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「油断せずに祈ろう」

2011.5.8(SUN)
新城教会副牧師  四元 雅也
ルカの福音書21章36節

『しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。』

 ハレルヤ!今日皆さんの前でお話しできることを感謝します。今のゴスペルクワイヤーの賛美は素晴らしかったですね。私もメンバーの一人であるわけですが、今日は残念ながら歌うことができませんでした。今歌われた曲は、日本語のゴスペルなので、感情も入れやすいし、音程も日本人が歌いやすいようになっているので、歌っていて気持ちが良いんです。先ほど皆さんが歌っている顔を拝見しても、みんな嬉しそうでした。「主を喜ぶことは、私たちの力です」と、本当にその通りだと思います。JOY! JOY! JOY!と各パートが掛け合う場面では、テナーパートを歌う男性は列の真ん中で歌いますので、両方からJOY!JOY!と聞こえて来ますので、何か喜びに囲まれているといった感じでとても良いです。

ここに立たせていただくのは今年二回目です。前回は一月九日の礼拝メッセージでお話をさせていただきました。今日は、順牧師が韓国で二つの教会で奉仕しています。韓国リバイバルミッションまで一ヶ月を切り、いよいよ今月の二十五日より本大会が開催されるという中にありますので、さらに順先生や、先生方の働きのために祈っていきたいと思います。

先週は、韓国ミッションスタッフとして現地に派遣されている岡本泉姉妹が、丁度日本に帰っておられて、先週日曜日の霊的戦いセミナーで証しをしてくださいましたが、韓国では三月に起きた大震災の後、クリスチャンたちが、日本の情勢を知って祈り支援したいと思っているそうです。それで、日本人である順牧師の話しを聞きたいと、問い合わせが殺到しているそうです。
順牧師もその要請に応えているので、毎日毎日過密スケジュールをこなしておられますので、ぜひお祈りください。

先週はゴールデンウィークで、いろんなプログラムがありました。韓国ミッション直前決起大会が四日から五日にかけ行われました。この集会ものすごく恵まれ、先生方のメッセージも素晴らしかったんですが、今回はいつもにはないプログラムがありました。フルコースディナーをいただきながら、クラシック演奏を聴くというものです。実に優雅な感じの集会でした。リバイバルミッションの実行委員の先生は本当に多彩で、岡本先生は魚を切って食べさせてくれますし、今回は平岡先生がイタリアンのフルコースを提供してくださいました。残念ながらこの集会に参加できなかったという方もおられると思いますので、私が撮った写真をお見せしようと思います。

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これは、オードブルですね。

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これはスープ

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これは魚料理ですが、上に乗っているのが、かの有名なキャビアです。

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これがメインのローストビーフです。肉の上には、ホアグラとあのトリュフです。もう世界三大珍味、一挙に放出!です。

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そして、最後がデザート、本当に教会で行われる集会だろうかと疑いたくなるようなメニューでした。それだけではなく、音楽も特別でした。

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新城教会のバイオリン少年、石塚和基君が登場して会場の雰囲気に花を添えてくださいました。なんと七曲も演奏してくださいました。本当に素晴らしかったです。みんなうっとりと聞き入っていました。また和基君のご家族もみんな、和基君を応援して来ておられました

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まあ、応援しているというより、目の前のお皿に神経を注いでいるといった所でしょうか(笑)?

僕も残り物をいただいたのですが、庶民の感覚とはテイストが違うものだな、と感じたくらいで、三大珍味のありがたみは、いまいちピンと来ないという、ちょっと自分の感性のなさに寂しい気がしました。

また、先々週の土曜日に仙台の炊きだしに出かけていったのですが、現地の窓口となって私たちを出迎えてくださった、シーサイドバイブルチャペルの内藤先生も駆けつけてくださって、証しをしてくださいました。

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今回の集会は、震災支援のための決起のような内容もありましたが、炊き出しの報告に加え、内藤先生の証しにみんな心をふるわせるような一幕もありました。

ともあれ韓国ミッションは実際の準備も佳境に入っていきますので、みんなで心して、それこそ油断せずに祈っていきたいと思います。

また、先週皆さんにJJJ Newsなるものを、配布しました。これは青年会とミュージックアーツ・リバイバルムーブメントが一緒になって企画させていただいている集会で、八月十五日に、浜名湖ガーデンパークの野外ステージを借りて行われるコンサートです。そして当初は伝道のためにと考えて始まったのですが、東日本大震災の発生を受けて、クリスチャンとして被災地の支援を実行していこうという思いも与えられまして、チャリティコンサートにしました。これらの働きの名前が、JAZZ FOR JAPANN IN JESUS。その略でJJJです。先々週の炊き出しも、実は勝手にJJJの一環としても受け止め、青年会のみんなに呼びかけたところ、多くの兄姉がボランティアで参加してくださったわけです。JJJの会場となる浜名湖ガーデンパークの写真もごらんいただきたいと思います。

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座席は千席ありますので、大きな集会になると思います。今後も八月十五日のJJJ当日を目がけていろんな活動をしていくつもりですので、みなさんもお祈りに加えていただけたら感謝です。今日は午後の集会が終わって四時半から神学校の小講義室でJJJのミーティングを持ちますので、この働きに賛同される方は、青年に限らず、集まっていただけたら感謝です。

前置きが長くなりましたがメッセージに入らせていただきます。
私が一月九日にメッセージしたみことばはコリント人への手紙Ⅰ十章十二節から

『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』

このみことばから、私たちの立っている場所からリバイバルが起こされますようにと、お話しさせていただきました。それから二ヶ月後、あの震災が起きました。この出来事を通して、私たちが今まで意識するとせずとにかかわらず、立っていると思いこんでいたのが、地震でグラグラっと揺さぶられて、実ははかない幻想であった、本当は確実なものではなかったのだ、と考えを改めざるを得ない出来事が起きてしまいました。

日本は地震に対するしっかりとした備えを日頃からしている国で、あの三陸地方の強固な防波堤も津波が来ても大丈夫だと思われていましたし、原発にしても、安全で放射能が漏れることはありえないという確信がありましたが、今となっては、それも思い上がりだったと言わざるを得ません。一九九五年の阪神淡路、二〇〇四年の新潟中越という地震を経験したのですが、立ち直ってしばらくすると、いつの間にか初めの心を忘れ、普通の生活がこれまでと同じように続いていくという思いになってしまったのではないでしょうか?
そういったものが足下からグラグラっと来てぺちゃんこになってしまったのが、今の状況なのではないかと思います。

先週火曜日に教会の遠足があり浜岡原子力発電所に行きました。今回はいつもの遠足とはちょっと雰囲気が変わりまして、ただ楽しむだけではなく、今の日本のために祈ることができるように、われわれの生活に重大な危機をもたらしている原発問題について、もっと深く知り、そしてとりなすことができるようにと、この場所を選んだのですが、約百名の方が参加されました。行きのバスの中で、勉強会を持ちました。原発について、特に浜岡原発について、地震などの突発的な災害に対して大きな危険性を持っていることを学びました。これも今回の震災がなければ現実問題とし真剣に学ぼうとは思わなかったと思います。しかし、震災で始めた現実に気づき目が覚めたと思います。牧師先生の中にはいろいろな賜物を持ったかたがおられると、先ほどお話ししましたが、日本人で、原発について研究し、特に浜岡原発は危ない、即刻停止すべきだと提言している牧師先生が、インターネットに動画を掲載して語っているサイトがあります。今回は、そこからヒントを得て、勉強しました。

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これは、浜岡原発を展望台から見た写真です。手前から一号機、二号機、三号機、四号機、五号機とつながっています。現物を見ると巨大なものです。

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これは、原子炉の内部構造を説明する実物大の模型です。手前の人と比較すると大きさがわかります。真ん中下にあるのが核燃料(模型)です。そして、炉心を覆って周りに壁のようになっているのが、厚さ十五センチの鋼鉄でできた、最近の報道でよく耳にするようになった、「圧力容器」です。また、写真には写っていないのですが、この外側には格納容器が、厚さ二メートルのコンクリートと腕ほどの太さもある鉄筋で形成され原子炉をすっぽり覆っています。これだけを見るととても壊れるようなものではないと感じますが、今回の震災ではこれらの一部が破壊され、放射能を帯びた水が漏れ出てしまったと考えられています。
今回の遠足を通して、参加された方と日本のために一緒に祈ったわけですが、地震の震源地の上にあるという浜岡原発の危険性を知り、怖いと思いました。私の娘も参加して心に残ったのか、連休中の宿題だった作文に、遠足で勉強した浜岡原発の危険をそのままテーマにして、原稿用紙に三枚書いて、最後に「やっぱり浜岡は止めるべきだと思います。」と結論していました。そんな最中、一昨日管首相が突然「浜岡原発全基を直ちに停止するように要請した。」と発表しました。私たちは絶妙のタイミングで百名も浜岡に押しかけ、みんなで祈るように、主にあって導かれたんだな、と思います。

管首相も赴任して以来世間からたたかれっぱなしでしたが、これは英断ではないでしょうか?
一国の首相はたとえ頼りなさげな人でもわれわれ日本国民が選んだ人なので、「ダメだダメだと」揚げ足を取るばっかりじゃなく祈ってあげないといけません。
ともあれ、今回の遠足は今までとちょっぴり違って為になる勉強になるものでした。

話しはがらりと変わりますが、私が教会に通い始めたきっかけは、何十年も前になりますが、小学校に上がる前、教会で今はやっていないのですが、日曜学校というものがあって、地域の子どもたちと遊んであげたりしながら、イエス様の話をするという伝道方法がありました。そこで、当時は青年だった上條先生や、滝元望先生などから、教わっていたらしいです。残念ながらそのときのことは、記憶に残っていませんが。私と一緒に二人の姉たちも日曜学校に通っていました。「日曜学校の約束は」とか「主われを愛す」など今は歌われませんが懐かしい賛美歌や、お祈りの仕方などをおそわりました。それから小学校に上がり何年か経った一時期に、教会に行かなくなった時期がありました。教会よりも友達と遊んでいた方が楽しいと思っていた時期が五、六年ありました。でも、その後でありがたいことにもう一度教会に導かれたのは、一番上の姉が、やはりもう一度教会に行って、先に救われ、僕ともう一人の姉に伝道してくれたからです。クリスチャンになったのは、高校一年生の夏、一九八三年の七月三日日曜日だったと思います。

なぜ今こんな話しをしているかと言いますと、あの時姉が伝道してくれた話しの内容が、今でも心に残っているからです。それは、世の終わりについての話しでした。

当時世間では週末の予言が書かれた「ノストラダムスの大予言」という本が話題になっていました。これは十六世紀にフランスのノストラダムスという医者が書いた予言集を五島勉(ごとうべん)という作家が解釈して発表した本です。その当時の世界情勢は、冷戦時代でアメリカとソ連が核ミサイル軍備拡大競争でしのぎを削り、地球を何十回も丸焼きにできると言われていました。日本国内でも高度成長期が落ち着きいたと思ったらオイルショックで冷や水を浴びせられ、将来に対しての不安感が蔓延する時代背景の中で、二百五十万部のベストセラーになりました。特に「一九九九年七の月、恐怖の大王が降りてきて、世界が破滅を迎える」というフレーズは、「ノストラダムス現象」と呼ばれる社会現象になって、テレビ雑誌などでもノストラダムスの終末予言の特集が組まれるほどの大ブームとなりました。日本人がそれまでにない終末(世の終わり)ということばを初めて聞いて、「週末は土日が来てお休みだ」なら良いんですが、「終末に恐怖の大王が来て世界が終わる」ですので日本中が恐怖を植え付けられてしまったのです。本当にそんなことがあるのかと関心をそそられたわけです。そういうときに、姉が私に話してくれたことは、「聖書には、もっとすごい世の終わりについての予言がある。」ということでした。そして、当時から問題視されていた、大気汚染問題、エネルギー問題、食糧問題、東西冷戦と世界各地での内乱などが、五島勉の本よりも、もっとはっきりと聖書に、世の終わりの時代に必ず起こる現象として預言されていると具体的に世界で起きている事象に合わせて話されました。そして、そのような混乱の時代の中で、イエス様を信じた人を救い、信じない人の罪を裁くために、イエス様が再び来られる、イエス様は世界に再臨される、そのときが近づいてきている。われわれがしなければならない第一のことは、自ら罪を悔い改めて、イエス様の十字架を信じ受け入れることである、と話してくれました。あの時の感覚を今でも覚えています。震え上がるような気持ちで食い入るように話しを聞いていました。そして、確か次の日曜日に、再び教会に行くようになったと思います。だから、私が教会に来るようになったのは、姉からおどされたことがきっかけです。(笑)

こんな話しをするとある人は、「終末だの神の裁きだのそういうことを言うから宗教は嫌いだ。だいたい聖書の神様は愛ではないのか?困った人を救ってくれるのが神様ではないのか」また「予言だの神のお告げだの、そんなものに惑わされるのは馬鹿らしい。」と考えられるかもしれません。
確かに、キリスト教は、私たちを愛して十字架にかかられたイエス様を神様とし、聖書のことばを信じるもので、むやみに人を脅かして恐怖心をあおり立て、入信やお布施を迫ったり、神への服従を強要するような宗教ではありません。五島勉(ごとうべん)の書いたノストラダムスの本は、その後九十年代のオウム真理教に象徴される、極端な終末論を持ち、テロ活動を実行するようなカルト宗教を生み出す元となったと言われてます。聖書の教えは、もちろんそのようなものとは全く違います。しかし、歴史を通じて静かに、確実に神の国の訪れとこの世の終わりについて変わることのない教えを私たちに投げかけています。

考えて見ると、二十世紀末には、世の終わりについて、危機感のようなものが今よりもっとあったような気がします。もしかすると紀元二〇〇〇年を見ることがなく、この世は終わってしまうと、多くのクリスチャンが考えていたのではないかと思います。二十一世紀が華やかに幕を上げ、四年五年、七年八年と、急ぎ足で過ぎていく中、いつしか、このまま世の中はずーっと変わりなく続くものだ、この世の流れに乗って漫然と生きていけばよいのかな、と考えるようになってしまっているのかもしれません。二十世紀末にカルト宗教がまくし立てた、行き過ぎた終末論フィーバーと、オウムの破壊活動の反動から、教会が世の終わりについて話すことに対して臆病になっているのかもしれません。

しかし、私たちは、一歩一歩着実に、聖書が示す世の終わりに向かっています。これは疑いようのないことです。なぜなら、宇宙の初めを作った神様が終わりがあると言っているからです。神様が作った作った時間は、決して後戻りしたりくるりと回って元のところに戻ったりはせず、一方方向にのみ流れていくからです。だから、黙示録の二十一章に書かれているような、今までの世界の終わりと、神様の支配する完全に新しい世界の到来について書かれているとすれば、そこに向かって刻一刻とタイマーが残り時間を刻んでいるのです。

今、私たちは、何処に、何により頼んで行けばよいのでしょうか?

ルカの福音書二十一章二十九-三十三節

『それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。』

イエス様が語られたことばです。特に、ルカの福音書の二十一章の五節からは、私が姉から初めて聞かされたこの世の終わりについてのイエス様の予言のことばが書かれています。地震、戦争、食糧問題、不法の横行など、まさに現代社会がかかえる問題を鋭く見越しています。そして、これらのことが起きてきているのを見たら、あなた方は神の国が間近に来ていることを計り知りなさい。と主は語っておられるのです。

今は確かに、聖書が言う「終わりの時」なのです。

三月十一日の大地震が起きたとき、日本にとんでもないことが起きてしまったと恐ろしくなりました。この事態をどう受け止めたらよいのか、みんなが戸惑ったと思います。震災の時、一番最初に心にきたみことばが、この後の 
ルカの福音書二十一章三十三節

『この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。』

でした。滝元開先生も同じみことばを示されたと、四月三日の礼拝で話しておられました。

私たちは、この地震で、この世の「人間の英知」と呼ばれ、誇りとされてきたものが、ある一時の繁栄をもたらしても、ちょっとのことでことごとく頼りなく壊れ、過ぎ去っていくものでしかないことを、身をもって知りました。人間が長年をかけて築き上げたテクノロジーと繁栄は、地球のちょっとしたご機嫌でいとも簡単に機能しなくなり、原発のように作った張本人でも手がつけられず、脅威をもたらす存在となってしまうことを知りました。「安全だ。安心だ。」とささやいている中で、その思いが覆されてしまった。こんな時だからこそ、「やっぱり神様だな。神様しか頼れるものはない」と心に深く思いました。

イザヤ書四十章六-八節

『「呼ばわれ」と言う者の声がする。
私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。
「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」』

私たちの人生もいつまでも続くものではありません。ここでは人の営みを草だといいます。その栄光も草花のように、今日はきれいに咲いていても、明日はかれて花びらも落ちてしまうはかないものだといっています。だから、永遠に変わることのない神のことばに頼りなさい。と、そのことを呼ばわれ、といっています。ですから教会は、誰がなんと言っても、イエスさまは神の子キリスト、世界の救い主だと叫び続けているのです。これからもずっと、世の終わるときまで叫び続けるのです。途中で油断して声をとどめてはいけません。終わりの時代に際して我々は油断せずに祈り続けなければならないのです。

最後に詩篇一〇三篇のみことばの約束、これは、二〇一一年の初めに上條先生からお話されたこの教会へのメッセージです。これを最後に読んでメッセージと代えさせていただきます。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ。
聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、
あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

これで、お話は終わりますが。皆さんでお祈りしましょう。どうぞお立ち上がりください。
神様の前に立ち上がってお祈りしたいと思います。

私たちの信じる神様は、「世の終わりが来るぞ、滅びが来るぞ、最後はおまえたちを裁いてやるぞ」と苦しめるような神様ではありません。「救われてほしい。私を受け入れてくれるなら、危険から、苦しみから守ってあげる」とおっしゃっています。順牧師がよくお話されます。イエス様を信じると、天国にある人生保険(生命保険)に加入できると。あなたの人生に、もしものことが起きたとき、天国生命保険が適用されますと。いざというときに、あなたに安心を提供してあげますよ、と神様はおっしゃっています。詩篇一〇三篇三-五節

『主は、あなたのすべての咎を赦し、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、
あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

これが、イエス様を信じるものに与えられるすばらしい特権です。

油断しないでください。と聖書は言います。この世はなくなってしまうようなはかないものです。人間もはかないです。なんでも自分の思い通りになると勘違いしないでください。

永遠に変わることがない神様に頼って、神様にある安心を手に入れて行きたいと思います。

震災を受けてみんな心に不安を持ったと思います。不安をイエス様にゆだね、みことばにより頼みましょう。終わりの時にこのようなことが起きますと、イエス様はあらかじめお話しされましたが、終わりの時代の不安な世の中だからこそ、油断せずに祈りなさいと教えています。真心から私たちの人生を神様にゆだね、いつイエス様が来られても迎えられるようにしましょう。主は私たちの近くにおられます。

一緒に祈りたいと思います。主を心からお迎えし、主にのみ信頼して歩んで行くことができるように神様の油注ぎによって油断せずに祈っていくことができるように祈りましょう。