行かなければなりません。地上では寂しい別れがあります。けれども、私たちの神様は、愛の神であり、この地上だけで人生は終わるのではなく、地上の務めが終わったら、天に帰り、神と共に永遠に過ごすのです。そのように素晴らしい救いを与えてくださっているのです。そんな素晴らしい世界があるのなら、そのことを全員に知らせたいと思います。

 今日の題を、「町を勝ち取ろう!!パート2」としました。先週のメッセージも「町を勝ち取ろう!」とさせていただきましたが、その続きです。題をよく見ていただきますと、びっくりマークが一つ増えています。「先週よりも、もっと力強く町を勝ち取りましょう!!」という強い意思が込められています。しかし私がマークを増やしたわけではなく、なぜか週報の題を見たら増えていました。
 町を勝ち取るとは、政治的にとか、何か策略があってではなく、町中の人が全員、イエス様を信じて、永遠の国、天国に入って欲しいということです。

 イエス・キリストを信じる前、人は悪魔の支配下にあります。地上で、悪魔に支配されていたらどうでしょうか?死後、魂は体から離れて霊的世界に完全に入るわけですから、暗闇の世界を支配している悪魔に、100パーセント支配され、暗闇の国に属さなければならないわけです。
 しかし、イエス・キリストを信じたら、神様も霊ですから、神の支配100パーセントで永遠に生きるのです。
 人は死後の行き先を、地上で決めなければなりません。イエス・キリストを信じるとは、霊的世界の大変化です。

 今朝、礼拝の前に、一人の方のバプテスマ・クラスを行いました。どのような方かというと、中国から来られた女性です。最近、日本に中国の方々が多く来られています。中国は共産主義で、イエス様のことを全く聞いたことのない方でした。しかし日本の片田舎で、彼女はイエス様のことを聞き、真理に目覚め、イエス・キリストを信じたのです。そして、バプテスマを受ける決断をするのはすごいことです。
 教会の近くにある会社で働いています。彼女はやがて、自分の国に帰って行きますけれど、家族がまだクリスチャンではないので、心配しておられました。「帰ったらきっと、いろいろな迫害があるかもしれない。」
 でも、一人がイエス様を信じたら、『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます』と聖書にありますから、やがて家族にまで救いが及んでいきますから、がんばりましょうと励ましました。

 私たちは、この救いを一人でも多くの人に伝えなければなりません。それは、ただ日本人とか、限定された範囲の人々にではなく、世界中に福音を広げなければなりません。しかし、まず自分の住んでいる町を勝ち取ることを、神は願っておられるのです。そのことを、みなさんと共に、先週に引き続き、学んで行きたいと思います。

 今日、読んだ聖書の箇所は、エジプトから脱出したイスラエルの人たちが、40年間、荒野を彷徨った後、カナンの地に入る様子が描かれていました。カナンの地に入る前、エリコという敵の町があったのですが、その町を攻めるように、神はヨシュアに告げられました。そして、その町を勝ち取ったことによって、カナンの地全体が、やがてイスラエルの手に戻って行ったのです。
 当時は、戦争によって、武力によって、町を勝ち取るという戦略的な意味でしたが、今の時代は、福音に覆いがかけられている町を霊的に勝ち取り、魂を救い出すという意味です。
 私たちはこの中から霊的に「町を勝ち取る」という視点を受け取り、自分の町のためにとりなし、祈ることが大事であると教えられます。
 先ほど読んだ中に、『主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」』と告げられていました。神は町を主を信じる者たちの手に、委ねてくださると教えています。

 イエス様の宣教のターゲットは、「町」がターゲットでした。
ルカの福音書10章1節〜11節、

『その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。・・・どの町に入っても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。『私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』』

 ここから、イエス様が「町単位」で宣教されたことを知ることができます。イエス様は、やがてご自分が行かれる町々村々に、弟子たちを二人ずつ先にペアにして送ったのです。また、「どの町に入っても、その町の病人を癒してあげなさい」と言われ、「もしも町の人たちが福音を受け入れなかったら、その町の塵も払って町から去れ」と言われたくらい、イエス様は町を意識し、町をターゲットにしておられたのです。私たちもイエス様と同じように、町に関心を持ち、町の人々の救いを願い、祈らなければならないのです。

 この箇所にもありましたが、『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』とありました。
 「日本ではなかなか収穫が少ない」と思うのですが、実はそうではないのです。「収穫は多い」とイエス様は語られました。
 先ほど中国の方のバプテスマ・クラスを行ったと言いましたが、実は中国は、共産党の支配がありながら、10億の民の約一割、1億人がすでにクリスチャンになっているというのです。日本よりもずっと町々、村々に福音が伝わっているのです。公には福音を伝えることは出来なくても、クリスチャンは隠れて福音を伝え、1億人以上の人たちが主を信じたというのです。お隣の韓国でもどうでしょうか?すでに人口の二割から三割が主を信じたのです。素晴らしいです。
 今週も私は韓国に行くのですが、先週もお話をしましたが、「春川」という町に行きます。春川は、「町を勝ち取ろう!」という運動を全市の教会が協力して展開しています。春川には、350の教会があるのですが、教会が協力して「ホーリー・シティ運動」を行っています。隔月に、「春川ホーリー・シティ・タイムズ」という新聞が出ています。結構ボリュームのある新聞ですが、2月のトピックは、私、滝元順です。「町を勝ち取る」という視点で、インタビューされ、私が話した事柄がうまくまとめられています。韓国語が読める方には読ませてあげます。
 町を勝ち取るという視点を持って、町のために祈ることは、イエス様もされたことですから、大変重要です。そして、町には「収穫は多い」と言われています。

 先週は、「リバイバル聖書神学校」の卒業式がありました。15名の方々が卒業されました。神学校本科は3年コースなんですが、「働き人となって主のために仕えていきたい」と願う人たちが、全国各地から集まっています。15名の方々が学びを終え、巣立って行きました。ちょっとその写真をお見せします。

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この場所で先週の金曜日、卒業式が行われました。。滝元明牧師がメッセージでした。

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 素晴らしい卒業式でした。みんな希望に燃えていました。このような方々が、日本におられることは、本当に嬉しいです。
 しかし、直接的に献身しなくても、ただ救われただけではなく、もう一歩進んで、主のために、人々の救いのために働いて行こうという意思を持つことが重要です。

 実は、今日は午後からセミナーを持たせていただくのですが、是非とも出ていただきたいと願っています。今回は「国家神道」についてお話ししたいと思います。
 実は、日本人は「神道とは、古いもので古代から続いている、日本の文化、習慣の基本だ。」と考えていますが、騙されているのです。古いように見えますが、全然、私たちが見ている神道は古くないのです。
 「リバイバルジャパン」という雑誌に、私の書いた文章が次号、掲載されます。「幕末をとりなす」というテーマで、記事を書かせていただきました。今、「幕末ブーム」です。「坂の上の雲」とか、「坂本龍馬」とか、結構、みんな興味を持っています。あのようなブームも、私たちは聖霊によって、注意深く見なければなりません。「坂の上の雲」は、中国や韓国ではかなり警戒心を持って眺めています。
 あれは司馬遼太郎が書いた小説なのです。でも、みんなそれが日本の歴史そのものだと考えてしまうからです。小説をそのまま、正しい歴史だと受け取ってしまう危険性があるからです。
 司馬遼太郎の視点は、日本が一番活気のあったのは、日露戦争の前が最高だった。その後は駄目だという、視点です。「あの時点に戻ろう」という、国家神道に戻す力が働いているというのです。日本が今まで歩いてきた道に戻るのではないか、と心配されています。日本が国家神道によってアジア諸国に苦しみを与えました。やはりアジアの諸国は心配するのです。日本人はどこか、「自分たちは特別な国民だ!」と思い込んでいるところがあります。
 みなさん、どうでしょうか?日本の歴史を考えてみて、日本の歴史は、明治時代から現在までが日本の近代史だと思ってはいないでしょうか?江戸時代となると、「江戸時代ですか・・古い話ですね」と、江戸時代の話を聞くと、何かよそ事のような、恐竜が住んでいそうな錯覚を持つのです。一般に「近代の歴史は、明治維新以降ですよ」という考え方がありますが、歴史というものは、そういうものではないのです。歴史とは連綿と続いてきたものであり、本来、区分は出来ないのです。日本は縄文時代から今まで、ずっと続いているわけです。しかし、歴史をどこかで区切ろうとする力があるのです。しかし、神に関しては、「神道の神様は、昔から続いているんですよ・・・」と言うのですが、そうじゃないのです。私たちの見ている神道は、明治維新と共に、創作されたものなのです。宗教のほとんどは、「人民支配」のために用いられています。明治政府は「廃仏毀釈」といって、神殺しを行いました。江戸時代までは仏教が強かったのですが、寺を全て壊して、神社を建立したのです。それも自分たちが一番都合のいい、人民を支配するのにふさわしい神社を作り上げたのです。

 江戸時代までは、誰が神として日本で祀られていたかと言えば、天照大神ではないのです。そんな神は有名ではありませんでした。もちろん伊勢神宮もあったけれど、「全国の総鎮守」というようなものではありませんでした。
 江戸時代は別名、「徳川時代」です。徳川家康が初代の将軍です。日光東照宮に行ったらどうでしょうか?徳川家康が神として祀られています。江戸時代までは徳川家康が神だったのです。
 しかし倒幕により、政権が朝廷に移って、今までの徳川の神を捨てて、それにとって変わる強力な存在が必要だったのです。それで今のような、伊勢を総鎮守とするシステムに変えたわけです。本当に多くの偽りが、日本にはあるのです。

 町の伝統だ文化だというけれど、それは近年、作り出されたものであることが分かります。その背後に、目に見えない敵の力が働いているのです。セミナーでは詳しくお話させていただきたいと思います。また「リバイバルジャパン」にも、記事が出ますので読んでいただければ幸いです。

 今週の「リバイバルジャパン」のある記事をを読んでたいへん恵まれました。それは「ジャック・ヘイフォード」というアメリカの指導的牧師が語っているメッセージでした。なかなか素晴らしいメッセージでした。
 彼がこんなメッセージを語っていました。「今、主が全世界の人々に対して語っている言葉はこれであると確信しています。目を覚ましていなさい。御霊の中を歩みなさい。そして、聖霊が働かれる時に備えなさい」と。
 今は、終末の時、終わりの時代です。終わりの時代は暗い時代が来ます。しかし、その反面、聖霊様も強く働かれる時ですから、その時に備えなさいというメッセージが語られていました。その通りだと思って読みました。
 そんな中で引用されていた箇所か、黙示録1章9節〜10節、

『私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。』

 ヨハネという弟子が、パトモスという誰も知らない島に島流しにされたのです。ローマの大迫害の故に、彼は島流しにあったと言われます。
 けれども、その時、彼は神様からの言葉をもらいました。それが記録されているのがヨハネの黙示録です。神からの語りかけがいつから始まったかというと、1章10節に『私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。』とあるように、「主の日」からだったというのです。
 今日は、どういう日ですか?「主の日」です。日曜日のことを「主の日」と呼びます。私たち教会がなぜ、日曜日に礼拝を行うのかといったら、イエス様の甦りを記念して、礼拝を捧げるのです。
 日曜日のことを「主の日」と呼んでいるのですが、日曜日の午前中に礼拝を捧げるのは重要です。イエス様の甦りを記念して集まる、「主の日」に主の御霊が働かれるのです。
 私たちはこうして日曜日に集っていますけれども、今日はお休みだから来ているというのではなく、イエス様の甦りを記念して集っているのです。

 そのメッセージの中で語られていたのが、ヨハネはパトモスという誰も知らない島に島流しにされていたけれども、1章の9節にあるように、『私は、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。』というのです。
 彼は皇帝によって島流しにあい、名も知らない島に連れてこられたのです。そんな所に連れて来られたのにも関わらず、彼は『私は、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。』と語っているです。
 私たちも、名も知れない、誰も注目してくれない、何のためになるのか分からない場所に遣わされるかもしれないけれど、それは「神の言葉とイエスの証の故だ」と言うのです。偶然は何もないのです。
 この新城市という、日本全体、世界全体から見たならば、誰も知らない場所に居たとしても、それは偶然ではないのです。今日、みなさんが住んでおられる町について、「なんでこの町に住んでいるのか?」と思うかもしれませんが、偶然はないのです。
 あなたは、なぜ、そこに住んでいるのですか?それは「神の言葉と、イエスの証の故」なのです。そのために、あなたは今、その場所に遣わされているのです。
 そして、『主の日に御霊に感じて』とありますけれども、その場所で主が大いなる栄光を現してくださることを、信じなければなりません。

 3月になって、4月から新しい場所に出て行かなければならない人もいるかもしれません。ちょっと不安があるかもしれません。本当にこの選択は正しかったのか、正しくなかったのか・・・。いろいろと考えるかもしれませんが、遣わされる場所に偶然はないのです。全て神の計画の中で、私たちは遣わされているのです。そこで御霊に感じ、主が御業を現すのです。

 実は、ヨハネが黙示録を書いた時は、80歳くらいではないかと言われます。ヨハネは60年近く、ずっと、イエス様に従い、共に歩んできました。実際にイエス様と一緒に行動しましたし、イエス様のことを詳しく知っていました。なぜなら、主と共に歩んだ人生であったからです。
 私たちも主を信じたら、途中で止めてしまうのではなく、最後の最後まで、主に仕えていきたいものです。
 Nさんは天に帰られましたが、30年近く教会に忠実に通われました。健康な頃は、毎週、礼拝に来られて信仰を守られました。忠実に信仰を守り通すことは、重要です。この教会には、多くの忠実に主に仕えておられる方々がおられます。本当に心から尊敬します。
 いつも話しますけれど、この教会に来たら、50年、60年と信仰を守り通してきた人たちの姿を見ることが出来ます。「50年、60年信仰を守ったけど、あんなに悲惨になるのか〜」と思ったら、信じるのを止めたほうがいいかもしれません。しかし、50年、60年経って、「いや〜、こんなに祝福されるのか」と分かるのです。
 「じゃ〜、20年物はどうだろう?10年物はどうだろう?1年物は?昨日救われた人は?」と、いろいろなタイプを見ることができます。
 そんな中、「私たちの神は愛の神だ。イエス様に従って間違いない!」と確信するのです。

 ヨハネは、60年近くイエス様に従ってきた、そんな男でありました。しかし、御霊に感じた時に、何が起こったのか・・・。そこにイエス様が現れたのです。なんと、甦りのイエス様が現れたことが記されています。
 黙示録1章12節〜17節、

『そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、』

 ヨハネは60年近く、実際にイエス様にも出会い、主に仕えてきた忠実な弟子でした。「イエス様のことはすべて分かってるよ。一から十まで全部わかっています。」そんな人だったと思います。
 しかし、御霊に感じて出会ったイエス様は、全く予想だにしないイエス様の姿だったのです。彼はイエス様の姿を見た時に、倒れてしまい、死者のようになったのです。その臨在に打たれて倒れてしまいました。イエス様は神です。天に帰り、神の右の座に付かれたイエス様に出会った時、彼は気絶してしまったのです。

 これは何を意味するのかというと、私たちもクリスチャン生活が長くなると、「あ〜、キリスト教っていうのはこんなもんだ。イエス様って、こんなもんだ。」と、ある程度、自分の中でのイメージが出来上がってしまいます。そして、「教会の歴史も50年、60年か。この分で行けば、来年はこんな風になるだろう。リバイバル、リバイバルとは言っても、そんなに大したことはないだろう」と、案外、私たちは経験で今までの働きを評価します。「こんなもんかな・・・」とイエス様を、自分なりに評価するのです。

 しかし、私たちの信仰生活は、予測のつくところもあるのですが、神のなされることは、突然、何が起こるのか分からないのです。今までイエス様ってこんな方かな〜と思っていたけれど、神の右の座に付かれたイエス様を見たら、びっくりしてぶっ倒れてしまうほど、全く別のお姿がそこにはあったのです。人知をはるかに越えた神の姿がそこにあったわけです。
 今まで「こんなもんだ。このくらいだ」と、「イエス様に一生懸命祈ったって、たまには祈りが聞かれるかもしれないけど、聞かれないことが多い。今、問題があるけれど、解決は難しいかもしれない・・・」と、案外、私たちは今までの体験によって、神の力を制限してしまうのです。
 しかし、私たちの神はそういう方ではありません。出会った瞬間、あまりにもびっくりして倒れてしまったヨハネのように、全く予想外のことが起こるのです。
 神様に対しての、今までの経験を捨て、大きなことを期待してください。

 新城のリバイバル、日本のリバイバル、いろいろやってきたけれど、「こんなもんじゃないかな・・・」と考えますが、そうじゃありません。私たちが予想だにできないような、すごいことが起こる可能性が十分にあるのです。

 そのためには私たちが、準備されないといけないのです。やはり町を勝ち取るためには、先週もお話ししましたが、主の勇士となるために、苦い根があったら抜きましょうと話をしましたが、主の勇士として、来るべき神の業に間に合うよう、準備しておかなければならないのです。
 そのためには、受け皿を大きくしなければならないのです。教会に神様が訪れた時に、それを受け止めることができるよう、受け皿を用意しておきたいものです。「イエス様ってこんなもんだ」という概念を横において、今日、私たちは、信仰の受け皿を大きく開いてもらいたいのです。
 町に主が訪れたら、サマリヤの町にピリポが行った時に大きな喜びが町に起ったように、悪霊は出て行くし、病気の人たちもどんどん癒される奇跡がどんどん起こるのです。みなさん、期待しようじゃありませんか。

 今日、見ますと、花粉症の方が多いみたいです。「わしゃ、イエス様にいやしを祈っているけど、花粉症はそう簡単には治らんぞ」という信仰を持っているかもしれません。しかし、イエス様は花粉症だって一発で癒してくださるお方です。信仰を持ってください。
 今日は主の日。御霊に感ずる日ですから、今日、花粉症が癒されて帰ることができたら素晴らしいです。
 私は花粉症の癒しに関しては、信仰があります。なぜなら私は、花粉症が癒された体験があるからです。
 数年前、私は、「俺は花粉症なんかに、絶対なるはずがない!」と言っていました。そうしたら、ある日、涙がぽろぽろ出て来て、鼻水がぐじゅぐじゅ出てきて、目が腫れて来ました。ちょっと風邪を引いたかなと思って、家内に告げると、「あんたは花粉症だ」と言うのです。私は「絶対に違う!」と反論したのですが、「じゃ〜、病院に行って見て」と言うもんだから、近くの皮膚科に行きました。
 そして、診察してもらったら、医者が「これは立派な花粉症です」と私に言いました。花粉症に立派なのと、立派じゃないのがあるのか知りませんが、私に関しては「立派な花粉症」と診断されたのです。一回花粉症になったら、一生絶対に治らないと聞いていたので、がっかりしました。俺が花粉症なんかになるはずがない、と信じていたのが、立派な花粉症だと言われ、がっかりしました。
 薬もらったら少し良くなったけど、眠くてしょうがなくて、これじゃ仕事にならんぞと思いました。それで、「よしっ!今日は真剣に祈ってみよう!」と思いました。
 この辺に花粉が飛んで来るのは、雁峰山と呼ばれる教会の正面にある杉の山からです。誰が植えたか知りませんが、あの山を見てみてください。杉だらけです。山には黄色い風が吹いています。こんなこと話をしただけで、苦しくなるという人がいますけれど、本当にそうです。私は雁峰山が憎らしくなりました。それで、私は、闘って祈らなければならないと思いました。
 それである朝、私は、「山に挑戦だ!」と、北に真っすぐ歩いて行き、雁峰山の中に入って祈りました。「主よ、どうか私を癒してください。この花粉のただ中で祈ります。もしもこの背後に悪霊の力が働いていたら、打ち破られますように!」と祈ったのです。
 何が起こったと思いますか?この通り、私は全て治りました。あれから何年にもなりますが、あれから癒されました。私が花粉症だったら、メッセージなんか出来ません。先ほど、雅也先生は辛そうでしたね。なんかこっちまで水っぽくなってしまうような、ぐしゅぐしゅという音がずっと聞こえていました。やはり私なんか礼拝のメッセージでそんな音を出したら、みなさん、聞きにくいと思いますけれども、癒していただきました。
 もしかしたら、花粉症も霊的な部分があるかもしれません。もちろん、病院に行ってちゃんと薬をもらってください。それで鼻水は止まりますから。でも、霊的な力があったらやっつけておかないといけません。
 雁峰山は霊山です。昔から拝まれています。杉の山です。それも一緒に拝まれていますから、霊的な部分があるかもしれないと思いました。
 その後、プレイズ出版で働いていたH君は花粉症がひどくて、一日にティッシュを三箱使っていたというのです。私は癒されましたので、彼のために信仰を持って祈りました。
 神社に行ったらどうでしょうか?大きな杉がしめ縄なんか張られて、拝まれています。「大杉大明神」とか呼ばれて拝まれています。そのような力が打ち砕かれるように祈りました。祈った途端、彼は大きく咳き込んで、その後、完全に癒されました。

 しかし奇跡は宝くじを当てるようなものだと考えます。主の働きに、制限を設けてしまうのです。しかし神様の働きに制限を設けてはいけないのです。今まで考えていたイエス様とは全く違ったお姿のイエス様が、ヨハネに現れ、彼は倒れてしまったのです。私たちがイエス様に対して持っているイメージを、変えなければならないと思います。

 実は、今日読んだこのヨシュア記も全く同じです。エジプトから脱出したユダヤ人たちは、40年間、荒野を彷徨ったのです。普通、歩いたら、エジプトからイスラエルまで、そう時間はかからないのです。地図を見たらわかります。東にまっすぐ歩いていけば、簡単に帰ってこれるのに、40年間、砂漠の中をぐるぐる回って、約束の地、カナンに入ることが出来なかったのです。その40年間は、大変な期間であったとよく語られるのですが、もちろん大変なこともありました。しかし案外、イスラエルの民は、荒野が好きになっていたと思うのです。なぜなら、昼は雲の柱、夜は火の柱が行く先々を示したからです。いつも神の臨在が現れて、雲の柱、火の柱について行けば、正しい場所に行けたのです。
 砂漠は食料がないはずですが、マナと呼ばれるパンみたいの食べ物が天から降ってきたのです。それを拾って食べれば、働かなくても生活できたのです。また岩から水が出て飲ませてくれたというのです。
 しかしマナばかり食べているとちょっと飽きて、「肉食いたい!」と言うと、うずらという鳥が飛んで来て、肉も食べられたというのです。至れり尽くせりの荒野生活だったわけです。
 案外、40年間は大変だったと言うけれど、楽しかったと思うのです。全然、仕事をしなくても、朝になれば食料はある、行き先も導いてくれる、そういう中で過ごすのは楽なはずです。
 私たちも行き先不安というのがありますが、生活が安定するのは嬉しいことです。やれやれ、やっと安定したと。案外、私たちは一つの所に安住すると、なかなか抜け出せないものです。私は、イスラエルが40年、荒野を回ったというのは、やはりいろんな意味があったかもしれないけれど、結構彼らは「これでいいんだ、これでいいんだ」と安住していたのではないかと思います。
 そして、彼らは、「私たちの神様のことはすべてわかった。神様とは、昼は雲の柱と共に出て来るんでしょ。夜になったら火の柱となって出て来るんでしょ。食べる物だってくれるし、全て願いを叶えてくれる。私には分かってますよ。全部分かってますよ。」と、彼らには、自分なりの解釈があったことでしょう。
 しかし、今日、みなさんと一緒に読んだ箇所は、どんな事が記されていたかと言いますと、ヨシュア記5章13節、

『さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」』

 イスラエルがカナンの地に入る時、今までとは全く違ったことが起きたのです。5章の12節を読みますと、

『彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。』

 今まで、荒野では全てが与えられていたのが、カナンの地に入った途端、「あれ?マナが降ってこないぞ!」と、今度は自分で種を蒔いて収穫しなければならなくなりました。
 そして、見知らぬ剣を持った男がやってきたのです。ヨシュアは、エジプトを出る時からカナンの地に入るまで、ずっと神の御業を見て来た人物でした。神様のことは重々分かっていたと思います。「我々の神様はこんなものだ」と。
 しかし、なんと、この時に現れた神の姿をヨシュアは、全く判別できなかったのです。「あなたは味方ですか?それとも敵ですか?」と聞いているほど、荒野の主のみ姿とは全く別の姿で、ご自分を現されたのです。その時、抜き身の剣を持った方が何と言われたかというと、ヨシュア記5章14節〜15節、

『すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。』

 今まで、イスラエルの人たちは、神様から何か貰えると思って生活していました。神が全てを用意してくださる、生活一般を全てケアしてくれると期待していました。
 しかし、カナンの地に入ってからはそうではありませんでした。主の軍の将である人物とは、旧約時代に現されたイエス様だとも言われます。主と共に、町を勝ち取るために戦いなさい、ということを軍の将は告げたのです。
 その時に、ヨシュアが語った言葉は本当に素晴らしいです。『わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。』と、「私に何を告げられるのですか?」と、これはヨシュアが主の御心を求めたのです。この時、彼は勇士となり、イスラエルは変えられたのです。
 今まで、イスラエルは神様から何かをいただき、やってもらうことばかりを求めていましたが、それからは主の軍隊に属し、エリコを攻めとる勇士達と変えられていきました。

 私たちも同じです。イエス・キリストを信じると、ある意味で、二段階で物事は進んで行くのではないかと思います。最初は荒野タイプです。初めは神様が全てを用意してくださり、あなたの罪を赦し、病を癒し、問題を解決してくださるのです。
 それも素晴らしいですが、次に主は「わたしの軍隊に入って、わたしの勇士となって、町を勝ち取るために働いて下さい」と言われるのです。しかし、その時に現れる主の姿は、今まで私たちが予想だにしない姿で来られるのではないかと思います。
 ある意味で、1992年の2月に聖霊が注がれ、7月に霊的戦いが始まりましたが、まさにその時に私たちの前に現れてくださった主は、抜き身の剣を持って、現れた主でした。
 「この町を勝ち取りなさい。この国を勝ち取りなさい。そして、あなたも主の勇士として闘いなさい」という、言葉が告げられたような気がします。
 今年は主が何か、新城教会に大きな計画を持っておられるかもしれません。私たちが荒野の段階から、カナンの地に入る段階に進まなければならないのです。町を勝ち取るために、主が私たちに今、声をかけておられるのではないかと、そんな気がしてなりません。

 そのためには、私たちの決断が必要です。「私の信仰を一歩進めてください」と、「今まで持っていたイエス様に対するイメージを、もっと広げてください。主が行われる業に、私も加わり働くことが出来ますように」と祈ろうじゃありませんか。
 この戦いは主の戦いです。既に結果は分かっている戦いです。必ず勝利するという結果が分かっている戦いです。「必ず勝利」という結果を知って、神の軍隊に入って戦う時、気がつけば全てが満たされているのです。

 日本には徴兵制がないので、感謝ですが、韓国に行きますと徴兵制があります。だから、韓国の若者には緊張感があります。日本は青少年の間に多くの問題があります。精神的なトラブルがあったり、いじめがあったり、引きこもりがありますが、韓国は日本に比べてそれらの問題が少ないのです。なぜかと言うと、徴兵制があるからです。徴兵制が良いとか悪いは別にして、彼らには緊張感があります。やがて軍隊に入隊しなければいけないので、若者達は緊張して青年期を送るわけです。すると、生活一般の問題は少なくなるのです。
 軍隊は何が目的かというと、国を守り、敵の力を打ち破ることです。若者達は戦いに集中して教育されるわけです。彼らは一つの目的のために、集中して働くわけです。もしも有事が起こったら、すぐに行って戦わなければならないのです。
 しかし、その時に何が起こるかと言うと、日々の食事は全て栄養たっぷりの食事が用意されます。着る物もちゃんと用意されるし、気がつくと、自分の預金口座にもたっぷりとお金が貯まっているのです。なぜなら、無駄な物にお金を使わないからです。そして、除隊した時には、強い人格も形成され、たくましく社会を歩んでいくことができるわけです。

 これは、ある意味、霊的にも同じではないかと思うのです。私たちが神の前に「もっとちょうだい、もっとちょうだい」と恵みばかりを求めていると、ある意味、限度があります。今度は、主の勇士となって、主の兵士となって、町を勝ち取るために、町の人々の救いと解放のために働くとき、必要な物は全て付いてくるのです。
 これは教会も同じです。教会が町を勝ち取るために立ち上がり、祈り始める時に、全ての必要なものはついて来るのだと思います。
 心を決めて、町のために祈ってください。町が主のものとして変えられますように。町の人たちが救われますようにと。ただ、自分のことだけを祈るのではなく、町の人たちが救われるようにと。
 また、みなさんが遣わされている場所は偶然じゃありません。「会社の人々がイエス様を信じますように。この場所に聖霊様が訪れてください」と、自分が遣わされている場所のために重荷を持って祈る時、必ず必要は付いてきます。そして、敵が打ち破られるのを体験するのです。
 今年は教会に、主がそのようなことを行って下さるためにも、まず受け皿を大きく広げたいと思うのです。今まで私たちに与えてくださった恵みは心から感謝し、栄光をお返しし、同時に神様はこんな方だ、というイメージをちょっと横に置いて、神のなさる事は、人知を遥かに越えた、信じられない大きなことを為す方であり、それを主は用意しておられる、私たちを町を勝ち取る為に遣わしてくださることを、堅く信じようではありませんか。
 今年は、心を一つにして、地域が主の下に勝ち取られるために祈りたいと願っています。
 「主の兵士として私たちを用いてください」と共に祈りましょう。

 最後に一言、お祈りさせていただきます。
 ハレルヤ。天の父なる神様。御名を崇めて心から感謝します。今日は、こうして「町を勝ち取ろう」というメッセージを語らせていただきましたけれど、主よ、私たちはあなたを制限して評価してしまっている罪を赦してください。
 私たちが予想だに出来ない計画を、この町に、日本に持っておられることを心から感謝します。私たちが信仰の領域を、大きく広げることができますように。主の勇士として、町を勝ち取るために戦うことが出来ますよう、導いてください。
 今日はここにおられるお一人お一人が、カナンの地に入ったイスラエルのように、主の兵士として用いられますように。今日はその決断として、聖さん式を行いますから、主が私たちを導いてください。勝利を宣言して、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。