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『二十年目のリバイバル ~パート2~
主を慕い求めよう』

2011.7.31(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
第一サムエル記7章1節~2節

『キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。

 ハレルヤ!おはようございます。今日はみなさんの前でメッセージを語らせていただけますことを、心から感謝します。
 今日のメッセージ・タイトルは、「二十年目のリバイバル、パート2」です。七月十日に語ったメッセージの続きです。この箇所からみなさんと共に学んでいきたいと願っています。

 暑い日が続いたり、雨が降ったり、気候がかなり変動して、なかなか体がついていかない今日この頃ですが、お互い健康に十分注意すると共に、主により頼んでいきたいと願っています。今日お一人一人に天地宇宙を造った神が目をとめておられます。
 先週は、偉大な神の元で生きる祝福についてお話をさせていただきましたが、神から見放されている人は誰一人いません。あなたを愛しておられるのです。隣の方に、声をかけてください。「神様はあなたを愛しておられます。イエス様はあなたを愛しておられます!」と。

 日本の神々は、手が千本あったり、つり上がった目をしていて、およそ愛して欲しくない神々ばかりです。しかし聖書の神は愛の神様です。どんな時も一緒にいてくださいます。
 今、日本は大きな試練の中にあります。これからの日本はどうなってしまうのだろうかと、誰にも不安があるのではないでしょうか。今日みなさんのお手元に「新城教会ニュース」が渡されたかと思います。帰ってから、よくお読みいただきたいと思いますが、ここに、東日本震災を体験して全てを一瞬に失った方の体験談が書かれています。「全てを一瞬で失い」というタイトルです。それは「シーサイドバイブルチャペル」の内藤野亜君の証しですが、彼のお父さんは新城教会で救われ、牧師になって、今、仙台の宮城野区で伝道しているのですが、教会も一瞬にして津波に飲み込まれてしまいました。
 彼はこんなことを語っています。

「今回の震災を通して、私はひとつのことに気づきました。全てを失った時、今までこだわってきた物は、実は大したものではないこと。本当に大切な物は、目に見えない物で、ごくわずかだということです。」と。

今まで重要だと思っていたものは、実はあまり大したものではなかったと気づいたというのです。私たちは見える物を大切に思うのですが、それらはあまり重要ではなく、本当に必要な物はごくわずかであり、見えない世界が大切であることに気づいたというのです。
これはすべてを失うことを実体験した人の意見ですから、重みがあります。
 彼はこの様に文章を結んでいます。

「確かに電気や、ガス、水は来ました。たくさんの物資が来ました。お店も開きました。がれきの撤去も進んでいます。しかし、心はまだついて行ってはいません。最近よく思うことがあります。復興復興とあせらないで欲しい。震災で傷ついた心が癒された時、その時こそ本当の復興だと思います。仙台のため、宮城、東北、日本のために、どうかみんなで祈ってください。神様は私たちの祈りを聞いています。本当の意味で復興するために、皆が一致してもう一度東北地方を覚えて祈ることを期待しています。」と。

 「復興」というと、がれきが撤去され、街が整備されてきれいになったら復興だと言うのですが、そうではありません。見える物は一時的です。けれども、見えないところに本質があるというのが、聖書の教えるところです。
 特に、聖書のテーマは、見えない世界の回復です。そのことを「リバイバル」と呼んでいますが、日本には物質が氾濫しています。高度成長時代以来、人よりも物に価値があるかのように勘違いしている時代が、長く続いていました。けれども、いろんなことがあって、日本人の価値観が変えられて来ました。「見える物は一時的。見えないところに価値がある。見えない世界が改革されない限り、本当の意味での回復はあり得ません」ということを、日本人は学ばされているのではないかと思います。
 実に、それは世界中の歴史を見ても同じことが言えます。イスラエルは神に特別選ばれた国ですが、選びをもらったイスラエルでさえも、見える世界に価値を置き、神から離れてしまった歴史を何度も繰り返しました。神から離れた時期には常に国に問題がありました。物質に頼ると、同時に、見える神々に頼るようになります。その時は、いつも問題がありました。
 しかし、いろんな事件を通し、彼らはもう一度目に見えない世界、人類を造ってくださった神に向きを変えさせられました。その時、彼らは復興していったわけです。
 今日のメッセージは七月十日に語った続きですから、七月十日のメッセージも一度、インターネット等で読んでいただき、それに続けて理解していただきたいと思います。

 イスラエルがペリシテという宿敵に悩まされていた時期がありました。ペリシテ人は海から上がって来た民族で、海の神「ダゴン」を神としていました。彼らはたいへん凶暴な民族でした。この民にイスラエルはやられて、彼らがもっとも大切にしていた「神の箱」が奪われてしまった、と前回もお話ししました。
 しかしペリシテ人たちに事件が起こって、神の箱がイスラエルに戻ったのです。けれども、神の箱が戻っただけで、ペリシテ人の恐怖は継続していました。それがなんと、二十年も続いたというのです。イスラエルは二十年間も、敵の圧制に苦しんでいました。けれども、二十年目に、大きな変化が訪れたのです。

 実は新城教会も、一つの事件があって後、今年で、二十年目になると前回もお話しました。この教会に大きな変化が訪れたのは、一九九二年でした。聖霊様が激しく教会に訪れ、新しいことが始まりました。それまでも熱心に福音を地域に伝えていたのですが、なかなか浸透しませんでした。どこに原因があるかというと、アプローチの仕方だとか、やり方だとかというよりも、根本的な原因は霊的な覆いがあるからです。ゆえに人々の目が閉ざされ、耳が塞がれて、真の神を見ることがでないのです。その時、「覆いを取らない限り、日本には希望がありません」という直接的なメッセージを与えてくださいました。
 しかしそれは直接的メッセージではなく、すでに聖書に記されていたことだったのですが、我々は気づいてなかったのです。一九九二年の七月に霊的戦いが起こり、その事に気づかされたのです。私はそのことを「主が立ち上がられた日」という本に書きましたから、是非とも一度読んでいただきたいと願っています。
 あの時、教会全体に大きな不安がありました。「本当にこの路線でいいのだろうか、もしかしたら間違っているだろうか・・・」と、いろいろ不安がありました。しかしそれにもかかわらず、教会から離れず、ずっと教会を支え続けてくださっている方々が多くおられます。私は本当に、心から感謝しています。高い所からですが、当時からおられる兄弟姉妹に心から感謝すると共に、その後、新城教会に勇気を持って加わって下さった多くの兄弟姉妹にも、心から感謝を致します。

 時々、人生の中には予期しない出来事があります。「試練」というような事柄が起こります。「これからどうなってしまうのだろうか・・・」というような、ある意味、八方塞がりのようなことが起こります。時に神は、そのような試練を許されるのではないかと思います。
 クリスチャンになると、何もかもうまく行き、ハッピーエンドで終わると考えます。もちろんハッピーエンドに終わるのです。しかしそれまでの途中では、いろんなことがあることも確かです。 
 私の人生、また、新城教会の歴史を見てみても、やはりいろんなことがありました。最も強力な神様を信じているはずですが、実際はいろんなことが起こり、理解できないことも多くありました。

 一九九二年、聖霊様が訪れてくださり、霊的戦いが始まりました。その瞬間は、街に、国に大リバイバルが起こると期待しました。でも、続いて訪れたのは、大きな試練でした。しかし試練を通して、それまで私たちが持っていた価値観がどんどん変えられていきました。目に見える世界ではなく、見えない世界に視点が移されて行きました。
 それまでは、「見えない神様を信じています」と言いながら、本当の意味では信じていないような部分もありました。また、「私たちの戦いは霊的な戦いです」なんて口では言っていたのですが、本当は理解していませんでした。
 一九九二年、その時期は「甲子園ミッション」という日本のリバイバルを願う働きが全国的に展開されていました。一九九三年の十一月に阪神甲子園球場を会場に、日本のリバイバルのための大集会が計画されていました。その頃からクリスチャンだった人はよくご存知だと思います。私たちは、その準備のただ中でした。そこに大きな試練が来たのです。
そして全国で行われる準備集会にも「これは人間的な業じゃない。目に見えない悪しき力が働いている」ということを意識させる事柄が次々と起こったのです。戦いは全国規模でした。それはたいへん不思議です。
 ある時私が大阪に準備集会に行ったら、電柱にポスターが貼ってありました。「甲子園ミッションの準備集会はこちら→」と親切に矢印が示されていました。しかし、そのポスターを見てびっくりしました。なんと、裸の女の写真の上に集会案内と矢印が貼ってありました。何枚か同じようなポスターが会場に向けて貼ってありました。私はすぐに全てはがしました。目に見えない敵が、常にどこかで邪魔をしていました。やがて妨害行為を行っていた人物が姿を現し、直接的に邪魔するようになりました。本当に緊張しました。

 ある日、甲子園ミッションのための重要な決起集会が関西地方で行なわれ、日本の有名な伝道者たちが集まって集会がありました。その時、韓国からの講師がメッセージをしたのですが、突然集会に一人の男が入って来て最前列に座りました。私はその夜、賛美リーダーでした。体の大きな男でした。私の目の前に座り舌をべろっと出し、目の球がひっくり返って、真っ白になりました。なんかオカルト映画を見ているようでした。エクソシストの世界のようでした。白目で舌を出し、私をにらみつけました。賛美をしながら、心が大きく騒ぎました。

 集会が終わると、その男が講師のメッセージにいちゃもんをつけ始め、そこにいた牧師たち全員が呼び出され、一つの部屋に押し込められました。
 その頃、国内に一つの事件があって、それは紙袋の中に刺身包丁を入れていて突然人を刺すという事件でした。彼はそれを模倣して、紙袋を持って部屋に入って来ました。私たちには中に包丁が入っているように見えました。彼の迫力と雰囲気に脅されて、私たちは部屋に監禁されてすごい勢いで脅されました。
 もう亡くなられましたけれど、田中政男先生はほっぺたを叩かれて、「おまえ俺が怖いだろ?歯向かってみろ」なんて言われました。でも、彼が凶器を持っているようで、私たちは身動きできませんでした。日本のリバイバルのために働き始めたのに、聖霊を注いで霊的戦いも始めてくださったのに、「なんてこった、もう駄目だ」と私は絶望しました。なんか全身から力が抜けていくようでした。
 しかし、その時、瞬間的に主が私に御言葉を語ってくださいました。やはり、御言葉を覚えておくことはすごく重要です。私の心の中に飛び込んできた聖書の言葉は、イザヤ書三十五章三節~四節でした。

『弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」』

この御言葉が光のように私に入ってきました。私のひざはがくがくし、よろめいていて、心騒いでいました。もう駄目だと思っているただ中に『「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。』と、強烈に御言葉を通して主が語ってくださいました。
 その瞬間、私に勇気がわいて来ました。それまで震えていた、ひざの震えが止まりました。男が他の牧師を脅している時、そっと近づいて彼が持っている紙袋の中をのぞきました。包丁があるのかどうかを見たのです。すると中には包丁はありませんでした。中には聖書が入っていました。「これなら戦っても大丈夫だ」と思いました。
 彼が後ろを向いた瞬間に、私は彼に飛びかかりました。そしたら彼は一目散で逃げ始めました。彼は山のように大きな男に見えたのですが、彼に追いついて背中をつかみました。その時、今でも耳に残って響いていますが、すでに天に帰られた田中政男先生が、私に「順、止めろーー」と、私を心配してくれたと思うのですが、叫びました。しかし私は彼を捕まえました。
 すると風船の空気が抜けるように、でかい男がどんどんしぼんでしまって、小さくなり、その場に倒れました。私は彼に馬乗りになって捕まえました。
誰かが近くの交番から警察を呼んでくれました。警察官は始め犯人は私かと思ったみたいですが、彼は逮捕され、二度と集会を妨害することがなくなりました。

 その時、はっきりと主が教えてくれました。「起こってくる問題は、霊的な問題です。霊的戦いをしなければ解決しません」と。そして、「見える世界ではなく、見えない世界に目を向けなさい。弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせ、心を騒がしてはいけません」と告げられたのです。

 試練に遭遇すると心が弱って、心が騒いでしまうのですが、様々な試練に関してヤコブは、ヤコブの手紙一章二節~四節、

『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』

 みなさんどうでしょうか?試練に会った時、それを「この上もない喜び」と思えますか?絶対にそんな風には思えないと思います。しかし聖書は、『さまざまな試練に会う時にそれをこの上もない喜びと思え』と告げています。聖書の世界は私たちが普段考えていることとは、全く別物です。普通は「試練なんかいらない」と思うのですが、『試練にあったら喜びと思え』というのです。
 今、試練のまっただ中ならば、それは宝物だというのです。もちろん、試練そのものを神が直接与えるのではありません。さまざまな側面があります。しかし試練が、どのような役割をするのかというと、試練に会うと忍耐が生じるようになるというのです。そして、その忍耐を完全に働かせていると、最終的には、『何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』と告げています。
 神様は、一人一人に重要な使命を与えておられるのですが、その計画を直接手渡すのではないようです。その間に、「忍耐による成長のプログラム」が必ずくっついています。
 忍耐し、成長して、完全になる時、一人一人に神は使命を授けてくださるのです。

 イスラエルも二十年前、敵のダゴンが倒れるという事件が起こり、神の箱が奪われたのにもかかわらず、自然にイスラエルの手に戻るような勝利を体験しました。しかし、キルアテ・エアリムに神の箱が運ばれ、長い年月「二十年」も経ってしまいました。しかしその間、敵の勢力はまだまだ幅を利かせていて、イスラエルは依然として、ペリシテに苦しめられていました。
 この二十年を通してイスラエルは何を学んだのか。やはりその中で民たちは忍耐を学んだと思います。そして、忍耐の中で成長させられたのだと思います。その結果として、やがて勝利の時がやってきたのです。
勝利の瞬間のことが、第一サムエル七章の十節から書かれています。第一サムエル記 七章十一節~十三節、

『サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。イスラエルの人々は、ミツパから出て、ペリシテ人を追い、彼らを打って、ベテ・カルの下にまで行った。そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、入って来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。』

 二十年の間、ペリシテは度々、イスラエルを襲っていたのですが、なんとこの日を境にペリシテは敗北して、二度とイスラエルの領内に入って来ることがなくなったと記されています。
 私たちも神の訓練を受けなければならない時期があるのかもしれません。しかしじっと耐えて、忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない成長を遂げた完全な者となるのです。
 自分が成長したかどうかはなかなか、自分では気がつかないものですが、「試練」に耐えている内に成長していくのです。今日、ここにおられる方々も人生にいろいろな事件が起きて、辛いことがあって、悲しいことがあって、教会に来られたかもしれません。しかし、まだまだ問題が完全にクリアされていない人もおられるかもしれません。
しかし、そこにも意味があるのです。あなたに忍耐を学ばせて、神はあなたを完全にしたいと願っておられるからです。

 二十年の間にイスラエルはどのように変えられたかというと、最初に読んだところに示されています。第一サムエル記 七章二節、

『その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。』

 二十年の間で、彼らの何処が変えられたのかというと、それは、「一番重要なことは主を慕い求めることだ」と気づいたのです。人間はいろんな価値観で生きています。みなさんにとって、脳を最も強く支配している考えはなんでしょうか?ある人は育児のことであったり、ある人は仕事のことであったり、ある人はある異性であったり、お金であったり、様々な事柄が脳の中をかけめぐっていますが、試練を通して一番目について考え、目を向けなければならない優先順位が整理されるのです。それは、「主を慕い求める」ことが一番重要であることに変えられていくのです。

 私は牧師の息子に生まれ、よくわからないうちに牧師になったような者でした。だから働きも適当でした。本当に申し訳有りません。私は牧師なんかやりたくなかったのです。前にも話したんですが、家内と結婚する時に「牧師にならないから結婚してくれる?」と言ったら、彼女も「それならいいよ」と言いました。そのくらいでしたから、全然やる気はなかったし、要領ばっかり良くて、全然、仕事もしていませんでした。給料を返さなければいけないくらいの時期がありました。
 でも、いろんな試練を通して、主のみを慕い求めることに気づかされました。先ほども話しましたけれど、甲子園ミッションの働きを通して大変なことが周りに起こってきました。しかし私には確信がありました。そんな中でも、左右にぶれなかったのはなぜかというと、私を支配していたのが、物質的な物ではなく、主を慕い求める心が中心にあったからです。

 私は現実的な男で、いつも話しているんですが、理工系の人間ですから、不思議な体験もないし、実験で証明されることしか信じないような男でした。かつて友人の一人がこんなことを言いました。「順。お前はずる賢くて頭は少し切れるけれど、一番の欠点は聖霊に満たされていない事だ」と。でも私は、「聖霊に満たされる人は、頭が弱い人じゃないか。スマートな人間には聖霊なんかいらないんだ」というような考えの者でした。
 しかし、いろいろな問題が起こって、だんだんと主だけを求めていくように、聖霊様を求めるように変えてくださったのです。

 今日は、七月三十一日ですが、明日から八月です。八月は素晴らしい月です。来週、どういう日があるかご存知ですか?八月五日、それは私の誕生日です。別にそれは関係ないですけれど。私はあまり記念日が好きじゃなくて、どっちでもいい感じです。けれども、七月三十一日は私にとって重要な日です。
 一九九二年七月は、本当にいろんなことがあって疲れ切っていました。「神様、私たちはこれからどうしたらいいのですか・・・」と。霊的な戦いが始まって混乱がありました。日本ではそんなこと、起こったことはなかったし、周りは理解できませんでした。今でも日本の教会は霊的戦いに否定的です。しかし、世界の基準からいくと日本は本当に遅れています。
 実は、世界の教会が何年かに一度集まって「世界宣教会議」を行ないます。紀元に二〇〇〇年にケニアのナイロビに集まり、一つの宣言が採択されました。それは世界教会の共通のコンセンサスです。それは何かというと、次のようになっています。

「世界伝道のためのローザンヌ委員会の焦点は、世界伝道である。これは教会を倒し、教会の世界伝道のわざを失敗に終わらせようと絶えず目論んでいる、悪の力と支配に対するたゆまざる霊的闘争についての、不可避の要素を含んでいる。この協議会の目的は、以下の事柄について、聖書的かつ包括的な理解を得ることである。

一、敵とは誰なのか。
二、敵はどのように働いているのか。
三、私たちはすべての人々に、最も効果的に福音を述べ伝えるために、敵とどのように戦うことができるのか。」

 世界の教会は気づいています。この問題を解かない限り、世界宣教はありえないと。霊的戦いは、世界教会のコンセンサスです。しかし日本の教会は、全くそのことにおかまいなしです。霊的戦いなんていうと、「おかしいんじゃないか。聖書からずれているんじゃないか・・・」といいます。
しかし世界の教会はこの宣言を採択したわけです。それは紀元二千年のことでした。
けれども私たちの教会に霊的戦いが始まったのは、一九九二年でした。その頃は情報も少なく、もっと大変でした。私たちには多くの混乱と試練がありました。ちょうど、主の箱が奪われてしまったような心境でした。

 一九九二年七月三十一年のことですが、私は滅多に不思議な体験はないのですが、その日にはっきりとした体験がありました。
 その日、私たちは名古屋で集会があって出かけて行きました。心は本当に重く、これからどうなってしまうのだろうかという不安がありました。会場の前に着いたけれど、まだ時間がありました。たいへん暑い日でした。一九九二年、七月三十一日、日照りが強くて、木陰に車を停めて、クーラー全開で車の中で休んでいました。教会スタッフも一緒に全部で四人乗っていました。みんなぐったりして寝ていました。
 私も運転席で寝ていたんですが、しばらくしたら、私の右と左の木が揺れ始めはっきりと目覚めました。私は「木がへんに揺れているな」と見ていました。不思議なことに、右側だけが揺れていて、左の木は揺れていませんでした。「へんな風だな。なんで右側だけが揺れて、左側は揺れてないのか?」と見ていました。
すると、右側の風がぴたりと止まって、今度は左側の木がわさわさと揺れ始めました。「不思議な風が吹いているな・・・。」
すると左が止まって、また右が動いて、そんなことが繰り返されていました。右、左、右、左と見て、ぱっと空を見上げました。
 その時です。雲の中から、光輝く白い十字架がにゅっと出てきました。「わ~、十字架だ!」私は一瞬、目を疑いました。「たぶん、俺は疲れてるんだ」と思って他の場所に目を移し、同じ空を見ました。すると、その光っている十字架がひっこんでいきました。するとその右下から、ちょっと光が鈍くなった十字架が出てきました。そして再び雲の中に消えて行きました。
 その時主が心の中に「わたしは生きていますよ。すでに十字架で勝利を取りましたよ。勇気を出しなさい」と、信仰のない私に、十字架の勝利をはっきりと映像を使いながら教えてくださいました。

 あれは幻ではなく、本当に空に十字架が出て来たように感じました。なぜなら雲の中から出てきたからです。助手席に誰がいたかというと若き日の雅也先生でした。彼も不思議な風には気づいていました。後から彼が私に言いました。
「順先生、今日、なんか見たでしょ?」と。「なんで?」と聞くと、「空を見ながら目が点になっていた」と言うのです。
すごい体験があると、すぐに人に言えないものです。私は十字架を見たことは言いませんでした。でも、彼に聞かれて口を開きました。「雲の中に光る十字架を見た」と。
 その日、私は失望していたのですが、主が私に十字架を見せてくださいました。「十字架の上で勝利を取っていますよ。心配しないでついて来なさい」と。その体験は、ある意味、私の信仰を大きく変えました。イエス様は既に十字架上で勝利を取っている。だからこの勝利を、出て行って宣言しなければならないと語ってくださいました。
 当時、激しく聖霊が注がれていて、多くの方が預言の賜物をもらいました。私のためにある人が祈ってくれました。そうしたら、その人がこう言いました。「これから順先生の働きの中に、不思議としるしが伴うようになりますよ。その始まりを意味する、十字架を見せてくださったのです」と語ってくれました。
この二十年を振り返ってみると、こんな小さな者でありますけれど、エキサイティングな二十年でありました。主が共に働き、十字架にかかった惨めな主ではなく、死を打ち破り甦って今も共に働く主がおられることを、二十年間、体験させられました。

 でも二十年は、振り返ってみると、やはり忍耐の連続のような気がします。しかし、そんな中、神は私たちの泥を落とし、垢を払い落として、練り聖め、より成長させて、主の勇士に作り変え続けてくださったのではないかと思います。
 私たちが知らなければいけないのは、「人生の中心を主のみにし、主だけを慕い求める」ということです。
 今、いろんなことが日本で起きていますけれども、これは日本全体に対する神の訪れだと思うのです。「物質は意味がありませんよ。本物を求めなさい。本物の神を求めなさい」という、日本全体に対するメッセージであります。
 私たちはこのメッセージを真剣に受け取らなければなりません。特に何処が受け取らないといけないかというと、日本の教会ではないかと思います。教会が主のみを求めていく必要があるのです。

 イスラエルとは、教会を表します。二十年になった時に、「イスラエルの全家は主を求めていた」とあるように、新城にリバイバルが起きるために何が必要かといったら、新城教会に属する全ての兄弟姉妹が、激しく主を求めるようになったら、必ず、教会にリバイバルが起きるのです。私たちは本気で主を求めなければなりません。
 みなさんの頭の中をいろいろな事柄が占領しているかもしれませんが、それらを排除して、主のみを求めるように変えていただきたいのです。それがある意味、試練から逃れるための近道です。
 いろんなことがあって、やがて価値観が崩れ、主だけを求めるように変えられることも感謝ですが、そこには痛みが伴います。聖書は、事前に情報を与え、「主だけを求めなさい」と語っています。主だけを真剣に求める時に、そこに成長があり勝利があります。

 今、日本は大きな試練の中にあります。震災後、四ヶ月くらい経ちましたけれど、未だに福島第一原子力発電所の問題は解決していません。そして、今どういう状況になっているのか、国民にはあまり情報がありません。しかし現在、日本はかなり危険な状況だと私は思うのです。
 先週、一つの大きな発表がありました。発表というか指摘があって、日本が揺れています。もうご覧になった方もおられるかもしれませんが、七月二十七日、衆議院の厚生労働委員会に参考人として意見を述べた、東京大学のアイソトープ総合センターの所長の児玉龍彦という人物が語った事柄は、大きなインパクトがありました。今、インターネットでその映像が流れていて、見ると本当に怖いです。日本は、これからどうなってしまうのかと。
 放射能は見えないので、あまり意識できないのですが、彼の語っている映像を見たらいいと思います。恐怖のためではなく、私たちは今、主を求めなければいけない時が来ていることに気づかされると思います。
 原発が壊れたことで、どのくらいの放射能が出たかを話しています。広島に原子爆弾が落とされ、一発で二十万人の人たちが死にました。今回の事故を、広島型の原子爆弾に換算すると、どのくらいの数だと思いますか?広島では二十万人も死んだのですから、今回はその三分の一位かと思うかもしれません。しかし、今回放出された放射能の総量は、熱量からの計算によると、広島型の原子爆弾の「二十九・六個分」だというのです。そして、ウランで計算すると原子爆弾「二十個分」相当が放出されているというのです。日本に、原爆が三十個くらい落ちたのと同じくらいのことが起こったのです。
広島の原爆は一年経ったとき放射能残存量が千分の一になったそうです。しかし福島原発の放射能は質が悪いらしいのです。一年発っても、十分の一程度にしかならないというのです。だから、シリアスな重大な問題です。彼はそれを指摘し熱弁していました。

 私たちは現実を知って祈らなければなりません。だから、午後はそのビデオを見せます。そして、主だけを真剣に求めてなくてはいけないことに気づいて、真剣に主を求めたら、かならず、主は助けてくださいます。日本も助けてくれると信じます。
 でも、それを怠るとどうでしょうか?やはり、更なる試練が日本を襲い、主だけを求めるようにさせられるのではないかと思います。それでは楽しくないですよね。いろんな優先があるかもしれません。もちろんそれを優先してはいけないということではありません。しかし、それはちょっと横に置いておいて、未来のためにも主を求める時、必ず主はこの国を哀れんでくださると信じています。また、今がその時であることに、気づかなければならないと思います。

 主を信じる者たちに、主は特別扱いしてくださいます。今から十年以上前の話ですけれど、私のアメリカ人の友人が突然神様から幻を見せられたそうです。夜中に泣きじゃくりながら、電話がかかってきました。それは日本に地震が起こった幻でした。大きな地震が起こって、街がぐちゃぐちゃになって、人が逃げ惑い大変な状況が彼の目の前に、突然現れたそうです。あまりにもびっくりし、たいへん怖かったというのです。でも、彼がこう言っていました。そんな大混乱の中にも祈っている人たちの姿が見えたというのです。クリスチャンの姿があったというのです。そこには天からカプセルのようなものが降りてきて、その人たちを包んでいたというのです。そして、そのカプセルの中には大きな平安があったというのです。
 当時私はただ、ふーんと人事のように聞いていましたが、そういえば彼がそう言っていたな、と近頃思い出しました。彼はおよそ幻を見るような男ではなかったですが、突然、彼にそんな幻が現れたのです。それは今の私たちために、主が準備し、情報を与えてくださったのかもしれません。主に信頼して行く時に、主は、私たちを助けてくださいます。
マルコ十六章十七節~十八節、

『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』

 ここに、『たとい毒を飲んでも決して害を受けない』と約束されています。
食品関係においても、何が安全なのかわかりません。しかし私は、今こそ和牛を食べる時だと思っています。なぜなら、普段では食べられない和牛が安いですから。私はそういう者ですけれど、でも、中にセシュウムが入っているんじゃないかと怖いです。ぶどう一粒食べるのだって、何かが入っているんじゃないかと怖いです。昨日、ビデオを見たらさらに怖くなりました。けれども、「たとえ毒を飲んでも決して害を受けない」とあります。
 また、ダニエルとシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴという仲間たちがバビロンにいました。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は偶像礼拝をしなかったことで、ネブカデネザル王に捕まえられ、燃える炉の中に投げ込まれました。しかし何が起こったかというと、ダニエル書三章二十三節~二十五節、

『シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」』

 今日本は、目に見えない炎の炉の中に投げ込まれたような状況かもしれません。これから数年後、その結果が出て来るとその教授は力説していました。それはわかりません。何もなければいいですが。
 けれども主を信じる者たちはシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように、火の中に投げ込まれたとしても、なんの害も受けないと約束されています。三人が投げ込まれましたけれど、もう一人の人が火の中を共に歩んでいました。「それは神々の子のようだ」と。これは旧約聖書に現れたイエス様の姿だろうと言われます。私たちと共にイエス様が炎の中を歩んでくださいます。その火はあなたに燃えつきません。
 でも、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはどうして、そのような勝利を勝ち取ることができたのでしょうか?彼らは、偶像の神々ではなく、主のみに仕えていました。主のみを真剣に求めていました。その態度がぶれていなかったのです。ゆえに助けられたのです。

二十年目にイスラエルの全家は主を求めていたとありますが、私たちも真剣に主を求めようではありませんか。その時、必ず、主は来られるのです。
 最後に、ホセア書六章三節の御言葉を読みたいと思います。

『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。』

 この箇所をいろんな聖書の訳と合わせて、私流に訳し直してみました。私たちの教会にはギリシャ語ができたり、ヘブル語ができる方々がおられますから、間違っていると言われるかもしれませんが、滝元順訳は、
「主を知ることを真剣に試してみましょう。そうすれば、朝になると太陽の光が必ず輝き始めるのと同じくらい確かに、またイスラエルの秋と春には雨期があり、必ず雨が降るのと同じくらい確かに、主は私たちのところに来られます。」と訳しました。分かりやすいでしょ?
 夜が来たら絶対朝が来る。また、イスラエルは雨が秋と春には降るのですが、それは絶対に確かなことなのです。それと同じくらい確かに、主はあなたの所に来られますという、百パーセントの約束です。

 二十年の試練の中、イスラエルは長い年月かけて訓練されて、主を慕い求める民に変えられました。その時、主が来て、敵を追い払い、大きな勝利が拡大しました。この原則は、昔も今も変わらないはずです。私が主だけを求めて勝利の主に目を留めて行く時、必ずこの国に勝利がやって来ます。
 私たちは、国の現実をしっかりと見据えると共に、真剣にこの国の復興、すなわち見える復興ではなく、見えない世界の復興を教会が請け負っていかなければいけないのです。そんな時が来ていると強く思わされる今日この頃です。

 原子力の問題も先ほど話しましたように、大変シリアスです。私はなんでこれを強調するかというと、三月十一日、地震があった日、私は韓国にいました。すぐに神様の前に出て祈りました。「この地震に関して何を祈ったらいいんですか」と祈りました。その時に主が語られたのが、「浜岡の原発に行って祈って来い」ということでした。それで私は静岡空港から、すぐにそこに行って祈りました。あの浜岡は止まったけれど、ただ止まることを意味していたのではなかったと思うのです。この地震で一番大きなテーマとなるのが、原発問題だから、神様は事前に祈りを要請されたのではないかと思います。
 今後どういう状況が訪れるのかわかりませんけれど、いずれにしても、主からの情報を受け取って祈る時、その方向性も変えられていくのではないかと思います。
先週も「真剣に祈ったら台風が向きを変えた」と言いましたが、自然に変わったのかどうかわかりませんけれど、祈った私たちにとっては励ましでした。
 主の民が真剣に主の前に出る時に、主を慕い求めて行く時、状況が変わります、と預言的に教えてくださったと信じています。
優先順位を主イエスを中心にして、人生を送ろうじゃありませんか。たった一度しかない人生ですから、イエス様を中心にして行くなら、必ずその先には希望があります。

 今から聖餐式を行ないますが、イエス様は私のために十字架にかかって死んでくれました。私は七月三十一日に、はっきりと心に焼き付けられました。この愛を現してくださった主に、仕えていこうじゃありませんか。主のみを激しく求めて、この国の回復のために用いられる教会になっていきたいと願っています。
 最後にお祈りをして終わりたいと思います。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。二十年が経って、イスラエルが主を求めていたとありますけれど、私たちも霊的戦いが始まって二十年目に入りました。この時こそ、主を求める時ですから心から感謝します。主よ、どうか私たちに、あなたに対する愛を深めてください。あなたを心から求めることができますように。私たちの中心を、どうかあなたにしてください。他の物で満たされることがないようにしてください。あなたを中心として歩むことができますようお願い致します。
 これからの日本のために、私たちが何を祈ったらいいか教えてください。イエス様の御名を通して、勝利を宣言して、御前に祈りをお捧げします。アーメン。