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「神は我らの避け所 Part2」

2011.4.10(SUN)
新城教会牧師  滝元 順

詩篇 46章1-3節
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ

 みなさんおはようございます。今日もみなさんの前でお話をさせていただけますことを、心から感謝します。今日は多くの方が他の場所で礼拝を守っておられます。イスラエルツアーに参加して、イスラエルで礼拝されている方々もおられます。この時期にイスラエルから日本のためにとりなし祈ることは、大変重要な役割だと思います。今回はリバイバルのために、日本の復興と回復のために熱心に祈っています。30数名の方々が、イスラエルに行っておられます。
 また、今日は、地震で一番大きな被害が出た街の一つ「気仙沼」に、この教会からチームが派遣されています。気仙沼の教会は津波で流されてしまいました。しかしその教会の先生や兄弟姉妹と共に、今、被災地で礼拝を守っています。私たちは何をお手伝いしたら良いのかわかりませんが、これからも東北のために祈り、支え続けていきたいと思います。

 明日で地震が発生して1ヶ月ということですが、まだまだ予断を許さない厳しい状態が続いています。これから日本はどうなってしまうんだろうか・・・という不安が、日本全体を覆っています。しかしこの時にこそ、教会が立ち上がらなければならないのです。この時にこそ、私たちは狭間に入って、神の前にとりなし祈らなければなりません。そのためには、まず私たちクリスチャンが、動かされることなく、恐れる事なく、御言葉に堅く立ち、主に信頼する必要があります。

 私は2週間前に、「神は我らの避け所」という題で、メッセージを語らせていただきました。そしてその後1週間は、韓国に行ってまいりました。今、韓国リバイバルミッションの働きが5月、6月の本大会に向けて進められています。私は日本の牧師なのか、韓国の牧師なのか分からないくらい、韓国語が出来なくても、韓国で奉仕をしています。今週はまた、3日間だけ韓国に行って、帰って来て神学校です。韓国では日本のために、真剣に祈ってくださっています。
 世界で最も祈りの賜物が与えられている国民は、韓国ではないかと思います。韓国はどこの国にも勝る、祈りの賜物をいただいています。彼らは真剣に主に祈ります。日本で「祈りましょう」と言っても、祈りは自然に消えていくことが多いです。新城教会のみなさんはよく祈ってくださいますが、韓国のクリスチャンは祈り始めたら止めるのが大変なくらいです。「集会を早く終わらせなくちゃな・・・」と思いながら、祈りを止めようとするのですが、全然止まらないのです。彼らは真剣に、大声で祈ります。日本のリバイバルのためにも、また今回の地震の回復のためにも、真剣に祈って下さいます。
 私は、今回、5日間で11回の集会を行いました。写真があるので少しお見せしたいと思います。

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 大きな教会も、小さな教会もありますけれども、日本のためにどの教会も真剣に祈って下さっています。その為のメッセージを語らせていただきました。
 現在、韓国のみならず、世界中で日本の為に祈っています。今までになく、日本のために祈られています。ですから、きっと日本にリバイバルが起きると信じます。

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 ここは喫茶店かなと思ったら、私の顔が出ていました。集会案内です。いろいろありますけれど、みなさんのお祈りに支えられていますことを、心から感謝しています。

 今日お読みいただいた御言葉は、前回と同じ箇所です。しかしもう一度、詩篇46篇1節から3節を宣言して、読んでみたいと思います。これは地震のただ中にあっても、津波のただ中にあっても、主は私たちの避け所であり、苦しむ時に助けて下さるという約束です。神は私たちに、前もってこのような言葉を用意してくださったのです。自分に与えられた言葉として、朗読しましょう。詩篇46篇1節~3節、

『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。』

 私も、3週間前、被災地に行きました。その現実を見て、本当に心を痛めました。
 30年くらい前に新城から遣わされ、現在、仙台で伝道している内藤先生の教会も被災しました。教会が津波でなくなってしまいました。その跡地に立って、私も先生ご夫妻と共に祈りました。
 実は、この教会のすぐ後ろに小学校がありました。彼らも避難する時、その小学校に避難しようと思ったそうですが、避難して来た人たちがいっぱいで、車が入れなかったそうです。それで小学校を通り過ぎて逃げたそうです。小学校に避難した人たちは、およそ600名ほどであったそうです。しかし、誰一人死ななかったそうです。そこに辿り着こうとして、寸前に津波に飲まれた人はいたそうですが、避難出来た人たちはみんな助かったそうです。
 なぜ助かったかというと、小学校の前に教会があって、津波が来た時、まずは津波は教会にぶち当り、教会を押しつぶしたそうです。そのため津波がかなり弱くなったそうです。それで小学校まで水が上がって来ず、みんな助かったというのです。小学校の屋上に逃げた人たちがその光景を見て、「教会があったから我々は助かった!」と後から教えてくれたそうです。それで彼も大きな励ましを受けました。
 イエス様は私たちを助けてくださるお方です。どんなことが起きても、どんな時代が来ようとも、恐れることなく、天地宇宙を創造された神に信頼しようじゃありませんか。

 詩篇の46篇は賛美になっています。『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。』という賛美になっています。みなさんも覚えて下さい。現在、教会でワーシンプソングが多く歌われるようになったのですが、日本のワーシップソングは、どこから始まったかというと、何を隠そう、私も少しは貢献しています。また昔話をしていますけれども、今はいろんなワーシンプソングが出ていますけれど、日本で初めてのワーシップソングがカセットで発売されたのは「いのちのパン」というシリーズでした。
 どこで録音されたかというと、この新城教会の礼拝堂で録音されました。私もそこで共に歌ったんですが、物持ちの良い義也さんに電話してみました。「いのちのパンというカセットはありますか?」と聞いたら、「ちょっとお待ちください」と1時間くらい待たされましたけれど、「ありました!」と言って、私にくれました。
 その中に詩篇の46編の賛美があるのです。誰が歌っているかというと、なんと、上條先生夫妻です。彼らがデュエットして歌っているのです。お二人に出て来てもらい今から歌ってもらいましょう、と突然言うと怒られそうなので、その音源を聞いて欲しいと思います。この御言葉を歌にしています。この賛美が今週1週間のテーマ賛美となりますように。この御言葉を口ずさんだら素晴らしいです。
 では、聞いてください。

♪主よ あなたは 我が隠れ家
苦しみから守り
み救いの歌で取り囲まれる
恐れるもの何もなし♪

 なかなかいい感じじゃないですか。ざわめき演歌バージョンを立ち上げて、二人でデビューしたらいいんじゃないか思います。実はこの中で私も歌っているんですよ。それは後ろで、ワワワワッー、ウーというコーラスだけですが。
 主は私たちの助け、また避け所です。この御言葉を歌っているわけです。日本は国が始まって以来、最大の危機に直面しています。今祈りを一番必要としている時だと思います。この時に祈らなかったら、いつ祈るのでしょうか。私たちが信仰に堅く立ち、この国のために祈らなければならないのです。

 前回もこの箇所からお話させていただいたんですが、なぜこのような地震が起こったのかという、原因についてお話させていただきました。それはまず第一に、日本は地震の国だとお話しました。
 神は人類に、ご自分を啓示しておられますが、聖書は「特別啓示」といって、特別に人類に与えられた啓示の言葉なんです。しかし、「一般啓示」と呼ばれる領域もあります。それは、神が造られた天地宇宙を見るなら、神がおられることが分かるからです。そのような情報の領域があります。
 その中で既に、日本は地震で危ない国だということが啓示されているのです。ですから、私たちは十分に地震に注意しなければなりません。この国に住む以上、「地震はあって当然」を受け入れて住んでいることになります。日々の中で、我々は十分注意し、生活する事が大切です。

 それと共に、どうにも避けることができない自然現象と重ねて、神が人類に送っているメッセージがあるとお話ししました。
 聖書の中から、地震の意味を調べてみると、一番大きな意味が、「神の訪れ」という意味です。避けることのできない自然現象と重ね、神が人類に訪れてくださる機会へと変えられるのです。
 今回は、3万人以上が亡くなられたと思われます。大変悲しいことですが、このことを通して、国民の心が低くされ、本当の神を求める国に変えられたら、このような大きな犠牲も生かされるのではないかと思います。
 地震で一瞬にして亡くなった方々は、死後の世界で、神から全てが知らされているはずです。ラザロと金持ちの話を読むと、死後の世界がどんなものであるのかよく分かります。彼らは神の前に叫んでいるのではないかと思います。
 「主よ。日本を救ってください!日本が主に立ち返りますように!私たちの死を無駄にしないで下さい!」と。瞬間的に地上から去った人々は、日本の霊的現実を理解して、死後の世界で一斉に神に向かって叫んでいるはずです。
 日本は年間、3万5千人のくらいの人たちが自殺する本当に悲しい国です。けれども、このような悲しい出来事を通し、皆が主に立ち返り、国が変えられ、自殺者が無くなるなら、この大きな犠牲も無駄にはならないのではないかと思います。
 そして、このような危機をチャンスに変えることができるが否かは、やはり教会とクリスチャンにかかっています。私たちがこの機会を捉え、主の前に真摯な態度で出なければならないのです。
 マタイ27章を見ると、イエス様が十字架にかかって息を引き取られた瞬間、何が起こったかが記されています。マタイの福音書27章50節~

『そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。』

 イエス様がご自分から命を神にゆだねられた時、「地が揺れ動いて岩が避けた」というのです。イスラエルに行きますと、エルサレムでその当時、地震があったことを証明する裂けた岩や断層を見ることが出来ます。
 地震と共に何が起こったかと言うと、多くの死んでいた聖徒たちが生き返ったと言うのです。イエス様の甦りに先立ち、預言的なことだったと思いますが、多くの聖徒たちが生き返ったのです。
 ここには、霊的な意味もあると思います。ある意味、日本の教会、クリスチャンたちは今まで眠っていた、あるいは霊的に死んでいるような状態であったのかもしれませんが、今回の地震を通して、生き返り、主のために働き始めるのだと信じます。

 イエス様が甦られた時にも、地震が起こりました。それは前回お話しさせていただきました。
 マタイにの福音書28章1節~4節、

『さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。』

 地震とは、「岩が動く」時です。イエス様の甦りの時、塞がれていた岩が御使いによって取りのけられたのです。その時に地震が起こったとありますから、自然現象も、なんらかの霊的世界と繋がりがあり、神の訪れとして描かれていることはうなずけます。大きな悲しみの中にあっても、私たちには希望の光があります。
 岩が動く時は、聖徒たちが生き返る時です。クリスチャンがもう一度生きる時、すなわち、リバイバルの時です。日本においては99パーセント以上が霊的には死んだ状態の中、人々が生き返る機会となると信じます。

 地震の後、日本には継続して多くの問題が起こっています。そして大きな恐れがあります。特に原発問題は、これからどのように展開していくのか全く見当がつきません。毎日政府と東京電力、そして、原子力保安院の発表がありますが、彼らが本当のことを語っているのか、嘘をついているのか分かりませんし、信じられません。後から悪いことが出てくるのではないかと、いろいろな風評などもありまして、何を信じていいのか分からず恐れがあります。
 夏目漱石の弟子で「寺田寅彦」という物理学者がいるのですが、彼は「天災は忘れた頃にやって来る」という名言を残しました。彼がもう一つ名言を残しています。
 「物事を恐がらな過ぎたり、恐がり過ぎたりするのは易しいが、正当に恐がることはなかなか難しい」
 恐がるのは簡単だけど、正しく恐がっているかどうかは別問題だというのです。
 このような状況の中にあって、私たちは神の知恵によって、本当に恐がらなければならないことは恐がり、恐がらなくても良いことは恐がらないようにしなければなりません。報道される事柄をいたずらに、一喜一憂してしまうからです。
 東京は今なかなか大変です。私の息子一家は東京に住んでいて、先週はちょっと避難というか、里帰りというか我が家に来ました。孫も一緒に来たので、私は嬉しかったです。孫に「これからどこに行くの?」と聞くと、「福島のじいちゃんと、ばあちゃんの所に行く」と言うのです。
 それを皆さんが聞いたら、「えっ、福島!?そんな所には行くな!」と思うじゃないですか。しかし正しい情報は、長男の嫁さんの旧姓は「福島」なのです。だから、西宮の福島家のじいちゃんと、ばあちゃんの所に行くというのが真の情報なのです。「福島のじいちゃんばあちゃん!?そんな所には行くなー」と、すぐに早とちりすることが結構あると思います。恐がるのはいいですけど、「正しく恐がる」事が問われています。
 そのためにはどうしたら良いかと言うと、やはり、「神の知恵」が必要なのです。

 そもそも人類がおかしくなってたのは、最初の人類、アダムとエバの選択が悪かったのです。どういう選択をしたかと言うと、前回も話しましたが、創世記3章1節~3節、

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」』

 神は『あなたがたは死ぬ』と言われたのですが、エバは『あなたがたが死ぬといけないからだ』と、神の言葉を弱めました。
 人類が不幸になった原因は、善悪を知る知識の木から実を取って食べてからです。そこから人類に不幸が入ったのです。
 普通、善悪を知る知識の木の実を食べるなという命令は、おかしいと思いませんか?善・悪を判断して生きることは大切です。だいたい日本の状況を見たら、善悪をわきまえない人が大勢いるから困るわけです。震災でみんな困っているのに、泥棒に入ったりする悪い奴らが結構多いらしいのです。

 私は先日、仙台市宮城野区の被災地に行きました。すると、そこにでっかい金庫が流れ着いていました。一緒に行った少年たちが金庫を突ついていましたけれど、重くて動きませんでした。その中にはもしかしたら、何千万円も入ってるかも知れません。私もクリスチャンじゃなかったら、何をするかなという思いも多少ありましたが、拾得物としてすぐに警察に届けなくちゃ!と思って、近くの警官に声をかけました。すると、「いや~、そういうのがたくさんありすぎて、手が回らないのです。だから、明日も金庫がそこにあるかもしれませんけれど、あしからず」と言われ、取り合ってくれませんでした。それじゃどうすりゃいいの、貰ってもいいのと思ったのですが、一応、警察に届けました。その金庫を見て、ある人は「郵便局の金庫だ」と言う人もいました。かなりの額が入っていたかも知れません。「あの金庫、どうなったのかな?」と、今でも気になります。
 我々は善・悪を判断できるものだから、それで心が揺れるわけです。では、善・悪を知る木の実を取って食べるなとは、何を意味するのでしょうか。取って食べたら死ぬというのです。私は全人類に食べさせた方がいいと思うのですが、どうでしょうか?
 しかし神は「それを取って食べるな。食べたら死ぬ」と言われたのです。なんか神様はおかしなことを言うな、と思うかもしれません。
 実は、善・悪を真に判断できるのは、神以外にはないのです。人間側から人間の知恵によって、善・悪を判断する時、それはやがて死に行き着くのです。
 どうでしょうか?現在、原発問題がありますけれども、原子力発電所は善なのか、悪なのか答えてくださいと聞かれたら、皆さんはどう答えますか。ほとんどが、「原発をは悪だ!」と答えると思います。
 原発は日本に40年くらい前から出来始めたんですが、原発は「善」という判断で作り始められたわけです。
 日本には原子力発電所が本当に多いのです。54基くらいあるそうです。そして、世界一危険な原発が東海地方にあります。それは浜岡原発というやつです。5月の新城教会の遠足は、浜岡原発に行きたいと願っています。それは遠足じゃないというかもしれませんが、みなさんとそこに行って、守りを祈らなければならないと思うのです。
 実は、前回もお話ししましたが、地震のメカニズムは「プレート・テクトニクス」といいまして、海底の岩盤は動いていて、陸地で潜り込んでいる、そこに歪みが貯まって跳ね上がるとき地震が起こるという理論です。この理論が実際に確認されたのは、30年くらい前のことです。だから、私が大学生時代には、その理論は仮説でした。私はそれを信じることが出来ませんでした。けれども、今はそれは推論でも仮説でもなく、本当だとはっきり分かっています。
 浜岡原発が出来たのは40年前です。浜岡原発はどこに位置しているか言うと、それは最も危険だと言われる、東海沖地震が起こるプレート上にあるのです。原子炉は福島第一原発よりも古い、同じタイプの原子炉です。もしも同じような津波と地震が来たら壊れるわけです。そうしたら、新城は浜岡から60キロ圏内に入るので大変です。
 そこに原発を造ったのは善ですか?悪なんですか?皆さんは一致して「悪!」と叫ぶのではないでしょうか。でも、どうでしょうか?40年前は、別に悪という人は今ほど、いなかったのです。
 そもそも普通に考えたら、普段の生活で原子力利用に気づく事はありえません。物質の最小単位、原子だとか、陽子、中性子の世界を利用してエネルギーを取り出すなんて誰が気づくでしょうか。
 神様は、人間に開示している情報と共に、ご自分がキープしている情報と分けておられます。しかし、人間の不幸は、神が持っている情報さえも解き明かそうとした事です。それも悪魔の助けによって解き明かそうとした時から、人類は不幸に向かい始めたのです。
 今回の原発問題も、人類が最初に知恵の木から実を取って食べたところから始まっていると言えます。善・悪は、我々が善だと思っても、悪であることが多いのです。それを見分けるのには、神の知恵が必要です。
 もっと身近なことでいうと、親が子供たちに対して、善だと思って取った態度も、子供たちにとっては悪だったりして、いろんな問題が起こったりする訳です。「あれ?私は善だと思ってやってきたのに、なんでこんな風になっちゃったんだ」ということは、いくらでもあるわけです。そこには善悪を知る知識の木から実を取って食べたという事実が前提にあるのです。

 パウロという人物は、最高学位を取った、当時最も頭のいい人物でした。彼の働きによってキリスト教が確立したと言っても過言ではありません。サンデースクールで、ローマ人への手紙を勉強しましたけれど、ローマ人への手紙はパウロが書きました。それは本当に理路整然に、よくもここまで理論を展開できたものだと感心するわけです。
 しかし、彼は知恵ある男だったんですが、最終的に気づいたことはなんであったかと言うと、第一コリント人への手紙 1章18節~21節、

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。』

 救いは、人間の知恵では絶対に受け取ることは出来ない、解き明かすことが出来ない神の知恵であると気づきました。続いて、第1コリント人への手紙 2章1節~5節、

『さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。』

 人の知恵が最前線に出て行くと、人は救われることはできないと気づいたのです。全幅の信頼を神に置き、神の知恵によって生きることが、人類にとって最も大切なことだと気づかされたのです。人類が知恵の木から実を取って食べた結果を、彼は聖霊によって理解していました。ゆえに、人間の知恵や知識によっては救われないと言ったのです。ただ信じたら救われるのです。人間の知恵で理論を構築して、「こうして救われた」というのではなく、人間の知恵を超えたところで救われるのです。神を全面的に信頼するか否かでそれは決まるのです。
 私たちは神の知恵によって生きるという原則を、確認しなければなりません。それは神の御言葉に基づいて、神様の知恵をいただいて生きることです。

 今日は、ギデオン協会のみなさんが来てくださって、聖書贈呈の基金の献金の時がありますけれども、がんばって献金していただきたいと思います。今一番必要としているのは、人間の知恵ではなくて、神の知恵です。それは御言葉ですから、今、聖書を贈呈したら人々は受け取ると思います。今までは「聖書?そんなの興味ない」というような人たちにも不安がありますから、今こそ神の御言葉を届けなければなりません。そのための最前線で働いてくださっている方々です。是非とも今年は多くの御言葉が人々の手に渡り、真理の御言葉によって人々が生かされる国になるように祈りましょう。人間の知恵とか知識とか経験によって生きるのではなく、100パーセント神の知恵によって生かされるようにという、祈りが必要な時期に来ています。

 今回の地震で、誰もそんなに大きな津波が来るとは思わなかったのです。実はこの新城教会から韓国にお嫁に行った女性がいるのですが、その方は岩手県宮古市の出身です。宮古市に行きますと、津波防波堤があり、それは日本一、世界一と言われる程の津波防波堤なのです。10メートルくらいの高さがある難攻不落の街作りが為されていました。どんな津波が来ても、十メートルの津波避けがあるから大丈夫だ、とみんな信じていたのです。彼女のご両親は、海のすぐ側に会社があって仕事をしていたそうです。
 なんと、そこに来た津波は、予想を遙かに超える20メートル、30メートルというとんでもない津波が来たのです。想定を超える、人間の知恵では全く計ることのできない津波が来て、瞬間的に街がなくなってしまったのです。でも、本当に奇跡的にご両親は助かりました。私も韓国でそのことを聞いて、真剣に祈りました。けれども、テレビを見たら、渦を巻いて車が巻き込まれる画像が出ていました。彼女に「大丈夫ですよ」とは言えませんでした。
 でも、真剣に祈りました。日曜日の朝、電話がかかってきて、「まだ全然連絡がつきません」と言われました。私は「今日は良い知らせが届きますように」と勇気を出して言いました。すると、15分後に、また電話がかかってきました。「連絡がつきました!お父さん、お母さんは生きてました!」と。本当に一瞬が明暗を分けたのです。
 人間の知恵での判断は不十分です。これからはそういうことが、たくさん起こってくるかもしれません。政府が言っていることも信用できない、今までの経験も全く役に立たない、想定外のことが起こらないとも限らないのです。
 東海沖地震は、150年以内には必ず起こると言われています。しかしすでに150数年経っているのです。ということは、それだけ大きなストレスがかかっていることを意味するそうです。もしかしたら50メートルぐらいの津波が来るかもしれないし、100メートルくらいのが来るかもしれません。人知を遥かに超えたことが起こるかもしれないのです。
 そんな時に必要なのは何かと言ったら、知恵の木から実を食べる路線ではなく、神の知恵によって支えられ、生きていくことが最も重要です。
 パウロもそのことに気づいたのです。彼が神と向き合って気づいたのは、人間の知恵を捨てなければいけない、今までの知識を捨てなければいけない、全幅の信頼を神に置かなければいけない。そのことに気づかされたのです。それで、彼は十字架以外には知らないことに決心したと言っています。そして、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によると気づいたのです。彼の宣教は、説得力のある知恵の言葉によって行われたのではなく、御霊と御力の現れだったというのです。
 私たちも神の知恵をいただいて生きる事に徹していきたいと思います。そのためには何が必要かと言ったら、聖霊の油注ぎです。聖霊の油注ぎがあったら、神の知恵で支配されていくはずです。

 旧約聖書にこんな記事があります。第2列王記6章8節~12節、アラムの王様がイスラエルと戦っていた最中に起こった出来事です。

『そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」』

 アラムがイスラエルと戦っている時、アラムの王が、寝室で妃とひそひそ話で「イスラエルをこういう風に攻めよう」と作戦を立てそれを実行したら、イスラエルの方では、すでにそれに対して準備していて、アラムは打ち破られたのです。だからアラムの王様は、絶対身内の中にスパイがいるに違いないと思ったのです。でも、そうではありませんでした。
 エリシャという人物は、エリヤの2倍の霊を受けたとありますけれども、聖霊の油注ぎがあったのです。ですから、どこに敵が潜んでいるのか、どこから敵が攻めてくるのかを事前に聖霊によって、神の知恵によって見抜いていたのです。ゆえに、最小限の労力で、国を守ることが出来たのです。
 今こそ、私たちもエリシャがもらった油の注ぎを必要としています。どこから敵が攻めてくるのか、どこに危険が潜んでいるのか、聖霊の知恵によって見抜くならば、守られるはずです。
 アラムの王は怒り狂って、エリシャを殺さなければならないと、国中を探しまわりました。そしてついに見つけたのです。それですぐにアラムの軍隊が派遣され、なんとエリシャの家を取り囲んだのです。エリシャには弟子がいて、彼が朝起きて外に出てみたら、なんとエリシャの家はおびただしいアラムの軍隊に囲まれていました。
 「うわ~絶体絶命だ!」と。しかし、そんなただ中であっても、エリシャは全く動じませんでした。そのことが十五節から書かれています。第2列王記6章15節~17節、

『神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。』

 エリシャの弟子は、現実の世界を見て恐がりました。自分を取り巻いている馬や戦車を見て、「私は殺されるかもしれない」と叫んで、エリシャに告げたのです。しかしエリシャは全く動じなかったのです。なぜならば、彼は霊の目が開かれていたからです。その時に何と語ったかというと、「彼らとともにいる者よりも、我々の味方の方が多い。心配するな」でした。
 現実の敵がいることもエリシャは分かっていましたが、共に働く目に見えない天の軍勢がそれ以上に、エリシャを取り囲んでいる霊的現実に、目が開かれていたのです。エリシャの弟子は、霊の目が開かれていなかったのです。ただ現実の世界を見て、恐れたのです。でもエリシャは、霊の世界に目が開かれていた故に、全く動じなかったのです。そして、彼はこの戦いに勝利したのです。
 私たちもこのエリシャの弟子のようであってはならないのです。エリシャのように霊の目が開かれ、どんな危険が目の前に迫っても、彼らよりも私たちと共にいる味方の方がずっと多いと知ったら、どんなに心強いでしょうか。
 今日、私たちの霊の目が開かれ、日本が直面している危機よりも、「目に見えない敵」との戦いと近頃よく言われますが、日本を強い神の軍隊が守っている霊的現実を見なければなりません。神はエリシャの油注ぎを与え、全ての危険を見抜き、敵に打ち勝つ人生を与えてくださるのです。
 「主よ、今この時、私たちは何を祈ったらいいんですか?」と、主から指示をいただいて、敵の進入路をカバーしていくのならば、決して敵は侵入することはできないのです。

 午後も、とりなしの祈りがありますから、是非ともお出かけいただきたいと思います。今日のとりなしの祈り名は「ファミリーピクニック祈祷会」となっていますが、「桜淵に行って桜を見るのか・・・」と思わないでください。楽しくは祈りますけれど、これは大きな祈りだと思います。
 実は、新城は、地震が起こると大変危ない町なのです。震災対策強化地域に指定されています。「愛知県の中で一番危ない街、新城にようこそ」というような感じです。なぜかと言うと、新城には中央構造線という断層が走っているからです。それは恐ろしい断層です。二週間前もそのことについて祈りましたが、実は日本は昔、二つの島だったのです。二つの島がぶつかり、つながって出来た島です。日本は北側と南側では地質が全然違います。その断層はどこを通っているかというと、豊川が断層ラインなのです。私たちの教会があるのは、豊川の北側になるんですが、南側は別の島だったのです。信じられませんが、全く違った岩質です。
 それが桜淵に露出しているのです。私たちはそこに行って守りを祈らなければいけません。そこで「その断層よ、動くな!」と宣言しましょう。何年か前から、中央構造線のためにとりなし祈りなさい、と主が教えてくださり、中央構造線のためのとりなしが始まりました。中央構造線のプロは、先ほど賛美リードをした四元雅也先生です。中央構造線については彼に聞いてください。彼はそのことをよく研究して知っています。
 「この場所を守りなさい」という、神の知恵をによって祈らなければなりません。先々週は特に、「海岸線のために祈りなさい」と主が告げてくださったように感じたので、遠州灘で真剣に祈りました。
 先週、私は浜名湖のために守りを真剣に祈らされました。浜名湖はそもそも、地震で出来た湖です。地震で海との境界線が切れて「今切(いまぎれ)」という場所が生まれました。「地震で今切れたぞ」ということで、「今切」になったと思われます。そして奥浜名湖に「細江神社」という神社があるんですが、それは何の為の神社かというと、地震除け神社なのです。なぜそうなったかと言えば、この神社は初めは海岸端にあったのが、津波で何キロも流されて細江まで来たもんだから、地震の守り神となったのです。私はそこに行って、地震と偶像礼拝のつながりをとりなして祈りました。
 先週は主が、浜名湖のため、遠州灘のために祈りなさいと語られたような気がして、それが神からの知恵だったら大きな勝利があったはずです。地上では小さな祈りに見えるかもしれないけれど、見えない世界では大きな事が起こっているかも知れません。そのようなとりなしの祈りを通して、地震から守られると信じます。
 これから、教会が神の知恵を受け取ったら、必ず勝利が来ます。

 最後に、もう一つの事をお話しして終わりたいと思います。エペソ人への手紙1章20節~23節、

『神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

 教会とは、キリストのからだで、イエス様がその頭だというのです。人間の手足がなぜ動くかというと、頭からの司令で動くのです。頭が「あっち行きたい」と思えば足はそっちらへ向くし、頭が「食べろ」と指令を出せば食べるし、頭が「食べたくない」と思えば食べません。
 結局、頭の司令で体全体が動くのです。教会というのは、「頭がキリスト」だというのです。そして、私たちはその体の各器官だというのです。第1コリント12章20節を見ると、

『しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

 今日、大勢の方が集められていますけれども、一人一人がイエス様を頭とする体に属する各器官だというのです。という事は各器官がひとつとなって、神からの指令と情報を受けて動いたら、神の知恵によって生きることができるはずです。そして神の知恵を運用する場所がどこかと言えば教会です。教会が正常に機能していたら、エリシャのように危険を先に察知して、地域と国を守ることができるはずです。
 私たちがエリシャのように聖霊の油注ぎを受けて、一人一人が各器官に属する者として神からの指令を受け取り、その情報に従って動くならば、この国は守られるはずです。このような悲劇も、必ず、大いなる神の訪れと変えられるはずです。今こそ、キリストの体がひとつとなって、神からの情報を受け取って動く時が来ているのです。
 この時のために、主が私たちを救ってくださったのです。日本のために、力一杯祈っていきたいと願っています。
 最後に一言お祈りして、終わりにさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様、御名をあがめて心から感謝します。私たちはイエス様、あなたを頭として、そのからだに属する各器官であることを心から感謝します。
 主よ、私たちがあなたからの知恵を受け取って生きることができますように。あなたの知識によって、生きることができますように。決して人間の知恵や知識、経験で動くことがないように。主よ、あなたが全てを握っておられますから、感謝します。
 どうか教会に聖霊によって情報を与えてください。決してこのような悲しいことが二度とこの国に起きることがないようにお願いいたします。このような時を通して、国民が生ける神に立ち返りますよう、お願い致します。
 私たちに与えられている賜物をひとつにしてください。弱く見えるような器官がかえってなくてはならないとありまから、心から感謝します。今日ここにおられる一人一人を必要とされてますから感謝します。イエス様、私たちはあなたによってひとつであることを象徴する、聖餐式を行います。このパンとジュースを聖霊によって、御言葉によって祝福し、あなたとひとつにさせてください。あなたの知恵によって生きる者とさせてください。
 イエス・キリストの御名によって祝福して祈ります。アーメン。