HOME > 2011年バックナンバー > 12月 > メッセージ2011年12月4日

『福音、それは民全体の素晴らしい喜び』

2011.12.4(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
ルカによる福音書 2章8節〜11節

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。キッズ・ゴスペルの賛美は本当に良かったですね。クリスマスが来たな、と感じさせられました。早いもので、もう十二月になってしまいました。今週からクリスマス集会が始まるわけですが、十二月は、国民全体がイエスさまに対して心を開く期間です。期間限定ですが。この機会を是非とも活かして、クリスマスの真の意味を伝えていきたいと願っています。
 日本人は、年間三度宗教が変わると言われます。クリスマス・シーズンはどこに行っても「この国はキリスト教国か」と思うほどです。しかし十二月二十六日になりますと雰囲気は一変します。あっという間に様変わりして、神道になってしまいます。正月になりますと、みんな神社に行って、日本の神々を礼拝するのです。
 また、八月になりますと、盆が来て、仏教徒になるというように、ころころ宗教が変わります。しかし誰が本当の神であるのかを、本来は真剣に求めなければいけないのです。

 先週私は韓国で奉仕をさせていただきました。その時、韓国のある教会の先生が一つの映像を使いました。その映像がおもしろかったので、お見せしたいと思います。「Life is Short人生は短い」という映像ですが、人生は出産から始まります。最近も教会に新しい命が誕生していますが、先日産まれたばっかりなのに、人の子はあっという間に大きくなります。そして人生は意外とスピードが早いものです。私も今年で六十歳ですが、つい最近まで東郷西小学校に通っておりました。それは幻想の世界かもしれませんが、今でもランドセルを背負わされれば、東郷西小学校に行けそうです。また、東郷中学校にも登校しそうです。成長していない「僕」がいます。しかし本当に人生は早いものです。ちょっとショッキングな映像から始まりますが、心して見てください。これはどこかの国のゲームソフトのコマーシャルだそうです。




「Life is short人生は短い」という映像でした。「Play more」というのは「もっと遊べ」ということですけれど、lをrにして「Pray more」にして欲しいですね。
 みなさんの人生はどの辺を飛行中でしょうか?人生の終着点は墓場に入って終わるわけです。いやですね。でも、それは現実です。

 しかし人生は墓場で終わりではないのです。その続きがあるのです。聖書は「私たちの人生は墓場で終わりではない。その続きがある」と教えています。
 今日読んだ聖書の言葉は、希望の言葉です。羊飼いたちにイエス様誕生の知らせが届いた瞬間です。羊飼いたちは通常の業務で、羊を飼っていたわけですが、そんなただ中に、天の軍勢が現れて彼らに声をかけたのです。ルカの福音書二章九節を見ると、

『主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。』

と記されています。この体験は、彼らにとってそうとうの恐怖だったらしいです。通常業務のただ中に起こった霊体験ですから。突然、天の軍勢が現れたわけです。ひどく恐れるのはあたりまえです。しかし、その次に語られた言葉は、『御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」』と告げました。
 『この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来た』と言うのです。

 教会で良く使う言葉の中に「福音」という言葉があります。「ふくいん」という言葉は幸福の「福」と「音」ですけれど、なかなか読めません。「ふくおん」と読んでしまうかもしれません。先週、小学校二年生の国語のテストを見せてもらいました。漢字のテストでしたが、結構難しかったです。私も、ひょっとしたら書けないんじゃないかと心配するくらい、我々の時代よりもずっと高度な勉強をしていてびっくりしました。福音は「ふくいん」と読みますが、「福音」という言葉は教会でよく使われる言葉で一般ではあまり使われません。しかし使うとしたら、ニュースなどで、「癌患者に福音」だとか、「はげの人に福音」というように使います。それは普通じゃ絶対にできない事が、できるようになった、ある特効薬が開発されたとかいう意味で使われます。福音とは「Good News、良い知らせ」です。それは喜びの知らせです。
 『私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来た』と、最初にこの言葉が届いたわけです。

 人類は、アダムとエバから始まったのですが、アダムとエバが罪を犯してしまったゆえに、神と人類は敵対関係になってしまいました。人類は神様と正常な関係が持てなくなってしまったのです。
 時々私たちも、誰かと敵対関係になると、幸せではなくなります。心が重くなるし、元気がなくなってしまいます。一番敵対関係になってはいけないのが、人間を創ってくださった神様との関係です。しかしながら、なんと、初めの人間アダムとエバが神様と敵対関係になってしまったわけです。
 しかし、イエス様が地上に来てくださり、人として歩んで、十字架にかかって死によみがえってくださったことにより、人間が犯した罪の代価をすべて支払って下さったのです。それにより、神と和解が成立したのです。その結果、人類は神の前に自由に出る事ができるようになったのです。

 先週、私は韓国に行ったのですが、先週の月曜日「イムジンガク」という場所があるのですが、そこで行われた集会で奉仕しました。イムジンガクがどこにあるかを写真でお見せしたいと思います。

スライド1.JPG

 ここに白い線がありますが、韓国と北朝鮮の国境線です。韓国に行きますと、同じ国の中で南・北に分断しています。北朝鮮へは川を隔て、三十八度線を隔てて、自由に行き来は出来ません。同じ言葉を話し、同じ民族なのに行き来ができないのです。なぜならば、お互いに敵対関係にあるからです。しかしその和解のために、韓国の教会は真剣に祈っています。分断の原因の一つとなったのが日本でした。日本が一緒に祈らなければなりません。今回、分断に関わった国々のクリスチャンが一緒に祈りしましょう、という集会があって参加しました。イムジンガクの近くに、南・北が唯一話しができる「板門店」という場所があります。

スライド2.JPG

 付近には鉄条網があって、向こう側は北朝鮮です。

スライド3.JPG

 これが板門店です。昔、私は板門店と聞いて、中華料理屋かと思っていました。それは私の知識がなかったからです。板門店は北朝鮮と南が政治的な対話をする場所です。緊張感があるところです。その手前にイムジンガク平和公園があります。そこを会場に集会を持ちました。

スライド4.JPGスライド5.JPG

 これは日本時代の汽車です。帝国主義の時代、日本は満州まで続く鉄道を建設しました。それが戦争終結と共に、置き去りにされました。今でもその時代の汽車が展示されています。早く、和解がなされるように主に祈りました。

スライド6.JPG

 この橋は「帰らざる橋」といって、朝鮮動乱の時、北に行った人たちは二度と帰らなかったのです。また、北から南に来た人たちも、二度と帰ることができなかったのです。そんな複雑な場所でした。

スライド7.JPG

 これは私が撮った写真ですが、イムジンガクには悲しげなモニュメントがありました。この広場の一画を会場に集会をしました。

スライド8.JPG

 濃い霧が出ていて、北朝鮮はよく見えませんでした。それは両国の関係を象徴しているかのようでした。皆で真剣に、とりなしの祈りをしました。

スライド10.JPGスライド11.JPG

 私もメッセージを語らせていただいたのですが、これは舞台効果のスモッグではなく、自然の霧により、照明に筋が付いています。
 敵対関係になると、お互い行き来ができなくなってしまいます。しかし一番敵対関係になってはいけないのが、神と人の関係です。イエス・キリストを信じる前は、神とは敵対関係でした。しかしそこに和解がもたらされたのです。第二コリント五章十七節。

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』

 イエス・キリストを信じるとは、新しい創造です。人生には二度誕生日があります。それは自分が生まれた日と、もう一つは霊的に誕生した日です。今日ここにおられますほとんどの方は、すでにイエス・キリストを信じた経験がありますから、霊的誕生日もあるわけです。誰でもキリストにあるならば、その人は新しく創られた者だと、古いものは過ぎ去って、新しくなったと告げています。過去の悪しき人生はすべて過ぎ去って、新しい人生を与えてくださるのです。そして第二コリント五章十八節〜十九節、

『これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。』

 私たちがイエス・キリストを信じる時、まず第一に、自分と神との和解が成立し、神の前に自由に出入りできるのです。その結果、なんと和解の言葉を委ねてくださるというのです。
 大使という職業は大変重要な職業です。世界中に日本大使が遣わされています。私も韓国で日本大使館に行って、日本から派遣された大使と会ったことがあります。そこでいろんな話をしたのですが、名刺をもらったら「特命全権大使」と書かれていました。「全権大使」とは、彼の話すことは日本の意見となるわけです。大きな権限が委ねられているのです。
 その方に「韓国での大使の仕事は大変でしょうね」と言うと、「大変です」と言いました。「韓国はクリスチャンが多いのですよ」と言うと、「あっ、そうですか」と大使は知りませんでした。そんなことも知らないで、よく大使をやっているなと思いましたけれど、私は韓国のキリスト教界について教えてあげました。大使は、国からの全権を委ねられているわけです。

 みなさん、私たちはイエス・キリストを信じると、神の言葉の全権が委ねられるのです。聖書は神の言葉ですが、私たちが聖書を手にしていることは、天国からの特命全権大使です。神の言葉があなたに委ねられていて、それを人々に伝えるのです。それは和解の務めです。神様と和解させ、人とも和解させる務めが委ねられているわけです。
 特にクリスマスの時期は、全権大使として忙しく働く重要な時期です。この時にこそ一人でも多くの方を教会にお誘いしください。
 十二月二十五日までの限定期間ですが、日本人はキリスト教に対するマインドコントロールから解かれるのです。

 二週間前にも少しお話ししましたが、日本人は歴史の中でマインドコントロールを受けています。
 日本には現在、キリスト教文化がかなり浸透しています。クリスマスは国民的な祭りです。日本には多くの祭り文化がありますが、国民全体の祭りはあまりありません。しかし、クリスマスはどうでしょうか。国民全体で祝う国民的祭りと言っていいのではないでしょうか。

 ある時一人の人が教会に来られました。家族は全員クリスチャンではないと言っていました。でも、クリスマスだけはやると話していました。どのようにやるのかと聞くと、クリスマスケーキを買って来て、まずは仏壇に供えて、それから食べると言っていました。無茶苦茶だと思いました。近頃では寺にもクリスマスツリーが飾ってあったりします。寺の坊さんがサンタクロースになったりします。信じられない文化です。
 今、結婚式となったら九割以上がキリスト教式の結婚式です。外国から人々が日本に来ると「日本はキリスト教が盛んですね」と言うのです。なぜかというと、どこの街に行っても大きな教会がそびえているからです。しかしあれは教会ではありません。教会風というだけで、本当の教会ではなくて結婚式場です。
 先々週、私は山形に行きました。なぜかというと、結婚式の司式を頼まれたからです。私は葬式の司式は得意ですが、結婚式はあまり得意ではありません。でも、山形県の方からわざわざ司式者として頼まれました。どうしようかと思ったけれど、聞いてみたら日本人と韓国人の女性が結婚するということでした。それで親族の半分が日本人、半分が韓国人という難しいシチュエーションでの結婚式の司式とメッセージを語らなければいけないというのです。「それに対応できるのは、日本中で順先生、あなたしかいない!」なんて脅かされて、いや、おだてられて引き受けました。韓国からわざわざ頼まれたので引き受けました。式は一般の結婚式場でした。きらびやかなチャペルでステンドグラスとパイプオルガンがあって、楽隊もいて演奏があって始まるわけです。「新郎新婦入場!」と言うと後ろの扉がぱっと開いて、なんかすごい演出でした。そこで私は司式したのですが、始めから間違えました。「奏楽」とプログラムに書いてあったので、奏楽があってから始まるのかと思ったら、私が出る前に楽隊の音楽が流れていたのが「奏楽」だったらしく、すでにその部分は終わっていたからです。でも、すばらしい結婚式でした。

 これほど日本にキリスト教文化が浸透しているのにも関わらず、根底では「キリスト教はNO!」なのです。根底では「キリスト教だけは受け入れられん」という、強い意識が働いていることは事実です。
 前にも少しお話ししましたが、本物のクリスチャンになろうとすると、日本においては結構迫害があります。年間何件か、クリスチャンになった方の家族や親族が教会に来て、私に会いたいと言います。なんで会いたいのかというと、「うちの息子がクリスチャンになってしまったけれど、牧師さん、なんとか止めるように言ってやってください」と頼まれるのです。そういう時は複雑です。私は一人でも多くの人をクリスチャンにするために働いているのに、「牧師さん。あなたの力でなんとか、うちの息子がクリスチャンを止めるように言ってください」と頼まれるのですから。「そんなこと出来るわけないじゃん」ということですが、いろんな迫害があります。

 また、クリスチャンになっても、なんとなく自分が「クリスチャンになった」と人に言うのは恥ずかしい気持ちはありませんか?私にも、なんとなく後ろめたいというか、新幹線の中でも、黒い表紙の本を堂々と読めないのです。なぜかそのような意識が働くのです。これはどうしてでしょうか。

 実は一五四九年に日本にキリスト教が伝えられたというのですが、それはキリスト教とはいってもカトリックでした。その時、日本人はどんな態度だったのかというと、人々はこぞってキリシタンに改宗したのです。布教後わずか数十年の間に数十万人の信徒が生まれ、百冊あまりのキリシタン文学が花開いたというのです。今のクリスチャン率よりもずっと高い比率のクリスチャンが日本にはいたのです。

 しかしどうでしょうか。今は「クリスチャンになるのはちょっと・・」という雰囲気があるのです。人々に「それはなぜですか?」と聞くと、「日本人とはそういうもんだ!」と答えます。しかし昔の日本人はそうじゃなかったのです。「すごい!私も受け取りたい!」と言って、みんなキリシタンに改宗したというのです。
 しかし今となってはカトリックでも、プロテスタントでも、「キリスト教だけはごめん」という風潮です。なぜかというと、二週間前にも話しましたが、日本人はマインドコントロールされているのです。もしも、みなさんの中に「キリスト教だけはちょっと・・・」という雰囲気があったり、恐れがあるとしたら、それは自分の弱さではありません。また、「俺は日本人だから」ではないのです。それは、時代の中でかけられたマインドコントロールがまだ生きている証拠です。

 これも二週間前に話したことですが、その一番の原因がどこにあるのかといいますと、私は江戸時代にあると考えています。江戸時代とは、一六〇三年に家康が江戸に幕府を開いてから、十五代将軍の徳川慶喜が大政奉還をするまでの二百六十五年間を指すのですが、この時代は、歴史上まれに見る平和な時代であり、対外戦争はおろか、内戦さえもなかったというのです。世界史でもまれにみる平和な時代でした。他の国にも見出すことができない、平和な時代であったというのです。すごいと思うのですが、それは裏を返せば、それだけ強力に社会が支配されていて、人々は何も言えないほど封建的にコントロールされていたからです。幕府に反抗するなんて、絶対にできなかったのです。
 なぜ、そこまで支配されたのかというと、江戸幕府が最も効果的な民衆支配のシステムとして採用したのが「五人組」という制度でした。この五人組とは、どういうものかといいますと、五家族を一つにして、互いに相互監視させて、またその中に警察的な役割も含み、連帯責任を五家族に負わせたのです。
 そして、特に相互に監視させたのが、キリスト教でした。クリスチャンにならないように、最も強く監視させたのです。キリシタンを見つけたら銀三百の褒美が与えられるという高札が、日本全国に立てられました。この近くに高札がありまして、知っているだけでも二箇所あります。

スライド12.JPG

写真に「立ち返りの者の訴人」とありますが、キリシタンのことです。その意味は「クリスチャンを見つけたら、銀三百枚をあげる」という事です。銀三百枚がどのくらいの金額かといったら二千万円くらいだというのです。二千万円です。一人のクリスチャンを見つけたら、二千万円あげますというのです。そこまでして、キリシタンを厳しく取り締まったのです。そのために五人組を作ったのです。

 日本の社会は海外の社会と比べると、結構閉鎖的だと思います。どういうところで閉鎖的かといいますと、いろいろありますが、日本人は知らない人とあまり会話をしません。例えば、みなさんが通勤の途中、電車の中で隣の知らない人から話しかけられたらどうですか?
 日本人は電車に乗ると本当におもしろいです。今日も東京集会があるので東京に行きますが、山手線なんかに乗りますと、全員が携帯をいじっています。しかし気がつくと自分もいじっています。絶対に横の人なんかと会話しません。携帯をいじっている時、隣の知らない人が「何やっているんですか?」と覗いたら、みなさんどう思いますか?「何、この人?変な人」って絶対思うじゃないですか。
 朝ウォーキングしていて、通りすぎる人に「おはようございます」と言えば、「おはようございます」とは答えてくれますが、消極的です。あまり挨拶したくないという雰囲気の人が多いです。

 しかしお隣の韓国に行くとそうじゃありません。お互いよくしゃべります。地下鉄に乗っていて何処で降りるのかわからず、地図を開いて見たりしていると「次だよ!」とか隣の人が日本語で言ってくれたりするのです。「ありがとうございます!カムサハムニダー」なんて言って降りたりします。
 アメリカなんか行きますと、みんなレストランで列を作るのです。私は列を作るのが大嫌いです。だいたいレストランに行って列があったら、次のレストランに行くようにしています。アメリカ人は一時間でも二時間でも並ぶのです。日本人が列を作って待つのはディズニーランドくらいと思うのですが、アメリカ人は列を作って隣近所の人とべちゃくちゃしゃべるのです。初めて会ったのによくしゃべるのです。アメリカでホテルに宿泊すると、エレベーターに乗り合わせた人も「どこから来たの?何しに来たの?」とかいろいろ質問されます。私はいろいろ聞かれたくないから、わざと知らないふりしていることが多いです。
 みなさんもどうでしょうか?知らない人から話しかけられたらすぐ心を開けますか?開ける人はすごいですね。でも、普通はちょっと戸惑うのが日本人じゃないでしょうか。これが日本人だと思ったら大間違いです。

 実はこれもマインドコントロールの結果です。江戸時代の二百数十年、いやそれ以前から豊臣の時代から十人組が作られて、江戸時代になって五人組になりました。三百年間くらい、ずっと日本人は相互監視されてきたのです。それも知らない人とグループを組まされたのです。
 日本の社会と韓国の社会の決定的な違いは、名字の数です。日本は名字が多いのです。日本の名字は三十万くらいあるのですが、韓国は三百くらいしかありません。なぜならば、韓国は氏族社会だからです。韓国で名前を聞き、「あなたの名前はなんですか?」「私はキムです。」「キムさんですか。」それでルーツがわかります。「キムですか!私もキムですよ」と初対面でも、意気投合するのです。
 でもキムとはいっても、家系が枝分かれしているので、同根のキムならば初めて会っても親類縁者です。例えば大学なんかに入って、ガールフレンドができたとします。名前を聞いたら、なんと同じルーツのキムとなると、彼女にはできないそうです。関係は妹になるそうです。なぜなら氏族社会だからです。
 日本も室町時代くらいまでは氏族社会があって、結構、親類縁者と一緒に固まって住んでいたようです。親類縁者が周りにいたらどうでしょうか?いつでも、誰とでも話すわけです。「ご飯食べましたか?」と。日本じゃ朝の挨拶は「おはようございます」です。しかし韓国では「朝ごはん食べた?」というのが挨拶です。「ご飯食べましたか?」と挨拶されて「食べていません」と答えても、食べさせてくれるわけではないのですが、なぜ朝の挨拶が「ご飯食べた?」という言葉になったのかというと、やはり身のまわりに親類縁者が多かったからではないでしょうか。お互いに親しさがあったわけです。日本も昔はそういう社会だったようです。

 しかし、豊臣から家康になって、江戸時代になって故意に五人組を作るために、親類縁者を遠のけ、血縁社会から地縁社会に置き換えていったわけです。知らない人たちを周りにおいて、お互いに監視させたわけです。だから、みんなお互いにびくびくしていたわけです。人目を気にしたわけです。
 みなさんの中で「私は本当に、人目を気にしちゃうんです」という人がいると思いますが、「人目を気にする性格が悲しく恥ずかしい」と言うかもしれませんが、恥ずかしがらなくてもいいのです。それはあなたが弱いせいではありません。マインドコントロールされている結果です。それを解けばいいのです。そうしたら私たちは創造の原点に戻れるはずです。

 実は、日本には世界にあまり例を見ない精神疾患があります。それがなにかというと、「対人恐怖症」というやつです。みなさんの中に「私は対人恐怖症です」という人がいたら、対人恐怖症は、海外にはあまりないのです。対人恐怖症を英語に直すと、「Taijin-kyofu symptom」です。なんとそのままです。なぜならば、対人恐怖症というのは日本特有の「文化依存症候群」と呼ばれる精神疾患だからです。人目を気にして、人を恐れるのは日本人だけにあるのです。もちろんこの頃は、他の国にも症例を見ることができるらしいのですが、日本が圧倒的に多いというのです。文化依存症候群だというのです。
 なぜ、そんなことになったのかと言ったら、マインドコントロールされた結果だと思うのです。特に江戸時代に強くマインドコントロールされて、恐怖が浸透しているのです。その支配から解かれないと、一回だけの人生、棒にふってしまいます。生まれて今、あなたはどの辺を飛行中なのかわかりませんが、対人恐怖症に支配されたら悲しいです。その一番の原因に、「五人組によって蓄積された恐怖心」が大きく影響していると私は考えています。そして、その根底に「キリスト教に対する恐怖心」があるのです。

 でも、みなさん、クリスマスは素晴らしい時だと思います。なぜなら十二月は、日本中、二十五日間の限定ではありますが、教会に行くことをはばからない季節だからです。「クリスマスには教会に行ってもいいんだ」と思っています。普通じゃ、ちょっと教会に行くのをためらう人たちも、大手を振って教会に来れる季節なのです。それは二十五日限定の、マインドコントロールから解かれる期間です。二十六日になると、またマインドコントロールが戻って来ます。この二十五日間を無駄にしてはいけません。
 この時に、まだ教会に一度も来たことがない方々を教会にお連れするのは、人々の解放のためにも、自分の解放のためにも重要ではないでしょうか。普通ではなかなか「自分はクリスチャンだ」と言えなかったり、誘うのもちょっと恥ずかしいかもしれませんが、クリスマスは誘いやすいのです。教会にはいろいろなプログラムがありますから、一番適した集会に勇気を出して誰かを誘って連れて来るだけでも意味があります。自分の内側が解放される為の大きな要素になると思います。
 今日は午後からチラシ配布があります。是非行って下さい。私は東京集会があるので行けないですが、チラシ配布も「今日はちょっと忙しいな」というより、チラシを一枚入れるのにもなんとなく恐怖心があるのかも知れません。「なんとなくやりにくい。だからやめよう」という人も結構多いのかも知れません。しかし、この恐怖心に打ち勝たなければいけません。そもそもその思いが、あなたの弱さではなく、江戸時代に置かれたマインドコントロールの影響であると思われます。それを打ち破るためにも、今日は地域に出て行って、チラシを配布しましょう。クリスマスは一人でも多くの人たちに福音を伝えるチャンスです。それも喜びの知らせです。地上だけで人生が終わるのではなく、永遠のいのちが与えられるというすばらしい知らせです。

 本来、日本人は新しい事に関して、敏感な国民だと思います。みなさんもどうでしょうか?新製品が発売されると、すぐに見るじゃないですか。男性は「携帯電話の新しいのが出た!」とき、すぐに興味を持ちませんか。「それはあんただ!」とよく言われます。私もすぐに新しい機種をを買ったりするのですが、にも関わらず、最も良い知らせである福音に関しては、心を閉ざしているのです。この国民性は元々あったものではなく、作り上げられたものなのです。そして、自分もその影響を多分に受けているのです。
 実はそれがなにかというと、霊的な力との関連があるのです。コリント人への手紙第二四章一節〜四節。

『こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』

 私たちが一生懸命福音を語っても、人々が受け入れないとしたら、どこに原因があるのか。それは覆いが懸かっているというのです。今日、大きな毛布を持ってきて、この会堂全体に広げたら、せっかく電気がついているのにも関わらず光は届かないのです。光を届けたかったら、まず覆いを取らなければいけません。
 日本人に対して良い知らせが啓示されているのにも関わらず、それを受け取れないとしたなら、それが覆いだというのです。そして「覆い」とは「この世の神、すなわちサタン」だというのです。悪魔が覆いをかけているのです。
 この世界には神もおられますけれど、目に見えない地球の王者、悪魔とその一味、悪霊どもがいるのです。そいつらが覆いをかけているのです。

 さて、悪魔や悪霊どもはどこで働くのでしょうか。神社とか寺とか心霊スポットみたいな場所に行くと、悪霊がいることを感じたり、そういう体験をするかもしれません。
 けれども、悪魔や悪霊どもが何処で働いているのかは、見えないので実際のところわかりません。しかし聖書は、彼らがどこで働いているのかの手がかりを教えています。
 第二コリント四章四節には、『その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて』と記されています。悪魔・悪霊どもが働く領域がどこかというと、「思いをくらませる」、すなわち、「考え方、思考の中」に働くのです。

 同じ第二コリント十章三節でも同じことをパウロは語っています。

『私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。』

 今週の御言葉の剣が週報に載っています。それがこのみ言葉です。是非とも今週の御言葉の剣を宣言しましょう。また、御言葉を暗唱してください。『私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。』
 神の言葉を自分のものとして受け取っていただきたいと思います。イエス様を信じると、武器がもらえるのです。それは目に見える武器ではなく、目に見えない霊的な武器をいただけるのです。
 今日、みなさんの手の上には、霊的な武器があって、要塞をも破ることができるというのです。要塞とは、敵の立てこもりの拠点です。イスラエルに行ったことのある方ならば知っていますけれど、マサダという所にかつてユダヤ人たちが立てこもって二年間、ローマの大軍と戦ったマサダ要塞があります。
 この付近にも長篠城という城がありましたけれど、それも要塞でした。当時は徳川方の城だったのですが、長篠城近所が武田方に占領されました。それで城は、兵糧攻めにあって、どうにもならない所まで追い込まれた時、鳥居強右衛門が抜け出して、岡崎に行って徳川を引き連れてきたわけです。
 要塞とは味方の占領地にできる敵の立てこもり場所です。イスラエルもほとんどがローマに占領されたのですが、一部にはユダヤ人たちが立てこもってローマに対抗していたわけです。この近所も武田方に支配されていましたが、一部、徳川方の要塞が残っていました。まだ敵が立てこもっているという場所、これが要塞なのです。
 神が私たちに与えてくださる武器は、要塞を破る武器なのです。今日みなさんに主は、その武器を与えられています。その武器を使って、要塞を打ち破っていただきたいのです。要塞がどこにできるのかが、コリント人への手紙第二、十章五節〜六節です。

『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』

 何を語っているのかというと、悪魔・悪霊どもの立てこもりの場所は、『さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり』となっています。それは神の知識以外の知識の場所に悪魔は立てこもるということです。
 「偶像礼拝」は、突き詰めていけば、知識の領域です。しかしそれは神の知識じゃありません。それは悪魔が人類に教えた知識です。「手で像を作って拝むと霊が来て、利益を受けることができる」という知識です。それは神の知識から外れた知識です。その思考の中に、悪魔・悪霊どもは立てこもっているのです。

 私たちが最も見守らなければならない領域、神から与えられた剣を向けなければならない領域は、私たちの内側にある「思考」という戦場です。そこで霊的戦いをしなければなりません。日本人に生まれれば、「日本文化」という思考を受けついでいます。これは日本人として当然だ、これが日本人だと考えます。しかし、どの国の文化・習慣も完璧なものはありません。文化・習慣を突き詰めれば、根源に偶像礼拝がありますし、罪にまみれています。文化とは「一つの集団が受け入れる、共通の考え方」ですから、文化や習慣という共通の思考の中に、すでに敵の立てこもりの拠点があるのです。それを打ち破らなければなりません。

 近頃、日本のキリスト教会の中に、宣教がなかなか思うように進まないためか、「日本文化は神が特別に与えてくれたものだから、それを大切にして伝道していこう」という、まことしやかな意見が出されているのですが、これはたいへん危険な考え方です。私たちはどこの国の文化に媚びるものではなく、「神の国の文化」をこの社会に広げる者でなければならないのです。

 教会に来ると何が変わるのかというと、突き詰めれば、考え方が変わるのです。聖書を読んで、神に接して、内側が変えられるのです。考え方が転換するのです。これまでは悪魔によって教えられた、文化の中で培われた神の知識以外の知識で満ちていたのが、神の知識に置き換えられていくのです。その時に何が起こるのかといったら、霊的解放が起こるのです。
 私たちが常に神の御言葉に接し、イエス・キリストを主として歩んでいくのは重要です。すると徐々に内側が変わり、霊的要塞が打ち砕かれるのです。それが霊的解放です。
 私たちに与えられた御言葉の剣、この武器を通して、主が私たちの内側を変えてくださるように祈らなければいけません。
 今、お話ししているように、我々日本人はマインドコントロールされている国民だと思うのです。特に、キリスト教に関しては大きな束縛があるのです。それをまず私たちは、自分自身の中に発見し、そこに神が与えてくださった武器を向け、要塞を打ち破らなければなりません。
 そして『あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができている』というのは、自分自身の内側の要塞が崩れる時、戦いは自動的に外側に向かって外部の要塞を打ち破るのです。

 先週も雅也先生が「この地の救いのために立ち上がろう」という素晴らしいメッセージをしてくださいました。私たちは、この地の救いのために立ち上がらなければなりません。その働きを内側で強力に引き留めている力を打ち破っていただき、特に、クリスマスの時期、素晴らしい福音を人々に知らせに出て行きましょう。
 サウロという人物はクリスチャンを迫害していた人物でしたが、彼はよみがえりの主イエスと出会い、心の要塞が瞬間的に打ち破られました。今まで彼はイエスが救い主だと考えていなかったのですが、ダマスコに行く途中に目映い光をあびて、よみがえりのイエス様と出会ってしまったのです。彼は瞬間的に心の要塞が打ち破られたのです。そして、迫害者からイエス・キリストを命がけで伝える勇士に変えられたのです。
 よみがえりのイエス様がサウロ、後にパウロと改名された人物に語った言葉が、使徒の働き二十六章十七節〜十八節にあります。

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 この言葉は短いですけれど、福音の全幅を表しています。救いとは何か。それは暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返ることであり、その結果として、信仰によって罪が赦され、聖なるものとされて、御国を受け継ぐ、すなわち、天国にも入ることができるのです。これがよみがえりのイエス様がサウロに伝えた福音です。
 私たちはこの良い知らせを人々に知らせる、絶好のシーズンを迎えています。この時期にこそ、まず第一に、私たちの内側にある要塞を打ち破っていただき、この民全体のためのすばらしい喜びの知らせを、一人でも多くの人たちに伝えさせていただきたいと、心から願っています。

 今日は日本人が「これでいいんだ」と考えている心の要塞を打ち破り、恐れから解放され、自由にされることを願っています。天の軍勢が現れた時も「恐れることはありません」と声をかけました。時代の中に置かれた恐れから解放され、自由に主の御名を掲げる者になりたいと願っています。
 最後にみなさんでお祈りして、ご一緒に聖餐式にあずかりたいと思います。


 ハレルヤ。天の父なる神様。あなたの御名をあがめて心から感謝します。あなたは私たちのために、救い主として生まれてくださいました。今日は私たちの内側にある要塞を打ち破ってください。恐れがなくなりますように。大胆にイエス様のことをこのクリスマスの時期に、一人でも多くの人たちに伝えることができますように。私たちを励まし、導いてください。この時を心から感謝します。イエス様、あなたと和解できていることを心から感謝します。その印として、今日は聖餐に預かります。この聖餐式を祝福してください。イエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。