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「キリストこそ私たちの平和」

2011.6.5(SUN)
新城教会牧師 上條 実
エペソ人への手紙2章14節-19節

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。』

 ハレルヤ!今日はみなさんの前に立つことができることを心から感謝します。皆さまにお祈りいただき、春川とソウルでのリバイバルミッションが大変祝福されたことを感謝します。両大会も全部ユーストリームで配信しましたため、多くの方が見てくださったと思います。昨夜は百人以上もの方が見て下さっていました。私も春川リバイバルミッションに出かけ奉仕させて頂きましたが、みなさんが祈ってくださっているということをひしひしと感じました。みなさんのお祈りを心から感謝します。とにかく今回の春川・ソウル大会とも祝福された事を感謝致します。今からソウル大会の模様を写真で見てみたいと思います。



 ご覧頂いたように主から大変祝福を頂きました。今回「国を越え言葉を越え」というテーマソングであり、「あらゆる壁が崩されるように」と祈ってきました。感謝な事に祈りが答えられ、最後は韓国人でもない、日本人でもない、私たちの国籍は天にあるというみことばの如く、神の国の中で、手を取り合い、祈ることができました。本当に勝利であったこと、両国の霊的な壁が崩された事を実感致しました。
 今日は、先ほどお読み頂いたみことばから「キリストこそ私たちの平和」というタイトルでお話しさせて頂きます。今回の韓国リバイバルミッションは両国が主にあって一つとなって共に祈ることができました。過去の多くの過ち、心の傷を赦し、韓国の方が日本のために、東日本大震災のために祈ってくださいました。また近くて遠い国であった韓国と日本がともに悔い改めて、手を取り合って祈ることができたことは大きな勝利を感じることができました。まさに、「キリストこそ私たちの平和」であり、霊的な壁が崩された事を感じました。もう一度、今日のみことばであるエペソ人への手紙二章十四節をお読みします。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、』

とあります。隔ての壁を打ち壊しとありますが、今回韓国と日本の壁が崩れました。しかしまだまだ私たちには多くの壁があると思います。五月のゴールデンウィークの時、この地域は中国から飛んできた黄砂で、山が霞んで見えなくなるほどでした。一昨年の韓国は仁川での韓国リバイバルミッション時の準備のため、出かけて行った時ソウルの街がものすごくかすみ、百メートル先が見えにくいほどになっていました。天候はいいのですが、何でこんなに見えないのだろうか?と思っていました。お聞きしたら黄砂でした。こちらよりも向こうは中国に近いので、真っ白に霞んでいました。しかしある時風向きが変わりました。するとその霞が消え去り、きれいな町並みが見えました。私たち日本と韓国の間は今まで敵対し、隔ての壁がありました。しかし今回聖霊の風が吹き始めた事により、霊的に黄砂が晴れて、きれいな町並みが見えたように、綺麗になりました。私もあのゴールデンウィークの時に、車を運転していた時、黄砂があって見にくいと思っていました。しかし黄砂がなくなり、山は見えるようになったのですが、まだなにか見にくいと思いつつ運転していました。そうしたら車のフロントガラスに黄砂が付き、汚くなっていて見えづらくなっていました。それを掃除しました。更によく見えるようになりました。しかしそれでもまだ見にくいのです。なぜかと思ったら、孫が我が家に来てこの眼鏡を触ったため、眼鏡が汚れていて見にくくなっていたということに気づき、眼鏡のレンズを拭きました。それで本当にスッキリと見えるようになり、素晴らしい景色を見ることができました。
 ある面今回同じではないかと思いました。韓国と日本の壁が崩されたのです。教会をあげて、韓国のために祈りました。韓国語の賛美も覚えて賛美しました。先日シオンタイムにてご奉仕したとき、兄姉が「韓国の賛美を歌いたいけど、私たち年寄りには、なかなかついていけない」と言っておられましたが、韓国の言葉や意味がわからなくても、一生懸命賛美し、韓国の祝福のために祈り、両国におかれた壁が崩されるように、とりなし、祈ってきました。そして今回の大会を通して、霊的な壁が崩されました。霊的に綺麗な環境とになりました。すると今度先ほどお話ししたようにフロントガラスを掃除し眼鏡を掃除しなくては行けないと同様に、私たちの地域・教会・家庭・個人の汚れが見えてきます。敵対している壁が見えてきます。今日私たちは全ての壁をクリアにして頂きましょう。自分の中で知らないうちに築いてしまった、また築かれてしまった壁を崩して頂くときにして頂きたいと願います。エペソ人への手紙二章十六節には

『また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』

 私たちの生活の中で、様々な壁が作られてしまい、私たちは神さまによって祝福される、祈りが答えられるなど、励ましのみことばをいただいていながら、まだ手に持っていない、受け取っていないものがたくさんあると思います。それは壁があるからです。今回イエスキリストの十字架によって壁が崩されました。敵意が十字架によって葬られたのです。ですから私たち一人一人が、更に壁を直視して、その壁を崩し、リバイバルのために勝利をいただきたいと願います。
「敵意は十字架によって葬り去られました。」私たちはイエス様の十字架を仰ぎ、壁を崩して頂きましょう。イエス・キリストは犠牲の愛で私たちを十字架によって救って下さいました。犠牲の愛を示して下さいました。今まで自己中心的な考えで、物事を考え、生活して来てしまい、多くの壁を作ってしまいました。今日私たちは十字架によって壁が崩され、十字架によって一つにさせていただきたいと願います。
 今回自分がどんな所に壁があるのかと考える時を持つことができました。その時まず一番に思わされたのが、家族・夫婦・親子。家族が一つになるということでした。神様は天と地を創造された後、まずアダムとエバを創られました。夫婦をつくられました。そしてカインとアベルが生まれ家族を作られました。
 今多くの家庭、特に夫婦が、崩されてしまっています。せっかく愛し合って結婚したのに、知らないうちに壁ができ、敵対し、ある方は最大の敵となってしまっています。また、親子間も同様です。お母さん方は愛を持ち、痛みを持って子どもを生みました。しかし知らない間にそこに壁ができてしまいます。今は多くの親が子どもに手を出して虐待し、ある方は子どもが親に暴力してしまう。また引きこもりや様々な問題で家庭が崩壊してしまっています。
 兄弟の中でも壁が出来てしまっています。小さい時から愛し合い、何ごとでも助け合ってきた兄弟が知らないうちに壁ができ、交わることができない現実があります。また、私たちの親族の中にも壁ができてしまい、愛し合い、血をわけた人たちであるのにも関わらず、壁が出来てしまいます。あなたにはそのような、夫婦、家族、親子、親族に壁が築かれていないでしょうか?
またある時は、韓国と日本のように、国と国との中で壁が出来てしまっています。私も韓国にてある方と話をしました。その方のお兄さんが日本軍によって殺されたという事でした。その時本当にお詫びするしか言葉がありませんでした。こんな事実があれば壁ができてしまうだろうなと思いました。あなたは国と国の中で壁をもっていませんか?テレビなどで申し訳ないのですが、文明が遅れている国などの映像を見ると、「こんな国に生まれなくて良かった。」「自分はこの日本でうまれて良かった」と考えてしまうときがあります。その国を下に見てしまい「こんな国に」という下に見てしまうのです。国と国の間に壁を設けてしまいます。好き好んでだれもが、その国、地域、その家庭に生まれたのではありません。しかし壁を作り、ある国には下に見てしまっています。
 また自分が住んでいる地域にも壁を作ってしまいます。私はこの新城市で生まれました。そしてこの地域の西小学校に六年間通いました。すると「西小学校」と「東小学校」と敵対していました。自分の小学校が一番だと壁を作ってしまうのです。また自分の小学校の地域中でも、「あの地域は暗い」と壁、差別をしてしまいます。自分の地域を悪く言われればムカッと来てしまう、知らないうちに壁ができてしまいます。
 また多くの方々が悩んでいるところだと思いますが、人間関係の中に壁があります。同僚、幼なじみなど互いに助け合い、愛し合わなければいけないのに、愛することができないのです。あの人がこんな事を言った、こんな態度を取ったなど高い壁、敵対心を持ってしまいます。
 また病気や知的に劣っている方々に対して壁をもうけてしまいます。大変申し訳ない話ですが、私が失敗した話をさせていただきます。自分が教会献身をした当時のことですが、三十数年前、ある方から教会に電話がありました。私の知っている同級生の女性からでした。「ひさしぶり」と話したのですが、その方は、その時少し精神的に疲れておられ、一方的におしゃべりしてきました。話を挟むこともできない状況でした。その時私はかわいそうだと思いました。主イエスキリストには癒しがあるにも関わらず、癒しを祈ろうとも思いませんでした。その時、私の心は「かわいそうに。」「この人はこれで終わりだなぁ」と、本当に申し訳ない事を考えてしまったことがありました。そして差別し、その人に対して、その時祈ってあげようかとか言わずに、「はい、はい、はい、わかったよ。」と、聞くことも、理解することもなく、電話を切ってしまうことがありました。その後神さまから悔い改めを責められました。「人を自分自身のように愛しなさい。」とか「人を自分よりも優っていると思いなさい」というみことばを使ってメッセージしていながら、その人にはバカにしてしまっていました。本当にもうわけないことをしてしまいました。神さまに「おまえは高慢になっている。その人を主にあって愛しなさい。」と怒られたときがありました。本当に私は高ぶった者でした。聖書は、イエスさまが頭であり、私たちは各器官だと言っています。しかし、兄姉を見下げてしまっています。敵対してしまっています。「あの人がこう言った。」「挨拶したけれども、挨拶してくれなかった」と言ってしまいます。自分中心の中でで私たちは物事を考えてしまいます。そして壁を作ってしまうのです。そして自分を正当化するのです。、私は正しい、しかしあの人は・・・と裁いてしまいます。陰口をたたき、告げ口をし、「自分は正しい」とアピールし、壁を作ってしまいます。
 また私は全日本リバイバルミッションの事務的の働きをさせて頂いています。いつも様々な大会の時に、各教会へ決起大会のお願いをしています。「日本のリバイバルのために、日本の魂の救いのために、一緒にお祈りの時を持ちましょう」とお願いの電話をすることがよくあります。ある教会は「喜んで協力します」と言って下さる時があります。しかしある教会は「あなたたちのグループとは協力できない」と断られる時があります。ある時は激しい口調で怒られて切られてしまったこともありました。私はそんな時祝福出来ませんでした。正直裁いてしまいました。「日本の魂の救いのために、滅びゆく魂の救いのために祈ろうと言っているのに・・・」と思ってしまったことがあります。
 また、私たちは霊的戦いを神さまから教えて頂きました。しかし霊的戦いを進めていく中で、戦いを知らない方々を裁いてしまいます。そして「自分の団体が、自分の教会が最高なんだ、特別なんだ」と考えてしまい、他を裁き、敵対してしまってしまいます。各教会には各教会の使命があります。日本には約八千くらいの教会があると言われています。そして全て神さまが計画し、立てあげてくださった神の教会です。その場所に、その地域に必要であるから、その牧師先生、兄姉、その教団の教会を神さまが使わされたと信じます。神さまのリバイバルというジグソーパズルをひとつひとつ神さまが直に配置し、日本の教会を建てて下さいました。しかし、「あの教会はおかしい」とか「あそこの教会とはあんまり交わらないほうがいい。」と私たちは裁いてしまいます。同じ神さまを礼拝していながら、敵対してしまっています。差別してしまいます。イエスさまが頭であり、私たちは各器官です。一つの体にも関わらず、知らないうちに壁を作り、裁き、壁を作っています。また作られてしまっています。
 また、イエス様に対しても私たちは壁を作ってしまっていることがあります。私たちのために十字架にかかって葬られて三日目に甦ってくださった。この福音を信じています。イエスキリストが私の救い主であることは分かっています。
しかし信仰が自己中心なのです。神さま中心ではないのです。私たちが祈っても答えられないと、神さまに対して諦めという壁を作ってしまいます。私は、以前お話しをなんどかしていますが二十五年ほど前に、原因不明の病気をしたことがあります。その時に、東京に検査入院をすることになりました。「この聖日を最後に検査入院に行きます」と言う時「祈っていても癒されませんね」と言われました。その人は心配して言ってくださった言葉だと思います。しかし、私自身の中では知らないうちに壁を作ってしまったのです。「なんでそんなこと言われなければいけないのか。自分が好きで病気になったわけでもないのに。もっと私のために祈りますと言って下さればいいのに」と兄姉に壁を作ってしまいました。そのうち「自分は癒されないんだ。」と、主と自分の間に壁を作っていました。一ヶ月間くらい検査入院しましたが、初めは辛くて辛くてたまりませんでした。「なんで一生懸命神様のために働いていたのに、こんな病気になるんだろうか」とか、自分を責め、二度と神に仕えることは無理だと考えてしまいました。神さまに見捨てられたような気がしてなりませんでした。神さまから捨てられたと、近い神さまが本当に遠くにいらっしゃる、裁き主のように感じました。悪魔・悪霊にうまくごまかされてしまっていました。罪が示され、苦しみ「おまえはこんな罪をしていたじゃないか。この罪を精算していないからこの病気は癒されない。」と思わされ、悔い改めて悔い改めの連続の闘病生活でした。あげくの果てには「私は地獄に行ってしまうんじゃないか。」と裁かれることを恐れ苦しんだこともありました。しかしそれが悪魔悪霊の策略だと言うことがわかり、勝利しました。
 今日皆さんの神、イエスキリストは平和なる神様です。あなたのために十字架にかかってくださって、葬られてくださった方です。聖書のみことばをご紹介します。ヨハネ三章十五節~十七節、

『それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。』

 イエスキリストの十字架は完全です。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つのです。私たちは心配し、訴える偽りの神、悪魔悪霊に騙されそうになります。しかし救いは完全です。また、使徒の働き 二章二十一節、

『しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

とあります。イエスキリストの十字架時、両隣に強盗も十字架につけられました。その時強盗は「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。するとイエスキリストは「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」とイエスキリストのみ名を呼んだ時に救ってくださいました。またローマ書十章十三節、

『「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。』

とあります。また、第一ヨハネ一章九節、

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

とあります。私たちは弱い者ですから失敗する時もあります。しかし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいますというすばらしいみことばの剣を頂かなくてはいけません。今日聖餐をいただきます。イエス様の十字架によって私たちの全ての罪を赦して下さる事を感謝し、喜ばなくてはいけません。イエス様が私たちを神の子どもとしてくださたのです。隔ての壁を打ち砕いて下さいました。滅びの中から完全に救いに移してくださいました。もう一度エペソ人への手紙二章十四節~十五節をお読みしましょう。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、』

 私たちは様々な壁があります。敵意があります。醜い心があります。愚かな者です。今日、その壁をイエス・キリストのみ名によって、赦し十字架の血潮によって告白しましょう。十字架によって神と和解させるのです。私たちの神、イエス・キリストがどんなに力がある神さまであるかということを知っています。救い主であり、癒し主であり、また助け主であるし、祈りに答えてくださる神。また祝福を与えてくださる方であることを信じています。しかし知らないうちに、私たちは不信仰の壁を入れられてしまうのです。やはり私たちは不信仰という壁をイエスさまの前に全部さらけ出して行きましょう。人には言えなくても、イエスさまに全部告白しましょう。「イエスさま、この壁を全部取ってください」と。今まで苦しんできた問題も、傷つけられてきた事も、悩んだことも告白しましょう。イエスさまは犠牲の愛を示して下さいました。イエスさまは十字架によって私たちを神と和解させてくださるのです。
 サタンが私たちに対して、一番攻撃してくるのは、「救い」を奪い取る事です。自分が持つ事のできない、救いを必死になって、私たちから奪おうと戦ってきます。第一ペテロ 五章八節~十節、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』

サタンは巧妙に罠をしかけ、私たちの中に要塞を作ろうとします。今『目をさましていなさい。身を慎みなさい』とあります。『あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』とあります。
 私たちの側に油断があると思います。吠えたける獅子のように必死になって、食い尽くすべきものを探しながら歩きまわっています。だから私たちはひとときも十字架を離れてはやっていけません。敵意は十字架によって葬り去られたのです。いつも目を覚まし、身を慎み、すべての聖徒達の為に忍耐の限りを尽くして祈らなくてはなりません。十字架に立ち帰りましょう。あなたに、「高価で尊いあなたを愛している」とあなたの名前を直で呼んでくださっています。今日イエスキリストの聖なる名前によって、十字架によって人々を愛し、全ての人を愛しますと宣言をしていきたいと思います。神様が愛してくださっているからこそ、れからの人生を神様に愛をお返ししたいと思います。あなたのイエス様はなんでも出来る方。あなたを救い、あなたを癒し、あなたの問題を解決し、解放して下さる神です。すべての隔ての壁を砕いて下さる神です。
自分にも子供がいます。子どもが病気になったら、こんな自分でも子どもの病いのために看病し、愛を注ぎます。イエスキリストはそんなものとは比べることの出来ない、私たちの親です。今どんな状況の中にあっても、あなたを愛して、私たちを助け、握りしめてくださいます。十字架に勝利があります。みことばは一点一画変わりません。「十字架によって敵意は葬り去られた。」「平和の神は二つのものを一つにしてくださる」という約束です。今から聖餐をいただきます。この聖餐は、ただの葡萄ジュースとクラッカーです。しかしみ霊によってこの聖餐は、イエスさまの流された血とイエスキリストが裂かれた肉です。十字架を信じましょう。今まで奥底まで沈めて、告白していない壁を、十字架の力によって壁を崩して頂きましょう。最後にもう一度、みなさんで宣言したいと思います。エペソ人への手紙 二章十四節~十五節、

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、』

 私たちの神は平和を与えてくださる神様です。そして隔ての壁を崩して下さり、今まで頂けていなかったものをイエスキリストによって、いただきましょう。一言お祈りします。

 父なる神様。イエスキリストをこの地につかわせて下さり、十字架にかかって下さったことを心から感謝します。今日十字架を信じます。私たちはひとときも十字架を離れて生活することはできません。今日十字架によって敵意を葬り去られたことを信じます。十字架によって隔ての壁を崩して下さったことを宣言します。いつも目を覚まし、身を慎み、すべての聖徒達の為に忍耐の限りを尽くして祈って行くことができますように私をおまもり下さい。もう一度祈ります。今日十字架に立ち帰ります。あなたを愛します。この愛するイエスキリストのみ名によってお祈りします。アーメン