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「あなたはペレツかゼラフか?」

2011.3.13(SUN)
新城教会副牧師  公畑 フェルナンド

創世記 38章27節〜30節
『彼女の出産の時になると、なんと、ふたごがその胎内にいた。出産のとき、一つの手が出て来たので、助産婦はそれをつかみ、その手に真っ赤な糸を結びつけて言った。「この子が最初に出て来たのです。」しかし、その子が手を引っ込めたとき、もうひとりの兄弟のほうが出て来た。それで彼女は、「あなたは何であなたのために割りこむのです」と言った。それでその名はペレツと呼ばれた。そのあとで、真っ赤な糸をつけたもうひとりの兄弟が出て来た。それでその名はゼラフと呼ばれた。』

 ハレルヤ!感謝します。この朝、みなさんにこの神様の御言葉を分かち合えることを感謝します。
 金曜日に日本を襲った津波と地震のことを、本当に心痛く思います。この中には、そのご家族やご友人たちと連絡が取れなくて心配なさっている方もおられるかと思いますけれども、続けて祈っていきたいと思います。世界中の国々が日本のために祈っています。金曜日から土曜日にかけて、私はとても忙しかったのですが、Eメールや外国からの電話をたくさん受けました。また、私のフェイスブックを通して、いろいろな方々が日本を心配してお祈りしてくださっています。外国の方々は、新城が日本のどの場所にあるのかわからないので、地震と津波の一報を聞いて、みんなとても心配していました。でも、私たちが説明しましたので、私たちが大丈夫であるということが分かり、皆、神様に感謝していました。
 そして、皆、日本のために祈ってくださっていて、本当に日本に神様の癒しの御手が伸ばされるように祈っています。ですから、外国の方々も私たちのために祈ってくださっていますので、私たちも共に祈り合いましょう。

 みなさんの、インターナショナル部会のためのお祈りを感謝します。しかし、インターナショナル部会の働きというのは、日曜日の午後の礼拝だけではありません。インターナショナル部会の働きというのは、例えるならば、教会の中にある小さな教会のようなものです。
 日曜日の午後に礼拝がありますが、家庭集会も七つの町で行っております。また、毎週、祈祷会があります。青年会の働きもあります。女性集会もあります。2年ぐらい前から浜松で教会を始めておりまして、毎週土曜日の夜にそこで礼拝を持っております。また、いろいろなセミナーもしていまして、兄弟姉妹たちを霊的に準備する、そのような働きもしています。
 なぜなら、このインターナショナル部会の働きというのは、この日本に来ている外国の方々のために、その人たちが帰るまでの間、一時的にサポートするという働きだからです。
 他の国と違いまして、日本は、外国人が何年間か日本に住んでいても国籍を与えるということをしませんので、外国人の方々はいつかは帰らなければなりません。もちろん中には、日本にずっと住むことを決めた方々もおられますけれども、その人たちは、ずっと外国人として住むしかありません。ですから、多くの人たちは、日本に一時的に滞在した後、自分の国に帰るということをします。だから私たちの部会の働きというのは、伝道をして、イエス様を救い主として受け入れていただいて、聖書を教えて、そして、その人たちが自分の国に帰った後も、クリスチャンとして生活できるように準備するという働きです。
 それで、今年の1月に順先生と雅也先生とペルーに行った時に、順先生のとりなしやセミナーの働きの他に、ここから帰られた元インターナショナル部会の方たちとも会うことができました。全ての人たちは集まることができませんでしたが、リマにいる人たちが集まりました。リマに住んでいる人の中でも、全ての人は来られなかったのですが、また、多くの人たちは遠くに住んでいます。しかし、50人程の人が集まりました。写真をお見せしたいと思います。

礼拝メッセージ写真3月13日.JPG

 この方々は、新城教会に来られていた方です。何年かぶりに会ったことは、とても喜びでした。この写真は、順先生と雅也先生とみんなで集まって、感謝の礼拝を持った時のものです。
 しかし、順先生と雅也先生が日本に帰られた後に、私たちはしばらくペルーに残りました。旅行とか休みのために使いたかったのですが、ほとんどの日は、今、写真で映し出された兄弟姉妹たちの所に訪問しに行って、いろんなカウンセリングとか、いろんなお話を聞くということに費やしました。それが、インターナショナル部会の働きであります。
 本当にみなさんのお祈りを感謝します。みなさんのお祈りによって、外国の方々がここで、イエス様を救い主として信じることができました。感謝を致します。

 では、メッセージに移っていきたいと思います。「あなたはペレツかゼラフか」というタイトルで語らせていただきます。聖書箇所をもう一度お読みしたいと思います。

『彼女の出産の時になると、なんと、ふたごがその胎内にいた。出産のとき、一つの手が出て来たので、助産婦はそれをつかみ、その手に真っ赤な糸を結びつけて言った。「この子が最初に出て来たのです。」しかし、その子が手を引っ込めたとき、もうひとりの兄弟のほうが出て来た。それで彼女は、「あなたは何であなたのために割りこむのです」と言った。それでその名はペレツと呼ばれた。そのあとで、真っ赤な糸をつけたもうひとりの兄弟が出て来た。それでその名はゼラフと呼ばれた。』(創世記38章27節~30節)


 この二人の誕生は普通のお産ではありませんでした。なぜ神様は聖書にこの出産の記述を載せたのでしょうか? 私も、あなたも、すべての人類が同じように生まれましたし、双子の出産も人類の歴史の中で珍しいものではありません。では、聖書に残るとは、どれほどの重要性がこのペレツとゼラフの誕生にあるのでしょうか? 理由はなんでしょうか?
 これをすべてのクリスチャンが理解することがとても重要です。これは神のアブラハムへの祝福を表しています。実はこの時、人間に与えられたもっとも大きな祝福が危機的な状態にありました。神様はアブラハムという一人の人間を選び、区別し、偉大な約束をされました。それは彼を豊かに祝福し、彼をおびただしく増やし、海辺の砂のような民にし、彼の子孫から油注がれた神の子、キリストが出るという約束でした。「彼の子孫によって地のすべての国々は祝福を受けるようになる」と約束されました。
 ですから、このお産が、双子のどちらかによって、のちのキリストがお生まれになることを決定するということでしたので、それは簡単ではありませんでした。ひとりがおなかから出始めて手を出しました。助産婦は、双子でしたので、後から見分けがつかなくなったりすると困るので、大事なことなので、助産婦は知恵を使いその手に赤い糸を結びつけ、「この子が最初に出てきたのです。」と言いました。
 しかし、この赤ちゃんは、外より中にいるほうが良かったのか、外は寒いと感じたのか、手を引っ込めてしまいました。この赤ちゃんは、快適なおなかへ戻り手を引っ込めたので、もう一人のほうが出てきました。この赤ちゃんは外を気にせずに、割り込み、最初にお母さんの産道を開けました。彼は穴をあけて出たということから、「ペレツ」という名前が付けられました。
ペレツとは、「割れ目を開く、破る」という意味です。そして、このペレツが祝福をいただきました。マタイによる福音書の一章を見るとわかりますが、イエス・キリストの系図には、ゼラフではなく、ペレツがいます。彼が神の祝福をいただいたのです。


 もう少し、この名前について説明したいと思います。彼は生まれて、「ペレツ」と呼ばれました。それは「割れ目を開く、破る」という意味であり、「道を開く」という意味もあります。
 その兄弟は、ゼラフと付けられました。その意味は「輝く光」、「夜明けの光」、「輝き」、「弱い輝き」、「はかない光」です。マッチを点けた時のような、また火薬のような「ぱっとついてすぐ消える」という意味があります。それがゼラフという意味です。それは、ゼラフが先に手を出して、ある一定の時間に輝きはしたものの、のちには祝福となれなかったことを意味します。

 さて、教会の中にも、多くのペレツとゼラフがいます。多くが割れ目を裂いて出て行く者であり、また多くがはかない光のような、弱々しい光の人です。
 昔、サウルやサムソンのような男たちがいました。国中がサムソンに期待を置いていました。敵がイスラエルを恐れなければなりませんでした。それは神がサムソンという人を立て、赤ん坊の時からその手によって神の民の解放を与える約束をしていたからです。彼が成長した時、それは一つの光、希望でした。国中がサムソンに目を注いでいました。彼が成長して主の霊が彼にくだると存在を表し、人々はサムソンを支持しました。彼はペリシテ人に立ち向かい何百人、何千人と打ち破りました。イスラエルの民はサムソンの活躍を喜びました。
 しかし、サムソンは罪におぼれてゆき、遊女と交り、またペリシテ人の女を愛しました。それは罪でした。そして、彼は神の祝福を軽視するようになったのです。そして、その女は彼の力の秘密を問いただしました。そして、神様の祝福を軽視した結果、彼はその秘密を彼女に明かしてしまいました。
 しかし、彼は主の霊が去ったことが分かりませんでした。ペリシテ人たちが彼を捕え、目をえぐりだし、民の希望であったサムソンが牢に入れられた時、イスラエルの民は、彼は「ゼラフ」、つまり「はかない光」、「一瞬の輝き」であったことが分かりました。彼を通しては、完全な神の祝福はありませんでした。

 聖書には他の人も出てきます。例えば、エサウです。彼には神様の祝福、長子の権利がありました。彼も双子でしたが、先に生まれました。ですから、その時代の人たちは彼のことを、約束された子供であり、その子孫が地上で強くなり、その子孫が敵を征服し、その子孫にキリストが生まれるだろうと思っていたでしょう。想像すると、人々はこのエサウと呼ばれる若者を尊敬し称賛し愛していたことでしょう。
 しかし、彼はその神の祝福である「長子の権利」を軽く見、それを豆の煮物一皿のために売ってしまったのです。そして、彼は祝福を失いました。祝福は彼から去ったのです。それから後のエサウの子孫たちも神の祝福を軽視し、祝福を失いました。エサウは「ゼラフ」であり、はかない光、弱々しい光であり、祝福は長く続かなかったのです。

 また、もう一人の長子であるルベンの話をしたいと思います。ルベンはヤコブの長子でした。彼は祝福を受ける子供でした。成長し、兄弟たちを見てきました。みな、彼が長子の権利を持っていることを知っていました。そして祝福の相続の日、預言の日に、ヤコブはその手を彼の頭に置きました。その時ルベンは「これで祝福はおれのものだ」と思ったかもしれません。しかし、ヤコブは、「この祝福はおまえのものではない」と言いました。「おまえは私の寝床を汚す罪を犯したので、この祝福はお前に与えない」と言いました。ですから、彼は「ゼラフ」であったことがわかります。

 また、イスラエルの民は、イエスを神の子として認めず、拒絶しました。ヨハネ1章11節に、『この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。』とあります。イスラエルは彼を拒絶しました。ですので、主はこう言われました。『あなたから神の国を取り、他の民に与える。この農夫を打ち、他の農夫にブドウ園を与える。』と言われました。今現在、ぶどう園はイスラエルにありません。そのぶどう園は、今はイエスの教会である、私たち神の子供の中にあるのです。これも歴史の中にあるはかない光の一例です。

 しかし一方で、割れ目を裂き、道を開き、祝福を獲得した人たちがいます。
 ヤコブの話をご存じだと思います。私たちは創世記を読む必要があります。それは素晴らしく、インスピレーションを与えてくれる書物です。そこにヤコブのことがありますが、彼はエサウの兄弟でした。彼は祝福を持っていませんでしたが、彼は生まれた時からそれを心から欲しいと願っていました。彼のものではない祝福があることを知っていました。彼の祝福ではありませんでしたが、祝福を持っていたエサウはそれを軽視していましたが、ヤコブはそれを望み、格闘し、戦い、そしてそれを買い取りました。そして父親を騙してまでも、それを手に入れたのです。
 また、彼は夜明けまで天の使いと格闘し、祝福を受けました。神は彼に言いました。「あなたは祝福を受けるために戦った。あなたは神と戦い、人と戦って勝った。」と。そして彼を祝福し、ヤコブの名前をイスラエルへと変えました。ヤコブはそこから祝福の名前になり出て行きました。これが「ペレツ」なのです。割れ目を割き、道を切り開く者なのです。

 また聖書の中には他にも道を切り開いた人が出て来ます。それはオベデ・エドムです。彼はその時家にいましたが、ダビデ王は主の箱をダビデの町に運ぼうとしていました。しかしその道の途中で、主の箱を軽視した一人のゼラフ、はかない輝きであった「ウザ」という名前の男が神の怒りに触れ死にました。それでダビデは神を恐れ、神の箱をダビデの町に移さずオベデ・エドムの家に置きました。神の箱がその家に着いてからの3カ月間、神は彼の家のすべてを祝福されました。私たちの家に神の臨在がある時に、祝福があります。
 この後、何が起こったかご存知ですか?
 神の箱が王様の命令でエルサレムに運ばれました。第1歴代誌26章を見ると、またこのオベデ・エドムが登場してきます。しかし、ここでは彼はエルサレムに住んでいます。そして「彼の子供たちは地上で偉大な者であった」と書いてあります。オベデ・エドムは道を切り開く人でした。彼は神の箱が自分の家にあり祝福を受けていた間、そのことだけに満足せず、自分の家を置いて、神の箱に付いてエルサレムにのぼり、そこに住むことを決めました。彼は、その神の箱がある近くに住むということを決心したのです。この人は、割れ目を裂く人です。第1歴代誌26章に「彼の子供たちは勇敢な人であった」と書かれています。子供たちもまた割目を裂く者たちでることが分かります。

 また、ダビデも割れ目を裂き、道を開いた人でした。彼は神の心をとらえました。神に歌い、神をあがめ、家にも迎え入れ、町にも迎え入れました。そして一つのことを決心しました。それが詩篇27篇4節に書いてあります。

『私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。』

 神様は彼に、アブラハムの祝福を彼に与えました。祝福であるキリストがお生まれになるユダ部族の子孫は何百、何千万人といたことでしょう。しかし主はダビデを見たときに、心をつかまれ、「これは割れ目を裂くものだ、アブラハムの祝福を彼に与えよう」と言われたのです。

 この日本には、リバイバルが来ていません。この国はイエス様に対して心を閉ざしています。しかし神は、日本に、また新城に、リバイバルを約束されました。また、私たちは割れ目を裂くように信仰を持ちました。みなさん、あなた方はペレツなのです。あなたは家族の中で道を開くものなのです。あなたの家族は、あなた方ひとりひとりに目を注いでいます。あざける人、賞賛する人、また何も言わない人がいるかもしれませんが、皆、あなたがどのような人生を歩むか、見ています。あなたは信仰の道を開くものとして歩み始めました。キリストを心に迎え、家に迎え入れました。そして、神様が呪いを打ち砕き始めてくださいました。神様が何かを始められるなら、あなた方はペレツですから、必ず祝福があなたの上に訪れます。

 しかし、私たちは注意しなければなりません。私たちの持っている祝福の価値を認めなくてはなりません。
 エペソの教会にリバイバルが起こったことをご存知ですか?そして、四百年もの間、世界のキリスト教の中心地となりました。私が信じていることは、神様はそのように日本もしてくださると信じています。アーメンですか?

 使徒パウロがエペソを訪れ、皆が聖霊のバプテスマを受けました。人々は神の国を宣べ伝え始め、扉が開かれて行き、アジア全土にも福音が行きました。奇跡やいやしがおこり、パウロが身に着けていた手ぬぐいを病人に持って行き当てると、その病人がいやされました。また、パウロの手によって多くの素晴らしい奇跡がエペソで起こりました。
 そのエペソの町に、リバイバルの喜びが続いて行きました。悪霊は追い出され、町から出て行きました。また魔術を行っていた人たちは、その書物を持ち寄って来ました。その高さは20メートルくらいあったと言われていますが、それを焼き捨てました。まさに町はリバイバル一色でした。
 しかし、何が起こったでしょう。黙示録2章2節~5節を読みます。

『「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。』

 このエペソの教会というのは、すべての神との約束を守っていましたが、その本質を失っていたことが分かります。それはイエスに対する愛を失っていたのです。聖霊様に対する愛を失っていました。なぜなら7節にこう書いてあります。『耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。』
 聖霊を愛することを忘れ、初めの愛から離れてしまいました。エペソの教会は、「はかない光」に変わってしまったのです。神様は不信仰の力を打ち砕き、病気の力を打ち砕き、そして、イエスは私たちの体に癒しを与えてくださっています。私たちの中に神の臨在があります。聖霊様はここにおられます。おられるのです。それは何にも勝っても素晴らしいことなのです。

 しかし私は、はかない光になりたくはありません。あなたは、どちらになりたいですか、ペレツですか、ゼラフですか。しかしそれは簡単なことではありません。神の子であるイエス様のことを思い出してください。彼が復活された後、彼は500人を集めて「エルサレムを離れないように。聖霊を送るから離れないように」と言われ天に帰って行かれました。そして、その人たちは皆、「あなたを愛します。あなたはよみがえられた神の子です」と言っていたのに、その後、何が起こったでしょうか? 500人の人たちが、たった120人の人しか残っていませんでした。残りの380人は、はかない光となってしまったのでした。
 ヤコブのような人、オベド・エドムのような人、弟子たちのような人、またダビデのようにあきらめない人たちは、敵に対して勝利を得、神の祝福を永遠に受けました。彼らこそペレツなのです。

 あなたはペレツですかゼラフですか。一人は切り開く者、もう一人ははかない光です。神の祝福を軽く見て、もてあそぶのはやめましょう。
 ある男がおりました。彼は自分の全財産をあるダイヤモンドのために投資しました。彼は素晴らしい宝石を売り買いする商売をしていましたが、あるダイヤモンドを見つけ、それにすべての財産を投資したのです。彼は私やあなたが持っているような「祝福」というものを見つけたのです。

 そして彼は、船に乗りヨーロッパからアメリカに渡りました。それを2倍にして売るためでした。
船で行く途中、彼は袋からそのダイヤモンドを出し、こうやって遊び始めました。「はっはっは。どうだ。私の全財産だ。億万長者になるんだ。」そうしているうちに、一瞬手から落ち、ころころ転がってダイヤモンドは海の中に落ちてしまいました。彼はすべてを失いました。
 サウルは主の霊が彼から去ったのに気付きませんでした。サムソンも主の霊が彼から去ったことに気づきませんでした。主の霊は私たちにとって素晴らしいダイヤモンドのようなものです。神様の祝福は私たちの上にあります。それをあなたが知らなくても、あなたは祝福の香りなのです。また、あなたのために扉が開きます。それは神があなたと共におられるからです。また、征服することができます。神があなたと共におられるからです。あなたの人生の上には祝福と征服という神の命令が置かれています。あなたにはペレツの香りがあります。しかしその祝福を軽んじてはいけません。失う可能性があるからです。

 ここに何人のペレツがいるでしょう。すでに祝福は皆さんのものです。たぶん人のひやかしや、あざけり、また病気など通ってきた方もおられるかもしれません。しかし今は、キリストが私たちと共におられ、あなたは彼を心から愛しています。天の御国におられる偉大な方の名前を私たちは手に持っています。私たちは祝福を持っています。あなたは祝福の香りなのです。また悪魔は私たちを恐れています。なぜなら、私たちは、主に祝福されたものだからです。ただ主にこう言えばよいのです。「私はあなたの祝福を軽く見ません」と。なぜなら失う可能性があるからです。
 私は見て来ました。教会にいる人たちを何年も見てくると、ある人はある時教会で輝きだし、教会に祝福の光を運んでくるのですが、すぐ消えてしまう人がいます。しかし感謝なことに、神様はその祝福が止まらないように、他の人を立て、その人によってすべての祝福が止まらず流れるようにしてくださいます。
 ですから、私たちは注意しなければなりません。私たちが祝福を失わないように。それでは、最後にお祈りしたいと思います。

 ここにいる何人がペレツでしょうか?ペレツになりたい方々がいらっしゃいますか?このお祈りを私の後について、お祈りしてください。

 (祈り)主よ。私は祝福を軽く見て、もてあそぶようなことはしません。誘惑を軽く見ません。罪も軽く考えません。私は神の子供です。私の祝福を失いません。私はペレツであることを宣言します。私は神の道を切り開くものです。それは私の家族や、会社の同僚や、私の町や、またこの国のための神の祝福の道です。神様はもうその油注ぎをしてくださいました。今朝、私は宣言します。私はイエス様の名前により、ペレツです。アーメン