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『聖霊の油注ぎを求めよう』

2011.11.6(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
イザヤ書61章1節〜3節

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

 ハレルヤ!みなさんの前でお話しできますことを、心から感謝します。人生には突然の出来事があります。しかしイエス様は心傷ついた者をいやすために来てくださったと今、聖書から読みました。私たちにとって真に必要なものはそんなに多くはないのです。大きな地震があって全てを失った方が話しておられました。「失ってみて初めて、人生において必要なものは多くはないと気づいた」と。一番大切なものは何か。それはイエス・キリストです。イエスさまが共にいてくださるのです。先ほども「あなたが共にいてくださる」と素晴らしい賛美がありました。最も素晴らしいお方、イエス様を礼拝できる特権を心から感謝します。

 今日は雨が降って、足下が悪い中、教会に来るのは大変だったと思います。集まってくださり、感謝します。先週は運動会ということで周到な準備をしていたのですが、なんと始まる直前に雨が降ったということで、大変残念でした。また、今日は青空賛美大会ということですが、またもや雨が降っています。「青空じゃないぞ」という感じですが、今日は「橋の下賛美大会」に変更されるらしいです。しかし、外に出て主を賛美することは、この地のリバイバルのために大変重要だと思います。

 時に主は、国の権威、権力まで使って良いことをしてくださいます。新城教会は大変田舎にありまして、来にくい地理的条件があるのですが、感謝なことにまもなく新東名が出来ます。みなさん、どんなルートかご存知ですか?これが完成しますと、なんと新城にインターチェンジが出来るのです!そうすると、遠方の方々にとってはたいへんメリットがあります。そのルートをお見せしたいと思います。先週、私は初めてルートを知りました。

新東名ルート.gif

 こんな感じです。来年の初夏には浜松の引佐まで開通するみたいです。島田からも来ておられますので、良かったですね。近くなります。やがて豊田や名古屋からも近くなります。国まで動かして素晴らしいことをしてくださいます。ルートを見たら、なんだかわくわくします。これから新城の未来も明るいぞ!という感じです。神様は、見たことも聞いたこともないことを私たちにしてくださいます。
 『貧しい者に良い知らせを伝え』とありますけれど、新東名は「良い知らせ」です。神は私たちに「良い知らせ」を準備されています。

 イザヤ書六十一章は、誰のことを語っているかのというと、『神である主の霊が、わたしの上にある。』の「わたし」は、「イエス・キリスト」のことです。イエス様は、生まれる何百年も前から、生まれることが預言されていました。私のように「間違って生まれて来た」者とは違います。
 以前にも話しましたが、私は間違って生まれてきた者です。なぜなら、私の母は、インドネシアでクリスチャンになったのですが、なんでインドネシアに行ったかと言いますと、母の旧姓を斉藤というのですが、斉藤清子という人物が二人いる中、実は母とは違うもう一人の斉藤清子さんがインドネシアに行くことになっていたそうです。しかし政府が間違えて、母をインドネシアに送ってしまったのです。それで母はクリスチャンになり、やがて教会で父と会って結婚して、私が生まれたのです。ゆえに私は、間違って生まれた男です。
 しかし時には間違いもいいのです。人生の中でも「あぁ!間違っちゃった!」という時もありますけれど、その間違いさえも使って神は豊かに祝福を下さるのです。
 「間違って教会に来た」という方もたまにはおられます。しかし、その間違いが良かったわけです。また、「私は間違いを犯してしまた。心傷ついて教会に来た」という方もおられるかもしれませんか、それが良い知らせへと変えられるのが、福音です。

 ここに「良い知らせ」と書かれていますが、これが「ゴスペル」と呼ばれる「福音」と訳されている言葉です。「良い知らせ」は、誰に伝えられるのかというと「貧しい者たち」に伝えられるのです。
 今日、みなさんは富んでおられますか?それとも貧しいでしょうか?朝のニュースを見ましたら、生活保護を受けている人が、戦後最大になったというのです。現在、二百五万人だそうです。戦後一九五一年に二百四万人という時代があったそうですが、今月それを上回る「二百五万人」になったそうです。今、日本が貧しくなっているのです。なんでこんな風になったのだろうか、と思います。しかし、貧しさの中に「良い知らせ」は伝えられるのです。

 貧しさを体験すると、神に対して目が開かれます。神を心の底から呼び求める気持ちになります。今日みなさんの中で、「私は貧しさを覚えています。困難な中にいます。」という方がおられたなら、ある意味、それはチャンスです。神と出会う大きなチャンスです。
 『貧しい者に良いしらせを伝え、心の傷ついた者をいやすためにわたしを遣わされた』と預言されています。イエス様は、この地上に、特に、貧しい者たちに良い知らせを伝えるために来てくださったわけです。
 「良い知らせ」が福音であり、救いです。イエス・キリストを信じる者たちには「永遠のいのち」を与え、「暗闇から解放」するという意味があります。

 「良い知らせ」というキーワードで聖書を見ていきますと、クリスチャンにとって「よい知らせ」とはなんであるかを学ぶことができます。
 聖書の世界観・価値観は、一般とは全く逆の世界観、価値観です。今も、『貧しい者に良い知らせが伝え』とありましたけれど、マタイの福音書五章一節〜四節に、こんな言葉があります。イエス様が語られた言葉です。

『この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。』

 普通、貧しかったら、幸せとは言えません。「富んでいるほうが幸せです」と言うはずです。しかしイエス様は、「貧しいほうが幸せです。」と言われ、また、「悲しんでいる人が幸せだ」というのです。
 先ほども悲しい知らせの証しがありましたけれど、時に、心くじかれるような悲しい知らせを聞いたりします。しかしそれがまた、人生にとってチャンスとなるのです。なぜなら、『その人たちは慰められるから。』と約束されています。それは神の超自然的な慰めを体験できるからです。
 「良いもの」とは究極的にはなんでしょう。それは「聖霊の油注ぎ」のことを指しています。
 メッセージのタイトルを「聖霊の油注ぎを求めよう!」とさせていただきましたけれど、イザヤ書六十一章一節〜三節、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。』

 イエス様がこの地上に来た目的は、人々に救いをもたらすと共に、聖霊の恵み、聖霊の油注ぎをもたらすために来てくださったのです。それがイエス様の大きな役割でした。
 イエス・キリストを信じたら、永遠のいのちをいただくだけでなく、「聖霊の油注ぎ」をいただくことができるのです。この恵みを受けなければなりません。

 パウロがエペソという街に行った時、エペソには教会がありました。そこでどんな質問をクリスチャンたちにしたかが、使徒の働き十九章一節〜六節に記されています。

『アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と言うと、「ヨハネのバプテスマです」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。』

 エペソのクリスチャンたちは、大変真面目なクリスチャンたちでした。エペソという街は偶像で満ちている大変な街でしたが、そんな中でも御言葉に従い、信仰生活を送っていました。でも、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と聞かれた時、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞いたこともなかった」と答えたのです。その時に、パウロは聖霊の恵みを弟子たちに分け与えたわけです。

 聖霊の油注ぎは、クリスチャンがその事実を知り、積極的に求めて行く時に与えられるものです。そのような領域があることを知る時、与えられるのです。
 今、日本が貧しくなり、イエス様だけに望みがあることは間違いないのです。その福音を宣べ伝える為に、誰が用いられるのかといったら、それは主を信じている者たち、クリスチャンが用いられるのです。そのためには何が必要かと言うと、聖霊の油注ぎ、聖霊の力がどうしても必要です。日本のリバイバルのために、聖霊の注ぎを熱心に求めなければならない時が来ているのです。今日ここにいる一人一人が聖霊に満たされるなら、日本を変えることも不可能ではないのです。なぜなら初代教会においては、百二十人の上に聖霊が注がれた時、世界に福音が伝わったからです。聖霊の油注ぎの中に、大きな勝利が隠されているのです。

 かつてイスラエルにおいては、王が任命される時に「油注ぎ」がなされました。預言者がオリーブ油を持って来て、神の前に祈りを捧げ、それを王となる人物の頭にかけました。その瞬間、ただの男が、王となってその国のすべての権威を身にまとったわけです。
 聖霊の油注ぎとは何を意味するのか、それは「権威」を意味します。「神があなたに権威を授けます」という意味です。
 ただの男に油注がれる時、王となって国を支配する権威が与えられたように、私たちも聖霊によって油注がれ、神からの権威をいただくのです。
 「良い知らせとは、油注ぎ」です。マタイの福音書七章七節〜十一節、

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』

 ここに『良い』と二回でてきますが、私たちが求め、探し、たたく時、「良いものが与えられます」というのです。これと同じ内容が、ルカの福音書十一章九節〜十三節にあります。マタイもルカもそのことを取り上げています。

『わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』

 マタイは「良いもの」と表現していますが、ルカは「聖霊」というのです。イザヤ書六十一章に、『貧しい者に良い知らせを伝え』という、「良い知らせ」の究極的なものは「聖霊様」です。聖霊の油注ぎによって権威をいただくのです。それが旧約と新約が合わせて語っている「良いもの」です。
 そのためには、どうすればいいのか。それが『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』とあるように、「求める、探す、たたく」という、私たち側からの神様に対するアプローチが必要なのです。
 「求める、探す、たたく」とは何を意味するのか。マタイの七章は、六章の後半を受けて語っています。それは『神の国と神の義を求めなさい。』とあり、「主、御自身を熱心に求める」ところから、七章に繋がっています。

 またルカ十一章は、主の祈りに続いて語られます。先ほども共に祈りました。「天にまします私たちの父よ。御国が来ますように。御心が天になっているように地にもなりますように」という祈りから「求める、探す、たたく」に繋がっています。それは、聖霊の油注ぎをいただくためには、「祈りが必要」と教えているわけです。
 聖霊に満たされたクリスチャンになるためには、一体、何が必要か?一言で言えば、「祈りが必要」です。私たちが祈り深い者にならなければ、聖霊の油注ぎをいただくことはできないのです。
 日本のリバイバルのためには、上からの権威が必要です。そのためには「祈り」が必要です。

 私たちは「求める、探す、たたく」という御言葉を、文脈を無視して、自分のために使う傾向があります。いつも語られているように、聖書は前後関係が大切です。どうしてこのような言葉が語られたのか、ルカの福音書十一章五節〜八節を読むとわかります。

『また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」』

 それに続いて九節から、「求めなさい。探しなさい。たたきなさい」となります。誰のための聖霊の力かというと、自分の欲望の実現、自己実現のためではなく、「友人が旅の途中、我が家に来たのだが、出してやるものがない」というところから真剣にパンを求めているのです。それは自分のためではなく、友人のために最大の犠牲を払う中で、探し、求め、たたくという祈りが推奨されているのです。
 どのようなときに聖霊の油注ぎと権威が与えられるのかというと、自分のためではなく、他の人たちの祝福を求める時です。
 私たちの周りには、パンを必要としている人たちが多くいるはずです。また、心の貧しい方々が多くおられるのではないでしょうか。霊的にも、精神的にも、肉体的にも多くの貧しい人たちがいます。「その方々のためのパンをください!」と真剣に求め、探し、たたいて祈りなさいと教えています。そうしたら、良きもの、聖霊様が来て下さいます、と告げているのです。

 私たちは祈りの中に力があることを信じています。みなさんも、今までの人生の中で、神が祈りを聞いてくださったという体験があると思います。それは嬉しいことですね。
 でもある時は、「なんだ、一生懸命に祈ったのに聞かれないじゃないか」と、失望する時もあります。しかし、祈りとは、自分のためではなく、他の人たちの利益を求める中で実現するものなのです。

 私は先々週から先週にかけて、いろんな場所で奉仕をさせていただきました。十月二十四日には、「浜松アグロー」という女性たちの集りで奉仕をさせていただきました。各地でアグローという女性たちの集会が持たれています。聖霊の火で燃えている女性たちが、各地で祈り会を持っているのです。この教会からも奉仕してくださっていますが、私は日本のアグローには人気がなく、招かれなかったのですが、やっと招いていただきました。霊的戦いセミナーをさせていただきました。アグローの方々は聖霊の火に燃えていますから、そういう場所で奉仕するのは嬉しいです。私は韓国のアグローでは、何回も奉仕して、来年一月には大きな大会で奉仕することになっています。
 次の日、二十五日には、御殿場で行なわれた「ヨナ祈祷会」という「日本と韓国が一つとなり、日本のリバイバルのために祈る」大会に呼ばれて行きました。現在、韓国から大勢の宣教師が日本で働いていすけれど、なかなか日本宣教は難しいのです。「これは祈りしかない。祈りの中で聖霊様が来てくださる。その為には日本教会と共に祈る必要がある」と、日本人と韓国人が集まって祈る為の集会でした。大勢の方々が御殿場の国民宿舎の大ホールに集まっていました。

 私は二十四日、浜松で奉仕をし、その足で御殿場に行きました。そして近くの安いホテルに家内と泊まって、朝、出かけようと思った時でした。
 私は六十歳ですが、聖書の引照まで読めるのです。すごいでしょう。威張っていますが、若い人は「当然だ」と思うかもしれません。しかし、段々と若いみなさんも老眼になるわけです。私もそのはずですが、見えるのです。なぜ見えるかと言いますと、コンタクトレンズという素晴らしい道具が発明されたからです。それも遠近両用コンタクトレンズです。遠くも近くもよく見えます。
 朝、コンタクトレンズをはめようと思ったら、「あれ?片方のレンズがないじゃん!」ということになったのです。コンタクトレンズを使っておられる方はわかると思いますが、片方だけレンズが入っていて、一方入っていないほど悲惨なことはありません。バランスが取れないのです。前の晩まで、確実にあったのです。自分でレンズを外してケースに入れましたから。でも、出かける寸前になって片方がないのです。高級ホテルではなく、たいへん狭いホテルでした。探せば絶対にあると確信したので、私はあわてませんでした。家内は目がいいですから、家内が見つけてくれると思いました。家内も「任せて!」と言って探してくれました。いつもはだいたいあります。
 しかし、その日はいくら探しても見つからなかったのです。だんだん不安になってきました。「なかったらどうしよう。今日メッセージできないじゃないか…」と思いました。
 でも感謝なことに、いつも持って来る洗面道具と違った袋をカバンに入れていたのです。なんとそこに、古いレンズが一セット入っていたのです。「よかった」ととりあえず安心しました。しかし家内がこう言いました。「祈って探そう。」やっぱり何かあったら、すぐに祈った方がいいですよね。
 「夫婦で心を一つにして」祈ったら祈りは聞かれるのです。聖書の中には『心を一つにして祈ったら祈りを聞く』とありますから、「主よ、今から奉仕です。その為に困りますからコンタクトレンズを出してください!アーメン!」と真剣に祈って探したのです。
 さて、みなさん、コンタクトレンズはあったでしょうか?なかったでしょうか?なかったら、どうしてこんな証しをするでしょうか。
 しかし、実はなかったのです。すごくショックでした。家内がこういうのです。「神様の働きをしようとするのに、祈っても、部屋の中に絶対あるはずのコンタクトレンズが見つからないようじゃ、今日の集会も不安だね」というのです。本当にそうだと思いました。
 「祈ってもコンタクトレンズ一枚を見つけさせてくれないのに、日本と韓国の一致の祈りが聞かれるはずはない…」と。そんな事では大きなテーマを扱うことはできないと思いました。
 「イエス様、なんということですか。コンタクトレンズ一枚も見つけさせてくれないのに、どうして、あなたの為の働きができますか…」と暗い思いになりました。

 私の出番は朝の九時からでしたので、あきらめて会場に行きました。それでも一応、ホテルのフロントに「コンタクトレンズをなくしたので、探してくれますか?」と頼みました。そんなの無理だというような顔をしていました。私の携帯番号も教えて、きっと後から祈りが答えられ、電話がかかってくるだろうと期待していました。掃除のおばちゃんが「あったー!」と見つけてくれると期待していました。「よりによって、なんで今日なくなったのだろう…」と思いながら会場に行きました。

 でもコンタクトレンズをなくしたことも、主は益と変えてくれました。私は集会でこう話しました。「みなさん、今朝、私にはショックなことがありました。それは、コンタクトレンズを片方なくしたからです。一方がないとぼやけてうまく見えないのです。日本と韓国は両目のコンタクトレンズのようです。片方をなくしたら、うまくいかないのです。両国が揃ってうまくいくのです」と、なんか突然、そんな話が口からでてきたのです。「俺、うまいこと話しているな〜」と自分で話しながら感心しました。後から家内も「あんた、本当にうまいこと言うね〜。マイナスをうまくプラスに変えて使ったね」と褒めてくれました。
 そういうことで、「祈りが答えられなかったのは、この為だったのか。」と思いました。自分にとっては絶対に必要なコンタクトレンズだけれど、神様はレンズよりも、日本と韓国が一致するのは、両目揃ったコンタクトレンズと同じということを教えたかったのか、と思いました。片方をなくしたら、本当に不都合だということを、身を持って体験させて下さったと理解しました。それで、「主よ、心から感謝します。一枚くらいコンタクトレンズなくしても、また買って来ます。しかし一枚一万円は痛いな…」と思いました。コンタクトレンズを使っていない人にはわからないかもしれませんが、使っている人は私の気持ちがわかると思います。
 私はすぐに「一枚レンズをなくしたけれど、作ってくれる?」と注文しました。でも、古いのを持っていましたからよかったです。昔のレンズなので遠近両用ではなく不便でした。家内の老眼鏡を借りて事なきを得ました。
 「なくすことも、たまにはいい事がある」と思って、完全にあきらめて家に帰って来ました。

 でも、次の日の朝、コンタクトレンズのケースをもう一度眺めました。「ここに入れたはずなのに…」と、よく見たら、なっ、なんとコンタクトレンズがタコの吸盤のようにケースの底にくっついていたのです。完全にくっついてケースと一体化していたので、見えなかったのです。家内はそういうこともあり得ると思って、鉛筆でケースの底をつついてかき混ぜたそうです。それでもわからなかったのです。私はケースを捨てようと思っていたのですが、よく見たら、底にへばりついていたのです。
 なんと、この事件にはこのようなオチがあったのです。やったー!と主に感謝しました。イエス様は絶対に祈りを聞いてくださる神様だ確信しました。そんな日常生活の小さなことかもしれませんが、私にとっては大きなことでした。
 そして、祈りというのは、自分のためというよりも、誰かの益となるために使われると思いました。あの時、神様はコンタクトレンズをケースの下にくっつけておいて、韓国と日本の関係について語るように導かれ、失望に打ちひしがれている私を、最後にどんでん返しで喜ばせる作戦だったのです。
 「おまえ、もう一回、ケースをじっと目をこらして見てみろ」と天使が語ったようです。それで一万円得しました。本当に感謝しました。
 みなさん、祈りの答えは、私たちが考えてもみない方法で終結するのです。
日本のリバイバルのために真剣に祈っていますし、家族、親族の救いのため、問題解決のため、真剣に祈っていますが、なかなか答えが来ないように感じる時があります。しかし、知らないうちに主は、自分だけでなく、周りの人たちの祝福も含めて答えを準備されているのです。

 「友人が旅の途中、家に来たのだが出してやるものがない。だから、ぜひともパン貸してください」と、友達が腹をすかしている、なんとか、なんとか、というひたむきさに対して、良きもの、すなわち聖霊様が訪れるのです。

 日本は貧しくなっていますけれど、この状況を変えるためには聖霊の力しかありません。それは、クリスチャンが自分のためではなく、ひたむきに「パンを貸してください」と求め、探し、たたく祈りの中で与えられ、リバイバルは実現すると信じます。その中で主は油注ぎを与え、権威を与えてくださるのです。

 権威というのは、自分のために利用するとたいへん危険です。近頃、アフリカ、リビアの独裁者が死にました。ガダフィという人物です。その国には、憲法も法律もありませんでした。彼の思いがすべてでした。彼は自分のためだけに権威を使いました。本当に危険な国ができました。
 しかし聖書の語る権威とは、自己実現のためではないのです。周りの祝福と解放のために権威を授けると教えています。「そのためにあなたは求めなさい」というのです。
 主を求める中、自分では予期しない方法で、祈りは答えられるのです。私の好きな御言葉は詩篇二十三篇です。何度も紹介させていただいているのですが、みなさんでご一緒に読んでみたいと思います。これは祝福の原則です。

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 これはクリスチャンのための素晴らしい約束です。特に私が好きなのは、五節です。『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。』という箇所です。
 油注がれるのは、どこかというと、「敵の面前」で油注がれるというのです。教会に来られる前提は、先ほど申しましたように、いろんな問題があり、周りには敵がいっぱいで、問題という敵であったり、いろんな敵がいると思うのですが、それで教会に来ることが多いのです。
 しかし神はどのようにして、私たちを回復してくださるのかというと、一気に回復してくださることもありますけれど、それ以上に、主がとられる方法は、「敵の目の前で油を注いでくださる」ということです。依然として目の前には敵がいるけれど、敵の目の前で油注ぎ、権威が与えられ、敵に立ち向かいながら、徐々に権威が増大し、やがて敵を見下すほどになるのです。そして、敵の面前でも食事が出来るようになるのです。

 以前にも話しましたが、悲しいことがあったり、問題があったりすると、食事が喉に通りません。食欲がなくなることがよくあります。私でも食欲がなくなるのです。「嘘言え!」と時々言われますが、でもあります。「あのことを聞いちゃったから、ご飯食べたくない・・・」ということがよくあります。大きな問題ほど、そういうことが多いのかもしれません。
 しかし主は、敵が目の前にいても、今まで食事が喉を通らなかったのが、喉に通るようになり、徐々に敵を見下すほどの権威が与えられるのです。そして、やがて杯はあふれるのです。聖霊の油注ぎはそのようなものです。
 今日、みなさんの目の前にまだ敵がいるかもしれません。しかし徐々に、徐々に、徐々に、敵を見下すほどに権威は増大していくのです。その過程で、自分中心であったのが、神中心に変えられていくのです。

 昨日、教会に来られている一人の男性の方とお話ししました。その方が教会に来られた時は本当に悩んでいました。鬱病で苦しんでおられました。また、からだの病もありました。なぜ鬱病になったのかと聞くと、会社でいじめにあったからです。朝起きて考える事は死ぬことばかりだったというのです。
 しかし教会に来て、「心の貧しい者は幸いです」と聞いて、「この貧しさも大事なんだ」と気づいたのです。また、「あなたの敵を愛しなさい」と聞いて、聖書の御言葉を実践するようになったというのです。
 彼には、周りに多く敵がいました。そんな中でイエス・キリストを信じ、御言葉を実践するようにしたそうです。そしてだんだん回復したのです。今は本当に元気です。
 昨日私の所に来て、「順先生、すばらしいことがあるんですよ」というのです。なにかと聞くと、「私は会社の中で、優良社員として表彰されることになったのです」と言われました。彼は会社でプレッシャーを受けて大変だったのですが、そんな中でへりくだることを学び、人々に仕えることを学んだのです。そうしたら、知らないうちに敵だと思っていた人たちが敵ではなくなって、周りからも認められたのです。先日、人事課から電話がかかってきたそうです。「あなたは優良社員と認められました。表彰式がありますから、その日はちゃんとあけといてください」と言われたそうです。「本当にイエス様を信じるってすごいですね」と報告してくださいました。敵の目の前で、神は油を注がれるのです。

 教会には、毎週のようにドラマがあります。教会に最初に来た時にはいろんな問題があるかもしれないけれど、敵の面前で段々と権威が増大していくのです。祈りも、まずは「そこから抜け出したい」という自分中心の祈りでも、神は周りを気遣っておられ、徐々に全体を勝ち取るために変えられていきます。
 先週、もう一つ素晴らしいことがありました。実はこの教会には遠くからも来られています。実家が、本当に山深い村の方がおられます。人間よりも猿の方がずっと多い村です。新城も似ていますけれど、すごい田舎です。その村出身の方がイエス様を信じて教会に来られています。そして「親族にも伝道したい」と願われました。
 その村は、古い宗教形態が何百、何千年と残っているようなところで、村の一年のスケジュールはすべて宗教行事で動いています。誰かがクリスチャンになったら、家族から追い出されてしまうような村なのです。
 その人の家も十何代も続いているような家で、普通では絶対に動かない家なのです。しかし、娘がクリスチャンになったのです。それで自分の村のために重荷を持って祈るようになったのです。そういう場所は霊的に覆われていますから、まずは覆いを取る祈りをしないといけません。教会は真剣に霊的覆いを取る祈りをしました。そして、その人の実家も訪問して伝道したりしました。そうしたら、だんだんと実家が変わってきたのです。
 何ヶ月か前、その家の親族代表たちが「キリスト教について教えて欲しい。話をしたい」と言って、ずらりやって来たのです。私は日曜日の午後のプログラムにも出たいのですが、だいたい午後はそういう時間に取られることが多いです。
 ある日曜日の午後、親族一同が、私に文句を言う為なのか、いろいろ聞きたいと言って来るというのです。何を言われるのかちょっと心配でした。喧嘩しないように祈りながら「主よ、どうか守ってください。知恵を与えてください」と、その方々を迎えました。やっぱりクリスチャンになったら、先祖供養してくれないから困るというようところがあったみたいです。
 でも、私はいつも話しているのですが、「日本人っていうのは、いつも先祖先祖、先祖の霊が来るって言いますが、それは本当に先祖の霊ですか?先祖のふりをした悪霊だったらどうしますか?」と話します。親族一同にその話をしました。「日本人は、人が死んだら魂が地上に残るって考えますけれど、本当ですかね?聖書は、天国か地獄のどちらかと言っていますよ。相手が何者かをしっかりと確かめ、見極めないと大変な事になりますよ」と話をしました。
 するとその中の一人が「そうかもしれない・・・」という話になったわけです。なんでその人は共感し、そういうことを話し始めたかというと、そのおばちゃんは葬儀屋に勤めているそうです。その葬儀屋では、変な霊現象がいっぱい起こるというのです。葬式の後、焼き場で焼いたはずの人が室内を通ったりするそうです。社長はいつも「塩を撒いてこい。よく拝んで来い」とか言って、会社全体で恐れているそうです。それで「あれは死んだ人じゃなくて、何か不気味だ」というのです。「そうですよ。そうですよ。」と盛り上がって、最終的には、文句を言いに来たかと思いきや、「一族でイエス様を信じたい」ということになったのです。それで全員が心を合わせて最後には、「私たちはイエス様を信じます!」と宣言して帰って行ったのです。
 その後何が起こったかといったら、聖霊様が働く時は動きます。なんと一族でクリスチャンになることが家族会議で決まって、ただ単に決めただけではありません。村には一族の墓が十六代ずらっと並んでいるのです。広い墓地の中にいつの時代のものかわからないような墓が並んでいるのです。
 さて、今から話すことは誰もが出来ることではなく、将来の参考のためにお話しするのですが、なんと、キリスト教式の墓地に変えてしまおうと決めたというのです。信じられますか。ちょっと証拠をお見せしましょう。

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この気持ち悪い石塔群、苔が生えている古い一族の墓です。次は、

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これは撤去作業です。

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全てなくなってしまいました。今、キリスト教式の墓を製作中です。「どういう墓を作ったらいいか?」と聞かれたので、「いくら墓石に十字架を刻んでも、石塔みたいにすると日本人は手を合わせて拝んでしまうので、なるべく手を合わせにくいように、低く平らな墓にしたらどうですか?」と言いました。すると、「そうします」と言われました。周囲を整備して墓をきれいにしたら、村の評判になるはずです。なんとも、すごいですね。
 私たちの教会には墓撤去の業者さんもいます。寺にも行って話を付けました。これは十月二十九日のことです。やがて素晴らしい墓ができます。
 みなさん、クリスチャンになっても、先祖代々の墓を変えるのはなかなか大変だと思うかもしれません。しかし、これを見たら勇気が湧きます。こんなことが起きるのですから、神にとって不可能なことは決してないのです。まさしく敵の面前で、権威をまして、最後には、家族全員が主を信じる勝利に結びつくのではないでしょうか。
 このように力強い神様と一緒に行動できるとは、何とも素晴らしいじゃないですか。大きな拍手を主に捧げましょうか。ハレルヤ!

 日本の墓がクリスチャン式になったらすばらしいです。それまでには戦いがあるかもしれないけれど、新しい世代に対して大きなインパクトだと思います。「誰がこのように墓を変えたんだ」と。それは、先祖の中で、一族がクリスチャンになったからだ。後世になったら、必ずその人たちの勇気をたたえることでしょう。
 クリスチャン初代はまだ権威がないように、弱々しく見えるかもしれません。何が権威ですかと。しかし、いやいや、そうではないのです。そんな中でも主は油を注いでくださっています。油注ぎの中にいる時、知らないうちに主が準備して下さるのです。
 ですから、油注ぎを真剣に「求めなさい。探しなさい。たたきなさい」と勧めているのです。これは祈りの中で与えられるのです。みなさん、是非、主の前に真剣に求め、探し、たたいて祈りたいと思います。

 クリスチャン生活の中で大切なのは、自分と神との関係が確立されることです。それが重要です。そんな中で油注ぎを体験できるのです。
 私もこうして奉仕をさせていただいているのですが、絶対にこの祈りは主に聞いていただきたいという時には、必ず、主の前に出て、答えをいただくことにしています。その方法を最後に紹介して、終わりにしたいと思います。マタイの福音書六章六節、

『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』

 私たちが勝利を得る秘訣は、誰かにとりなして祈ってもらうのも、すごく重要ですが、まず基本として、自分自身に祈るための奥まった部屋がないといけないのです。『祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます』とあります。まずは祈りによって主と取り引きをすることです。「主よ。どうか助けてください!」と、求め、探し、たたく祈りをするのです。
 私の場合だと、いろんな問題がある時には、必ず外に出て、誰かと一緒に歩くのではなく、一人で歩きながら、誰もいない所に行って真剣に祈るのです。「主よ。今このような問題があります。答えを与えてください。御言葉を与えてください!」と、真剣に確信が与えられるまで祈ります。そうすると、今まで心がもやもやして暗いのが、だんだんと雲が晴れるように、明るくなるのです。そして、家に帰ってから、祈りながら御言葉を読むのです。「主よ。私に御言葉による確信を与えてください!」と祈りつつ、聖書を読むのです。そうすると、御言葉の中から主が語ってくださることを多く体験するのです。

 まず基本は、自分と神様との間に、祈りの部屋を持つことです。まず自分一人で、他の人に頼るのではなく、神様との間で、求め、探し、たたく祈りをして、御言葉を求めるのです。その時、主が勝利を与えてくださり、何をしたらいいのかについてもヒントをくれることが多いのです。その糸口を引っ張り出して行く時、見たことも聞いたことも思ったこともない勝利に結びつくことを多く体験するのです。
 聖霊の油注ぎを求めて、求め、探し、たたく者になっていきたいと思います。そのような一人一人が教会に集められたら、キリストのからだとして、さらに強くなって、街を勝ち取り、国を勝ち取る、リバイバルへと繋がらないはずがないと信じます。
 今週、みなさん。何かがあったら、一人で神の前に出て、真剣に求め、探し、たたいて祈ってみてください。そして、祈りつつ御言葉を読んでみてください。必ず、あなたに主は語ってくださいます。そして勝利を与えてくださいます。どんなに権威がないような状況に見えても、敵の面前で油注がれ、やがて敵を見下ろすほどに権威は増大します。あなただけでなく、周りが主を信じ、変えられるリバイバルに繋がると信じます。そのためにイエス様は十字架にかかって死んで、血を流してくださいました。そして、よみがえってくださいました。
 今日は心から聖霊の油注ぎを求め、最後に祈りつつ、聖餐式を持ちたいと願っています。一言祈ります。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめ、心から感謝します。あなたは私たちのところに良い知らせを伝え、油を注ぐために来てくださったことを心から感謝します。今日、すべての方々の上に、特別な祝福と勝利をお与えください。神の霊によって満たしてください。
 聖霊様、あなたを心から求め、探し、たたいて祈ります。敵を見下ろすほどに勝利を与えてくださるお方であることを心から感謝します。主よ、訪れてください。お願します。
 今、イエス様の十字架を心から感謝して聖餐式を持ちます。パンとジュースを聖霊によって、御言葉によって、あなたのからだとしてくださいますように。あなたと一つとなることができますように。今、祝福を宣言し、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。